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東アジア歴史文化研究会コミュの『日本人が知ってはならない歴史』?

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『日本人が知ってはならない歴史』?

17.マッカーサーの悔悟

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教 マッカーサーの米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会の証言(抄)です。
「・・・・(日本が)もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万人から・・・・失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らが、戦争に駆り立てられた動機は大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ・・・」(1951・昭和二十六年五月三日・米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会証言)
 有名なマッカーサーの証言ですが、彼は日本の開戦責任について「安全保障の必要に迫られてのことだった」、つまり日本の正当防衛だったと述べているのです。終戦五年を経てマッカーサーは日米開戦の秘密・機微を知るに至っていたのです。彼はつぎのようにも証言しています。
「太平洋でこの百年の最大の政治的な誤りは中国において共産主義に権力を握らせたということだと、全く個人的な見解ながら私はそう考えるのです」(同日・ウイレー議員への回答)
 1950(昭和二十五)年10月15日、ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談でもマッカーサーは「東京裁判は誤りだった」と告白しています。これも同委員会会議録に収められています。朝鮮戦争のさ中です。
 日米戦は痛恨の誤りであったとの彼の悔悟の念が行間に溢れているのは、開戦にいたるまでの秘密・機微を知るに至った経緯を抜きには理解できません。このように解するのは、筆者だけではないでしょう。・・・
 私がここで指摘したいのは、裁判開始を命じた当の本人・マッカーサーが米上院において、「・・・日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」と述べていることです。
 いわゆる自衛戦争・正当防衛戦争証言です。日本と戦った連合国軍の最高司令官が「日本の戦争は自衛の戦いだった」と言っていることを日本人は、いや日本のメディアは語ろうとはしないのです。書いたようにウェーキ島でトルーマン大統領にも、東京裁判は誤りだったと告白しています。日本のメディアは完全に黙殺しているのです。・・・・
 マッカーサーとは、連合国軍総司令部最高司令官であり、1945(昭和二十)年12月25日のモスクワ会議によって、極東軍事裁判について全面的権限を付与されたところの、該裁判全体についての最高責任者が当の彼にほかなりません。被告人を指名し、判決・処刑を管理した最高責任者が「あの裁判は間違っていた」と米大統領に告白しているのです。
 ついでに言えば、真珠湾の「無通告攻撃」は外交上の手落ちによる事故のようなものだったと判決文の中で認定している事実についても、日本のメディアは黙して語りません。だから真珠湾の「騙まし討ち」の責任者として処刑された戦犯は存在しません。・・・・
 マッカーサー証言をなぜ無視するのかということについて続けます。
 これは小さなことではないのです。四年間の日米の死闘は日本側にも言い分があったと、最高司令官が証言しているのです。そして、この最高司令官は共和党の大統領候補にも擬せられていたのです。(後に彼は元副官・アイゼンハワーにその座を奪われます)。
 満洲・朝鮮・中国から日本人を追い出したら、これらの国々はたちまち共産主義者の支配するところとなりました。この司令官のお膝もとで、中国は共産主義者の支配下に落ちたのです(1949・昭和二十四年十月)。そして、これを「百年の最大の誤り」だと上院で証言しています。
 満州は中国の一部でないことも、そして満洲建国の意味も彼は学習しました。満州をロシアが制圧したら朝鮮半島は彼らの自由になることも、彼は賢明にも学習しました。さらには日本の朝鮮併合の意味も、すべてを朝鮮戦争に直面する中で「学習」し尽くしました。・・・・
 彼の学習を助けた教師の一人は、アメリカ国務省政策企画部長として来日したジョージ・ケナンです。彼は1948(昭和二十三)年4月から数回来日しています。マッカーサーの占領行政について、主として民政局を占拠している「ピンカーズ(赤いやつ)」の危険性について強く警告しています。そして、米本国でのこの種の危惧の高まりについて講義しているのです。それからしばらくして、GHQ内部での「ピンカーズ・パージ」が始まります。
 さらにマッカーサーに反省を迫った女性がいました。かの『アメリカの鏡・日本』の著者・へレン・ミアーズ女史です。1900(明治三十三)年生まれの彼女は戦前には二度にわたる日本滞在を経験し、著書もありました。・・・彼女の三度目の来日は、1946(昭和二十 一)年2月。GHQの委嘱により「労働政策十一人委員会」の一員として活動しながら、折から進行中の東京裁判を観察しています。・・・・
 マッカーサーは女史の著書を読み、書簡の交換を通じてある種の認識を持っていたようです。これは『アメリカの鏡・日本』のまえがきに詳しく説明されています。
 そして最大の教師は1950(昭和二十五年)6月、朝鮮半島に現れました。朝鮮戦争の勃発です。朝鮮半島が大陸の大勢力に制圧されたら日本の防衛はたちまち危機に陥ることを知った彼は、満洲爆撃などを主張し、そして解任されました。

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