mixiユーザー(id:1673188)

2018年07月01日10:35

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お祈りされてしまう

昨今は…世間一般においては「お祈りされる」っつうのは、採用がダメだった時のお断りのことばのようだ。
しかしまあ、教会ではそれより前から折に触れ祈り祈られやってきた。

ハガキに数人の寄せ書きで、お祈りしています。と書いてある。
ともに礼拝できる事がうれしいと。

今回、教会から祈られてしまったのは、久しぶりに教会へ通うようになったからで、なおかつ先週行かなかったからだろう。
こういう反応されると、教会に行きたい気持ちが萎えるなあ…というワケで先週に引き続き今週もサボリとする。暑いし。
昔からずっと教会では、こうやって新しく教会へ来た人や、最近来なくなった人をお祈りしてきた。
…もちろん、祈られるべき事情のある人はもっと祈られる。病気療養中とかいろいろ

こういう対応を良きキリスト教徒としては感謝すべきという考え方が重荷だ。
いや〜勝手に担いでいるだけだから、下せばいいだけなんだが。
メンタル的にやばいときは、祈りが呪いになりかねない時もある。実際、糖質系の人からそうしたアプローチが干渉や介入を通り越して攻撃に感じられると聞いたことも。

それぞれ感じ方は違うので、対応も違うべきなんだろうけど、高度経済成長とともに育ってきた教会は、画一的で大量のメッセージを発することしかしない。それをひとつづつ手渡しすれば、きめ細かな配慮だと思ってる。

これからの時代にもキリスト教と言うものが必要とされてゆくとしても、時代に合わせ…その時代に生きる様々な人々の個々のニーズに合わせ…多様化してく必要があるんだろうなあ。



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