?時制は行為の時間を示すとしても、主要なものではなくて、副次的なものではないか(この点は既にA. T. Robertsonという学者が1930年代に主張しています)、従って、S1851のabsolutelyはrelativelyと書き換えられるべきではないか、という指摘がなされるでしょう。実際、現在形もアオリストも未完了過去も完了も現在、未来、過去、普遍的真理を表示することができますので。最近では、直説法でも時制は行為の時間を示さない、と主張する研究者もおります(S. E. Porter、R. J. Deckerなど)。
?S1850のThe Stage of an actionとは一体何なのか不明である、それは行為が「実際に」そうであることを示すのか、それとも話者/書き手にとって「そのように見える」のか、という批判がなされるでしょう。この点は、言語学の分野で行為の客観的なあり方をAktionsart、主観的なあり方をAspectと概念的に分割するようになって以来(C. Bacheがこの分野で有名です)、他の文法書に対しても問題となっています。この点が明確にされていないのは訂正すべきでしょう。
??と相俟って、Smythのthe stage of actionは寧ろAktionsart理論に従っているけれど、最近の研究者はAspect理論に従うべきではないか、と主張している点が挙げられます(つまり、PerfectiveとImperfective、又はInternalとExternal等々)。従って、Smythの文法を支持するならば、この点に関しての反論が必要となります。
?更に、S1860,1861で接続法と希求法は未来に言及するとありますが、これも問題でして、果たしてこれがこれらの法の持つ意味に基づいてのものなのか、それとも語用論的に(割合の問題で、とも言えましょう)そうなのかが不明だ、といったも批判が挙げられます。Smythも勿論指摘していますが(S1805-N)、接続法と希求法が現在や過去に言及する用例もありますので。
?更に、「未来形は、未来のある時点で生じるであろう行為を表示する」とのS1910も問題になります。何となれば、現在、未来形は?時間位置を示す、?法としても機能している、?様相を表す、?アスペクトを表す、の4つの立場があるからです。?から?の場合、時間を示すというのは副産物のようなものになります。S1915に「現在時のための未来形」とありますが、これをどのくらい重く見るかが一つのカギです。