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2017年01月18日16:54

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1月歌舞伎座(昼)吉右衛門・歌六の「沼津」ほか

17年1月歌舞伎座(昼/「将軍江戸を去る」「大津絵道成寺」「沼津」)


老舗の歌舞伎


正月の東京歌舞伎は、4座で上演している。浅草歌舞伎、国立劇場、歌舞伎座、新橋演舞場である。歌舞伎座は、老舗の本店らしい配役を確保して、ブランドを見せつける。昼の部では、吉右衛門と歌六のコンビの「沼津」が絶品だろう。国立劇場は恒例の菊五郎一座で、独自の道を行く。新橋演舞場は、澤瀉屋一門のホープだった右近が、関西歌舞伎の名跡右團次を三代目として継承、襲名披露する。華やかな舞台を展開している。かわいそうなのは、浅草歌舞伎で、軸になる御曹司の若手役者は4人きり。松也、巳之助、隼人、壱太郎である。壱太郎は歌舞伎座との掛け持ち、梅玉部屋子の梅丸が、准御曹司扱いで助っ人する。今月の浅草歌舞伎は配役難ではないのか。浅草歌舞伎座頭3年目の松也が頑張って、少数精鋭の浅草歌舞伎を引っ張っている。

歌舞伎座は、昼の部は、吉右衛門・歌六の「沼津」。染五郎・愛之助の「将軍江戸を去る」で、世話ものの名品、大政奉還百五十年記念として新歌舞伎の名作と、品揃えを誇っている。夜の部も同じ傾向で、幸四郎・玉三郎の「井伊大老」。染五郎・愛之助の「松浦の太鼓」で、新歌舞伎の名作、幕末期の時代もの名品を揃えている。来年正月の歌舞伎座の舞台で十代目松本幸四郎を襲名する染五郎のプレ襲名のスタートであろう。「将軍江戸を去る」の徳川慶喜も「松浦の太鼓」の松浦鎮信も、将軍、殿様としての品格が要求される。染五郎は、この一年でこの課題に見事な答えを出して欲しい。詳しくは、昼の部、夜の部でそれぞれ論じたい。まずは、昼の部から。


染五郎の「将軍」像


真山青果原作「将軍江戸を去る」を観るのは、6回目。科白劇の新歌舞伎作品。古典作品ではないので、定式幕を引くのではなく、緞帳が上り下がりする。

第一場「上野彰義隊の場」は、上野の山に立てこもり、血気に逸る彰義隊の面々と無血開城を目指す山岡鉄太郎(愛之助)や山岡を支援する高橋伊勢守(又五郎)らとの対立を描く。

第二場「上野大慈院の場」は、江戸・上野にある大慈院の一室で、恭順、謹慎の姿勢を示している慶喜(染五郎)の姿を紹介する。慶喜は、明朝、江戸を去り、水戸へ退隠する手筈なのだが、慶喜の心が揺れているのを心配して、やがて、無血開城派の高橋伊勢守(又五郎)、山岡鉄太郎(愛之助)が、命をかけて、開城を勧めにやって来るという場面である。鶯の鳴き声が、効果的に挿入される。政権や軍部が戦争への坂道を転げ落ち始めた時期に、「戦争ほど残酷なものはございません」などという科白を挟み込み、真山青果は性根を示している、と言えるだろう。

慶喜の外面的には見えない心理の揺れを、夕闇の中、月光に照らされて白く浮かぶ舞台上手の桜木で、うかがわせるという趣向。人事と自然の対照。だが、実は、原作の脚本には、この桜木の指定は無いという。だとすれば、何処かの時点で、代々の慶喜役者のだれかが、思いついて、桜木を置かせ、以降、定式の演出として、受け継がれてきたのかも知れない。

尊王と勤皇の違いなどを論じる「勤王の大義」論議は、真山青果らしい科白劇である。上手の一室で、心のざわめきを抑えながら読書をする慶喜。前半では、夜半に訪ねて来た山岡の姿は、舞台下手の障子に映る影と声ばかりで演出される。慶喜の科白。「将軍も裸になりたい時があるのーだ」。「のーだ」という語尾をつけた科白は、押し付けがましくて、損をしている。それも何回も繰り返される。真山青果の原作から、そのままの科白だろうか。

第三場「千住の大橋の場」は、まだ、夜明け前。舞台も薄暗い。花道を来る将軍一行の先触れの侍が持つ提灯だけが明るい。幕府崩壊の暗暁と明治維新の夜明けを繋ぐ場面だろう。短いが、「将軍江戸を去る」のハイライトの場面。揺れていた慶喜の心も、退隠で固まり、「千住大橋の袂まで」御朱引内という江戸の地を去る。駆けつけて来た山岡鉄太郎が、千住大橋に慶喜の足が掛かると、そこが、江戸の際涯(最果て、最後の地)だと注意を喚起する場面が、見せ場となる。その指摘を踏まえて、暫く江戸の地の側にとどまる最後の将軍。

さらに、それを受けて、「江戸の地よ、江戸の人よ、さらば……」という慶喜の科白に象徴される278年の幕政の終焉。「天正十八(1590)年八月朔日(ついたち)、徳川家康江戸城に入り、慶應四(1868)年四月十一日、徳川慶喜江戸の地を退く」。染五郎の科白は、明治期の劇聖と呼ばれた九代目團十郎が考案した「唄うような科白のリズム」を伝承しているという(二代目左團次、十一代目團十郎、三代目寿海などが伝えて来たとされる。大正、昭和の作品=「江戸城総攻」3部作=を1903年に亡くなっている九代目團十郎は勿論演じていない)。

私が観た慶喜役者は、團十郎(2)、梅玉、三津五郎、吉右衛門。そして、今回が染五郎。同じく、山岡鉄太郎役者は、五代目富十郎、勘九郎時代の勘三郎、橋之助、染五郎、中車、そして、今回の愛之助。

真山青果原作は、「江戸城総攻」という3部作で、大正から昭和初期に、およそ8年をかけて完成させた新作歌舞伎である。1926(大正15)年初演の第一部「江戸城総攻」(勝海舟が、山岡鉄太郎を使者に立てて、江戸城総攻めを目指して東海道駿府まで進んで来た征東軍の西郷隆盛に徳川慶喜の命乞いに行かせる)、1933(昭和8)年初演の第二部「慶喜命乞」(山岡が、西郷に会い、慶喜の助命の誓約を取り付ける)、そして1934(昭和9)年初演の第三部「将軍江戸を去る」(勝海舟が、江戸薩摩屋敷で、西郷隆盛に会い、江戸城の無血明け渡しが実現する)という構成である。江戸城の明け渡しという史実を軸に、登場人物たちの有り様(よう)を描いている。いずれも、初演時は、二代目左團次を軸にして、上演された。例えば、第三部では、左團次が、西郷吉之助と徳川慶喜の二役を演じた。

歌舞伎では、必ずしも、原作通り演出されず、例えば、第一部の「江戸城総攻」では、「その1 麹町半蔵門を望むお濠端」、「その2 江戸薩摩屋敷」という構成で、青果3部作の、第一部の第一幕と第三部の第一幕(「江戸薩摩屋敷」では、西郷吉之助と勝安房守が江戸城の無血開城を巡って会談する場面である)が、上演されることが多い。従って、第三部「将軍江戸を去る」は、一般に、第二幕「上野彰義隊」から上演される。これは、慶喜をクローズアップしようという演出で、演出担当は、真山青果の娘、真山美保である。今回も、第一場「上野彰義隊の場」、第二場「上野大慈院の場」、「千住の大橋の場」という構成である。

この芝居では、「生まれいずる日本」とか、「新しい日本」とかいう科白が、何回か登場する。大正から昭和初期の時代に、このままの科白が舞台で使われたのだろうか。実際の日本は、「将軍江戸を去る」が、1934(昭和9)年に初演された2年後、1936(昭和11)年2月には、「二二六事件」が発生し、軍部の政治支配が強まって行き、1945(昭和20)年の敗戦に向けて、「古い日本」は、国際連盟から脱退するなど、国際社会のなかで転げ落ちて行く。「新しい日本」が、誕生するのは、この芝居が初演されてから、10年余も待たなければならない。真山青果は、そういう時世をどう見て、こういう科白を書き付けたのだろうか。今の世相と絡めて、考えさせられる芝居である。

半藤一利が指摘するように、「国家の危険な歩みに対して、警鐘を鳴らしたのかもしれない」。あるいは、軍部も、(英米)列強による日本の蹂躙の危機に抵抗するという方にウエイトを置いて、枢軸側として、これらの科白を良しとしたのだろうか。「勤王の大義」に、天皇主義の軍部も許容したのだろうか。これらの科白は、素直に聞けば、ベースにあるのは、「新しい日本宣言」であろう。したたかな、壮年期の青果劇の科白廻しは、時代をかいくぐっても、錆び付かなかったということであろうか。


愛之助五変化


「大津絵道成寺 愛之助五変化」。「大津絵道成寺」は、2回目。前回は、坂田藤十郎。大津絵というのは、元々は、滋賀県大津の三井寺(みいでら)付近で売られた、土地の名産品だった仏教画。無名の工人(通称「吃又」の芝居でも、大津絵を描いて糊口を凌ぐという件(くだり)があった)の手で、絵の巧さよりも、おもしろさを追求して、絵柄や図案のバリエーションが、どんどん増えて行った。大津絵は大衆化するに連れて、当初の宗教色が薄れて行き、独特のタッチで描かれた、ちょっとおもしろい、子どものお土産用の絵というニュアンスになった。荒唐無稽で、シュールな感じもするが、そういうところは、歌舞伎味にも通じる。

「大津絵道成寺」は、この大津絵をモチーフに次々衣装を変えながら踊る変化舞踊。「大津絵もの」と呼ばれる所作事のひとつ。舞台上手の柱に「大津絵道成寺」、下手の柱に「片岡愛之助五役早替わりにて相勤め申し候」と書いた看板が掛かっている。大津絵の中の人物や動物が、絵から抜け出して、踊るという趣向。

「大津絵道成寺」は、河竹黙阿弥作詞の「名大津画劇交張(なにおおつえりようざのまぜはり)」で、1871(明治4)年、守田座・市村座の合同興行で、初演された。「京鹿子娘道成寺」を下敷きにしているが、清姫の安珍に対する恋の怨念がある「京鹿子娘道成寺」の、いわば、重構造の舞踊劇に比べると、三井寺の鐘供養のお祝いに、大津絵のキャラクターとして知られる、さまざまな人物を登場させて、「変化」のバリエーションを増やすというやり方の舞踊で、単純な構造の上、ちょっと、落ち着きが無い。女形の舞踊劇の「勧進帳」とも言うべき大曲「京鹿子娘道成寺」と比べるのは、酷かもしれないが、まあ、敢えて、比べると、それは、ちょうど、江戸時代の高級化していった「錦絵」と、庶民の、子ども用の、お土産的な位置づけの「大津絵」という比喩が、適切かもしれない。

大津は、江戸から、琵琶湖の周囲を廻って、京に上ろうとしたら、通る街道筋で、旅の客が多い土地柄だけに、大津絵は、大津ブランドの、安価な「お土産品」的色彩が濃くなった。江戸時代の庶民には、「大津絵」はかなり馴染みが深いもので、どの家にも、一枚くらいは、「大津絵」があり、屏風の破れたところなどに貼ってあったりした。歌舞伎の舞台にも、まさに、そういう使い方で、衝立に張ってあったりする。舞踊劇の「藤娘」は、大津絵のなかでも、著名なキャラクターの藤娘がモデルになった演目である。

「道成寺もの」らしく、幕が開くと、紅白の段幕、大きな釣り鐘。花道から、「聞いたか坊主」同様に、「聞いたか、聞いたか」という科白とともに、外方(げほう。吉之丞)と4人の唐子たち(女形)、それになぜか末尾に鯰がいる一行が登場する。鐘供養と、花見。大津絵のキャラクターの雷や鬼に供養の庭を荒らされぬよう禁制にしたと噂している。鬼は、手足の指が、3本しか無い。「一枝を切らば一指を伐るべし」と掟の札を建てたと外方。「熊谷陣屋」の科白が出て来る。一行が、本舞台に勢揃いすると、道具方が、下手より、枝折戸を持って出て来る。

ドロドロで、大津絵から抜け出して来た藤娘(愛之助)が、花道のスッポンから現れる赤地に大きな藤の花が描かれている。黒塗りの笠を被り、藤の小枝を持っている。藤娘も、本舞台へ、「弁慶の鐘供養があるというので、拝ませてほしい」という。枝折戸を挟んで、外方一行とやり合う。人間か、鬼か。指が、5本あれば、通すが、3本ならば、通さないなどと問答。

唐子たちの「きなこ餅、きなこ餅」で、「きな(来な)こ(こっちへ)」というわけで、唐子が枝折戸を開けて、三井寺の境内に娘を入れてくれる。藤娘が入ると、枝折戸は、道具方が、さっさと、片付けてしまう。役者を助ける後見たちは、野郎頭の鬘をつけているが、紋付に袴。裃は、無し。

段幕が上がると、正面雛壇に長唄連中。下手は、常磐津連中。上手は、外方、鯰と緋毛氈の上に、唐子たち。舞台中央の背景は、琵琶湖の遠見となる。「鐘供養 當山」の立て札。上手下手には、桜の中に松。

愛之助の早替わりの様子を示すと、……。長唄「花の外には松ばかり……」。
ひと差し舞った藤娘は、風音(ドロドロ)で、正面中央の桜の木のところで、盆廻しに乗ったように廻って、桜木の陰に、消える。やがて、下手より白い鷹が飛んで来る。黒衣が差し金で操っている。皆で、鷹を捕らえようとしながら、上手へ。

花道より、紫色の衣装を着た若衆姿の鷹匠が、やって来る。鷹匠は、鷹を追って、附け打ちにあわせて、上手へ。上手より、斑模様の衣装を着た犬(種之助)登場。犬と交代。暫く犬も一働き。

続いて、上手常磐津の山大の後ろから愛之助早替わりの座頭が飛び出し山台をまたぐようにして降りてくる。座頭と犬の絡みの後、座頭は、下手御簾内の中へ、狐忠信のように、飛び込んで行く。

犬の振りの後、上手より、藤十郎早替わりの藤娘。藤色の衣装に替わり、藤の花の簪を付けている。長唄「恋の手習いつい見習いて、誰に見しょとて紅鉄漿つきょぞ、みんな主への心中立て……」。長唄、常磐津のかけあい。雷(太鼓の音)が鳴り、藤娘は、下手に入る。

花道から、船頭が登場。傘を差して、首抜きの衣装、顔を隠している。顔だけ見せた藤娘の愛之助が茣蓙(ござ)で上半身と布で髪を隠したまま、花道七三で、歌舞伎独特の定式の早替わりで傘を差した船頭姿(吹き替え)と入れ替わる。本舞台に上がると傘を置いて、船頭は上手へ。すぐに出てきた船頭は暫く後ろ姿のまま舞台で踊っている。その後、下手へ。同じ傘を持った愛之助早替わりの船頭が上手から出て来て、顔を見せる。花道に登場したのは、吹き替えだった、と判る。

また、雷の音。上手より、外方、鯰、唐子の一行。入れ違いに、船頭は、上手へ消える。雨と雷に祟られた花見。一行は、しんどそうに花道へ入る。

上手より、早替わりで藤娘になった愛之助登場。クリーム色の衣装に、藤の花笠。長唄「面白の四季の眺めや、三国一の富士の山……」で、山尽くし。途中で、衣装引き抜き。青地の衣装。鈴太鼓を持つ。長唄「園に色よく……」。やがて、鐘の方を気にし出したら、藤娘は、鐘の下に立ち、鐘の中に入る。鐘の後ろに、紅白の幕。とにかく、早替わりの連続。めまぐるしいほど。

三つ太鼓で、花道より、弁慶(歌昇)と8人の槍奴らが登場。坊主鬘に縄の鉢巻き。厚綿のどてら。七つ道具を入れた駕篭を背負い、槍持ちの大勢の奴を従えている。槍奴たちによる近江八景の「トウづくし」で、時事ネタも入れ込んで客席から笑いを誘う。

弁慶供養の三井寺の鐘が、家鳴りを生じて落ちたという。弁慶の祈りと奴たちの綱引きで、化粧声のうちに、鐘が、再び持ち上がると、鐘の中から藤娘の、後ジテ、大津絵の鬼(愛之助)黒い衣装にきんきらの被衣を冠って現れる。奴たちと立ち回りで、下手へ。

押戻しの鳴物。花道から、矢の根五郎(染五郎)が、大津絵の拵えで、鏑矢を持って、登場。花道七三で、鬼を止める。鬼は、五郎と弁慶に挟まれる。鬼は、右手に撞木、左手の奉賀帳。五つ頭の見得。鬼は本舞台へ押し戻される。五郎と鬼の対抗。

片シャギリ。槍奴の化粧声。上手から、五郎(染五郎)、鬼(愛之助)、弁慶(歌昇)。やがて、鬼は、二段に上がり、腕を左右に拡げて、柝の頭。打上げの見得。まあ、ケレンの舞踊劇。本場の「京鹿子娘道成寺」には、及ばない。


絶品の吉右衛門と歌六のコンビ


「伊賀越道中双六〜沼津〜」は、基本的に敵(かたき)討ちの物語で、生き別れのままの家族が、知らず知らずに敵と味方に分かれているという悲劇だが、それよりも、伏流として、行方の判らなかった実の親子の出会いと、親子の名乗りの直後の死別、その父と子の情愛(特に、父親の情が濃い)という場面があり、これが、時空を超えて、いまも、観客の胸に迫って来る演目である。ベースとなる敵討ちは、史実にある、日本三大敵討ちの一つと言われる、荒木又右衛門の「伊賀上野鍵屋辻の仇(あだ)討」のことである。1783(天明3)年、大坂竹本座での初演。近松半二の最後の作品。伊賀上野の仇(あだ)討」を軸に、東海道を「双六」のように、西へ西へと旅をするので、こういう外題となった。

「沼津」は、くだけた「世話」場で、上方味の科白のやりとりで、客席を和ませる。志津馬の仇の沢井家に出入りしている商人・呉服屋十兵衛(吉右衛門)と怪我をした志津馬を介抱する、かつての傾城・瀬川こと、お米(雀右衛門)の父親・雲助の平作(歌六)が、たっぷり、上方歌舞伎を演じてくれる。特に、歌六は老人の腰つき、足取りなど、細かな藝を積み重ねるようにしながら熱演していた。

十兵衛は、実は、養子に出した平作の息子の平三郎ということだが、前半は、小金を持った旅の途中の商人としがない雲助(荷物持ち)という関係で、途中から、親子だと言うことが判っても、「敵同士の関係」ということから、お互いに、親子の名乗りが出来ないまま、芝居が、進行する。行方の判らなかった実の親子の出会いと、親子の名乗りをした直後の死別(自害)、その父と子の情愛(特に、父親の情が濃い)という場面では、平作役者は、娘の恋人・志津馬のために、仇の股五郎の居所を聞き出すために、己の命を懸けてまで、誠実であろうとする。

十兵衛は、そういう命を懸けた平作の行為に父親の娘への情愛を悟り(自分の妹への情愛も自覚し)、沢井家に出入りする商人でありながら、薮陰にいる妹のお米らにも聞こえるように股五郎の行く先を教える。雨降りの場面。死に行く父親に笠を差しかけながら息子は、きっぱりと言う。(股五郎が)「落ち着く先は、九州相良あ」。

最後は、親子の情愛が勝り、「親子一世の逢い初めの逢い納め」で、親子の名乗り。父は死に、兄は渡世を裏切り、妹は兄に詫びる。3人合掌のうちに、幕。「七十になって雲助が、肩にかなわぬ重荷を持」ったが故に、別れ別れだった親子の名乗り。古風な人情噺の大団円。

この平作役者が、昨今の歌舞伎界では、実は、人材不足である。私が観た「沼津」は、6回。平作は、歌六(今回含め、2)、富十郎、勘九郎時代の勘三郎、我當、翫雀。因みに、十兵衛は、吉右衛門(今回含め、3)、鴈治郎時代を含め藤十郎(2)、仁左衛門。十兵衛は、上方訛りの科白廻しで仁左衛門がダントツ。平作は、やはり上方訛りの科白廻しで、我當が断然良い。ただし、私は残念ながら、仁左衛門と我當のコンビでは生の舞台を観ていない。吉右衛門と歌六のコンビは、今回含め、2回観ている。仁左衛門らの科白とは、味わいが違うが、このコンビの科白廻しも良い。

贅言;吉右衛門の科白廻しは、現在に歌舞伎役者の中で、特徴がある。重々しい声、独特の息のつき方が、思い入れをたっぷりしも込ませて、「名調子」と呼ばれる科白廻しになっている。初代の科白廻しを研究し、少しでも、似せようとしているのだろう。時代物の中の世話物である「沼津」最大の見せ場、聞かせどころでは、「落ち着く先は、九州相良あー」。大向うから「名調子」という声が掛かっていたことがある。吉右衛門の場合、声だけ聞いていても、「ああ、吉右衛門だな」と判る辺りが、この人の魅力である。仁左衛門の科白廻しは、吉右衛門のような「名調子」とは、また、味わいが違う。上方訛りが本物である。「荒川の佐吉」は、世話物の新作歌舞伎の科白廻し。「時代世話」とも、違うし、播磨屋調の初代二代の科白廻しとも違うが、これはこれで、堅気の大工からやくざの親分に成長して行く男の、颯爽としていて、それでいて、辛い「子別れ」を踏まえて、新しい世界へ旅立って行く男の気持ちを表現する、気持ちのよい科白廻しだ。例えば、「俺が、育てた卯之吉でえー。嫌だ、嫌だあー」、「そりゃ、おめえー。別れたくねえなあー」など。吉右衛門、仁左衛門、それぞれの科白廻しには、それぞれの味わいがある。

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