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2018年11月08日15:48

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11月歌舞伎座・昼「十六夜清心」ほか

18年11月歌舞伎座(昼/「お江戸みやげ」「素襖落」「十六夜清心」)


吉右衛門と菊五郎の共演「十六夜清心」


先代の芝翫を偲ぶ「お江戸みやげ」は、川口松太郎原作の新作歌舞伎。佳品である。1961(昭和36)年、明治座で、初演。「お江戸みやげ」は、戦後の本興行で12回上演しているが、最初の3回は、十七代目勘三郎、続く6回は、先代の芝翫。当時は、すっかり芝翫の当たり役になっていた。その後、三津五郎が2回、今回は、初役の時蔵。このうち、私は4回目の拝見。私が観たときの主役のお辻役は、先代の芝翫(2)、三津五郎、時蔵。芝翫の相手役のおゆうは、田之助、富十郎。三津五郎の相手役は、翫雀時代の鴈治郎、今回の時蔵は、又五郎が相手だ。ふたりは結城の呉服行商人。おばあさんふたりで江戸へ呉服の行商に来ている。この顔ぶれのコンビでは、芝翫、富十郎が、今も印象に残る。富十郎の、太めのおばあさん役に何とも味があった。

私が観た娘役のお紺は、福助(2)で、これも適役。蓮っ葉で、お侠な江戸下町の娘の味を出している。ほかにお紺は、前回は、孝太郎、今回は、尾上右近。憎まれどころの常磐津の師匠でお紺の養母・文字辰は、澤村藤十郎、松江時代の魁春、扇雀、今回は、東蔵。憎まれ役の味があったのは、今回の東蔵がいちばんか。

贅言;ところで、福助は、先に舞台復帰したが、来年1月歌舞伎座、「初春大歌舞伎」昼の部、「吉例寿曽我」で、2回目の歌舞伎座復帰の舞台を勤める。いずれ時期を見て、既に「内定」(当時、きちんと記者会見をした)している七代目歌右衛門の大名跡を継ぐことになるのだろう。

さて、舞台。緞帳が上がると、第一場「茶屋松ケ枝の場」。湯島天神の境内である。境内に設えられた宮地芝居(官許の江戸三座とは、別のいわば、B級芝居小屋。「小芝居」という)の御休処「松ヶ枝」。舞台上手が、宮地芝居の暖簾口。笹尾長三郎一座の芝居が掛かっている。舞台上手奥が、湯島天神へ繋がっているようだ。舞台は、芝居小屋の暖簾口の外にある芝居茶屋「松ヶ枝」の内部。店先で、角兵衛獅子の兄弟が、弁当を使わせてもらっている。常磐津の師匠・文字辰(東蔵)が、茶屋の緋毛氈を掛けた床几に座っている。養女のお紺と待ち合わせをしているが、お紺が、来ない。お紺は、宮地芝居の役者・阪東栄紫と恋仲なのだ。文字辰は、お紺を相模屋の旦那の妾にして、安楽な生活を企んでいる。お紺を探しに湯島天神の方に出かけて行く。

松ヶ枝の壁に掛かっている木の看板。平舞台上手側に「巡拝講中」、「三島講」、「金平月参講」、「安中講」、「伊勢年参講」、真ん中から下手に「本石町講中」などの額が掲げてあり、天保二年三月吉日と書かれている。ほかの額と同じように、個人名や屋号を書いた木札が入っている。

この芝居の場面構成は、次の通り。第一場「茶屋松ケ枝の場」第二場「松ケ枝の座敷の場」第三場「湯島天神内の場」。


第二場「松ケ枝の座敷の場」の場面では、笹尾長三郎一座の芝居の辻番付(ポスター)が廊下に貼ってある。「楼門五三桐 笹尾座」とある。この舞台装置は、江戸の宮地芝居を活写していて、私には興味深かった。

それはさておき、芝居の本筋へ。第一場「茶屋松ケ枝の場」。結城から江戸に出て来た呉服行商人のお辻(時蔵)・おゆう(又五郎)が、下手奥から登場する。江戸での行商を終えて、結城に帰る前に、ここで一休みという心づもりだ。ふたりとも、後家のおばあさんという設定だが、おゆうは、稼いだ金で食べたいものを食べ、呑みたいものを呑むというのを愉しみにしている。姉貴分のお辻は、金に几帳面で、始末屋(倹約家)である。価値観の違うふたりという設定が良い。ふたりは、金の遣い方で、対立しながら、そんなやりとりを楽しんでいるようだ。そこへ、芝居小屋の暖簾口からお紺(尾上右近)が出て来る。芝居の合間に、お紺の恋人で、笹尾座の花形・阪東栄紫(梅枝)も、出て来る。お紺と上方へ駆け落ちして逃げるつもり。お紺を「松ヶ枝」の女中(京妙)に匿ってもらおうとしている。共演の女形の市川紋吉(笑三郎)も、芝居を終えて出て来る。このあたりの川口松太郎のドラマツルーギーは、憎いくらいに巧い。

次の芝居の始まりの囃子が聞こえて来ると、おゆうは、「幕見」をしたくなり、ふたり分の料金八百文を芝居茶屋の女中に払い、さっさと芝居小屋に入って行く。後を追う、お辻。

第二場「松ケ枝の座敷の場」。笹尾座の花形・阪東栄紫の座敷。お紺が、舞台を終えた栄紫の着替えを手伝っている。ここが、花形の楽屋代わりか。でも、残念ながら、そんな雰囲気は無い。栄紫の鬘は、普通の立役の鬘に変わっている。これが、江戸の役者の地頭だろう。田舎からの客が、栄紫に挨拶をしたいと言っているという。女中に案内されてお辻とおゆうが、座敷に入って来る。初めて江戸の芝居の役者を観て、のぼせてしまったお辻。おゆうが、興味のままに、座敷の奥の別の間の襖を開けると、そこは、寝間。赤い布団に、ふたつの枕。濃艶な室内に、慌てて、襖を閉めるおゆう。お辻は、緊張しているのか、ぼうとしているのか、ものに動じない。やがて、上手障子の間から、阪東栄紫が、戻って来る。座敷下手の丸い障子の間には、内側に、行灯がついているのが判る。これも、色っぽい。

その座敷に、追われたお紺が入って来て、ついで、お紺の養母の文字辰が入って来て、お辻にも、阪東栄紫・お紺・文字辰を巡る人間関係と問題の所在(要は、金だ!)が、判る。憎まれどころの常磐津の師匠・文字辰は、養女のお紺の養母で、宮地芝居の役者風情に娘はやれないという立場。お辻は栄紫・お紺の難儀の話を部屋の外で聴いてしまう。その上で、お辻は、普段は始末屋なのに、酔った勢いも手伝って、江戸で稼いだ虎の子の13両あまりを財布ごと差し出し、若いふたりに、上方で添い遂げるよう勧める。おゆうが止めるのも聞かないお辻。生まれて初めて、男に惚れて、それが、若いふたりの門出になる。そのために、一世一代のお辻の恋心であり、散財である。これが、見せ場。暗転して、場面展開。

第三場「湯島天神内の場」。暗転から明転へ。夜が明けて、暗闇からじわじわ明るんでくる湯島天神境内の演出がよい。石灯籠に灯りが入っている。境内上手に紅白梅。下手に白梅。奥は、江戸の町遠見。お紺と上方へ向かう前に、最後にお辻に逢った栄紫は、着ている長襦袢の片袖を引き裂いてお礼に渡す。文字辰のところから逃れて、上方に向かうふたりを花道に見送るあたりのお辻は、「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛を送るお蔦のように私には見える。花道七三で、去り行く阪東栄紫の後ろ姿に向けて、「大和屋」と声をかける萬屋・時蔵。13両あまりの金と引き換えに渡された役者の片袖、それがお辻の「お江戸みやげ」というわけだ。田舎のおばあさんの恋心が、江戸土産の正体だ。新作歌舞伎の佳品、というところか。お辻役は、先代の芝翫を超える役者がまだ出ていない、という感じだ。


「素襖落(すおう落とし)」は、酔っ払いの話だが、酔って記憶が定かでないという場面は、「物忘れ」の場面を思い出させる。「素襖落」は、狂言の演目を素材に1892(明治25)年に初演された新歌舞伎。松羽目ものの舞踊劇。福地桜痴原作「襖落那須語(すおうおとしなすものがたり)」。後に六代目菊五郎が「素襖落」という外題に改めた。

私は9回目の拝見。私が観た主な配役。私が観た太郎冠者:幸四郎時代を含む白鸚(3)、富十郎(2)、團十郎、先代の橋之助、吉右衛門、今回は、松緑。大名某:左團次(3)、菊五郎(2)、二代目又五郎、彦三郎、富十郎、今回は、團蔵。

この演目の見せ場は、酒の飲み方と酔い方の演技。葛桶(かずらおけ、かつらおけ。能や狂言で用いる道具。黒漆塗円筒形の蓋付(ふたつき)桶。高さは約50センチ。黒地に金の蒔絵(まきえ)をほどこしたものが多い。能では腰掛けとして使うことが多いが,狂言では酒樽、茶壺などに見たてる。今回のように、蓋だけを大杯として使うことも多い)の蓋を使って、大酒飲みを演じる。「勧進帳」の弁慶、「五斗三番叟」の五斗兵衛、「大杯」の馬場三郎兵衛、「魚屋宗五郎」の宗五郎、「鳴神」の鳴神上人など、酒を飲むに連れて、酔いの深まりを表現する演目は、歌舞伎には、結構、多い。これが、意外と難しい。これが、巧かったのは、今は亡き團十郎。團十郎は、大杯で酒を飲むとき、体全体を揺するようにして飲む。酔いが廻るにつれて、特に、身体の上下動が激しくなる。ところが、ほかの役者たちは、これが、あまり巧く演じられない。多くの役者は、身体を左右に揺するだけだ。さらに、科白廻しに、徐々に酔いの深まりを感じさせることも重要だ。

こちらが、年をとったせいか、今回は、酔った太郎冠者をからかって大名某らが素襖(平安時代末期頃の男性の上衣の一種)を隠しながら、いわば「素襖リレー」をする場面で気がついたことがある。あそこに素襖があるはずだと大名某らを追い回す際の太郎冠者の「記憶違い」が、酔いの深まりではなく、高齢化による物忘れのようにも見え出したことだ。

筋は、こうだ。大名某が伊勢参宮を思い立ち、伯父も誘うと太郎冠者を使いに出した。伯父は不在で、姫御寮が太郎冠者の旅立ちの門出を祝おうと酒でもてなす。宴が果て、太郎冠者は、姫御寮から餞別に素襖を拝領する。大名某のところに戻るが、太郎冠者は素襖を落としてしまう。大名某は、素襖を自分のものにしようと、太刀持ちと連携して、「素襖リレー」をするが、太郎冠者も、なんとか素襖を取り戻そうと、慌てて周りを探し回る、という滑稽譚。

緞帳が上がると、松の巨木の背景(書割)。松羽目ものの定番。上手に霞幕。途中から、書割が替わる。霞幕を外すと、竹本連中の山台。長唄の雛壇。太郎冠者は、姫御寮(笑也)に振舞われた酒のお礼に那須の与市の扇の的を舞う。いわゆる「与市の語り」である。謡曲の「屋島」の間狂言「那須語(なすものがたり)」を取り入れた。与市の的落し、餞別にもらった太郎冠者の素襖落し。ふたつの落し話がミソ。酔いが深まる様子を見せながら、太郎冠者は、舞を交えた仕方話を演じ分ける。前半のハイライトの場面。ここでは、次郎冠者(巳之助)、三郎吾(種之助)が、姫御寮とともに、太郎冠者の舞を見るが、座っているだけなので、金地に蝙蝠を描いた扇子を持った太郎冠者の独壇場となる。

帰りの遅い太郎冠者(松緑)を迎えに来た主人・大名某(團蔵)や太刀持ち・鈍太郎(坂東亀蔵)とのコミカルなやりとりが楽しめる。酔っていて、ご機嫌の太郎冠者と不機嫌な大名某の対比。素襖を巡る3人のやりとりの妙。機嫌と不機嫌が、交互に交差することから生まれる笑い。自在とおかしみのバランス。


吉右衛門と菊五郎の共演「十六夜清心」


吉右衛門と菊五郎の共演のほか、今回の「十六夜清心」の見どころ、いや、聴きどころ。尾上右近が、清元の栄寿太夫襲名後、初披露を歌舞伎座の舞台で実現。今年の2月、父親・延寿太夫の前名である栄寿太夫を七代目として襲名した歌舞伎役者の右近。今月の歌舞伎座の舞台で初お目見え。「十六夜清心」の浄瑠璃「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)」を唄った。澄んだ高い声で聞き惚れた。

第一場の「稲瀬川」の百本杭は、江戸の大川(隅田川)の川筋が曲がる所で、流れが当たるので、百本の杭で、防波堤を作っていた。それだけに、いろいろなものが、上流から流れ着いたり、引っ掛かったりしたらしい。まさに、人生の定点観測の場所。舞台上手の、川の中、板塀の向こう側で清元連中の「よそ事浄瑠璃」で、板塀は、いわば、「霞み幕」の役割を果たし、前に倒されると、清元連中の姿が見え、板塀は、石積みの岸に早変わりする。岸の上に清元連中が連なる。

今回で9回目。私が観た十六夜:時蔵(今回含め、4)、玉三郎(3)、芝翫、芝雀時代の雀右衛門。清心:菊五郎(今回含め、4)、孝夫時代を含む仁左衛門(2)、八十助時代の三津五郎、新之助時代の海老蔵。菊之助。

場の構成は、次の通り。第一場「稲瀬川百本杭の場」第二場「川中白魚船の場」
第三場「百本杭川下の場」。

十六夜は、第一場「稲瀬川百本杭の場」は、心中するまでが女上位。十六夜が主導権をとっている。「一緒に死んでくだしゃんせ」と言うのは十六夜。

第一場「稲瀬川百本杭の場」では、開幕直後、本筋の劇が始まる前に、大部屋役者たちが演じる寸劇がある。中間(荒五郎)、酒屋(吉兵衛)、町人(松太郎)が出て来て、科白入りの小芝居をする。目的は、番付・役人替名(配役)を紹介する口上で、おもしろい場面だ。役者は、傍役のベテランばかりで、いずれも、味のある所作、科白があるので、短いながら、見落さないようにしたい。

第一場で、柔弱な清心を押しまくり、入水心中にまで持ち込む。廓から抜け出して来た十六夜(時蔵)は、後が無いから、必死であるが、清心(菊五郎)は、優柔不断で、終始押され気味である。ひたむきな遊女と遊び心優先で腰の定まらない優男のやりとり。

ふたりが出逢う場面。鎌倉の寺を追放され、上方へ逃れ、出家得度をしようという清心「悪い所で、……」。十六夜「清心様! 逢いたかったわいなア〜」。菊五郎は、特に、後半での清心の「悪の発心」とのメリハリを考えて、余計、優柔不断ぶりを強調しているように思われるが、巧い人物造型である。

しかし、歌舞伎でいえば、ここは正真正銘の「濡れ場」である。十六夜は、川端の船着き場の岸に腰を下ろして、赤い襦袢の袖を口に銜える。背を清心に預ける。背中合わせで、寄り掛かる。立上がって、背中合わせになり、ふたりの隙間で三角形を作る。典型的な、男女の濡れ事の象徴的なポーズ。背中合わせで手を繋ぎ、両手を前後に引き合う。清心は上手の葦簀張りの小屋から桶を持ち出し、中にはいっていた本水で、別れの水盃。初めて、互いに向き合い。さらに、入水自殺へ。小さな船着き場の板敷きの前の方に出て来て、ふたりで寄り添う。前の手を互いに合わせて、後ろの手は、握りあい、さて、ジャンプという仕草のところへ……、浅黄幕振り被せで、入水の体。さらに、暗転。

暗闇の中。下座の太鼓が、柝の「つなぎ」のように響き、続ける。やがて、「知らせ」の柝が、「チョン」となり、明転。第二場「川中白魚船の場」。稲瀬川の西河岸。いつもの、やりとりがあって、俳諧師・白蓮(吉右衛門)の乗る白魚漁の小舟に、十六夜が助け上げられる。息をふきかえす十六夜。船頭は、又五郎。再び、暗転。太鼓の「つなぎ」。やがて、「知らせ」の柝が、「チョン」となり、明転。第三場「百本杭川下の場」という展開。

清心とは、どういう人物か。女好きの気弱な男。清心は、自分の所属する鎌倉の極楽寺で起きた公金横領事件の際、着せられた濡れ衣から、たまたま、女犯(大磯の女郎・十六夜と馴染みになった)の罪という「別件逮捕」で、失脚した所化(坊主)である。当初は、つまらないことに引っかかったとばかりに、おとなしくしていた。廓を抜け出してきて、清心の子を宿したので、心中をと誘いかける十六夜の積極性にたじろぎながらも、女に押されて心中の片割れになってしまう気弱な男であった。

第三場「百本杭川下の場」。十六夜が命拾いしたのなら、清心も命拾い。入水心中をしたものの、下総・行徳生まれの「我は、海の子」の清心は、水中では、自然に身体が浮き、自然に泳いでしまう、ということを第三場で、命拾いの理由を独白。場内には笑が滲む。死ねないのである。

自分だけ助かった後も、それが疚しいため、まだ、気弱である。雨のなか、しゃくをおこして苦しむ十六夜の弟で寺小姓の恋塚求女(梅枝)を助ける善人・清心だが、求女の背中や腹をさすってやるうちに、五十両の入った財布に手が触れてしまい、悪心を起こすが、直ぐには、悪人にはなれない性格。ひとたび、求女と別れてから、後を追い、金を奪おうとするが、なかなか巧くは行かない。弾みで、求女の持っていた刀を奪い、首を傷つけてしまう。致命傷ではない。

それでも、まだ、清心は、悪人になり切れていない。求女の懐から奪い取った財布に長い紐がついていたのが仇になり、求女と互いに背中を向けあったまま、財布を引っ張る清心は、知らない間に、求女の首を紐で絞める結果になっている(つまり、「過失致死」)のに、気がつかない。やがて、求女を殺してしまったことに気づいたことから、求女の刀を腹に刺して自殺をしようとするが、刀の先が、ちくりと腹に触ると、「痛っつ」と、止めてしまう。場内から笑。水で死ねないのなら、刀でと、決意したのに、これでは、自殺も出来ない。成りゆきまかせの駄目男。

4回目の自殺の試みの末、雲間から現れ、川面に映る朧月を見て、「しかし、待てよ……、人間わずか五十年……、こいつあ、めったに死なれぬわえ〜」という悪の発心となる名科白に繋がる(適時に入る時の鐘。唄。「恋するも楽しみするもお互いに、世にあるうちと思わんせ、死んで花実も野暮らしい……」。このあたりの、歌舞伎の舞台と音のコンビネーションの巧さ)。清心にとって、悪への目醒めは、自我の目醒めでもあった。

雨が、降ったり止んだり、月が出たり、隠れたりしているようだが、これは、外題の「花街模様(さともよう)」ならぬ清心の「心模様」を表わす演出を黙阿弥は、狙っているのだろうと思う。例えば、月が悪への発心という心理を形で描いて行く補助線となっている。時代物であれ、世話物であれ、心を形にする、外形的に心理を描く。心理劇にはしない。それが、歌舞伎の真骨頂。

菊五郎は、前半の優柔不断な清心から、きっぱりと、変ってみせる。気弱な所化から、将来の盗人・「鬼薊の清吉」への距離は、短い。がらっと、表情を変え、にやりと不適な笑いを浮かべる菊五郎。菊五郎は、その辺りのコツを次のように語っていた。「いつも(観客席の)上手を見ています。向こうで、お金持ちが遊んでいる、それを羨んで心が変わるのです」。

恋塚求女の遺体を川の中に蹴落とした清心。そこへ、第二場の登場人物、俳諧師・白蓮(吉右衛門)、助けられた十六夜、船頭(又五郎)が、通りかかり、清心が、船頭の持つ提灯をたたき落して、暗闇にしたことから、「世話だんまり」へ。歌舞伎味は、ぐうんと濃くなる。その挙げ句、花道へ逃げる清心。花道を走り去る清心に合わせて、付け打ち。一方、本舞台に残る白蓮、十六夜、船頭の前を定式幕が、柝の刻みの音に合わせて、閉まって行く。バタバタとチョンチョンチョンチョン。菊五郎の清心、吉右衛門の俳諧師・白蓮、実は大寺
正兵衛の遭遇の場面で、期待をもたせて、幕。コンパクトながら黙阿弥劇らしい洒落た芝居だ。

河竹黙阿弥が生まれたのは、1816(文化13)年である。明治維新まで半世紀。歿年は、1893年。明治維新から四半世紀。黙阿弥原作の演目は360種ほどあるという。1年間、毎日違う演目を舞台に載せることができる勘定になる。

「花街模様薊色縫」は、1859(安政6)年の初演時には、正月狂言であったことから、吉例の正月狂言らしく、外題を「小袖曽我薊色縫」としていて、話は、全く違うのだが、能の「小袖曽我」のタイトルを借用したように、「曽我もの」の「世界」の色付けをしていた。舞台を鎌倉周辺や箱根にし、十六夜という役名も、曽我ものの登場人物である鬼王新左衛門の女房の妹(あまり、近くは無い関係という辺りに、黙阿弥の「魂胆」が、偲ばれる)の名前から借用している。江戸の世話ものなのに、場所が、鎌倉だから、「隅田川」も、「稲瀬川」となっている。「小袖」から、「縫う」という連想があり、清心、後の、鬼薊清吉の「色縫い」、つまり、色と欲を縫うようにして、図太く生きようという、鬼薊清吉の人生観が滲み出て来るようだ。初演は、1859(安政6)年2月。明治維新まで、後、9年。幕末の外圧を軸に日本は、内外とも騒然としていた時期であった。

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