mixiユーザー(id:1673188)

2016年02月22日13:50

236 view

有事の際には

日清戦争以降、「事」あるごとに民間船舶は軍に徴用されてきたワケだけれども実際のトコロ、船だけあってもしょうがないので、乗組員ごと軍務にあたり…軍属という立場もあったが船長とか航海士とかは士官に、それ以外は下士官として水兵になっちゃったりしてた。操船する技術においては、そんなに経験が多いわけではない軍人よりも遙かに優れていたし、実際問題としてそうした優秀な民間の船乗りの協力は必須であったという。特に外国航路の長距離の貨物、客船の「長」のつくような人々はかなりな待遇で海軍士官となっている。
ただ当時は挙国一致とかいうふうに反論を許さないと言うよりは疑問を感じないというのが世間の常識だったから、「予め」法整備がされてたかどうかは判らない。

現在だって、実際何か「事」が生じたら、国民は全員パニックになって何でも軍や政府の言うコトを鵜呑みにして言うとおりにしてしまうんではないかな。百年前からずっと変わらずに。そういう意味でここで戦争しないとか準備だけしとくとかいろいろ互いに目を三角にして議論しているのは無駄なような気がするのである。

戦争は、主に物資の量によって決する。故に補給艦、物資と人員の輸送能力が勝敗を決する。
第二次世界大戦の開戦時、日本は世界第三位の海運国であった。局地戦においては負けるわけが無かったのである。それは軍備のせいでは無く、海運力の問題である。
範囲を広くしすぎたか、作戦が下手だったか。ともあれ補給船団はことごとく沈められた。
海軍軍人も多く死んだが、その中や或いは軍属として、海運に携わった人々はなんの武装も支援も無いまま海に沈んでいった。

横浜の氷川丸の近くに日本郵船歴史博物館がある。この建物はかつての本社ビルであった。
そこには日本が海運国としてあった時代から、戦争で多くの船と乗組員が失われた時代へと多くの資料が展示されている。
亡母が戦時中の3年だけ日本郵船に勤めてたという記録が厚生年金の記録として残ってた。
話を聞くと、空襲警報が出ると書棚の重要書類を風呂敷に包んで防空壕まで持ってゆき、警報が解除されると戻って棚に並べ直す。と言うのが主な仕事だったという。(-_-)船籍簿とか…
大体、当時の日本郵船はほとんど全ての船舶を徴用されてたから実務は無かったし、男は全部…つまり陸上業務でも軍の実務に有用であるため、老人に至るまで軍属として徴用されてて誰もいなかったそうで実質それしかやることは無かったのであろう。
そもそも母がそこに勤めたのは、親戚に郵船の上の方の関係者が居たからなんだが、そっち方面から聴く話も鬱々たるものである。
おそらくは海運関係者は総じて、こんなコトは二度とあってはならないと固く誓っていると思う。

話は変わるが、スイスの郵便局には標準武装があるそうだ。有事の際、スイスの郵便局はその組織を保ったまま軍に編入される。そういう組織はいろいろあって、家庭にも成人した男の数だけ銃が保管されている。徴兵されてた時のままの装備なので、爺さんのは相当に旧いようだが。
年老いて予備役から外されると返納する。

日本は戦争に負けて軍人は黙してしまった。
それ故、戦争へ至る道から、その結果に至るまで国民は自分の立ち位置を被害者の席にしかおいていない。
反省という言葉は口にするが、本当に国が戦争に至った経緯の部分も含めて当事者として考えていただろうか。

平和を求めるには、かつての軍人にも語らせるべきなのかもしれない。もうかなりギリギリだが。
リアルに戦争の当事者として考えなければ、どういうカタチでも平和を維持することはできないと思うのである。




■「予備自衛官化」構想で反発、戦時の船員の歴史とは? 神戸大博物館が展示
(THE PAGE - 02月21日 14:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=3862243
4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する