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2016年07月17日22:10

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今日の『真田丸』

いやあ、驚きました。

これまでのドラマはすべて秀次は秀吉によってまず高野山に押し込められて出家させられ、やはり秀吉の命令で切腹させられたというものばかりでした。

今回のように命じられたわけでもなく自らの意志で切腹した(つまりは自殺ですよね)というのは、初めてです。

もっとも、秀次事件に関しては本能寺の変と同じくらいさまざまな諸説があって、はっきりとした「定説」はない状態です。
実際に謀反を企てていたという説や、謀反の事実は全くなくすべてが濡れ衣であったといいう説やいろいろあるのですが、このドラマでは早い話秀次の「被害妄想説」ということになりましょうね。
被害妄想の末に追いつめられて、いや、自分で自分を追いつめて自殺したという筋書きです。
すべては誤解とストレスから生じた悲劇ということになります。

このドラマの筋書きは、諸説ある中で、いちばん現代でも起こりうる悲劇という感じですね。
それ以外の説は当時の特殊な時代背景がありますから。

しかし、信繁の母親、何がバリバリお菓子を食べながらしゃべって「私の中のみやびな心」ですか!(笑)

彼女が菊亭晴季の娘というのは、一応史料上存在する説なのですが、専門家の間では無理があるということでほとんど信じられていません。
このドラマではその無理がある説を、本人のでっち上げという設定にして紹介しましたね。
実は秀吉にもある貴族の落胤説もあるのですが、それも「江〜姫たちの戦国〜」では秀吉がでっち上げたことという設定で、秀吉の母親に「よくもまあそんなでたらめを思いつくもんじゃ」と一笑に付されています。

秀次の娘のたかが出てきたとき、「ああ、この子も殺されて三条河原にさらされるのか」と憐れみの目で見ていたのですが、そうはならなかった。
でも実はキリシタンで、ルソン(フィリピン)に渡ったという説は本当にあるのでしょうか?
あるいはこのドラマでのフィクションの設定?
もしルソンへ行ったのが本当ならば、最後の「紀行」で紹介していたように信繁の娘を産むことはできないですよね。
あるいはすぐに戻ってきたのかな?
大坂の陣の直前に信繁とともに大阪城に入場したという説もありますから。
晩年は隆清院と名乗っていたようで、けっこう江戸時代まで長生きしているようです。
それと、この時秀次の娘で助かったのはたかだけではなく、その姉と二人が助かったという説もありますね。

私は信繁が秀吉に「春を正室に迎え、もう一人側室に」と言ったとき、てっきりきりのことかと思いました。
そしたら、違った。


このドラマではあくまで命を助けるための策ということになっていますが、本当に側室になったと思わせる史料もあり、真実は闇の中です。

さて、呂宋助左衛門、出てきましたけれど、前に心配した通り、やはり今の松本幸四郎さんでは老けすぎています。
助左衛門が老人になって出てきてますから、知らない人がこれを見たら、呂宋助左衛門という一人の老人が出てきたと思ってしまうでしょうね。
前にも書いたとおり、実際の呂宋助左衛門はこの時点ではまだ30歳ですよ。
この年に28歳の真田信繁とほぼ同世代です。
「黄金の日日」の時は松本幸四郎さん(当時は市川染五郎)も30代。実年齢と役中年齢がびたっと一致していたんですけどね。

ところで、今日はじめて面白い事実を知りました。
信繁の父の真田昌幸役の草刈正雄さん、なんと以前真田信繁を演じていたことがあるんですね。
もしかしたら配役が決まった時にニュースとかで出ていたかもしれないけれど、自分は見ていなかったので、今日の今日まで知りませんでした。
1985年にNHKで水曜8時にやっていた「真田太平記」で源次郎信繁を演じていたのが草刈正雄さんだったなんて、初めて知って驚きでした。
そしてそのドラマで昌幸は丹波哲郎さんだったとか。
なにしろその頃はまだ生まれてなかったので知りませんでした。
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