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2018年07月01日07:56

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石原莞爾将軍との出会いと忘れ得ぬ人々(上) 2

 中野正剛氏の政治資金は、鐘紡の津田信吾社長から出ていた

――その後、どうなったのでしょうか?
武田 実は、中野さんの政治資金は、鐘紡の津田信吾社長から出ていたのです。当時、鐘紡の根拠地は神戸にあり、中野さんは金が必要となると神戸へ行って国を憂える議論をやるんだそうです。津田さんは、それを目を細くして喜んで聞いた。ところが、中野さんは絶対に「金が欲しい」とは言わない。しかし、津田さんは秘書に「おい、風呂敷!」と言って、お礼を包んで自動車の運転手に渡させるのが習慣だった。津田さんが中野さんの資金源で、二人は朋友だったのです。
――鐘紡といったら、当時の最先端のトップ企業ですよね。
武田 当時、鐘紡は中国でしこたま儲けていて、さながら「帝国主義の尖兵」的な存在だった。そこで、鐘紡は戦争が始まれば、真っ先に狙われることをちゃんと知っていた。ならば、戦争を喰い止めることができるためなら、儲けているお金の5割でも6割でも惜しまない、ということは、お互い暗黙の了解だったんでしょうね。
――なるほど。双方の思惑が一致していたわけですね(笑)。
武田 ということで、池本博士の事柄について石原将軍が津田さんに連絡したところ、津田さんは直ちにOK、「すぐにやる」ということで、鐘紡の農林課に池本博士を招き入れました。
――いつ頃のことですか?
武田 僕が大学3年の頃ですから、昭和8年(1933年)頃です。

石原将軍の中国問題話により、アフガンから中国行きへ変更

武田 これも池本博士からの話です。今は滅茶苦茶になりましたけれども、当時のアフガニスタンは新興国で、ちょうど中国、インド、ソ連(現ロシア)の中間にある国でしょう。鉱山資源が豊かですから、当時の広田内閣では、あそこへ一つ拠点を作りたいということでした。アフガン政府から農業と鉱業の指導者の派遣を依頼してきたので、東大の那須 皓先生から池本博士が推薦されたのです。
 その時、池本博士から「お前さんも行かぬか」と誘われたのです。当時、トルコのケマル・パシャ(アタチュルク、初代大統領・元帥)の近代化が成功している時です。僕は彼の業績に魅力を感じていたので、「夏休みなどにトルコへ勉強しに行ってよいなら」という条件付きで、その準備を進めていたのです。
――先生は、東大では西洋史を専攻されましたよね。
武田 僕は近代化問題が好きで、高等学校2年の時に、クロポトキンの『フランス革命史』を読んで、歴史家になろうと思いました。明治維新は近代化、自由主義革命ですから、その延長線でトルコのケマル・パシャにも興味があったのです。
――そうですか、それは初耳です。
武田 そこへ石原将軍の中国問題の話が出て、池本博士から「君、アフガニスタンへ行くのは止めるから、中国へ行かないか」というんです。そこで僕は、「鐘紡の本社勤めはご免だが、現場にやってくれるなら行きましょう」ということで鐘紡に入り、そこで僕が中国へ行くキッカケとなったのです。
――それは、池本博士を介して、石原将軍とは「赤い糸」で結ばれていたわけですね(笑)。

◎私と石原将軍との出会い

 昭和14年10月、池本博士に同伴して石原将軍と初めて出会う

――ところで、石原将軍との出会いのキッカケは、何だったんでしょう?
武田 初めてお会いしたのは京都の師団長時、昭和14年(1939年)10月、池本博士に同行してのことです。ちょうど独ソ不可侵条約(1939年8月23日)が締結されて1カ月余ぐらいの頃で、池本博士は長年パリにいた体験上、国際問題には鋭敏でしたから、独ソ戦争へ発展した時の展望が話題となりました。
 石原将軍の見通しでは、最初はヒトラーが勝つ。終わりはスターリンが勝つ。最後の決戦はスターリングラードあたりだろう。兵站線が陸上輸送でヒトラーは不利だ。ボルガ河を使うスターリンのほうが有利だ。結局、ソ連が勝つだろうと言われましたが、実際、そのとおりになりましたね。私は「この人は、すごい人だな」と思いました。この時に、日本がアメリカと戦争をやればどうなるということも言われましたが、これも全くそのとおりになりましたね。
――確かに、戦局を見通す石原将軍の鑑識眼は、鋭いものがありますね。
武田 当時の石原将軍は、大陸政策とともに、日本の農村をどうしたらいいのかということにも重大な関心を持っていました。その当時の農林大臣は石黒忠篤さん、学問的なことが東大の那須 皓さん、実践的なことが加藤完治さんで、この三人が中心的な存在でした。ところが、石原将軍は、どうも安心できないという気持ちがあって、池本に質問されたところ、池本博士がとうとうと話をされたのです。
 石原将軍は、日本と大陸を総合的にやれるのは池本君の政策しかないと認識したようで、池本博士に「現代日本農政の概論を書いて欲しい」と依頼されたのです。けれども、池本博士は鐘紡のほうの仕事が忙しくてなかなか書けない。将軍は、池本博士が書けないなら、急いで誰か書ける人間が鐘紡農林部(農林課から改称)にいないか、というわけです。
「一人いるけれども、彼は中国に行っている」――、それが僕のことですけれども、「それじゃ、津田さん、武田君を呼び返して書かせて欲しい。鐘紡の仕事と同じくらい大事だ」と言って、僕は2カ月ほど呼び返されて、それで日本の農政について池本博士から口述を受けて、その意見をまとめて文章化し持参したのが石原将軍とご縁の深まるキッカケとなったのです。
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