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2017年02月14日14:18

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着床前診断の合理性について

実際自分に子供が出来てそれを生むときこういう検査があればするだろうし結果によっては捨てる決断をするかもしれない。
それで、まあその検査の判定がそれほど高い精度でなくても、或はそうした遺伝子異常のほとんどが発症につながらず、たいていは問題なく人生を送れるとしても、我が子や自分を含む家族のためわずかでも障害が出る危険を避けようとするのは道理である。

「命の選択」というのは、こういう生命の選択の是非を問うているのであろうか。

まだ人間の形になっていない受精卵に一人の人間としての人格権があってそれも平等に扱うべきとするような厳密な平等主義、生命に関するすべてのプロセスは神の領域に属するので操作すべきでないという宗教的禁忌、まあ他にもあるかも知れないが、そういう極論ならば別だが、そういうのは議論の余地がなく、したがって議論の成果が見込めない。

今問題なのは実質的に科学的合理性が着床前診断にあるかというトコロだと思う。
この研究では染色体の数のみ調べるようなので、それで発症の可能性が出てくる異常の範囲は少ない。また、それでその障害が発生しなくなるとも言えない。
まあ、ダウン症を含むある種の障害のサインではあるから、全く無意味であるとまでは言えない。
だが、障碍者が生まれる確率というのを結果とすれば、現代の技術はそれほど大きな意味がある段階にまでは至っていない。
無論、この記事にあるように研究を進めるかどうかという話ではあるが、そのプロセスにおいて再び愚行を繰り返すことにならないか…っつ話なんだと思う。

かつてアメリカやナチスが熱心に研究した優生学は、DNA解析すら知られていなかった時代に進化論とメンデルの法則の知識で残すべき人間と断種すべき人間とを選択したとある。
適者生存を人為的に強化して進化を加速させよう。っつうコトだったのだが、困ったコトに適者であるかどうかは結果…未来の世界…を見ないと分からない。なのでそれを正しく選べるのは未来を完全に知る者だけだ。
そういうのは現実に居ないようなので結局その選択は力のある者の都合や趣味あるいは思い込みに従うこととなった。
着床前診断では強制的な断種でなく、受精卵の破棄だが目指すところは同じで、生存すべき対象の選別基準はどのくらい優生学と違いがあるんだろうか。また問題点も似たようなものだ。

相模原で障碍者の大量殺人があったが、犯人は障碍者を殺すことが社会に賞賛される行為であると信じていたようだった。
障碍者になったとたんに殺される社会に住むのは大きな不安を覚えるが、自分が弱者になるコトに想像が及ばない人々も少なからずいるようだ。
人間的な愛とか優しさとかというのを除外しても、人道的な見地を一切捨てても合理的な選択にならず、それが賞賛されることに繋がらないコトに思い至らなかったのはなぜだろう。

優生学では障碍者(それだけで無いが)を断種することで、障碍者が居なくなると考えてたコトになってる。
しかし、大きな障害があれば、子孫を残すことに不利になる。
それでも社会には一定数の障碍者がいる。そもそも先祖代々ずっと同じ障害を持ってるという事例はあんましない。まあ軽度の障害で、先祖代々みんな寒がりで…なんてのはあるが。
つまりは遺伝は無関係では無いが問題の全体では無いというのは自明だと思うのだが。

自明…つまり考えなくても分かるような明確な疑義はなぜ看過されたのか…
そういうプロパガンダや商売に不都合な問題は消されて大衆はそれに気づきもしない。
そういう系のいやな匂いがするんだが…

着床前検査 慶大不参加で研究
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4430989
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