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平泉の文化遺産を世界遺産に!コミュの質問

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突然ですが

大河ドラマ「炎立つ」を全て見たことがあるかたはいらっしゃいますか?

当時の私は時間がなくビデオに録画していたのですが一部、テープが行方不明。

たしか「炎立つ」は前九年の役あたりかの話ですよね?そして奥州藤原氏四代にまで及んでいくドラマだったと記憶していますが・・

もし全て見たかたがいらっしゃいましたら、おおよそのあらましでもご教授願いたいと存じますので宜しくお願いします。

コメント(7)

炎立つは全て見ておりました。あらましを語ると、第一部「北の埋み火」、第二部「冥き稲妻」、第三部「黄金楽土」と別れておりまして、第一部では前九年、第二部では後三年、第三部では奥州藤原氏の滅亡を描いております。詳しく語るとかなり長くなってしまいますので、原作をお読みになってはどうでしょうか?原作がほとんどドラマ書き下ろしのような状況だったので、ほとんど原作と変わりありません。
ドラマはまったく見ていませんが、原作は読みました。
あらましを語ると以下のとおりとなります

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1.安倍氏による奥州覇権の確立
→奥州は金や馬、支那との交易により豊かであった中、中央からくる役人には面従腹背で半独立を気付いていたが、安倍氏の棟梁安倍頼時は最終的に独立を勝ち取るために動き出す。子の宗任や、藤原氏の傍系ながら奥州に心を寄せる藤原経清らの手を借りながら、いろいろ経略し最終的に奥六郡の支配権を得る事に成功する

2.源氏による奥州攻略
→安倍氏及びそれに協力した藤原経清による治世は奥州を富ませ民は安寧な生活を送る。が・・・都にいた源氏の頭領である源頼義は奥州征伐により源氏の名を上げんと野心を抱き、子の義家や一族郎党による奥州経略が始まる。出羽の清原氏の協力を得た源氏は次第に安倍及び藤原を追い詰め、最終的には頼義が勝利し、安倍氏は政治上から姿を消し、源氏の評価を上げるとともに、出羽の清原氏による奥州運営が始まる。

3.奥州藤原氏
→藤原経清の妻は、一連の流れののち、出羽の清原氏に経清の遺児とともに嫁いでいた。
中央政府からすれば出羽清原氏のこれ以上の発展を望まない事から、源義家を陸奥守に任じ奥州に対する中央政府の影響力の強化に邁進しようとする。その中で経清の遺児である清衡は義家の協力を得て見事清原氏を内部からのっとり、陸奥出羽両国を支配下に治め、ここに奥州藤原氏が誕生した。

4.源氏の勝利
→清衡は奥州を平定し、都への従順な姿勢を見せつつ支那との交易により莫大な資産を得て、国は富み、平和なうちに時間は流れた。都では平家の専横があり、平家に対する源氏の叛乱が起きた。源頼朝である。
奥州では三代秀衡が奥州を安寧たらしめるも、源義経が奥州に来訪することにより源平の争乱に巻き込まれていく。
義家の恩義や実利的な話から奥州藤原氏は源氏を援助するが、頼朝義経の不和や、頼朝の野望、四代目候補の泰衡の理想などから紆余曲折がある中に義経の武功により平家は壇ノ浦にて滅亡した。
秀衡は義経に期待をかけながら没し、泰衡の時代になった時に、頼朝の野望の前に奥州は滅亡するのであった・・・
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と、まあ原作はこんな感じです。
大河は見てないのでどういう構成かはわかりません。

あくまで、この解釈は小生の抄録なので知っている人はどしどし注釈を入れてください。
源ちゃんさんとQEDさん、無知な私のためにありがとうございました。読まさせて頂きました。前九年の役及び後三年の役はマンガ混じりの歴史本で読んだ程度で大まかしか知りませんでした。炎立つを見たいと思ったときに、ビデオが不足していることに気づき断念。
しかし御二方が掲載してくれたおかげて、いっそう奥州の歴史に興味をもつことができました。

またまた余談ですが上述したマンガ混じりの歴史本に注記のように掲載されていたことなのですが、前九年の役は12年間の戦いだったみたいですが、何故「九年」とされたのですかね?この戦いを記した者が間違ったのでは・・と歴史本には記載されていましたが、厳密には不明なのですか?
実はまさに12年間の戦争だったのです。
しかし、実際に12年間戦い続けたわけではなく、発端から終結までが12年というオチ

源頼義の奥州赴任は永承六年らしいのですが、そこから政経軍のいろいろな出来事があり、最終的に奥六郡を舞台とした戦役に発展し、安倍氏が滅亡した年まで12年かかったのです。

しかし、後三年の役が後に起こったあと、ややこしい話なのですが、12年の戦争と後三年の役が混同され、「12−3=9」ということで、最初の奥州の戦役が前「9」年の役と称されたようです。
3の質問には私が答えましょう。まず簡単な年表から
 時の陸奥守藤原登任が安倍氏に鬼切部で大敗したのが1051年。翌年源頼義が陸奥守に就任し、本格的な戦になるべき所、国母である彰子の病気平癒祈願の大赦が発せられて安倍氏の罪は許されます。
 しかし1056年、貞任が不祥事を引き起こし、朝廷は安倍氏討伐を決定。安倍氏討伐の勅命が下されます。
 1062年に安倍氏が厨川で滅亡し、戦そのものは終わりますが、岩手県は京都から遠いため、頼義が宗任らを連れて京に凱旋し、天皇に戦果を報告したのが1064年です。
 朝廷から討伐令が出る場合、天皇から刀を授かり、戦が終わるとその刀を返すと言うならわしがあり、刀を返すことが戦が終わったと言う証明にもなったのです。よって、刀が返されていないうちはまだ戦時中と言うことになります。(太平洋戦争が終結したのはポツダム宣言受諾時ではなく、正式にはミズーリ号で降伏文書に調印した時であるのと同じようなものです)
 つまり、朝廷側にしてみれば、大赦後再び安倍氏討伐令が下った1056年から、頼義が凱旋した1064年までの9年間が戦争状態であった期間として記録されるのです。だから前九年の役と言う名前になりました。
QEDさんと源ちゃんさん、無知な私のために本当にありがとうございます。
なるほど、前九年の役の始まりと終わりの捉え方によって解釈が異なるのですね。藤原登任との戦いを含めるか否かによって異なり、また戦いの終わりを、戦いそのものの終わりか刀を朝廷に返すときとするのかによって年数が異なりますね。
また後三年の役と混同されて12年から3年を誤って引きかれたとも考えられるのですね。

とても参考になりました。ありがとうございました。
今、かなりスローペースですが炎立つを読んでいます。
前九年の役の最初の戦い鬼切部の戦いのあたりを読み終えたところです。藤原経清の苦悩がありありと感じられます。
正義とは?

改めて考えさせられます。

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