ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史実 忠臣蔵事件の真相コミュの松の廊下  事件現場の詳細を知らずには書けない

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 画像1:大石慎三郎著 『将軍と側用人の政治』に掲載されている 松の廊下付近の図

 画像2:百楽天による作図 松之大廊下 
    1998-1999年連載の 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」(百楽天著/月刊 TOWN-NET)掲載図を改変

 画像3:江戸城本丸御殿の絵図(東京都中央図書館蔵)

指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ指でOK富士山クローバーチューリップ

 これは続きものです。目次は下にリンクしてあります。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29704148&comm_id=3207175



 まず、上の3枚の図を見比べていただきたい。画像2は、縮尺は多少違ってもイメージとして捉えやすいように描いたつもりである。



 貞享暦(じょうきょうれき※1)、元禄十四年三月十四日(1701年4月21日)。江戸城の本丸御殿において、殺人未遂事件があった。俗に「松の廊下刃傷事件」(※2)といわれている。


 この事件の詳細は別のトピックに委ねるとして――。
 事件の様子を書いた史料はいくつかあるものの、「使えるもの」は目撃者である梶川與惣兵衛(かじかわ・よそひょうえ)の日記だけ、といっても過言ではない(※3)。


 画像1は、大石慎三郎氏の著書 『将軍と側用人の政治』(講談社現代新書/1995年)に掲載されているものである。

 大石氏は同書のなかで、こう書いている。

――事件当日、吉良と立ち話をしていて、斬りつけた浅野を押さえつけた人物である梶川与惣兵衛の日記を見ても、はっきりとしたことはわからない。――

 浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)を斬りつけた(※4)。

 大石氏が「梶川与惣兵衛の日記を見ても、はっきりしたことはわからない」と書いたのは、「事件現場がどこだったのか、はっきりわからない」 ということである。

 大石氏は刃傷事件の現場について、画像1の二箇所の「×」のところのいずれかであると推定し、「松の廊下で事件が起こったのでないことは、百パーセント確実である」 と結論している。

 大石氏は、江戸城の構造をどこまで理解していたのか。問題はそれである。
 この事件について書かれたいくつかある史料を、文字だけで追いかけても事件現場の詳細はわかるわけがない。
 たとえ画像1を渡されても、梶川日記に書かれたことを理解できる人はいないだろう。

 ボクは、平成10〜11年にかけて、『忠臣蔵で江戸を探る脳を探る』 と題した拙文を「TOWN-NET」誌に連載した。そのとき作った掲載図はもうボロボロで使えなくなってきたので新たにエクセルを使って描いてみたのが、画像2である。もう1枚描いたものは、別のトピックに貼付した。
 さらにもう1枚。パースをつけて臨場感を出したのだが、これをエクセルで描くのは難儀である。むかし雑誌に掲載されたワープロでの自作画も、別のトピックに貼付した。

 ちなみに、大石氏の著書にあった画像1は西を上にして描かれたもので、ボクが描いた画像2は北を上にして描いてある。

 ホンモノも、北を上に置いて掲載した。

 画像1、2、3を見比べながら、梶川日記を読んでみよう。下は現代語訳である。


――大広間の後の通りに行くと、向こうから二人の坊主が歩いてきた。一人は大広間の御縁頬(ごえんがわ)の杉戸の内へ入った。もう一人は私とすれ違って後の方へ歩いていった。
 さて松の廊下の御縁の方(※5)、角柱のあたりから見ると、大広間の方の障子際に浅野内匠頭と伊達左京亮(だて・さきょうのすけ)がいた(※6)――

 原文はこうだ。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 大広間の後通りを参り候処坊主両人参り候 一人は大広間の御縁頬杉戸の内へ入申候 一人は我等後の方へ参り申候
さて大廊下御縁の方角柱の辺より見やり候へば大広間の方御障子際に内匠左京両人被居
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 ここに登場する「坊主」は城内の雑用係で、頭髪を剃っていた。

 画像2にある「←」は、梶川の歩いた導線である。

 画像2を参照しながら読めば、原文はもちろん、現代語訳でもわからないところが見えてくるだろう。

 梶川からみて正面と左手に杉戸があり、二人の坊主は正面の杉戸を開けて梶川の方に歩いて来たが、一人は左手の杉戸を開けて大広間の方にいった。もう一人は、梶川とすれ違って梶川の後ろの方へ歩いていった。

 画像1には、原文にある 「大広間の御縁頬」 も描かれていなければ、その入り口の杉戸もない。すでにここでつまずいてしまって、先に進めない。「大廊下御縁の方角柱の辺」 と書かれていても、何のことやらさっぱりわからないだろう(この部分の解説は※5に書いた)。


 梶川は正面の杉戸を過ぎて、角柱(すみばしら)のところまで行き、そこから右手、「桜之間」の方を覗き見た。

 すると、大広間の方の障子際に浅野内匠頭と伊達左京亮がいた。
 この「大広間の方の障子際」についてはこの連載の別のトピックに書く。

 画像2でわかるように、松之大廊下は "L" の字の形で、内側に広い中庭があった。

 さて、ここで2つの疑問が出てくる。
 下をクリックすると、松之大廊下絵とミニュチュアが現れる。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29704478&comm_id=3207175

 これまで発表された、ほとんどすべてのものは中庭側には柱があるだけで素通しである。

 もしそれが本当だったら、梶川は角柱のところまで行かなくとも松之廊下の様子はわかったはずだ。

 さらに、松之廊下は総畳敷きであったから、もしも横殴りの雨が降ったら、畳はびしょ濡れになる。


 この疑問が解けなければ、梶川の日記は理解できないはずだ。


手(パー)
 ※1:日本で最初につくられた暦法。幕府お抱えのプロの碁師だった渋川春海(しぶかわ・はるみ)がモンゴル製で中国でも高い評価を受けた授時暦(じゅじれき)をお手本に、自ら江戸で天体観測をして作った暦。
 それまで日本で使われていた暦は遣唐使によって伝来した宣明暦(せんみょうれき)で、800年以上もの間使いけられ、実際の天体運行とのずれが目立つようになった。京の暦の専門家、陰陽寮の役人たちは言い訳するばかり。陰陽頭の土御門泰福(つちみかど・やすとみ)は、当時の清王朝で用いられていた時憲暦を採用しようと決定した。
 黄門さまでおなじみ、水戸の徳川光圀は双方の主張を聞いた上で、それぞれの暦法を元に天体観測の正確さを争わせた。京の梅小路で行われた天体観測合戦の勝利によって渋川春海の暦の採用が決定した。
 貞享暦は、貞享二年(1685)から70年間施行された。暦は日常生活に深くかかわるために、近松門左衛門と井原西鶴の戯曲の競作もあった。
 貞享の元号は、五年九月三十日まで。同日より元禄となったが、貞享暦は引き続き使われた。


 ※2:「刃傷」は「にんじょう」と読んで、刀などの刃物による殺傷のこと。
    「松の廊下」は、史料には「松之廊下」、「松之大廊下」あるいは「大廊下」と書かれている。

 ※3:梶川與惣兵衛。今出ている本では常用漢字を使って「与惣兵衛」と書かれているが、本来は「與惣兵衛」である。「兵衛」と書いて「べえ」と読むのは町人の場合で、武家では「ひょうえ」と読む。
    梶川はこのとき七百石の旗本で、「留守居番」という役職だった。御台所(みだいどころ)など大奥に住む将軍の家族の警備などを行う職である。
 この日の午後、梶川は将軍正室である御台所の使者として、勅使らの宿舎に御台所の口上と贈物を届けることになっていた。


 ※4:浅野内匠頭は五万石の大名。赤穂領主で、このときは勅使(天皇の使者)御馳走人(世話役)を拝命していた。吉良上野介は朝廷との交渉役である高家(こうけ)で、その肝煎(代表 定員三名)であった。

 ※5:図2を見ていただければわかると思うが、「大広間の御縁頬の杉戸」は、大広間の後側の廊下から大広間に入るところにある杉戸。「松の廊下の御縁」(大廊下御縁)は、中庭側の庇(ひさし)の下にある木の「濡縁」(ぬれえん)のこと。雨が降れば濡れることから。
    画像2では、この濡縁を中庭の外周に細線で描いた。

 ※6:伊達左京亮は三万石の伊與吉田(宇和島市吉田町)の領主。院使(前天皇の使者)御馳走人であった。
 赤穂浅野家は城持の大名だったので大名の格として「城主」と書いたりもした。伊與吉田の伊達家には城がなく、領主の住居と政庁は「陣屋」であった。

 なお、当時は「赤穂藩」とか「吉田藩」などという呼称は存在しなかった。
 これについては、後述する。


 下記に続く
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29610472&comm_id=3207175

コメント(14)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史実 忠臣蔵事件の真相 更新情報

史実 忠臣蔵事件の真相のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング