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2016年07月31日22:36

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今日の『真田丸』

長々とこの日記を書いて、「送信」ボタンを押す直前に突然パソコンがダウン。
40分近くかけて書いた内容が一瞬にして煙の如く消えてしまいました。

気を取り直して、もう一度書きます。
やはり長文の場合はブラウザに直接入力ではなく、ワードがメモ帳で保存しながら書いて、完成したらコピペする方がよさそうですね。
今もメモ帳にとりあえず書いています。
と、思いきや、再起動後に再度ブラウザを立ち上げて履歴からmixiの「日記を書く」のページに戻ってみたら……なんとパソコン再起動後にかかわらずパソコンのダウン前に描いた内容がそのまま残っていました!
mixiのページって1回パソコンをシャットダウンして再起動しても、前に書いた送信前の内容が残ってるんですね。感激!


今日は先週の慶長伏見大地震の続きからスタートという感じでした。

この時に崩壊した最初の伏見城は今のJP奈良線の桃山駅の南、京阪宇治線の観月橋駅の東に、宇治川に臨む形で造られていました。
幕末の鳥羽伏見の戦いの時点で新選組が入っていた伏見奉行所の南すぐの所で、鳥羽伏見の戦いの激戦地からもすぐそばの場所です。
今でも地図を見れば分かる通り、全くの平城でした。
宇治川をはさんで南には向島城があり、二つの城を結ぶ橋として秀吉によってかけられたのが豊後橋で、秀吉の命で実際にこの橋の普請をしたのが豊後の大名で、あの大友宗麟の子である大友義統であったためその名がついたといいます。
この橋は橋全体に屋根が付いていたといいますが鳥羽伏見の戦いで焼失、明治になってかけかえられた時点で、この地で行われた秀吉の観月の宴にちなんで観月橋と名付けられ、それが今の京阪の駅名になっているようです。
その向島城の南には、かつては巨椋池(おぐらいけ)という、かなり巨大な池がありました。
ほとんど湖と呼んでもいいくらいの池だったそうですが、今は完全に干拓されて住宅街となり、全く面影はありません。
平安時代の鳥羽離宮は、この巨椋池に臨んで造られていたようです。
巨椋池の形も宇治川の流れも、秀吉の伏見城築城のための土木工事によってかなり形や位置が変わったようです。

先週、真田昌幸が木幡山に出城と言っていましたが、この大地震で旧伏見錠が倒壊したために再建された伏見城は、同じ場所ではなく約1キロ離れた木幡山にでした。
昌幸が木幡山に出城を築くと言った時点で、実はこの地震の後にその木幡山にこそ伏見城が築かれるのだということは知っていましたが、それを書くとネタばれになると思って先週はあえて書きませんでした。
その木幡山が江戸時代になってから山全体に桃の木が植えられたことによって桃山と呼ばれたので、信長と秀吉の時代を「安土桃山時代」というのです。
新しい伏見城の本丸の跡地には、のちに明治天皇の御陵が造られました。桃山御陵です。
従って、秀吉終焉の地である伏見城本丸跡には、現在は立ち入ることはできません。

もしあの大地震がなかったら、「安土桃山時代」という時代名にはならなかったかもしれません。

今では同じ山の適当なところに桃山城という名称の模擬天守が造られており、かつてはこの周りに遊園地がありましたが今では閉園となって運動公園になっています。
模擬天守は映画などで大坂城として使用されたこともありましたが、遊園地のキャッスルランド閉園時に取り壊しの話もあったそうです。でも何とか残されました。昔は入館料を払えば中に入ることもできて、私も最上階まで上った記憶があります。
しかし、その後に耐震基準を満たしていないとかで中への立ち入り気が禁止となったと聞きましたが、今でもそうなのでしょうか?

今回話題に出たサン・フェリペ号事件ですが、この脚本ではなぜサン・フェリペ号の積み荷ほしさにキリシタン処刑となるのか全然伝わらなかったと思います。
一説によると、サン・フェリペ号の船員がキリスト教布教はイスパニアの日本侵略の下準備であるようなことを口を滑らせたために、それが秀吉の怒りを買ったともいいます。
また、処刑された宣教師はすべて最初に日本に来たイエズス会とは敵対関係とまではいかないけれど互いにライバル視していたフランシスコ会の司祭ばかりであったためにイエズス会の陰謀説もあります。
ところが処刑された日本人信徒の中にはイエズス会士も3人ほどいました。
さらには、ポルトガル人がサン・フェリペ号に日本侵攻の野望があったと告げ口したという説もあります。
イスパニアとポルトガルは何かと拮抗し、地球を二分してそれぞれの縄張りを決める条約まで結んでいたので、かつてはイスパニア人は日本に来ることができませんでした。
しかし1580年、イスパニアはポルトガルを併合したのです(その事実が日本にいるポルトガル商人やイエズス会宣教師らに知らされたのは1582年5月)。
これはあくまでイスパニア王がポルトガル王を兼ねる、つまりそれぞれ独立したままだが共通の王を戴くという同君連合ではありましたが実質上は吸収合併に近く、ポルトガルがイスパニアから独立するのは1640年のことです。
当然、縄張り協定ともいえるイスパニアとポルトガルのトルデシリャス条約やサラゴサ条約は反故になり、イスパニア人もフィリピン経由でどんどん日本に来るようになりました。
それはポルトガル人にとってはおもしろくないことだったでしょう。
だから、ポルトガル人がイスパニア人を陥れようとした結果の秀吉による処刑だという説もあります。
今日のシーンでわくさが言っていたディアゴとはキリスト教のの祭壇職人備前屋喜左衛門のことだと思いますが、パウロはこの事件で処刑された日本人のうちその霊名を持つ人は3人いるので誰のことかは分かりません。
いちばん有名なのはパウロ三木です。
いずれにせよサン・フェリペ号事件とこのキリシタン処刑との関連については諸説あっていまだ定説はない状態です。
この秀吉による処刑はのちに長崎の二十六聖人殉教として有名で、その殉教の地に立つ教会は長崎駅からも近く、二十六聖人像とともに資料館もあって、観光名所になっています。
日本では幕末に当たる1862年、ローマ教皇ピウス9世によってこの26人全員が聖人とされたので、「二十六聖人」というのです。
いずれにせよ、秀吉のバテレン追放令は禁教令ではなくただの宣教師の追放令であって、それもまた不徹底で多くの宣教師は黙認の形で布教を続けていましたし、日本人のキリスト教信仰自体は禁止していなかったのですが、この事件により日本における日本人信徒への大々的な迫害の歴史が始まりました。(仏教の信仰熱心な大名による領国内ので小さな迫害はこれまでもありましたが……)


さて、いよいよ秀吉の死も間近です。
それにしても、先週も書きましたけれど、どう見てもあれは80代のおじいさんですね。
実際の秀吉はまだ60歳だったのに……。

醍醐の花見ですが、花見が行われたのは醍醐寺の山門よりも手前にある三宝院という新しいお寺でであって、醍醐寺の塔頭(たっちゅう)のひとつであり、醍醐寺そのものではありません。
もちろん広義では三宝院も含めて「醍醐寺」といえますが、三宝院は秀吉の時代にできた新しいお寺です。
(以前も三宝院という塔頭はありましたが、応仁の乱で荒廃し、廃寺になっていました)
本当の平安朝以来の醍醐寺は三宝院の門前を素通りして奥に行くと山門があり、今でも金堂があります。
さらにはその背後にある醍醐山全体が寺の境内で、山頂には奥の院があります。
ところで、この醍醐の花見は、詳細はあまり史料がなくてよく分かっていないようですが、この花見に関してある歴史学者が「小説家はうらやましい」と発言したということを耳にしました。
史料がない以上歴史学者は口をつぐまなければならないが、小説家はそれを事細かに書き著して再現してしまうからだそうです。
かつての大河ドラマ「秀吉」ではこの醍醐の花見がラストシーンでした。
その時に秀吉を演じた竹中直人さんは「ぜひ死ぬところまで演じたかった」と言いましたが、その願いは「軍師官兵衛」で実現することになりました。

ということで、今日はここまでといたします。
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