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2017年02月26日14:14

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この表現は初めて聞きました。

■【石野伸子の読み直し浪花女】野坂昭如のウソとマコト(5)「エロ事師たち」「浣腸とマリア」 三島由紀夫も激賞…猥雑、都市と農村、人間模様に守口市への愛
(産経新聞 - 02月24日 16:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=4448577

ミクシーニュースに気になるフレーズが出てきたので引っ張ってきました。

(かなり長くなりますが、本文引用)

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【石野伸子の読み直し浪花女】野坂昭如のウソとマコト(5)「エロ事師たち」「浣腸とマリア」 三島由紀夫も激賞…猥雑、都市と農村、人間模様に守口市への愛1
2017年02月24日 16:02 産経新聞

野坂昭如のデビュー作「エロ事師たち」。守口の体験が生かされている
 養母と養祖母の存在を巧妙に隠していたとはいえ、野坂昭如(のさか・あきゆき)は戦後過ごした大阪・守口(もりぐち)市での体験を作品の中に色濃く刻印している。

 守口を舞台とした作品は何作かある。作中人物に守口を投影させるケースもある。例えば、デビュー作「エロ事師たち」(昭和38=1963=年)には、界隈(かいわい)の面影が充満している。

 主人公はエロフィルムの製作や乱交パーティー、ときには売春のあっせんなど性のあらゆる享楽提供をなりわいにする自称「エロ事師」のスブやん。この35歳の男の住まいが「千林から旧京阪で駅ひとつ先の滝井に住む」、まさに守口の住人だ。亭主に死に別れた床屋のお春の家に転がりこみ、やがてお春の娘とややこしい関係になるのだが、スブやんの周辺の人物も一帯の住人が多い。

 どこを引用しても、少々はばかられる言葉が乱舞する猥雑(わいざつ)な小説。その露悪趣味の文章に滑稽味を加えているのが大阪弁だ。それも大阪の辺境である守口界隈の言葉、それを語り手・野坂昭如は自覚している。

 冒頭からいきなり文化アパートの一室で隣室の男女のぬれ場を盗み取りするシーンが始まる。エロテープに「リアリティー」をにじませるための作業だが、その際のスブやんのへ理屈がおかしい。かつてスブやん苦心のテープに物言いがついたことがある。いやがる女に男が言い寄るというシーン。男が女を言いくるめるため言い放つ言葉。「人間は運命に逆らってはいけないよ」、このせりふに客が一気に興ざめしたという。

 「考えてみたら東京弁があかんねんわ。ヒトニハサダメガオマンネ、ナア、コレモアンタノサダメヤオマヘンカ、サダメニサカラワント、サ、ソノテエドケトクナハレ、とこういうとったら、満足しよったんや」(『エロ事師たち』)

 この小説は昭和38年「小説中央公論」11月号と12月号に発表され、三島由紀夫と吉行淳之介に激賞され、その後長編化して出版された。「赤裸々ではあるが野卑でなく、露骨ではあるが下品ではない」と渋澤龍彦は評している(新潮文庫あとがき)。

 野坂昭如はその後、「受胎旅行」が直木賞候補作となり、昭和42年に発表した「火垂るの墓」と「アメリカひじき」の2編の短編で直木賞を受賞する。

 すでにCMソングやラジオやテレビの台本作家として活躍していたが、作家としてデビューした後も自身が出演するCM、シャンソン歌手とマスコミで派手に活躍した。

 作中では大阪、守口へのこだわりを続けている。

 例えば、「土の奢(おご)り」は昭和47年から48年まで雑誌「俳句」に連載された長編だ。終戦直後の守口を舞台に、急速に都市化する農村の荒廃を、地主一家の人間模様をからませて描いている。

 連載半ばでは「北白方村再訪」という文章を書いている。「北白方」とは小説での町名。

 「昭和二十年九月から二十二年十月まで、ぼくは小説の舞台に焼け出されとして、かなり惨めな明け暮れを送った。こっちは連日、食うや食わずなのだが、この大阪市と北河内郡の接点にあたる村の人たちは、浮かれさわぎ、ぼくはひがむというより、国が敗けようが、家族の内の何人かが戦死しようが、今日只今有卦に入っていれば、野放図に喜び騒ぐそのあっけらかんとしたタフネスを、呆れてながめていた」

 昭和56年から57年にかけてサンデー毎日に連載された長編「哄笑記」も、一帯の変遷史を中核に置きながら、大阪近在の焼跡闇市の混沌を記録しようとした力作だ。

 このほか、「行き暮れて雪」(昭和59年)、「ひとでなし」(平成9年)などの自伝的長編でも守口はさまざまに語られた。

 しかし、守口を語って秀逸なのはなんといっても短編「浣腸とマリア」ではないだろうか。富岡多恵子編「大阪文学名作選」(講談社文芸文庫)に収録されている。

 「『お母ちゃんみたいに耳のタボのうすい女は、行く末かならずええことないようなるんや。きっとバチあたるよるわ』

 鋳型(いがた)からうちだされたセルロイドの浣腸器のへたのぎざぎざを、肥後守(ひごのかみ)できいきいと削りおとして三つ一銭の手内職、水洟(ばな)すすりすすり、祖母のおかねは嫁の悪口をいいづめだった」

 こう始まる物語は、昭和21年の守口でハス池のほとりの小屋に住むおかね、嫁の竹代、孫の年巨(としひろ)の3人家族が主人公。強烈な印象を残す一編だ。 =続く


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「千林から旧京阪で駅ひとつ先の滝井に住む」…『旧京阪』である。

阪急の神戸線系統と宝塚線系統は、箕面有馬電気軌道(のち阪神急行電鉄)によって作られた「阪急オリジナル路線」である。

京阪はもともと天満橋〜五条で開業し、琵琶湖連絡のために五条〜三条を延伸(京津線と直通運転)したが
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目的地が琵琶湖ならともかく、名古屋を目指すとなると、旧集落を結んで走る従来の路線では時間がかかりすぎるということからか、高規格新線を作ることになる。

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今の阪急京都本線(の淡路〜大宮)がそれで、京阪が出資した子会社を設置して「新京阪鉄道」で作られた路線である。
昭和恐慌を機に「新京阪鉄道」は親会社の京阪に編入、「新京阪線」とよばれる。
戦時体制の陸上交通調整法にて「阪神急行電鉄」と「京阪電気鉄道」は強制的に合併し「京阪神急行電鉄」を名乗る。

「ミミズ電車」と呼ばれていた箕面有馬電気軌道を小林一三は、私鉄経営の模範である「阪神急行電鉄」に育て上げた形跡は大きく、「戦時体制終了にともなう陸上交通の戦前体制への回帰」では、「設備投資が大きすぎた上に沿線人口も少なかった赤字路線」の新京阪線は、京阪の手ではなく、阪神急行の経営に入るようになった。

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その結果、新京阪線開業後は「旧京阪」に特急は設定されなかったが、新京阪線が「昨日の友は今日の敵」になってしっまった以上、京阪は特急を走らせなくてはならない状況になる。

現在でも鉄道マニアでは「新京阪線」という言い方は使われるがさすがに「旧京阪」は使われない。今は「おけいはん」と呼ぶ。

ちなみに。2017年2月25日、「旧京阪」はダイヤ改正で、平日ダイヤに「快速特急 洛楽」が登場。
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(「快速特急 洛楽」は全て新3000系(3扉で2&1列と座席が少ない)なのが玉に瑕だが)
つまり、平日ダイヤにて、(特急券などの追加料金なしで乗車できる)京阪間ノンストップの電車が、ついに復活します。

都市化した2012年の千林〜滝井〜土居


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