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2013年09月15日11:54

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品質管理

先進国における産業主体と言うのは漸次的に変化していくもので、家内制手工業や農業といった地場産業から脱皮し、大規模工業化することによって生産能力を上げて産業を大きく発展させます。モノづくり大国などと言われるのがこの段階で、その後、労働集約型の工業生産が新興国の台頭とともに優位性を失うと、産業を管理する側に回るようになります。いわゆる金融大国へと移行するのです。イギリスやアメリカがまさしくそうです。
金融とは単にお金を融通することではありません。そのお金が付随する産業の最大効率化を目指す管理機能、つまり経済活動の要のことを指すのです。今年は豊作だからといって、売れもしない作物を無駄に生産するのではお金になりません。最も利益が出るよう生産計画を建てさせ、それに見合った投資を行い必要とあらば生産しないことも選択肢とさせるのが金融の(隠れた)役割です。金融大国になるということは、そういうモノづくりをコントロールする側に立つということなのです。

日本はアメリカを見習い、これまでの「モノづくり日本」から「金融日本」へと舵を取ろうとしています。それはどういうことか。単にトヨタやソニーといった製造企業が衰退して表舞台から消え去り、投資銀行や知的財産の管理業のような企業ばかりになるということではありません。モノづくり企業であっても、その大事にするところ、根本哲学が変わっていくということなのです。一つの言葉を例に上げて説明してみましょう。

「品質管理」という言葉があります。JIS(日本工業規格)によればそれは「買手の要求に合った品質の品物又はサービスを経済的に作り出すための手段の体系」ということです。これは決して「より良い品質の製品を作るための技術」のことではないのです。
具体的に言えば、ある製品を作る上で一定の歩留まりが出る。そこで歩留まりを限りなくゼロに近づけるべく、製造工程をシビアに構築していく。それが「品質管理」ではないのです。その構築にかかるコストが歩留まりで出るロスを上回ってしまったら、それは管理とは言えなくなるからです。「手段の体系」とは製造プロセスだけを指すのではありません。製品の引き渡し後も含まれます。1000個に1個不良品が出てしまうラインがあるとして、それをゼロにするラインを構築するためには莫大な設備投資が必要だとしたら、ラインには手を付けず製品を不良品ごと引き渡し(つまり製品の品質はそのままにして)、リコールセンターを作ってその1個の不良品の無償交換をする方策を検討するのが正しい「品質管理」なのです。全く不良品の出ない完璧なラインのために製品価格が何倍にも膨れ上がってしまうより、安くてある程度信頼性があり、不良品に対しても迅速に対応してくれるという方が顧客にとっても望ましいのです。それが「買い手の要求に合った品質」ということなのです。
もう一つ例を上げれば、1リットルの牛乳パックを作る工場で、気温や機械の精度の関係でどうしてもプラマイ5ccの誤差が出てしまうとします。1リットルと表示して995ccしか入っていなかったらクレームが来てしまいます。その対処として、ピッタリ1リットルになるように機械を微調整したり、気温や湿度を管理したりすることに腐心して労働力や設備を投入するのではなく、全てのパックを1,005cc入りにするのが「品質管理」なのです。誰も1,010cc入っている1リットルパックに文句を言う人はいませんから。
品質管理のプロというのは、生産現場を隅々までチェックし、そこで出る無駄は極力減らしながらも、その上で製造からサービスまでを数値化して体系的に検討し、最大の経済効果を得られるよう最適化する人のことをいいます。実際に製造に携わり、職人のこだわりで製品をより良いものに、欠陥品をひとつも出さないように努力する人のことではないのです。

しかしかつての日本の「品質管理」はそうではありませんでした。トヨタのカイゼンをはじめとする「QC(クオリティコントロール)活動」(品質管理の手法を具体化したそれぞれの現場の活動のこと)はまさしく不良品ゼロを目指すものだったのです。製造現場のQC活動は自分たちの影響を及ぼせる範囲でしか構築し得ませんから、必然製造過程に対して厳格なものになります。経済活動全体のシステムでバランスをとるといった小手先のソリューションは選びません。トヨタが世界的品質管理システムであるISOを採用していないのは、そうした現場からボトムアップで作られた自分たちのオリジナルのQC管理システムの方がはるかに厳格なものだという自負があるからです。

以前NHKで「プロジェクトX」という日本のモノづくりを支えた無名の技術者をクローズアップして大ヒットした番組がありましたが、彼らには「よい良いものを作ろう。そうすればきっと認められるはずだ。」という一貫した信念がありました。彼らは現場でモノづくりをする当事者で、そうした彼らの思いが「モノづくり日本」を形成した原動力であり、またそうした現場を優先する企業思想がかつての日本には確実にあったのです。経営者は経営的には問題でも、彼ら作り手の思いを尊重し、物自体の品質向上を優先したのです。それが結果的には、より良いもの、より良い生活を求める当時の世相にマッチしたのです。
しかし、今は残念ながらそうした考えは牧歌的な理想主義にしか映りません。もはや高度成長期は終わってしまい、誰もが同じような豊かさを求める時代ではなくなったのです。その多様化は良い物は必ず売れるという原則さえ無効にしてしまいました。「プロジェクトX」で主婦の家事労働を緩和させるべく炊飯器を生み出した技術者が取り上げられていましたが、今は土鍋で一回一回ご飯を炊くスローフードがもてはやされたりしているのです。

そんな時代の流れを受けて、企業は現場のモノづくりへのこだわりより、全体の経済活動を見据えた「品質管理」を採用するようになったのです。これが「モノづくり日本」から「金融日本」への変化ということなのです。

現実のフェーズで見てみれば、例えばこれまでモノづくりの不文律として「値段を下げる努力をする前に、同じ価格で質を上げるべき」という考えがありました。この考えのもと、携帯電話では同じ価格帯のままいろいろな機能を盛り込んだ便利なもの、質の高いものを作っていきましたが、それは今では日本だけでしか売れないガラパゴス携帯と揶揄され消えていく運命にあります。世界市場では、機能が少なく壊れてもすぐに補修が効く、あるいは買い換えられる安価な携帯電話が選ばれたのです。パソコンも同じような動きをしています。なぜこのような現象が起きるかというと、技術がある程度飽和状態になった上、市場がグローバル化され、経済のバランスが必ずしも先進国寄りではなくなったため、求める品質の内実が変化したからです。こうした動きを「リバース・イノベーション」と言うそうです。イノベーション(革新的技術)とは必ずしも技術先進国で生み出されるものではなく、技術は低くても大きなニーズにマッチングすることで生み出されることもあるということです。「質は多少落ちても、とにかく安上がりに作る技術を確立し大量供給する」こと(つまり先の不文律の逆)を第一義にして作られた製品が、発展途上国のみならず先進国においても受け入れられる現象がおきています。しかもそれは安いから受け入れられるのではなく、シンプルでわかりやすく万人が共有できるという機能に対する共感によるものなのです。これは質に対する考え自体がグローバル化したことによってもたらされたものです。つまり品質に対する価値観が技術後進国より逆輸入されているのです。先に上げたスローフードもそのひとつと言っていいでしょう。

こうした動きを受けて、モノづくり産業も根本的変革を求められています。技術力や高機能で勝負するのではなく、サービスを含むシステム全体、ひいてはグローバル社会全体を見据えたバランスのとれた製造を行うべき、との考えへ。つまり「品質管理」であり「金融化」です。
今でも4Kだ8Kだと、映像の質を上げれば製品が売れるようになるはずだと信じている日本の電機メーカーがありますが、そんな企業の屋台骨を支えているのが、実は傍らで始めた銀行や保険事業だったりします。そんなところを見ていても、日本がモノづくりから金融へシフトチェンジした現実が伺えます。

職人のモノづくりへのこだわりより、金の損得計算の方が優先される社会になるのか、と嘆く向きもあるかもしれません。しかしそんな落胆は当たらないでしょう。産業の主体が代わるというのは、その国で一番稼げる花型がそれになるというだけのことです。モノづくりにこだわりがあるならそれを続ければいい。それによって人並み以下の生活しかできなくなるかもしれませんが、そうした人並みとか裕福な生活という価値観そのものが、もはや時代遅れになろうとしているのですから。
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