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2018年10月04日16:39

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10月歌舞伎座・昼「勘三郎七回忌」白鸚の胸借りる七之助

18年10月歌舞伎座(昼/「三人吉三巴白浪」「大江山酒呑童子」「佐倉義民伝」)


十八代目勘三郎七回忌追善


今月の歌舞伎座は、十八代目中村勘三郎の七回忌追善興行。一階ロビー下手側出入口近くに、勘三郎の遺影が飾られていた。天才肌の歌舞伎役者十八代目勘三郎が亡くなって、早や、6年が過ぎてしまった。57歳で亡くなり、存命だったら、今年は、63歳。本来なら、この6年間は勘三郎の熟成期の始まりともいうべき舞台を観ることができたはずだ。勘三郎は、4歳で五代目勘九郎を名乗り、まずは、子役として歌舞伎界を走り始めた。子役から、青年へ。若手時代、花形時代、中堅時代、そして、2005年3月、十八代目勘三郎襲名をきっかけに始まった熟成期。どの時期も、同世代の役者たちのトップを切って走ってきた。熟成期の始まりという芳醇な時期。生きていれば、この時期もトップを切って走り続けていたことだろう。そういう観客にとっても貴重な時間が流れていたに違いない。しかし、現実は違う展開を余儀なくされた。勘三郎の遺児たち。勘九郎(36。今月末で、37)・七之助(35)の兄弟は、消えてゆく偉大な父親の背中を見つめていた、のだろうか。勘九郎は言う。「偉大さを感じるだけでなく、私たちも(父のように)輝く存在にならないといけないと思っています。私たち兄弟は、お客様と一緒に常に父が見ているという意識で演じています」。また、七之助は、次のように述べている。「その存在は色あせることなく、大きくなっていると感じます」。勘九郎・七之助の兄弟にとって、父親・勘三郎は、常にこちらを向いて、顔を見せながら迫ってくる存在のようだ。ますます、大きくなる存在。兄弟が、歌舞伎の魅力や難しさを実感するようになればなるほど、勘三郎は、父親として、歌舞伎界の先達として、彼らに向かってくるのではないか。彼ら兄弟も、この6年間だけでも、勘三郎の藝を引き継ぎつつ、勘三郎とは違う味わいも付加させながら、大きく成長してきたように思う。今月の歌舞伎座は、昼夜で、勘三郎と勘九郎・七之助の兄弟との藝の切磋琢磨の、幽冥を超えた「現況」という、その新しい局面を私たちに見せてくれるのではないだろうか。

まず、今月、歌舞伎座に出演する十八代目勘三郎の兄貴格の役者たち。斯界の先達である。二代目松本白鸚(76)、十五代目片岡仁左衛門(74)、五代目坂東玉三郎(68)の3人が、勘九郎・七之助と共演する。まず、昼の部では、勘九郎・七之助の相手は、「佐倉義民伝」の白鸚。今年の歌舞伎座出演は、1、2月連続の歌舞伎座高麗屋三代襲名披露以来、ご無沙汰だったという白鸚。久しぶりの歌舞伎座出演で主役の宗吾を演じる白鸚を相手に、女房・おさんを七之助が初役で演じる。勘九郎は、将軍・徳川家綱を演じる。夜の部では、「助六曲輪初花桜」の仁左衛門と玉三郎。仁左衛門の助六を相手に、七之助は、揚巻を演じる。初役で、女形の大役中の大役を任せられた。玉三郎は、七之助の揚巻を指導しながら、助六の母・満江を演じる。七之助は、仁左衛門と玉三郎という立役と女形の人間国宝の視線を浴びながら、25日間、揚巻を演じるわけだ。千秋楽まで無事勤め上げれば、どれだけ成長することだろう。「吉野山」の玉三郎。玉三郎は、静御前。従える狐忠信は、勘九郎が演じる。勘太郎時代を含め、狐忠信を演じて、今回が4回目。相手役の静御前は、亀治郎時代の猿之助、福助、七之助、そして、今回は、いよいよ玉三郎である。松竹の重役陣が、中村屋兄弟にかける期待が、いかに大きいかが、よくわかる布陣であり、配役である、と言えるだろう。

そのほかの演目では、勘九郎は、「大江山酒呑童子」の酒呑童子。勘九郎は、この役は2回目。今回は、先輩の扇雀、錦之助や後輩たちと共演する。七之助は、「三人吉三巴白浪」のお嬢吉三。七之助は、この役は4回目。先輩の獅童(46)や後輩たちと共演する。「宮島のだんまり」には、今回は、勘九郎・七之助の兄弟は出演していない。こちらに出ているのは、扇雀、錦之助、高麗蔵、彌十郎、萬次郎、片岡亀蔵、歌女之丞、吉之丞らベテラン、歌昇、隼人、巳之助、種之助、鶴松らの若手。


「三人吉三巴白浪」は、13回目。このうち、今回含め9回は、「大川端」の場面のみの一幕もの。「大川端」は、正式には、「三人吉三巴白浪〜大川端庚申塚の場」。この場面は、歌舞伎錦絵のような様式美と科白廻しで、これはこれで、いつ観ても充実感がある。この場面の見どころは、何といっても配役。今回は、七之助のお嬢吉三、巳之助のお坊吉三、獅童の和尚吉三という顔ぶれ。

「三人吉三」は、実は、極めて、現代的な芝居だ。3人は、田舎芝居の女形上がりゆえに女装した盗賊のお嬢吉三、御家人(下級武士)崩れの盗賊であるお坊吉三、所化上がりの盗賊である和尚吉三という前歴から見て、時代の閉塞感に悲鳴を上げている不良少年・青年たちである。社会から落ちこぼれてしまい、盗みたかりで、糊口を凌ぐしかないという若者たち。そういう若者の「犯罪同盟」の結成式が、「大川端」の場面なのである。

黙阿弥歌舞伎では、調子の良い七五調の科白に載せて、閉塞感という暗い話をグラビア的な、1枚の浮世絵のような場面として表現してしまうから、凄い。

義兄弟の儀式も終わり、やがて定式幕が、上手から閉まり始める。それへ向けてお坊吉三、和尚吉三、お嬢吉三の3人が、ゆるりとした歩調で向って行く、と……、幕。若者たちは、今、歩き始める。栄光の明日へ、あるいは破滅の明日へ向かって行くのか。

「三人吉三巴白浪〜大川端庚申塚の場」は、歌舞伎錦絵のような様式美と科白廻しで、これはこれで、いつ観ても充実感がある。この場面の見どころは、何といっても配役。今回は、團菊祭ということで、お嬢吉三が菊之助、お坊吉三が海老蔵、和尚吉三が松緑。ほかに、夜鷹のおとせが右近。

「三人吉三」は、実は、極めて、現代的な芝居だ。3人は、田舎芝居の女形上がりゆえに女装した盗賊のお嬢吉三、御家人(下級武士)崩れの盗賊であるお坊吉三、所化上がりの盗賊である和尚吉三という前歴から見て、時代の閉塞感に悲鳴を上げている不良少年・青年たちである。大不況の現代に生きていれば、職に就きたくてもつけない。社会から落ちこぼれてしまい、盗みたかりで、糊口を凌ぐしかないという若者たち。そういう若者の「犯罪同盟」の結成式が、「大川端」の場面なのである。

「三人吉三」の「吉三」は、いわば、記号で、現代ならば、少女A=お嬢吉三、少年A=お坊吉三、青年A=和尚吉三というように、「吉三=A」とでも、言うところ。それゆえ、3人のAたちは、時空を超えて、現代にも通じる少年少女Aたちの青春解体という普遍的な物語の主人公として、新たな命を吹き込まれ、少年期をテーマとした永遠の物語の世界へと飛翔する。そういう意味でも、「三人吉三」は、「ネバーエンディングストーリー」という物語の、グラビアページでも、あるのだと言える。


「大江山酒呑童子」は、2回目。萩原雪夫により、先代の勘三郎のために書き下ろされ、1963(昭和38)年6月、歌舞伎座で初演された新作歌舞伎。それゆえ、幕は、緞帳が使われる。能の「大江山」など源頼光のよる酒呑童子退治伝説が、ベースになっている。背景は、能舞台鏡板風の巨松。上下は、竹林。舞台上手に二畳台に載せられた、小さな「館(実は、酒呑童子の寝所)」がある。演劇構造は、「土蜘」に似ている。

前回は、十八代目勘三郎で、観た。勘三郎は、生涯で2回演じた。そのうち、1回を私は観た。今回の出演は、勘九郎。勘九郎も、今回で2回目。幕が開くと、大江山の山中の体。「勧進帳」の義経主従のようないでたちで、紫の衣装の源頼光(扇雀)、独武者の平井左衛門尉保昌(錦之助)と四天王(歌昇、隼人、いてう、鶴松)の山伏姿での一行。やがて、酒呑童子の住処、鬼ケ城を見つける。花道すっぽんから、城に戻って来た体の、酒呑童子(勘九郎)が現れる。童子頭に、若草色の衣装を着けている少年だ。この少年が、不気味だ。少年と大人の二重性。童子姿の少年が、にんまりしながら、酒を呑む場面が、意外と、不気味である。一行が持参した酒は、神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)という、鬼が呑めば神通力を失うが、人間が呑めば、精気を増すという都合の良い酒である。その酒を呑ませるという約束で、一夜の宿りを乞う。酒宴を開き、舞を肴に酒を呑みあう。酩酊してくる、酔いの表現を売り物にする演目は、多いが、これも、同根。やがて、酔いが深まった酒呑童子は、「土蜘」のように館に姿を消してしまう。

間狂言風に、濯ぎ女の若狭(高麗蔵)、なでしこ(児太郎)、わらび(種之助)が、下手奥からやって来る。いずれも、都から酒呑童子に勾引されて来た女たちと判る。頼光一行は、酒呑童子を退治したら、女たちを都に送り届けようと申し出る。

やがて、館の御簾が上がると、中から、大きな朱塗りの盃で顔を隠し座ったままの酒呑童子の登場となる。朱色の衣装。赤面(つら)。朱色尽くし。鬼神の正体が、顕現する。やがて、毒酒の効き目もあらたかとなり、足元がおぼつかなくなる。倒される酒呑童子。紫色の三段に上がり、大見得。緞帳が下りてくる。大筋は変わらないが、細部の演出が、違う。


白鸚と七之助の共演「佐倉義民伝」


「佐倉義民伝」は、4回目。主役の木内宗吾は、勘三郎で1回、幸四郎時代を含む白鸚で、今回含め、3回、観ている。白鸚は、木内宗吾を演じるのは、今回で4回目というから、3回は私も観ているというわけだ。戦後63年間で、本興行で15回目の上演ということで、4年に1回という感じでしか演じられない演目。初めて観たのは、16年前、勘九郎時代の勘三郎の宗吾で観て見ている。

今回の場面構成は、次の通り。序幕第一場「印旛沼渡し小屋の場」、第二場「木内宗吾内の場」、第三場「同 裏手の場」、二幕目「東叡山直訴の場」。

序幕では、印旛沼の渡し、佐倉の木内宗吾内、同裏手へと雪のなかを舞台が廻り、モノトーンの場面が展開する。二幕目では、1年後の江戸・上野の寛永寺。多数の大名を連れた四代将軍家綱の参詣の場面は、錦繍のなかで燦然と輝く朱塗りの太鼓橋である通天橋(吉祥閣と御霊所を結ぶが、死の世界に通じる橋でもあるだろう)が、舞台上手と下手に大きく跨がり、まさに、錦絵だ(遠見中央に、寛永寺本堂が望まれる)。やがて、宗吾は、この橋の下に忍び寄り、橋の上を通りかかる将軍に死の直訴をすることになるのだ。雪の白さと錦繍の紅との対比。それは、将軍直訴=死刑という時代に、故郷と愛しい家族との別れの場面を純愛の白色(古来、日本では、白は、葬礼=タナトスと婚礼=エロスの色であった)、雪の色の白で表わし、迫り来る死の覚悟を血の色の赤色、紅葉の紅で表わそうとしたのかも知れない。

「印旛沼渡し小屋の場」では、雪の舟溜まりに、小舟が舫ってある。土手には、「印旗の渡」と書かれた柱。隣に、庚申さまの石碑を祭った祠がある。竹本は、御簾内の語り。役人たちは、宗吾帰郷警戒する非常線を敷いている。暫くして、宗吾(白鸚)が、花道から姿を現す。「願いのために江戸へ出て、思いのほかに日数を経、忍んで帰る故里も、去年の冬にひきかえて、田畑もそのまま荒れ果てて、村里ともにしんしんと、人気もおのずと絶えたるは、多くの人も離散して、他国へ立ち退くものなるか」。この名科白で、この芝居の原点は、すべて語られている。土手に上がる傾斜のある道で、滑って転ぶ白鸚。被っている笠の雪が、どさりと落ちる。白鸚は、こういう芝居は、得意だ。いつもながら、思い入れたっぷりに熱演している。将軍への死の直訴を胸に秘め、江戸を中心に降った大雪を隠れ簑に、一旦、江戸から故郷へ戻り、家族との永久(とわ)の暇乞いをしようとしている。

この場面は、渡し守の甚兵衛(歌六)が、肝心だ。歌六は、今回が初役だ。警戒で見回りに来た役人には、狸寝入りをしていたと思われる甚兵衛が、恩ある宗吾の声を聞き取ると、慌てて起き上がり、小屋の戸を開け、急いで、宗吾を中に引き入れる。小屋の中にあった竹笠で、甚兵衛は、焚火を消す。火の灯りが洩れて役人に宗吾と知られるのを警戒してのようだ。この辺りに、農民の抵抗劇の色合いが、滲み出ている。やがて、禁を破り、舫いを斧で切り離した甚兵衛は、宗吾を乗せて、舟を出す。雪下ろし、三重にて、舟は、上手へ移動する。ふたりを乗せた舟を隠すように霏々と降る雪。甚兵衛の命を掛けた誠意が、宗吾の人柄を浮き上がらせる。史実では、家族と最期の別れをした宗吾を対岸に送った後、甚兵衛は入水自殺をしたという。印旗沼の畔に甚兵衛翁の碑と供養塔が、今もある。

舞台が廻り、「木内宗吾内の場」へ。「子別れ」の場面。見せ場とあって、竹本も、床(ちょぼ)の上で、東太夫の出語りに替る。「渡し場」「子別れ」と続く。まず、佐倉の「木内宗吾内の場」は、珍しく上手に屋根付きもじ張りの門がある。下手に障子屋体。いずれも、常の大道具の位置とは、逆である。座敷では、宗吾の女房おさん(七之助)が、縫い物をしている。七之助は、初役。宗吾の子どもたちが、囲炉裡端で遊んでいる。長男・彦七、次男・徳松に加えて長女・おとうもいる。さらに、障子屋体に寝ている乳飲み子も。すべて、やがての「子別れ」の場面を濃厚に演じようという伏線だろう。

國久、千壽、玉朗、達者な傍役たちが演じる村の百姓の女房たちが、薄着で震えている。おさんは、宗吾との婚礼のときに着た着物や男物の袴などを寒さしのぎにと女房たちにくれてやる。後の愁嘆場の前のチャリ場(笑劇)で、客席を笑わせておく。女房たちが、帰った後、上手から宗吾が出て来て、門内に入る。家族との久々の出逢い。宗吾が脱いだ笠から雪が、再び、ぞろっとすべり落ちる。

女房との出逢い、目と目を見交わす、濃艶さを秘めた情愛。子どもたち一人一人との再会。父に抱き着く子どもたち。子から父への親愛の場面。父から子への情愛。双方向の愛情が交流しあう。白鸚は、それぞれをいつもの思い入れで、じっくりと演じて行く。子役たちも、熱演で応える。

雪に濡れた着物を仕立て下ろしに着替える宗吾。手伝うおさんは、自分が着ていた半纏を夫に着せかける。しかし、家族との交情もほどほどに。宗吾一家の再会は、永遠の別れのための暇乞いなのだ。宗吾は、下手の障子屋体の小部屋に、なにやらものを置いた。自分がいなくなってから、おさんに見せようとした去り状(縁切り状)だろう。

いつも良く判らない登場人物が、幻の長吉。宗吾と幻の長吉(彌十郎)とのやりとり(禁令を破って、宗吾が印旛の渡しを越えていったのを見ていた、代官所に突き出すと脅しに来たのだ)、脛に傷を持つ身のならず者ゆえ、捕手の姿を見て、慌てて逃げ出す長吉。それを追う捕り手は、やがて、己にも追っ手が迫って来る宗吾への危険信号でもある。捕り手に衣類を剥ぎ取られ、半裸で場内を笑わせ、逃げたて行った長吉の、雪の上に脱ぎ捨てられた下駄が、宗吾のあすは我が身を伺わせるという演出。幻の長吉は、悲劇の前のチャリ場(笑劇)。そういう劇的効果を狙っただけの役回りなのだろう。

去り状をおさんに見られた宗吾は、仕方なく、本心を明かす。将軍直訴は、家族も同罪となるので、家族に罪が及ばぬようにと、家族大事で縁切り状を認めていたのだ。離縁してでも、家族を救いたいという宗吾。夫婦として、いっしょに地獄に落ちたいというおさん。夫婦の情愛。その心に突き動かされて去り状を破り捨てる宗吾。「嬉しゅうござんす」と、背中から夫に抱き着き、喜びの涙を流す七之助も熱演。

親たちの情愛の交流を肌で感じ、子ども心にも、永遠の別れを予感してか、次々に、父親に纏わりついて離れようとしない子どもたち。皆、巧い。「子別れ」は、歌舞伎には、多い場面だが、3人(正確には、乳飲み子を入れて4人)の子別れは、珍しい。それだけに、こってり、こってり、お涙を誘う演出が続く。役者の藝で観客を泣かせる場面。実際、客席のあちこちですすり上げる声が聞こえ出す。白鸚は、こういう芝居は、自家薬籠中であろう。今回は、効果的。泣かせに、泣かせる。特に、長男・彦七は、宗吾の合羽を掴んで放さない。垣根を壊して、家の裏手へ廻る宗吾の動きに引っ張られてついて行く。半廻りする舞台。ともに、半廻りして、移動する父と子。最後は、息子を突き飛ばす父親。雪は、いちだんと霏々と降り出す。「新口村」のようだ。肉親との別れに、雪は、効果的だ。別れを隔てる雪の壁。本舞台では、家の中から、いまや、正面を向いた裏窓の雨戸を開けて、顔を揃えたおさんと子どもたちが泣叫ぶ。振り切って、花道を逃げるように行く宗吾。農民の反権力の芝居というより、親子の別れの人情話の印象が強い場面だ。

二幕目「東叡山直訴の場」では、開幕すると、浅葱幕が、舞台全面を覆い隠している。幕の両脇、上手と下手から出て来る警護の侍4人(大和ら)。警護の厳しさを強調して、再び、幕内に引っ込むと、浅葱幕が、振り落とされて、紅葉の寛永寺の場面になる。錦繍のなかで燦然と輝く朱塗りの太鼓橋である通天橋が、舞台の上手と下手を結ぶ。将軍・家綱(勘九郎)が、松平伊豆守(高麗蔵)ら大名たちを引き連れて、通天橋を渡って行く。橋の下に現れた宗吾だが、橋の高さに届かぬ直訴状を折り採った紅葉の小枝に結び付ける。しかし、還御の際、戻って来て橋の中央、太鼓橋の最も高い所に立つ将軍に直訴状が届かぬうちに、捕らえられてしまう。「知恵伊豆」こと、松平伊豆守が、知恵のある裁き方をする。つまり、形式的には、直訴御法度なので、受け付けないが、直訴状の上包み(封)を投げ捨て、中味を袂に入れて、保管するという見せ場を創る。美味しい役どころ。

この結果、佐倉城主・堀田上野之介の悪政は、将軍家に知られるところとなり、領民は救済される。しかし、封建時代は、形式主義の時代だから、宗吾一家は、離縁をせずにいたので、おさんが覚悟したように乳飲み子も含めて家族全員が、皆殺しにされる。

「佐倉義民伝」は、17世紀半ばに起きた史実を基にした芝居だが、明治期の九代目團十郎が、志向した「史劇」では無い。江戸時代の芝居、時代ものだ。明治維新まで、あと17年という、1851(嘉永4)年、江戸・中村座で、上演された。原作は、三代目瀬川如皐。初演時は、「東山桜荘子」(東の国の佐倉の草紙=物語というところか)という外題で、時代ものとして、舞台も、室町時代に設定されていた。直訴の場面の演出も、幕府によって、変更させられたという。木内宗吾は、本名、木内惣五郎だけに、「惣『五郎』」で、「五郎」。これは、曾我兄弟の「五郎・十郎」の「五郎」と同じで、「五郎」=「御霊(ごりょう)」。つまり、御霊信仰。農村における凶作悪疫の厄を払う、古来の民間信仰に通じる。この後、今では滅多の演じられないが、「問註所」の裁きの場面(「仏光寺」)、大詰で城主の病気と宗吾一家の怨霊出現の場面(「堀田家怪異」)があり、庶民が、溜飲を下げる形になっている。

贅言1):宗吾の故郷、佐倉藩の領地、印旛郡公津村(いまの成田市)には、没後350年以上経ったいまも宗吾霊堂には、年間250万人を超える人が、参詣するという。私心を捨て、公民のために、己と家族の命を犠牲にした「宗吾様」は、神様なのである。宗吾の決死の行動は、明治の自由民権運動にも影響を与えたといわれる。明治期に全国で上演された「佐倉義民伝」は、110回を数えるという。1901(明治34)年、足尾鉱毒事件で、明治天皇に直訴した田中正造は、木内惣五郎を尊敬していたという。反権力の地下水脈は、滔々と流れていたことになる。

贅言2):今回は、人情劇の色合いが濃い演出になっていたが、この芝居は、本来、「木綿芝居」という、地味な農民の反権力の劇である。1945年の敗戦直後に、「忠臣蔵」など切腹の場面などがある歌舞伎は、戦前の軍国主義を支えた、封建的な演劇だということで、GHQによって、暫くの期間、禁じられたが、そういう動きのなかで、「佐倉義民伝」は、デモクラティックな芝居として、敗戦から、わずか3ヶ月後の、11月には、東京劇場で、上演された。早々と歌舞伎復活の一翼を担ったことになる。初代吉右衛門の宗吾、美貌の三代目時蔵のおさん、初代吉之丞の甚兵衛、七代目幸四郎の伊豆守、後の十七代目勘三郎のもしほの家綱などという配役であった。初演時は、磔を背負った宗吾一家の怨霊がでる演出などがあったという。反権力のメッセージも、より明確だったのだろう。

贅言3):「東叡山直訴の場」では、初代吉右衛門が演じる宗吾に客席からお賽銭が飛んだのを白鸚は覚えているという。今回は、そういう場面は、見当たらなかったと思うが、2階ロビーに宗吾霊堂が設えられていたので、見てきた。御本尊宗吾様の入った御堂。歌舞伎座名義で献じられたお札に、「興行安全御願御祈祷 佐倉義民伝」「興行成功御願御祈祷」、真ん中に松本白鸚名義で献じられたお札に、「身体健全御願御祈祷 佐倉義民伝」、松竹名義で献じられたお札に、「興行安全御願御祈祷 佐倉義民伝」「興行成功御願御祈祷」と書いてあった。御堂の前、下に向かって花と燈明、その下に香炉、さらにその下に、賽銭箱が置かれていた。幕間に見ていると、宗吾霊堂には、人影が途切れず、お賽銭を箱に投じ、手をあわせる人が目立った。初代吉右衛門へのお賽銭も、宜なるかな。
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