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2010年01月04日15:06

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二種類の鑑賞法

昨日の『情熱大陸』はピアニスト アリス=紗良・オット。
http://www.mbs.jp/jounetsu/2010/01_03.shtml
そのコンポーザーとの打ち合わせのような練習の最中に、コンポーザーがカメラはここまでと取材を遮った。
「これ以上見せられないのはどうしてか。見せられない部分とは何なのか」とのディレクターの問いにそのコンポーザーは「そもそも全てが秘密なのです。17,18世紀ではリハーサルは一切部外秘だったのです」と答えていた。

なるほどと思った。

発表されるものの価値は、それがいかに日常性や凡百の思考や技術からかけ離れているかで測られる。
発表者はいかに遠くの地点まで到達出来るかに腐心する。
そうした努力を明らかにしてしまい鑑賞者との距離を縮めてしまうのは逆効果というものだろう。
白鳥が美しいのは水面下の必死の水かきが見えないからだ。
そんなものをことさら見せようとするのは無粋というものだ。


「鑑賞」というものには二種類あるんではないだろうか。
ひとつは作者との一体感をもって感得するものと、もうひとつはその隔絶をもって崇拝するものと。

圧倒されるものに対し崇拝する後者の鑑賞はごく自然な反応といえるが、僕は常々近代批評精神のもたらした前者の鑑賞法を是としてきた。
ピカソだろうとダ・ヴィンチだろうとサリンジャーだろうとドストエフスキーだろうと、その作品を所与のものとしてこちらが感受するのみのものでなく、作者がどんなふうにこう表現するに至ったかを推察しながら批判的に読み解いていくことで、より深く鑑賞できるものだと思ってきた。

いや、それはあながち間違いではないのだろうが、演奏や演技のような表現者の意識化のパフォーマンスが作用するような表現には、鑑賞者もどこか自分から突き放された「隔絶」を感じながら全面的に受け入れる鑑賞法こそふさわしいのではないだろうか。


例えば壮大な風景の中に佇んだとき訪れる感動は、後者の感受性で接しなければ得られない。

そこで画家は、その感動を分析しようとスケッチを始めてしまう。
要素の一つ一つを確認し再構成していくことでその感動に接近しようとするのだが、その目論見は大概失敗する。
そこで再現される感動は別物であることを確認する作業にしかならないのだが、大抵の画家は「接した際の最初の感動を」などとタテマエじみた嘘をつく。(きっと自分に対しても)
本当に感動していれば「言葉(再現)」は失われるものではないか。


啓蒙思想やユマニテから「解読される」鑑賞というのは、わかりやすいし愉しいものだ。パズルや数式の解法のように腑に落ちる。
しかし、底が浅いとも言える。所詮自分の理解の範囲ではないか。

一方、普通は所与のものに即応的に感応する鑑賞こそ底が浅いものだとされる。お化けを怖がったり陰謀説を本気にとったり。オカルトのように。
だが、それを超越的なところで感得するのは、理解を超えた最深度の鑑賞となるのではないだろうか。信仰のように。


ただし、この二つの鑑賞法は得てして互いに相反する。
ひとつの鑑賞においてどちらか一方しか採用しえない。普通は。
それが問題だ。

禅の悟りのように弁証法的に漸進するものなのだろうか。
しかしそうだとしても、それがいったいどんな所作で行われるべきものか想像もつかない。



テレビで見たアリス=紗良・オットの演奏は、巧みで目をみはるものがあったが、あまり感動的ではなかった。
舞台裏を見たせいだろうか。

逆に辻井伸行やスーザン・ボイルは、プロフィールなど舞台裏なしで感動するものだろうか。
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