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ユダヤ教(旧約聖書)コミュのこの世での不幸、災いを我々はどう受けとめるべきか?

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『ヨブ記』においてヨブは、その正しい生活ぶりにもかかわらず恐ろしい災難に次々と襲われる

真面目に築いて来た財産はすべて奪われ、7人の子供たちは皆、家が崩れて命を落とし、自らも耐えられぬ病に苦しむことになる


あなたはヨブと共に、人生を襲う災難、不幸についてどんなことを考えますか?

コメント(35)

もし信心深い方であれば、神が与えた試練と捉えるでしょう。

不信心な方ならば、不運だと諦めるより他すべがありません。

僕はこの世での不幸や災いを如何に捉えるべきか…正直よく判りません。

自分が苦難や災難に遭遇しているとは到底思えないからです。

これから先、何か試練が与えられるのでしょうか?

今はその時を待ち望むしかありません。

Ahasuerus?さん、ご丁寧なコメントありがとうございます

東日本大震災を受けてあらためてヨブの苦悩、『ヨブ記』が訴えかける問題について考えてみました

確かに自分が被災しているか否かによっても、災いに対する人間の意識というものはさまざまな違いがありますね

逃れられない切実な苦しみとして身もだえる人もいれば、彼ら彼女らの悲しみを思って何とか支援したいと考える人もいますね
> 78910さん

僕は今回の震災を受けて、改めて神がどのようにお考えなのか判らなくなりました。

自分が震災に遭遇したら神を呪うでしょうか…。それでも神を見捨てずに祈るでしょうか…。

神の試練だとか、神罰だとか仰ってる方は、外から論じているようにしか思えません。
特に神罰と唱えている牧師には呆れさせられました。

それは被災した当人が言うべき事であり、決して他者が口にすべきではないと感じました。

僕は金銭面での支援しか出来ませんが、果たしてそれで良いのかと考えております。

本当に被災者を救いたいという気持ちから募金してるのか?

いや、本当は罪滅ぼしの気持ちから募金しているのではないのか。

そんな自問自答を繰り返しております。
コミュ『宗教論・宗教学』の『東北巨大地震と神』というトピhttp://m.mixi.jp/view_bbs.pl?id=60995060&comment_count=9&comm_id=1654083&&mhome=1でコメントしたもののコピーです。

トピの趣旨に沿ったものと思い、転載させていただきました。

比古は今回の災害を、罰や試練とは捉えていませんし、私及び私に起こることと神との関係について迷いはありません。

人生で起こる災難や不幸と見えるものは、法則摂理に反した私に対しての“お知らせ”と捉えております。
気づきのない私たちに、今回、大音響の警告音をいただくことになってしまいました。

個人的な神観を押し付けようとか、神観の違いで論争をしたいのではありませんが、参考にしていただけると幸いです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「神様ってひとりなんだって。さびしくなると世界にいたずらをするらしいよ。時には洪水を起こし、時には雷を落とし、時には地震を起こし、時には生き物を殺すんだ。そうして「どうか神様」と自分の名前が呼ばれるのを待っているんだ。」
Twitterでつぶやかれてました。

誤解をされる方もいらっしゃるかもしれないので、書き込むか迷いましたが、ある意味真理を突いてると思います。

石原氏の天罰発言ではありませんが、私たちは我欲にまみれ、神からあまりにも離れ過ぎてしまったのではないでしょうか。(実際には、神が寂しいなどと人間臭い感情を持っているわけではなく、自然法則としての話しです。)


犠牲になられた方々には、かわいそうなお役目を引き受けていただくことになってしまいました。遺された私たちは、この尊い犠牲を無駄にすることなく、大切なことに気づき、我良しの生き方を悔いてキチンと改め、みながそれぞれの違いを認め合い、受け入れ合い、そして助け合い、穏やかな社会を築いていくこと。それが、犠牲になられた方々への心からの弔いになるのではないでしょうか。

もし大切なことに気づくことなく、以前と同じような生き方をし続けるなら、犠牲になられた方々も浮かばれないでしょうし、また大きな災厄に見舞われ、新たに犠牲者を出すことになるやもしれません。


危険・警告念のため書いておきますが、宗教団体や霊能者に金品を納めても、神には決して何も届きません。
不安を煽られて、美味しいお客さんにならないでください顔(願)

Ahasuerus?さん、真摯なご意見ありがとうございます

>神罰と唱えている牧師には呆れさせられました。それは被災した当人が言うべき事であり、決して他者が口にすべきではないと感じました。

僕も同意見です
自分についてだけ自分の胸の内でそう受けとめるなら立派なことですが、他者について客観的に述べられるような話ではないと思います
> 比古さん

失礼ですが比古さまの論は『宗教論、宗教学』で語られるべきだと思います。

トピックの趣旨は外れておりませんが、ユダヤ教のコミュニティーの趣旨から外れているように感じました。

比古さまの論は、どうにもユダヤ教から逸脱してるように見て取れます。

法則摂理とか自然法則の言葉は、ユダヤ教と合致しないように感じられます。

少なくともユダヤ教の神は大変嫉妬深く、怒り狂うと何万人もの人間を殺す人間臭い神です。

ここはユダヤ教のコミュニティーです。 78910さまがヨブ記の話を持ち出したのですから、旧約聖書の話を織り交ぜて、今回の震災について論じ合いませんか?

とはいえ自分自身もユダヤ教から何も論じておりませんでした。

その点はお詫び申し上げます。
> 78910さん

同意見であり安心しました。

そうです。神罰であるか試練であるか…そう捉えるのは個々人と神の問題であり、主観的なものです。

ところがその主観的な問題が、聖職者によって客観的な事柄にされてしまう事があります。
おそらくこれはキリスト教に根付いてる位階制や聖職者のカリスマ性が問題だと思うのですが…。

これが牧師の発言だから訂正できますが、教皇が言ってたら大問題です。

無謬ゆえに、発言を改めることも出来ませんからね。
> Ahasuerus?さん

コメントありがとうございます。

どの宗教に限らず、聖書や教典などの言葉を文字通りに解釈してしまう原理主義者の方々が、宗教間に大きな垣根を作り出し、無意味な争いを繰り返してきました。

しかし、さまざまな宗教の始祖たちが説いている本質は同じものです。
誤って解釈した後生のセクトたちがそれを歪めてしまいました。それは、すべての宗教で起こっています。



苦しみは、無知と執着から生まれます。
苦しみから逃れるために、ある宗派に救いを求め、それが執着にまでなると、新たな苦しみに取って代わるだけです。


比古は、どの宗教にも属していませんし、またどの教えにも囚われてもおらず、さまざまな宗教や哲学や思想から、ただ純粋に学びをいただいているだけの者です。
管理人さまから、こちらのコミュの趣旨に沿わないとのご指摘があれば、以降は発言を控えたいと思います。

旧約聖書(ヘブライ語聖書)、「コヘレトの言葉」(伝道の書)にあります。

「人生は全て空しい。空の空」だと。
人は神の業を全て知ることはできない。
ヨブ記は、少しカラクリがあって、要するに、神とサタンの会話を読者が知っています。
ですから、神がヨブを義人だと知っていた、ということを、読者は疑う必要はあありません(だからこそ、余計に酷く思えるかもしれませんが)。

ですが、現実の僕たちは、神の考えなど分かりません。
それに、「ちゃんとした理由」があれば、全て納得出来る、というものでもありません。
実際、人間というのは、会ったこともない人間の、ちょっとした思いつきで人生が変わることもあります。
また、その時は何でもないように思えた出来事で、人生が好転することもあります。
人生の「理由の分からない」幸運は、普通に受け止められて、
人生の「理由の分からない」災害は、おかしい、理不尽だと責め立てるのは、
人生を真面目に考える人間としてはフェアじゃないと思います。

幸福が因果だとは限らないように、不幸も因果の報いとは限らない。
我々は全てを知り得ない。全てを捉えようとしても、「風を追うようなもの」です。

だから。

コヘレトは前三世紀の人物で、時代的にはヘレニズム、ギリシャ哲学を知る教養人ですが、一応モデルはダビデの子ソロモンです。
ソロモンが、伝道の書で語るとおり、神の考えを知らない僕らに出来ることは、

「神(の業)を畏れ、その戒め(ユダヤの律法でも、クリスチャンの隣人愛でも、どっちでもいいですが)を守れ」(「コヘレトの言葉」十二章13)、
「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻(夫)と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報い」(同九章9)

…と考えるしか、ないのではないでしょうか。

…しかし、改めて読むと、聖書というのは凄いというか、不思議な本ですね…
> イリア・フィロスさん
のコメントに同感です
全くイリアフェロスさんの意見に同感です。
>>[010]

>人は神の業を全て知ることはできない。ヨブ記は、少しカラクリがあって、要するに神とサタンの会話を読者が知っています。


「ひどいことは神が単独でやるはずはなく、サタンが一枚かんでいる」という作者の合理性があらわれているのでしょうか。
>>[13]

そうですね。
サタンというか、「災厄」というのは神の一側面だったのですが、時代が進むに連れて、神の属性から独立していった、という経緯があります。
旧約自体にその変遷があって、ヨブ記はその過渡期だったりします。
はじめましてっ。カバラタロット占いを教えているりりあと申します。(o^^o) わたし自身、悩んでいる人の相談を占いを通してお聞きしていますが、そういう’正しい生活ぶりにもかかわらず恐ろしい災難に次々と襲われる’といった悩みの相談を多く聞きます。
’真面目に築いて来た財産はすべて奪われ、7人の子供たちは皆、家が崩れて命を落とし、自らも耐えられぬ病に苦しむことになる’と同じくらいの災難を受けられた人も大勢いますし。 私自身もそういう目に逢ったこともありますし、また、私の周りで苦しみのあまり、自殺した人もいます。それを見てみると、すべての人が幸せで死んでいくことなど決してないのです。でも、反対に、不幸に見舞われていても本人は不幸だと思っていない、不幸と感じていない人もいます。そう考えると、幸福も不幸もその人の考え方次第だということになりますが、でも、愛する肉親を亡くしてしまって、不幸と感じない人はなかなかいません。それで、わたしは災難をどう思うかという論点よりも、今の状況をより良くするにはどうしたらよいか・・・と考えることにしています。その手段として、国に福祉で保障してもらうように頼むか、自分の不幸を霊媒師に見てもらって因縁を浄化してもらう人もいれば、占いで自分の運命を観てもらうか、友達と悩み相談をしあって癒してもらうとか、いろいろな手段があります。でも、最終的には、その苦しみから脱却する手段はないものなのか?という問題に行き着くのです。

もともとアダムとイブの堕落論にもありますように、人間は知らず知らずに罪を犯してしまっている生き物です。そのため、神の世界から追放されたのですから・・・そう考え、不幸に見舞われるのは当然だと考えた方が妥当だと思います。そうなのであるから、そこからどう脱却するか・・・と前向きに考えるのが良いと思うのです。その方法が、カバラの’生命の樹’に書かれている奥義です。この奥義を実践すると元の幸せな世界に戻ることができるとあります。↑(^^_)ルン♪
カバラの奥義を実践することと、タロット占いは真逆なんだがw
>>[16] へ、
’カバラの奥義を実践することと、タロット占いは真逆なんだがw’←とありますが、カバラの奥義とタロットと真逆ということですか?それとも、カバラの奥義と占いが真逆なのでしょうか? 
何がどう、真逆なのかわからないので、もう少し詳しく説明してもらえないでしょうか?(。、ヾ
>>[017]

タロット占いをあえてタロットと占いに分割するならば、占いの部分が問題になります。
その場合タロットの部分はセフィロトの知識を具象化した道具に過ぎません。

カバラはユダヤ密教であり、その源泉たるイスラエルの神が占いを禁じているため、タロット占いはカバラの思想に反するものとなります。
>>[18] へ そうなんですか・・・
’カバラはユダヤ密教であり、その源泉たるイスラエルの神が占いを禁じているため、タロット占いはカバラの思想に反するものとなります。
←’カバラは密教であり’・・・というのはそうだと思います。密教であるがために、カバラを伝授してもらった人でしか本来は理解できないようになっています。また、反対に言えば、カバラを実践していない人には理解できないから、密教と言っているとも言えます。

’その源泉たるイスラエルの神が占いを禁じているため、’
←とありますが。。。イスラエルの神とは?どういった者なのでしょうか?

タロット占いはカバラの思想に反するものとなります。
ひよこ←はい、そう思われている方がいらっしゃるようです。でも、それでもいいと思います。なぜならば、このタロット占いというものは、’卜’=’ぼく’という占術であり、この占術は理解しがたい、証明しにくいものだからです。なぜならば’密教’だからです。(。、ヾ
>>[020]

イスラエルの神とはユダヤ教、キリスト教、イスラム教で崇拝される唯一絶対神のことです。

キリスト教で言う旧約聖書においてアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ばれ、このヤコブが神様から与えられた別名をイスラエルと言い、以後その子孫はイスラエルの民と呼ばれます。
そのイスラエルの民の預言者モーセと契約した神でもあるためイスラエルの神と呼ばれるわけです。

そしてこの神様と契約するにあたり禁止事項が与えられたわけですが、その一つが占いなわけです。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』レビ記 19章26節
あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない。
私が、私だけで考えるのではなく、ヨブとともに考えるとき、人生という言葉には、私とヨブのふたつの側面があるということから、まずは考え始めます。
>>[21] へ
’キリスト教で言う旧約聖書においてアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼ばれ、このヤコブが神様から与えられた別名をイスラエルと言い、以後その子孫はイスラエルの民と呼ばれます。

←’キリスト教で言う旧約聖書において’とありますが、’キリスト教で言う’というより、’ユダヤ教の’と記したほうがいいように思います。(o^^o)

’そしてこの神様と契約するにあたり禁止事項が与えられたわけですが、その一つが占いなわけです。
←と、ありますが、これにはキリスト教の思想が入っています。キリスト教は占いを禁止していました。

日本聖書協会『聖書 新共同訳』レビ記 19章26節
あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない。
← ふぅ〜ん。そう記されているのですか。。。でも、占いを禁止したということは、その時代にも占いは存在していたということですね。どんな占いだったのでしょうか?ご存じですか?
モーセの時代の占いとは一体どういったものだったのでしょう?(。)ハテ?
>>[024]

占いと言っても手相とか人相とか統計学に基づいて傾向を分析したしっかりしたものや、逆に血液型など全く当てにならないデタラメなものではなく、超自然的な存在が介入するような占いだと思われます。

唯一絶対神以外の人知を超えた存在に身を委ねることは、そのまま偽りの神を崇拝することになるわけですw

そういう意味ではタロット占いは、偶然性に頼る部分が多く、そのような影響を受けやすい手法だと思われます。

なまじ当たるだけに、その影響力の出所、それに頼ることによる人生への悪影響を懸念してのことでしょう。

自分で責任を負うべき人生の選択を、出所の判らない怪しい霊に委ねる危険性を警告したものでしょう。
>>[024]

ところがユダヤ教においては旧約聖書という名称は存在しないんです。

ユダヤ教の聖書≒キリスト教の旧約聖書なんですが、今我々が手に出来るのは殆どの場合キリスト教の旧約聖書です。
本来はユダヤ教の聖書=キリスト教の旧約聖書だったのですが、後のユダヤ教が旧約聖書の一部を 不採用としたため若干の違いが生じました。

また手元の翻訳ではどうしてもキリスト教のバイアスがかかっている可能性があるため、キリスト教における旧約聖書と表現いたしました。

キリスト教が占いを禁じているのは、ユダヤ教の思想を受け継いだからで、オリジナルなわけではありません。
ユダヤ教では聖書と言わず、一般に「トーラ」、あるいは「モーゼ五書」といいます。

トーラは神のことばであるため、内容を加えても削除してもいけないという掟がありますので、

  >後のユダヤ教が旧約聖書の一部を 不採用としたため若干の違いが生じました。

というのは、「ユダヤ教」の教えが変わったというより、大昔に生じたカライテ派などの分派が発生したということだと思います。


ちなみに、ユダヤ教には 神vs悪魔という構図は存在しません。

一神教では、人間は神から創造された生来「善」の生き物ですが、「悪に魅せられる傾向を持つ」(これをイェツァー・ハラといいます) 生き物とされています。

占いはどこの文明にも大昔からあり、それを神のお告げとして、占い師には相当な権力がありました。(最近でもオーム真理教はこの類でしたね)
「出エジプト記」でもファラオの宮廷には大勢の占い師(魔術師)が登場します。
ですからユダヤ教では唯一の創造神以外、何も信じてはいけないとされています。


>>[27] へ いろいろご存じで勉強になります。
ところで、’占い’という定義の違いが問題になっているようです。ノストラダムスの予言など、’予言’を’占う’という言葉で表現したりします。予言も占いで出します。正確に言えば瞑想ですけど。 それと占いと魔術とは分けて考えており。。魔術でも’白魔術’や’黒魔術’など、いろいろな術があるように占いにもいろいろな種類のものがあるということです。
ノストラダムスも、カバラの占いで予言しています。正確に言えば、密教の瞑想です。それで未来を予言していました。カバラは密教ですから、密教の儀式で出していました。それをわたしたちは、一言で’占い’と言ってしまっています。
’占いはどこの文明にも大昔からあり、それを神のお告げとして、占い師には相当な権力がありました。(最近でもオーム真理教はこの類でしたね)
←卑弥呼の時代も占いをやってましたし、孔明も占いをやっていました。ご存じだと思います。
’「出エジプト記」でもファラオの宮廷には大勢の占い師(魔術師)が登場します。
←でも、その中で一番有名なのが、”モーセの十の災い”です。あれも術です。あと、モーセが紅海を二つに割って渡ったというのも、術です。

’ですからユダヤ教では唯一の創造神以外、何も信じてはいけないとされています。’
←それはそうですよ。(o^^o)
>>[25] へ
’占いと言っても手相とか人相とか統計学に基づいて傾向を分析したしっかりしたもの’
←これを、「命」と「相」の占いと言います。
’逆に血液型など全く当てにならないデタラメなものではなく、超自然的な存在が介入するような占いだと思われます。’
←具体的にどんな占いなのでしょうか?

’唯一絶対神以外の人知を超えた存在に身を委ねることは、そのまま偽りの神を崇拝することになるわけですw’
←はい、そう言われています。

’そういう意味ではタロット占いは、偶然性に頼る部分が多く、そのような影響を受けやすい手法だと思われます。
←それを「卜」の占術と言います。これが占いの中でもっとも高度な占術です。
’なまじ当たるだけに、その影響力の出所、それに頼ることによる人生への悪影響を懸念してのことでしょう。
←それって、黒魔術じゃないですか?

’自分で責任を負うべき人生の選択を、出所の判らない怪しい霊に委ねる危険性を警告したものでしょう。
←それって、確実に黒魔術ですっ。(∋_∈)
>>[029]

暗に卜が黒魔術と同根であると言ってるんですよw
「これは単なる『占い』であって決して『黒魔術』ではありません。」なんて、ヤクザが「これは新開発の合法ドラッグだから覚醒剤のように危険な物ではない」と説明しながら覚醒剤を売ってるようなものです。

ちなみにノストラダムスの場合はカバラを正しく理解した上で絶対神から啓示を受けているのであり、占いとは根本的に異なるものです。
モーセが受けた啓示も同様。
それらは絶対神を唯一の拠り所とするが故に、絶対神から与えられた啓示なのです。
>>[030]へ
あのー占いは卑弥呼もやっていました。これも「卜」という占術です。また孔明も占いをしていました。どちらもれっきとした占いです。
>>[032]

霊媒的なことなら尚更危険ですよw
 名古屋のクリ○チャンラ○フという、ペンテコステの教会には、預言者が来ます。
1人1万円で、個人預言をしてました。アメリカの有名なモ−ルスベイとダビデカイトリ−です。
子供ができない奥さんが預言をうけました。
「来年の今頃、子供が与えられる。」と預言されました。聖書箇所も言ってました。
しかし、彼女は子供が与えられません。そればかりか数年後、夫婦2人は離婚して(クリスチャン)
別々に再婚しました。モ−ルスベイとダビデカイトリ−は、イタコ(占い師:以下)であり、偽預言者で
した。
預言者を引っ張りだす教会には、ろくな物がない。献金・献金すれば祝福される。
 預言者を持ち出す教会はブラックです。
献金は、イエス・キリストを祝福することだと、頭に献金しかない。
そのように聖書にない事を語る教会は、気を付ける事です。
 新しいム−ブメントが、教会に入ったら、信徒が聖書で跳ね返すべきです。
ほんとヨブは大変な目に合っていますね。あんなじゃないとしても、理不尽なことに襲われるってことは僕たち誰もがありうる。いまだそういうことを経験したことがない人もいれば、そういうことをすでに味わった人たちもいる。

僕は理不尽なことだと感じることが自分を襲った時にも、それには神からの恵みと読み取れる側面があるのだと考えるようにしています。むしろ、理不尽な嫌なことという外見より、神からの恵みという側面こそ事態の本質なのだととらえるようにしています。
一つ一つの自分を襲う事態をいかにして神からの恵みと思うことができるのか。そここそ各人の考えようであり、人間の型にはまらない知性のありようが問われる所だと思います。

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