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2018年02月03日18:00

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2月歌舞伎座・昼/襲名披露で「一條大蔵譚」を上演する意味

18年2月歌舞伎座(昼/「春駒祝高麗」「一條大蔵譚」「暫」「井伊大老」)


「大大歌舞伎」は、歌舞伎のカーニバル


18年1月から続く高麗屋三代同時襲名披露興行も2月の初日を迎えたので、東京地方も夜には雪が降るという天候の中、夜の帰宅の足が乱れても対応できるようにと、いつもより、重装備の服装で歌舞伎座に行った。今月の「大歌舞伎」は、いわば、毎月の大歌舞伎と違って、襲名披露興行で集まった豪華な役者衆、主役、ベテラン、中堅クラスの役者が30人以上出演という、つまり、文字通りの「大大歌舞伎」で贅沢な配役を実現することができた。「大大歌舞伎」に集う歌舞伎役者たち。まるで、これは、歌舞伎のカーニバル(祝祭)であろう。

高麗屋、我が世の春の感じがするが、そういう感じに流されることをいちばん引き締めているように見受けられる役者たちがいる。その役者は、九代目幸四郎に別れを告げて二代目白鸚を名乗った。もう一人、十代目幸四郎は、幸四郎はいつの世も一人だけだと宣言し、「代々」という呼称を抜いて連綿と続く幸四郎の足跡を引き継いだ。自分がやらねば、という覚悟なのだろう。

今月の演目は、高麗屋三代を軸とした襲名披露演目、ゲスト出演の主役を軸にした演目、襲名披露興行らしく祝儀を表明する演目と、ざっと3つのグループに分けられるので、おいおい、演目に即して説明をして行きたい。

今月の歌舞伎座は、夜の部の休演日多い。1日の初日から千秋楽の25日までの25日間で、合計12日が休演日だ。その代わり、空席なしという日も数回ある。どういう事情かは、説明もないようなので、判らない。また、夜の部の出演者のうち、「仮名手本忠臣蔵〜祇園一力茶屋の場(七段目)」では、寺岡平右衛門とお軽が、日替わりで交替という演出だ。つまり、奇数日は、熟成派の役者衆。玉三郎(お軽)と仁左衛門(平右衛門)。私も初日に、玉三郎(お軽)と仁左衛門(平右衛門)、そして二代目白鸚(由良之助)で観た。この配役で、七段目を演じるのは、38年ぶりだという。1980年3月、歌舞伎座。当時の染五郎(現在の二代目白鸚)と孝夫(現在の十五代目仁左衛門)が、由良之助と平右衛門を交互に演じ、玉三郎のお軽が、二人に対応した、という舞台だった。

今回の偶数日は、若手の役者衆。菊之助(お軽)と海老蔵(平右衛門)というわけだ。まだ、観る機会がない。歌舞伎座以外で今月、歌舞伎を上演しているのは、福岡・博多座の「二月花形歌舞伎」だけで、配役を見ると、花形若手の中村勘九郎・七之助の中村屋兄弟、中村児太郎、尾上松也以下の浅草歌舞伎の面々の一部という若手・最若手たちに、中村扇雀らベテランが配役のバランスをとる、という苦心の工夫が滲み出てくる。新橋演舞場や大阪松竹座は、上演期間を短くして、さらに歌舞伎以外の演目を上演している。いかに、今月の歌舞伎界は、ベテラン、中堅を厚めに、若手も含めて、役者衆が歌舞伎座に集められて、歌舞伎座「1強」体制になっていることか。

高麗屋祝祭。それだけに、今月の歌舞伎座は、いつもより贅沢な配役で芝居を楽しめる、ということになる。役者祝祭。観客祝祭。どういう配役が妙味かは、昼の部、夜の部で、個別に論じよう。全国の歌舞伎の芝居小屋は、4月以降なら、高麗屋の襲名披露興行を楽しめる。例えば、当面で言えば、4月は、名古屋御園座、6月は、博多座、7月は大阪松竹座という具合だ。後半以降は、また、別途。さて、この劇評は、昼の部だ。本筋に戻ろう。


「春駒祝高麗(はるこまいわいのこうらい)」は、初見。「曽我もの」の代表作で、よく上演される「対面」の、いわば舞踊劇版。今回は、外題に「高麗」と入っているように、高麗屋三代同時襲名披露の舞台を寿ぐ祝祭の演目に変化(へんげ)している。「曽我もの」とは、本来は曽我兄弟物語。兄弟が、親の仇として付け狙う工藤祐経に、やっと逢う場面を「対面」という。つまり、暗殺者・ヒットマンが、暗殺の対象となる人物に接近する場面。歌舞伎では、「対面」というアクション場面の前に、「接近」の苦労を「所作事」で、緊張感を抑えたまま、明るく演じる場面を挿入した。ヒットマンは、ヒットマンらしからぬ、華やかさで、身をやつして、敵陣に、まんまと乗り込む。元々は、「當年祝春駒(あたるとしいわうはるこま)」という演目で1791(寛政3)年、中村座で初演された。本名題(外題)は、「対面花春駒(たいめんはなのはるこま)」ということで「対面」を明記していた。「春駒売」に身をやつした曽我兄弟が、工藤の館に入り込む。「春駒売」とは、正月に馬の頭を象った玩具(金色と銀色)のようなものを持ち、「めでたや めでたや 春の初めの 春駒なんぞ」などと祝の言葉を様々に囃しながら、門付けをして歩く芸人のことである。

舞台では、幕が開くと、無人(役者が未登場の状態)の舞台奥の雛壇に並んだ長唄連中の「置唄」。主軸となる長唄の鳥羽屋三右衛門に大向こうから声がかかる。舞台中央には、大せりの大きな穴が空いている。富士の姿を中央に描いた書割は、さらに、松と紅白梅が描かれている。やがて、工藤祐経(梅玉)が、脇に、大磯の虎(梅枝)、化粧坂少将(米吉)、喜瀬川亀鶴(梅丸)という綺麗どころを引き連れて、大せりに乗って、せり上がって来る。今回は、両花道を使っているので、まず、仮花道から小林朝比奈(又五郎)が、登場。次いで、本花道から二人の「春駒売」に身をやつした曽我兄弟(十郎:錦之助、五郎:芝翫)が、なんとか検問突破で登場する。最初の内は、春駒の踊りを踊りながら様子を伺う兄弟だが、途中で、黒衣の持ち出して来た赤い消し幕の後ろで、衣装の双肩を脱ぎ、赤い下着を見せて、仇への感情(赤色)を表わし、五郎が、工藤に接近する。まさに、「対面」を予兆させる場面となる。すでに兄弟の正体を見破っている工藤は、兄弟に富士の狩り場の通行切手(つまり、入場券)を投げ渡し、「(私を)切って恨みを晴らせよ」。その時には父親の仇として(君らに)討たれよう。

しかし、後日の対面。「まず、それまでは・・・」、仇討はお預け、という、つまり、結論先送り、という歌舞伎独特の、幕切れの科白となる。祝祭の場で血を見せない、という美学。それぞれが絵になる静止ポーズを見せる「絵面の見得」で、幕。同趣旨の演目では、「當年祝春駒」という外題で、過去に2回観たことがある。


高麗屋が「一條大蔵譚」を上演するという意味


昼の部の襲名披露演目は、なんと「一條大蔵譚」! 染五郎、改め幸四郎が、主演。高麗屋筋ではほとんど上演しない演目「一條大蔵譚」への新・幸四郎の挑戦ということである。十代目幸四郎は、高麗屋演目を軸に歌舞伎の継承と隆盛に挑戦するという趣旨のことを度々明言している。その第一弾が、叔父の播磨屋・中村吉右衛門の至藝演目「一條大蔵譚」への挑戦となったのだろう。染五郎時代を含めて、2回目。新・幸四郎としては、初の挑戦となる。

本人は、明言していないが、胸底には、吉右衛門の娘の連れ合いになった尾上菊之助が、菊五郎以外、尾上筋ではあまり上演しなかった「一條大蔵譚」にも、吉右衛門の娘の連れ合いという立場を活用して播磨屋筋の演出を積極的に取り入れて(つまり、吉右衛門の指導を受けて)上演し始めたことへのライバル心もあるのではないか、と推測できそうな気もするが、判らない。菊之助は、去年、2017年7月、国立劇場(歌舞伎鑑賞教室)で大蔵卿を初役で演じている。半年遅れで、新・幸四郎として初めて、演じる、ただし、染五郎時代に叔父の吉右衛門の指導を受けて、既に初演しているので、事実上、2回目の出演。つまり、菊之助も幸四郎も、それぞれにとって、義父、叔父という立場の吉右衛門の藝を継承しようとしているのである。観客の私たちとしては、菊之助、染五郎の今後の精進で、吉右衛門の至藝演目のひとつでもある「一條大蔵譚」をこれからも楽しめるという観客冥利を味わうことができるというものだろう。

菊之助の大蔵卿が、「国立劇場の歌舞伎鑑賞教室」という、やや控えめな舞台だったのに対して、七代目染五郎は、新・幸四郎の襲名披露という、大舞台で上演するという。その鼻息の荒さを感じるのは、私だけではないだろう。

通称「一條大蔵譚」は、人形浄瑠璃「鬼一法眼三略巻」は、1731(享保16)年、大坂・竹本座で人形浄瑠璃として初演された。文耕堂らが合作した全五段の時代浄瑠璃の「四段目」に当たる。保元・平治の乱を経て、平家全盛となった世の中で、源氏の再興を目指す牛若(後の義経)系統の人々の苦難を描いた。我が世の春を謳歌する平清盛に対峙する弱者の物語。一條大蔵卿長成は史実の人物で、藤原氏の流れを汲む貴族だが、この芝居では、フィクションが付け加えられ、元は源氏の血筋の公家として描かれる。平家対隠れ源氏。いわば「1強」対多弱という構図。権力を独り占めする強者・清盛に対抗するには、政治には興味を示さず、芸能(能や舞など)に「うつつを抜かす」安全な人物を装って、時代の流れが変わるまで待とうという姿勢の人物として描かれる。

「一條大蔵譚」の今回の場割は、序幕「檜垣茶屋の場」(緑豊かで、敷地内の建物など見えない広大な京都御所の公卿門。その門前にある茶屋という設定。鬼次郎・お京の二人が御所見物に紛れて接近してくる)、大詰「大蔵館奥殿(おくでん)の場」(御所の周辺には多くの公家屋敷があるが、大蔵館もその一つ。奥殿は大蔵卿や、今はその妻になっている常盤御前が居住しているプライベートゾーンという設定。鬼次郎が大蔵館に先に潜り込んだお京の手引きで忍び込んできた)という構成である。

「一條大蔵譚」は、本来、吉岡鬼次郎の物語なのだが、主人公の鬼次郎と芝居の脇の人物・大蔵卿が、キャラクターのおもしろさ故に、主と脇が、「逆転」してしまい、現在上演されるような大蔵卿を軸とする演出が定着してきた。特に一條大蔵卿役を得意とした初代吉右衛門の功績が大きい。それを二代目吉右衛門が、自家薬籠中として熟成してきた。ゆえに、播磨屋至藝の演目になっている。

「一條大蔵譚〜檜垣、奥殿〜」を観るのは、今回で14回目。私が観た大蔵卿は、吉右衛門(6)、染五郎時代を含めて、新・幸四郎(今回含め、2)、先代の猿之助、勘九郎改め、勘三郎、菊五郎、歌昇時代の又五郎、仁左衛門、菊之助。そして既に述べたように、今回、染五郎時代を含め、2回目の新・幸四郎は、「大舞台」の襲名披露演目として改めて挑戦した。常盤御前は、魁春(3)、時蔵(今回含め、3)、先代の芝翫(2)、鴈治郎時代の藤十郎、先代の雀右衛門、福助、芝雀時代の雀右衛門、米吉、梅枝。鬼次郎は、梅玉(5)、菊之助(2)、松緑(今回含め、2)、歌六、仁左衛門、團十郎、松也、当代の彦三郎。鬼次郎女房・お京は、松江時代を含む魁春(2)、孝太郎(今回含め、2)、宗十郎、時蔵、玉三郎、菊之助、東蔵、壱太郎、芝雀時代の雀右衛門、児太郎、梅枝、尾上右近。

これで判るように、大蔵卿は、吉右衛門、鬼次郎は、梅玉というイメージが、私には強い。吉右衛門(一條大蔵卿)と梅玉(鬼次郎)を軸として上演する時代が続いた。ふたりのキャラクターが、充分生かされて、見慣れた演目は、馴染みの役者の滋味で、「ことことと」煮込まれている。そこへ、菊之助と新・幸四郎が、音羽屋、高麗屋の「殻」から飛び出し、播磨屋の「型」を学ぼうというのだから、この二人のうち、どちらかが「一條大蔵譚」を演じる舞台は、今後、目を離せないのではないか。

初代以来の家の藝という吉右衛門の大蔵卿は、いつも巧い。公家としての気品、風格。常盤御前を妻に迎え、妻の源氏再興の真意を悟られないようにと能狂言にうつつを抜かし(純粋芸能派文化人か)阿呆な公家を装う。その滑稽さの味は、いまや第一人者。吉右衛門は、阿呆顔と真面目顔の切り替えにメリハリがある。阿呆面の下に隠していたするどい視線を時に送る場面も良ければ、目を細めて笑一色の阿呆面もまた良し。緩急自在。珠玉の藝の流域であり、絶品の舞台であった、と思う。いうこともなし。ひたすら、さらなる熟成の果てを楽しむ。

菊之助の大蔵卿は、さすがに熟成の吉右衛門の藝には及ばない。吉右衛門の藝とは違うが、その違いの中には、吉右衛門にはないフレッシュさがある。大蔵卿の愛嬌に加えて、菊之助のキャラクターの可愛らしさもあるからだ。

新・幸四郎の大蔵卿も、吉右衛門とは一味違う。私の印象では、存在感がまだまだ違うようだ。しかし、新・幸四郎は、滑稽な役に味がある。二枚目より良い。滋味のある滑稽さは、吉右衛門とも菊之助とも違う幸四郎の味になりそうだ。

今後も、二人とも、吉右衛門に改めて指導を受けることもあるかもしれないが、吉右衛門の藝に似せる(近づける)よう精進をしながら、そこから飛び立つ修業もしてほしい、と思う。

「阿呆」顔は、いわば、「韜晦」、真面目顔は、「本心」、あるいは、源氏の血筋を引くゆえの源氏再興の「使命感」の表現であるから吉右衛門型の演出は正当だろう。当代の吉右衛門が金地に大波と日の出が描かれた扇子を使いながら、阿呆と真面目の表情を切り換えるなど、阿呆と真面目の使い分けを緩急自在な、緩怠なき演技で表現する。こうしなければならない大蔵卿は、さぞ難しかろう、と思う。しかし、それをいとも容易にこなしているように見える吉右衛門の藝は、長年の弛まざる努力の賜物であろう。菊之助に続いて、新・幸四郎も、今、その熟成の藝を見せる義父、叔父の後ろ姿をそれぞれの違った目で見ながら、長い旅に踏み出したと言えるのではないか。

贅言;ロビーで山川静夫さんに会い、挨拶をした。かつての職場の先輩。大向こうのお仲間と一緒だった。大向こうの山川さんは、いつも決まった場所に「立ち放し」の姿勢ながら、時々声を発しているが、今回の「一條大蔵譚」では、この演目の開幕前に、いつもの定位置から私の後ろの席に移動してこられた。お仲間で求めた座席だったかもしれないが、その席で、幕切れ前の、極めて良いタイミングで、新・幸四郎に「十代目」と一言だけ、大きな声をかけていた。その声は、私にも、とても印象に残った。


ゲスト演目・「暫」と「井伊大老」


歌舞伎十八番の内、「暫」を観るのは5回目。歌舞伎の典型的な祝祭劇。今回の主演は、市川海老蔵。私が観た5回の配役を記録すると次のようになる。鎌倉権五郎(暫):海老蔵(今回含め、3)、團十郎(2)。清原武衡(ウケ):左團次(今回含め、2)、九代目三津五郎、富十郎、段四郎。震斎(鯰):八十助時代を含めて、十代目三津五郎(3)、翫雀時代含めて、鴈治郎(今回含め、2)。照葉(女鯰):時蔵(2)、扇雀、福助、今回は、孝太郎。桂の前:門之助(2)、右之助時代の齋入、芝雀時代の雀右衛門、今回は、最若手グループの一人、尾上右近。加茂次郎(太刀下):友右衛門(今回含め、3)、秀調、先代の芝翫。成田五郎(腹出し):権十郎(2)、松助(松也の父)、左團次、今回は、右團次。局常盤木:右之助時代含めて、齋入(今回含め、3)、玉之助、東蔵。

幕が開くと、塀外。上手には、霞幕が、大薩摩連中を隠している。紅白の毛槍を持った奴たちが、花道から現れて、舞台を横切り、上手の奥の、袖に入って行く。霞幕が、取り除かれると、山台に乗った大薩摩連中。暫く、無人の舞台で、大薩摩連中の演奏。やがて、塀は、舞台上下手に、つまり左右に開いて行く。早春の鎌倉鶴ケ岡八幡宮境内。いつもの連中が、舞台に立ち並んでいる。

「暫」は、祭祀劇であり、記号の演劇だ。江戸時代には、幕末までの1世紀余りに渡って、「暫」は、旧暦の11月に「顔見世興行」のシンボルとして、演じられた演目であった。同じ演目ゆえに、毎年、趣向を変えて演じられた。その結果、役どころは、変わらないが、役名が、変動した。江戸の人々は、役柄を重視し、役柄、姿、動作などから、主な役どころには、「暫」「ウケ」「鯰」などの通称をつけて、理解を助けたのである。先の主な配役一覧で、役名の後に、括弧で記入したのは、役の通称だが、極めてユニークな記号になっていると思う。

例えば、主役の鎌倉権五郎の「暫」は、向う揚幕の、鳥屋のうちから、「暫く」、と声をかけて、暫くしてから花道に出てくるから、「暫」と呼ばれた。清原武衡の「ウケ」は、その「暫く」を受けて立つ敵役だから、「ウケ」となる。鹿島入道震斎の「鯰」は、「震災」のことであり、化粧などが、「鯰」だからだろうし、照葉の「女鯰」は、「鯰」に付き従っている女性だからだろう。

「太刀下」は、鎌倉権五郎が、振るう大太刀の下で、あわや、首が飛びそうになるからだ。後から出てくる成田五郎を含めて、東金太郎、足柄左衛門、荏原八郎、埴生五郎の5人は、「腹出し」と呼ばれるが、これも「腹を出した赤っ面」という扮装を見れば、良く判るネーミングだ。また、道化方、若衆、女形、敵役など歌舞伎の主な役柄が出揃うという意味でも、初心者にも判りやすい演目だ。

鎌倉権五郎(海老蔵)の花道七三への登場で、大薩摩は、暫く、姿を隠すために、再び、霞幕に覆われる。鎌倉権五郎は、花道七三でのツラネ(荒事の主役が述べる長科白)で、役柄と役者自身の自己主張をする。演奏より、「ツラネ」という科白術が、見せ場、聞かせどころ、という演出の強調であろう。

やがて、海老蔵は、本舞台正面へ。大きな力紙を附けた五本車鬢という鬘、紅の筋隈、市川團十郎家の色、柿色の素襖には、家紋の三升が染め抜かれている。後ろ向きで、いくつもの衣装の肩を脱ぎ、前向きになると、大見得。大振りの衣装に助けられて海老蔵は、いちだんと、大きく見える。私が観た鎌倉権五郎は、回数で海老蔵が團十郎を超えた。鬼籍の父親は、もう、息子を超えられない。海老蔵の鎌倉権五郎を私は、今後も見続けて行くだろう。

「暫」は、歌舞伎の配役が、類型化されて、衣装や扮装、化粧などという歌舞伎の演目を越えて共通する様式性でバランスを採り、それに伴い、「大同小異」という人物の普遍性を主張するという演劇としての歌舞伎の特性を判り易く示す象徴的な演目だと思う。江戸歌舞伎を代表する荒事の演目であり、勇壮な荒事の特徴の、花道の出、愛嬌、力感、科白廻し(主役の科白のほか、主役の動作に添える、仕丁たちの「ありゃー、こりゃー」という化粧声なども)、衣装、隈取り、力紙をつけた鬘、大太刀などの小道具、全体の扮装、「元禄見得」など、いくつかの見得、引っ込みの六法まで、團十郎家代々の荒事のエキスを見せつける。歌舞伎入門、あるいは,江戸歌舞伎の荒事入門に相応しい演目だろう。

源義家家来の小金丸(彦三郎)が、行方不明だった源氏の重宝・雷丸という剣を持って登場するのを合図に、霞幕が、片付けられ、大薩摩連中が、再登場する。

権五郎が、加茂次郎に源氏の重宝を手渡し、一行を「太刀下」の状況から逃れさせる。大太刀を肩に担いで、権五郎は、悠然と花道から立ち去る。格好良い英雄の典型的な後ろ姿だ。


「井伊大老」は、播磨屋の大御所。吉右衛門主演。主役の大老・井伊直弼を演じる。相手役のお静の方は、雀右衛門。この演目は、今回で7回目の拝見。実は、94年4月歌舞伎座、白鸚十三回忌追善興行の舞台を観たのが、いまのように歌舞伎を観始める最初だった。この時の演目のひとつが、「井伊大老」であった。

それ以来、私が観た主な配役。井伊大老は、吉右衛門(今回含めて、5)、九代目幸四郎(2)。お静の方は、先代の雀右衛門(2)、芝雀時代を含めて、雀右衛門(今回含め、2)、歌右衛門、魁春、玉三郎。96年4月の歌舞伎座の舞台でお静の方を演じた歌右衛門は、この月の舞台では、途中から、病気休演で、雀右衛門が、代役を勤めているが、私は、病気休演前に、無事六代目歌右衛門最後の、お静の方の舞台を拝見することができた。

「井伊大老」は、北條秀司作の新作歌舞伎で、1956(昭和31)年、明治座で初演された。新国劇としての初演は、それより、3年前の1953(昭和28)年、京都南座。歌舞伎としての初演は、井伊大老は、当時の八代目幸四郎(後の初代白鸚)、お静の方は、六代目歌右衛門であった。初演以降、お静の方は、六代目歌右衛門の、井伊大老は、八代目幸四郎の、当り役になった。北條秀司の芝居は、科白劇。1981年11月、歌舞伎座で、八代目幸四郎は、九代目を息子の幸四郎(今回二代目白鸚襲名)に譲り、初代白鸚襲名披露(あわせて、九代目幸四郎、七代目染五郎襲名披露。最初の三代同時襲名披露であった)の舞台途中で倒れ休演、翌82年1月、不帰の人となった。その時の代役は、当代の吉右衛門。吉右衛門は、以来、何回も井伊直弼を演じている。従って、白鸚を彷彿とさせる科白廻しである。当代幸四郎の井伊直弼も、私は観ている。

安政の大獄=1858(安政5)年から59(安政6年)にかけて、井伊大老が、尊王攘夷の志士らを弾圧し、吉田松陰、梅田雲浜、橋本左内らを投獄、処刑した=以来、政情不安になり、挙げ句、1860(安政7)年、旧暦の3月3日の「桜田門外の変」で、井伊大老は、水戸浪士らによって襲撃され、暗殺される。

今回の歌舞伎の場割は、第一幕「井伊大老上屋敷奥書院」と第二幕「井伊家下屋敷お静の方居室」(1年後)のみどり上演。つまり、「桜田門外の変」の前日、3月2日の、井伊家下屋敷での、井伊大老と側室のお静の方の、しっとりとした最後の語らいの時間を見せ場に描く。

第一幕「井伊大老上屋敷奥書院」。1859(安政6)年の初冬。井伊大老邸の奥書院の場では、正室の昌子の方(高麗蔵)を軸にしながら、安政の大獄の時代状況が簡潔に説明される。書院の上手は、物見の間か。いまなら、バルコニーのような役割の部屋。上手奥に江戸の下町方向が見渡される。火事か。世情不安。暗夜に帚星が見えた。井伊大老が、いつ水戸浪士に襲われるかもしれないと昌子の方は不安がっている。井伊大老の身辺にも、危うきことが忍び寄っている、という予兆。

第二幕「井伊家下屋敷お静の方居室」。1860(安政7)年3月2日。去年亡くなった鶴姫の命日。井伊大老と側室のお静の方の間に生まれた娘。仙英禅師(歌六)が、お静の方(雀右衛門)、老女・雲の井(歌女之丞)らと共に、姫の菩提を弔っている。

仙英禅師が去り、井伊直弼(吉右衛門)が来る。迫りくる死を覚悟する大老・井伊直弼。出迎えたお静の方。青春時代から直弼と付き合ってきたお静の方の、しっとりとした語らいは、心を許しあう、それも大人の男女の、極めてエロチックともいえる、濃密で、良い場面である。ここで言うエロチックとは、性愛と言うよりも、大人の男と女、死という永遠の別れを前にした、若い頃から長い時間を共有して来た果てのカップル、「晩年の生」の最期の輝きとも言えそうな、しっとりした対話のことである。「あの日のことを覚えているか」と井伊直弼。「忘れるものですか」とお静の方。聞き様によっては、とてもエロチックに聞こえるではないか。

「夫婦は、二世」という信仰が生きていた封建時代。井伊直弼も、正室より、若い頃から付き合って来た側室のお静の方との「男女関係」をこそ、真の夫婦関係として重視していた。エロスとタナトス。文字どおり、迫り来る死に裏打ちされた生の会話である。それを北條秀司は、下屋敷の壷庭に咲いた桃の花に降り掛かる白い雪で描き出した。桃色の花の上に被さるように降り積もる白い雪。桃色と白色のイマジネーション。最大の見せ場。

居室奥正面の襖が開かれると、朱色の毛氈が敷き詰められた明るい雛壇が見える。幼くして亡くなった娘を悼む雛祭り。暖かそうな春の灯り。雛壇では、上手に内裏雛が飾られている。ふたりの静かな時間の流れのままに、各段に置かれた雪洞が、何時の間にか、消されて行く。

また、雪は、井伊直弼に故郷の伊吹山を思い起こさせ、望郷の念を抱かせる。大老を辞めて、お静らと過ごした彦根の青春の日々に戻りたいという、井伊直弼の絶叫が耳に残る。老いと共に迫る死の予感から、直弼は、青春の日々を走馬灯のように思いめぐらす。第二幕の科白劇が、圧巻。吉右衛門と雀右衛門のしっとりとした会話のやり取りを味わいつくした。
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