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般若心経コミュの空ってなんでしょう?

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はじめまして。
般若心経関係の本を読んでいると頻繁に「空」という表現が
出てきます。が、無とか有とかは理解できるのですが、
「空」というものは学校で習ったわけでもないので、
意味が分かりません。

どなたかご教授願います。

コメント(73)

>流山の小地蔵さん
>「空」は妙なる「有」へと昇華していくことから、伝統的な「存在の有無ではなく性質や状態」という解釈より、何かしか「有」ると考える方が自然です。
>流転して止まない山川草木の仏のいのちを思えば、「空」とは性質や状態を表す(こっちはむしろ時間論の範疇ですね)よりも、流転しても変わらない金剛不壊の「有」るものこそ空であると思います。
>空である水は、水蒸気からむ雨となり川となってやがて、「大河の一滴」となって「入海水一味」、海の水となります。水の名前は変わりますが、その本質は普遍です。

 すみません、チョットわかりにくいのですが、本質的な空というものが、表層的な色等五蘊以外に或はそれらに内在的に有るということでしょうか?



 物質について、物質を小さく分割していって、この場合仰る所の光子というものもそうだと思いますが、このような物質の最小単位のものは仏教では「極微」と言われるもので、特に空等の話とは関係の無いといってはなんですが、別の論題です。
 言い方がきつくて申し訳ありませんが、これらの極微が、それを内包する”世界をつくった存在”の”ある目的”によって集まったりして事物を形成するという思想は、空とも仏教とも違うものです。
 そのような考え方の正誤を言っているのではなく、ただ、仏教や空とは別の思想ですということです。
 

 話を空についてに戻します。
 例えば上に挙げました、「木箱」なら木箱という不変のそれ自体の性質が有るという考え方(木箱と言うものが永遠に有ると言うことでは有りません)で、この場合「木箱」は永遠に木箱なのですが、未来から現在に現れ過去に去っていく、或は、縁を欠く事によって木箱という性質が作用を顕さないまま過去に去っていき、「木箱」と言う本質は変わらないと考え、この本質によって事物は、そういう性質を持った実体として、永遠の過去から永遠の未来まで存在しており、縁によって瞬間瞬間に未来から現在に現れ過去に去る、或は、縁が欠ける事によって現れないまま過去に去ると言うように考えられます。
 こうした事物の性質の有無についての話で、「空」と言うときは存在はあるけれども、そうした恒常的本質、初めから決まったような性質、事物をそれ自体そのものとして在らしめる実体は無いと言う事から、「空虚」「空っぽ」「うつろ」と言われるのであって、空と言う語そのものの意味としては、寺僧流さんが仰った「無自性」というのが正しい意味です。
 「縁起」「無常」「無自性」が「空」としてよく言われますが、「事物は縁起であるから空(無自性)である」「事物は空(無自性)であるから縁起する」同様に「事物は無常であるから空である」「空であるから無常である」等と説明されるべきです。
 直訳的な「空」の意味としては「空虚」「うつろ」「空っぽ」という事になり、何が空虚なのか、何故空虚なのかと言う所まで踏まえれば「無自性」と言うことになります。
あなんさんへ

 まずお詫びを。
 mixiにはまってから、「正命」に反した夜更かしの生活が祟り、肉体の方がピンチとなっております。
 戒というものはホント、わが身のためにありますよね。ということで、今日は早めに休みます。日をあらためてコメントしますので、よろしくお願いします。
>36:流山の小地蔵さん
わざわざすみません。お大事になさって下さい。

 一応、私が上のコメントで仏教思想や空とは異なると考えた点を挙げておきます。

33:
>「空」は妙なる「有」へと昇華していくことから、伝統的な「存在の有無ではなく性質や状態」という解釈より、何かしか「有」ると考える方が自然です。

 これは言葉の使い方の問題なのでそれほどの問題ではないのですが、有は無と対である為、有と無も空という事になります。
 もちろん存在自体実際は何も無いという虚無主義でもありません。

>この光子が乱舞する世界を、お作りになって、ある目的に向けて「かくあるべし」と「言葉」を送り続けておられる存在

 仏教は無始無終と言われるように、この世界をなんらかの存在が作ったとは考えません。

2:
>しかし、この光のエネルギーが物質化しているのは、「かくあれ」という理念の元に光のエネルギーがある目的で集まって物質化しているわけです。
 人の肉体も、「ある目的」が集まって作られます。そしてまた「新たな目的」のため分散していきます。その過程で、この光のエネルギーは、不増不滅なんですね。

 般若経に出てくる不増不減等の語は、人に説かれたということから考えて、実践と目的と言う点で考えれば、単にエネルギー保存の法則や質量保存の法則と言われるような、真実状態を示す事に留まらず、般若心経で言えば生滅、垢浄、増減、という分別への執着、また、その主体と捉えられる実体という誤認識と執着の否定だと思います。

>光のエネルギーがただ宇宙の光として、輝いているうちは、この宇宙は、無のままです。
 「ある目的」が与えられ、存在が与えられ、時間が与えられ、様々な存在がこの世に、一時的に存在し得るのは、この穢土で豊かな人生修行を体験させようとする慈悲の力であると思います。

 33のコメントとあわせて考えますと、世界を作り、目的、存在、時間を与える者と、その存在の慈悲によって「豊かな人生修行」を「体験」する者が、いる事になりますので、一元不二という状態ではありません。
 また、仮に二者を認めるとすれば、この二者には、「作る者」と「作られる者」「与える者」と「与えられる者」という相互関係があり、この二者も空であるといえます。
 その場合、この一方が空である世界を作ったと言えば矛盾が生じます。

 以上、私が思う仏教と特に空思想との相違点です。

 繰り返しになりますが、思想として正誤を言っているのではなく、仏教や空という考え方との相違ということですので、ご理解いただきたいと思います。
>寺僧流さん
>愛は渇愛という欲をも含みます。欲(執着)を否定したのに欲が出てきましたが、以前の欲と「空」を通った欲は性質は同じであって同じでない。成長している。欲も「空」。

 私も同様に、慈悲、自愛の働きが前面に出てくると考えます。
 仰る事と同じ事ですが、空を体得する事によって欲(対象に執着する志向)が滅したとすれば、執着の無い慈悲の志向が現れると考えます。
 
>お経の最初に「空」とした「五うん」(肉体と心の働き)も仏さんの慈悲に満ちた「五うん」へ成長する。
眼耳鼻舌身意←→色声香味触法も同じく。

 五取蘊の取が取れると言う事ですね。

>「空」は訓練前ならからっぽ。訓練したら∞と成長する大きなフィルター、通過点、まさしく無自性だと思いますので、私も坊さんのはしくれですからからっぽの方を強調されますと寂しい。

 訓練も何も関係なく全ては空なんですけどね。
ご存知かと思いますが、私としては、ただ、空っぽと無限は別ではなく、空っぽだから∞と言う感じで、私としても、無限の因縁に感謝しつつ、無限に慈悲を実践していきたいと思います。
 ただ、言葉として「空」と言う言葉の意味を大切に考えていますので、空虚、空っぽという言い方をしました。

 団信徒の方に空等の話をする事はめったにありませんが、写経で般若心経などした後にお話するくらいでしょうか^^。
 お互い頑張りましょう。

 当然ですが、寺僧流さんとは同じ事を裏表、或は前後から言っていると言う感じを受けます。
 無限というのは、仏のがわから見れば無限、凡夫の側から見れば空っぽ。
 現代物理学と「空」 再び

「現代物理学の観点から、時間、空間などについて、少し話してください。」

「空間や時間の概念は二十世紀にはいって相対性理論と量子論の登場とともに大きく飛躍しました。相対性理論と量子論はほとんど時を同じくして登場し、十九世紀までの物理学が、とうてい思いもつかなかった遠大な分野を切り開きました。

 これら両理論によって、それまでの宇宙観、物質観は抜本的に変革され、素粒子論をはじめとする現代物理学が華々しく開花したのです。その中で、相対性理論における「真空空間」の問題を仏教における「空」の概念と比較しながら考えて見ましょう。」

「現代物理学における「真空」と仏教の「空」とが限りなく近いものになってきたと聞いたことがありますが、実際にはどんなことになっているのでしょうか。」

「真空は有か無か、すなわち、真空はエーテルみたいな物質で充満しているのか、それとも、何物にも占められない絶対真空なのかが重大な問題でした。

 かつて、この問題は古代ギリシャの原子論者の間で、論争の的となっていましたが、十七世紀の近代科学の登場とともに、さらに激しい論争となり、絶対真空を認める立場と、連続媒質的な何ものかによって満たされているとする立場の考え方の対立がありました。

 十七世紀以降になっても、学者たちが、この二つの考え方にわかれ、はげしい論争を繰り広げました。すなわち、物体の運動は「近接作用」か、「遠隔作用」か、また、光は波動か、それとも粒子かなどの論議でした。

 そんな中で、この宇宙空間には「エーテル」という感覚では感じることのできないものが充満しており、それが物質と物質の間を媒介しているという「近接作用」の考え方を採用したのが、あの有名なデカルトでした。

 ところが、その少し後、ニュートンは、離れた二物体間の運動は、その間に何の媒介物なしに作用し合うということを、万有引力の概念を導入して説明しました。このニュートン力学の登場で、その後しばらくは、「遠隔作用」説が有力でした。

 しかし、この二つの考え方は、光の本性をめぐって、鋭く対立しました。つまり、ニュートンの「光粒子説」と、それに対立するホイヘンスの「光はエーテルの波動であるとする説」との対立でした。

 光の粒子説と波動説の対立は、その後も長く続きました。いろいろな発見がなされるたびに、粒子説が有利の時もあり、逆に、波動説が有利になる時もありました。しかし、エーテルが存在するとすれば、地球の自転と公転運動によって、エーテルの流れにそう場合と、逆の場合とでは、光の速さは違ってこなければならないところ、一八八七年に行われたアメリカのマイケルソンとモーレイの実験によって、光の速度は、常に一定であることが明らかにされました。それによって、この宇宙はエーテルによって満たされているという仮説は、その他の実験結果からも、不可能となり、ついに一九〇五年、アインシュタインによって、完全に否定されました。

 それより八十五年前の一八二〇年デンマークのエルステッドは、粒子説か波動説かの実験の途上、導線のそばに磁針をおいて、導線に電流を流すと、磁針が振れることを発見しました。これは、電気と磁気が、互いに関連していることを示す重要な発見でした。それのみならず、彼は、電流が磁針に及ぼす力は引力でも斥力でもなく、電流の方向と垂直に作用することも確認したのです。

 この発見は、ニュートン力学において、あらゆる現象が、距離のみにより、速さによらない力の働き、つまり、遠隔作用を根本とし、万有引力や静電気および磁気の力は、二つの物体を結ぶ直線にそって作用するとする概念を根底からくつがえすものとなりました。

 その約十年後の一八三一年、イギリスのファラデーは電磁誘導の法則を発見しました。彼は電流導線や磁石の周囲の空間が、ある特殊な状態となっていると考え、その特殊な状態を「場」と呼びました。つまり、電流の周囲には電場が、磁石の周囲には磁場があるとし、それぞれの場の強さを電力線、磁力線で表しました。

 そして、電力線、磁力線は電流や磁石が創りだしたのではなく、もともとあらゆる種類の無限の力線が空間を満たしていて、たまたま、電流や磁石を持ち込むと、電力線や磁力線が反応して、そこに電気力や磁気力が生じるものと考えました。

 これは、要するに、空間の中にもともとある質が、電流や磁石を縁として、電気力や磁気力として現れてくるということになります。

 この考え方は、仏教において、生命現象とは、空の中から縁にふれてあらわれたものとするのと相通じると言えます。死後の生命についても、空の状態で存在し、それがまた何かの縁に触れて空の中から生命体として誕生してくると説いてあるのもこの「場」の考え方と一致していると言えるでしょう。」

「二千年以上も前の仏典から読み取れる哲理と、現代物理学が行き着いた科学的真理との一致が、人間とは深遠で偉大な存在なのだなとつくづく思わせますね。

 それで、現在、科学的に空間とはどのように考えられているのでしょうか。」

「このファラデーの考え方は、のちにイギリスのマックスウェル、フランスのフィゾー、ドイツのヘルツらによるいろいろな発見によって、さらに完璧なものとなり、光と電磁波の速度が等しいこと、その性質も同じであることが判明しました。そして、「場」についての考え方も、アインシュタインによって、その理論をさらに徹底して、あらゆる物体は、「場」がそこに密集したものとされました。

 アインシュタインは、エーテルの存在を否定し、また、光速は常に一定であるという事実に基づいて、新しい力学理論を発表しました。

 それには、いかなる作用も、光速以上の速さで伝達されることはないこと、自然界には光速以下で伝播する近接作用のみが存在しうること、一切の運動は相対的なものであり、しかも、運動体のそれぞれに独自の時間と空間の系があること、そして、質量とエネルギーは同等のものであり、互いに転化できるものであることなどが述べられていました。それらのすべては、実際に素粒子の示す現象の中で、その正しさが証明されました。

 この相対性理論の確立によって、この空間は、何もない「無」の空間でもなく、エーテルなどの媒質によって満たされているものでもない、あらゆる物体を生み出し、それに変化を与える「力の場」であるということになったのです。

 そうすると、空間は、その中になにも物質は存在しないという意味で、「無」と言えますが、しかし、そこには、離れた物体同士を互いに引き合わせたり、光のような電磁波を伝えたり、粒子と反粒子の発生のように新しい物質を誕生させる働きがあるという意味で「無」だけとは言いがたいのです。

 そうなると、哲学的、科学的立場でいうような「有」に対する「無」だけでは言いあらわせないものですから、その概念を完璧に表現できる言葉は般若心経でいうところの「空」しかないことになります。

 このように見てくると、私たちが何気なく使ってきた「空間」という言葉が数千年の時代を超えて、現代物理学の概念を見事に言い表したものになっていたとはなんとも名状しがたい感慨深いものを感じます。

 そして、アインシュタインは、つぎのように言っています。

「物体はエネルギーの大きな貯蔵者であるとともに、エネルギーは質量を持っているのです。このように、質量とエネルギーとの間の差別は、すでに性質的なものではないのですから、性質的に物体と場とを差別することは出来ないわけです。現にエネルギーの大部分は物体の中に集中しているのです。それと同時に、質点を取り囲んでいる場は、たとえ比較的少量であるにしても、やはりエネルギーを表わしているのです。ですから、エネルギーが多量に集中している場所が物体であって、エネルギーの集中の少ないところが場であると言ってもいいでしょう。もし、そうであるのなら、物体と場との相違は、性質的なものではなくて、むしろ数量的なものになってしまいます。物体と場とを、相互にまったく性質を異にした二つのものとみなすのは、無意味であり、したがって、場と物体とを明らかに分離する一定の表面を考えることもできません。」

 アインシュタインは、さらに、「場というのは、ある限られた空間にエネルギーが比較的多量に集中したものであり、空間の中で場が、非常に強くなっている領域として物体を認めてもよい」と言い、「場こそ唯一の実在である」とまで述べているのです。

 このアインシュタインの考え方が般若心経に説かれている色即是空、空即是色という「空観」と寸分たがわぬものであることは誰にでもわかるのではないでしょうか。」

「仏典の空と、現代物理学における空間の概念が、これほどまでに一致するものになるとは、まったく驚き以外の何物でもありませんね。」 

「そういうことから、総合的に考えると、要するに、空とは何もないのでもなく、その反対に、何でもあるというのでもない。すべてが存在し得る豊饒な世界であり、可能性に満ちた無限の絶対世界である。また逆に虚空というか、エンプティな、空間そのものさえない状態でもある、と言えそうです。」

「般若心経には無い無い無い、無いことも無いと書いてあるようですが、逆に有る有る有る、何でも有ると言ってもよさそうですね。」

「そのとおりです。しかし、無いと有るとの間には創造という神技があるのです。この神技を人間は持っているのですから、創造力抜きでは、空の理解はできないでしょう。無から創造を通して豊饒な現象世界が出現するのです。だから、創造力を発揮する以前の、あらゆる可能性に満ちた虚無を空と言ってもいいかもしれません。

 従って、空とは無だけではない。空とは縁と因によって、すべてが生まれてくる創造的な場であるのです。しかも、縁と因は人間の意思と密接な関係があります。なにしろ人間は神と同じ創造力をもっているのですから。」
空とは、自己を含めた宇宙全体(マクロ的視点)。
では、それは何で成り立っているか?
実体のない関係性で成り立っている(量子論的視点)。
それって実感できる?
自己を捨てなければ実感できない。人という制約から自由になり、全体と一体化しなければならない。これが難しい。なかなか人という制約から逃れられない。
空を実感したらどうなるの?
どうともならない。人という制約を楽しみ、精一杯生きるのみ。
存在はあるけど、それに名前とか性格を自身の心で色をつけていない状態が空でしょうかねw
僕は昔、空と無を混同してました^^;
現代物理学というと難しいでしょうが、宇宙ステーション向けの基礎技術として、宇宙間交信をリアルタイムに行う研究を大手の電機メーカーあたりがやっていますが、あれはほとんど宗教の領域のボーダーレスなんですね。

3次元空間に普通に電波飛ばせば、リアルタイムの交信はどうやっても無理です。
そこで研究者たちは、3次元空間をショートカットして最短で結ぶことを研究しているようなのです。その実際については、オッサンボーイさんのほうがお詳しいのではないでしょうか。

21世紀には、科学者の方が宗教的で、伝統宗教の側の方がかえって唯物論にどんどん近くなっていくというような逆転現象が起きることでしょう。
科学では一時期否定されていた、空間を埋めるエーテルについてや宇宙項などが[空]に近づける存在だと思います。
宇宙の暗黒エネルギーや暗黒物質という未知のエネルギーの塊を実証できるようになれば、まだ先の話ですが、意識を物理学で説明できれば、科学的に空を証明できるでしょうね。

空とは自分を含めた宇宙のシステムや現象全てと思っています。
もう、ここまで科学が進歩しているのも人間の進化ですね。
すばらしい。
なにもむづかしく考えなくとも、とりあえず以下のような誰にも分かり易い
ラフなとらえかたで、間に合うとおもいますよ。つまり。

「空」は疎なるひろがり←→たいする「色」は密なるかたまり
〜乃至〜
「空」が器(うつろ)で←→「色」が中身

「空」と「色」を、「無」と「有」と言い換えたってべつにかまわない。

こまかい理屈など気にしないで感じてごらん♪
おのずとさとりにワカルはず。
「空」と「色」は分からない(不可分)なんだと「分かる」
だけ。
ワカッタ世界はワカラヌせかい。、ワカッタ?

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=10515863&comm_id=60499 

≪ご参照≫
『空について』([般若倶楽部]コミュ内トピック)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=11020972&comm_id=60499

ロゴス中心主義の西洋思想で理解しようとすれば無理でしょう。

でも、きちんと説明されてる方はいますよね。

釈迦は口伝しか認めませんでしたから、所詮は無理ですよ。でも、理解することは可能なのでしょう。でも、誰でもわかる方法というのはないですよね。わからないから、わかってないというものでもないですし。
全ては縁によって生じ、それそのものに本来固有の意味や価値を持たないことが「空」と説かれています。

その一言に尽きるものと思われますが、他の方のコメントをここでこれから勉強させて頂きますわーい(嬉しい顔)
こんばんは。
皆様の「空」に関するお話を一通り読ませていただきました。

で…

全然わかりません(泣)。

木箱の話が一番わかりやすかったです。

一朝一夕で理解出来るものじゃないですよね。
空は科学で説明するなら、複雑系に近いのでは?
複雑系そのものは縁起ですが、その仕組みはまさに空でしょう。
あと、生態系もそうでしょうね。
もちろん、その中に自分も入っているということが重要だと思います。
科学の複雑系というのはよく知りませんが、縁起と空は同義に扱われる事も多いですね。
>60
色が縁起ですから。

色不異空 空不異色
色即是空 空即是色

なんじゃないんですかね。
そうですね、同様に色以外の4蘊についても言われ、一切が縁起、空と言う事になるわけですね。
空っていう言葉の呪文に取り付かれてしまった〜猫
はじましてぇ。
自分は、仏門の人間ではないが。
空とは、中道の事。笑
左右の中心だね。
そこに、無が有る。
簡単に説明すると。笑
酸性とアルカリ性の中間には、中性。笑
精神も、プラス思考とマイナス思考の中間には、思考が無い。笑
気で、言うと。
陰と陽の気の中間。
ゼロになる。いわゆる
0磁場だね。

人は、中道を悟ると全ての真実が、見えてくるよ。
中道は、すなわち空だね。笑
そして、無の境地でも有る。
空になったからと言って。そこで、終わりじゃない。はじまりだ。
そして、宇宙と一つになり。宇宙を、理解して生来ていかなくては、ならない。笑

欲を捨てれば、自我が芽生える。
自我を、捨てればおのずと、全てが自我になる。笑
全てとは、宇宙です。
説明長くなるから、この辺で。笑
この宇宙を、理解すると。皆、天命にしたがって生きる事になる。笑
人生は、宇宙そのもの。

今、コメントした。全て、言い伝えたい事沢山有るけど、一言で言うと。
宇宙です。すなわち、無。説得力無いけど。
考えるよりは、感じてください。

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