ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

現代において書とは何か?コミュの書とは?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
書は書道界におさまるものではないだろう。

井上有一は、便所の落書きからインスパイアされたという。

書なんてどこにでもある。

筆者の自己紹介。私は井上有一、三代目魚武濱田成夫、小川てつオ、ハンネ・ダルボーフェン、ジョナサン・ボロフスキーらの影響を受け、今に至る。

東京学芸大学時代、「こんなところにいたら、自分はバカになる!」と思いつつ、なんとなく卒業してしまい、本当にバカに…。

以来、十数年間広島の実家に引きこもり、鳴かず飛ばすだったが、2004年に海上雅臣氏より「天作会」創設依頼、2006年には「世界書芸祝祭」に中国の書家・一了(イーリャオ)に推挙され、招待出品。2007年より「文字区」自主出品、2008年「ソウル書芸ビエンナーレ」招待出品、2009年個展「ふえ」(非公開)、2009-2010年「一人快芸術」(広島市現代美術館)に小川てつオにより推挙され、招待出品、2010年より「デイリー書道」(三代目魚武濱田成夫の発案。毎日作品をWeb上にアップする活動)に発表の場を求める。現在に至る。





こんな感じです。今日から盟友、マルハイの復活の日を信じて、このコミュニティを引き受けます手(パー)

前衛書家・山本尚志

コメント(34)

書家とは、誰にも認めてもらわないでも、自分の書を貫くバカ野郎のことだ。
デイリー書道より。

作品「タオル」

なんと、タオルが見えません。
回転ずし屋のノートに、誰かが書いた「うまい棒」。

わしのより良いなり。こうして人生の師は誕生するのだ。

心むなしく生きるのだ。
しかも、コーンポタージュ!

抜けきり方すごくねえ?
これぞ「率意」なり。これ以上のものはないなりよ。

どこかの子供が作ったおきもの。

どうよ?
ゾウの目の位置。おれはああなりたい。
なんだろうな。

無心て、必死じゃん?

力強いって、力を抜けきることじゃん?
たぶんゾウのおきものにインスパイアされた作品。
おれは無心になるとは、すべて出しきる、抜けきることだと思っているんだ。




みんなはどうかな?ウインク
コミュニティトップの文章にある

現代の『書』表現の可能性について

というテーマ。

若いときはこれしか考えていなかった。

まず、石川先生が筆蝕の話をし始めた。90年代の初め、学芸大の特別講義でだ。

書が技術論に大きく傾いた瞬間だった。書を包括的に捉える試みは、書の可能性を「終焉」という逆説的な比喩で表した。

自分はそのときすでに、作家として活動をスタートさせていたから、これには正直戸惑った。若い我々にとって、結構な事件だった。保守的な学生の中には、なぜ石川先生が我々を教えているのか、疑問の声もあった。

私も正直言えば、作家にとって包括的な理論は無用の長物で、彼自身が作家のはずなのに、一体なぜ?の思いが強かった。

だから、話を聞きに個人的にギャラリー「白い点」に行ったこともあったし、そこで作品を見せたりもした。

先生は自分のところに来い、作品を正しい眼で見ることのできる人間は限られている、と誘って下さった。ありがたいと思った。私は大変失礼かもしれないが、石川先生は私のライバルと考えていたので、その誘いには応じられなかった。

結論を言えば、私は石川先生は責任感のかたまりなんだと思っている。

作家であるのに、理論的に正しくもありたい。けれども、その正しさからこぼれて落ちる作品もある。

私の作品は、そちらの側にある。

私の感じる『書』の可能性は、以前にも述べたように「どこにでもある」ということだ。

例えば、ツイッターの存在。あれこそ『書』だ。一気加勢に筆をふりおろす行為に、とてもよく似ている。瞬間的な所作であり、言語を扱うという意味でも。

我々の世代の若者は、書作品と言えば、漢字・仮名・漢字仮名交じり・近代詩文書・大書・前衛・墨象なんてジャンルがあると考えていたし、悪くいえば既成概念を疑わない世代だった。

伝統的であろうとする者が大半で、無論、それは悪いことではない。私は書道部に所属し、自分たちがいかにそのあたりの既成概念にとらわれない存在か、毎晩語り合った。もちろん、地方の書家の弟子たちは、わからなかったし、輪の中には入らなかった。

ただし、柿沼康二君は、その中にあっては異質の存在だった。伝統的であろうとしていたし、自分を肯定的に捉えていた。現在の彼の立ち位置は、あの当時のままである。

松宮貴之君も優れた作家性を持っていた。中国人になりたいと、日頃から言っていて、作品も唸らせるような出来映えだった。今、どうしているのか、どなたかご存知ないだろうか。

板谷栄司はどうだったか?彼は書壇を離れ、書に別れを告げた。作品は私と活動していたからアバンギャルドになっていたし、また、彼はそこにおいても社会との融合を試みていた。私との活動をファイルに収め、フジテレビの採用試験に見事パスした。

そのように、自分たちから見える風景を一つ一つ大事にしながら、完全にアバンギャルドではない方向で、自分を貫いた若者もいた。

私は活動をともにはしないにせよ、彼らのことが好きである。
書の可能性は、だから書自体の拡がりだけを意味しない。

伝統的であろうとする者、その中で葛藤する者があっていい。

私は、自分の作品は自分の名刺程度にしか、そういう場合感じない。

自分が相手より優れている、あるいは自分は誰かにかなわない。

それは錯覚で、やはり一人一人の作家に可能性があると考えるべきなのだ。

私は権力的派閥には興味がない。

それは私自身が縛られたくないと感じるのと同時に、誰にも自分を縛ってほしくないと感じているからだ。
自分の中にも可能性があると信じることが、私は作家への第一歩だと思っていて、いや、第一歩どころかそれが全てだと思っている。

だから、書の可能性は、個人の営みの中にしかない、と言った方がいい。

道はいずれ拓けるに決まっている。その人、その作家がそこにいるだけで、わくわくしてくるくらいだ。
以上が、私の考える

「書は万人のものである」

という提言の意味だ。
松宮君、ツイッターやってるの知らなかった。

ずいぶん前に調べたきりだったので。

作品を無断転載させていただいた。あとでメールを送ろう。
彼の書論もよかった。興味のある方は調べてみて下さい。
松宮君にメールを送りました。ツイッターではなく、ジュゲムでした。
松宮君から返事あり。転載許可もらいました。

久しぶりに会話して嬉しかった(^^)d
もう書家とか書とかどうでもいいや!と思ったアナタ!


実は大正解。

そういうときに次回作書くといい感じです手(パー)


松宮君ごめん。

君はあの頃より少しは変わったらしいけど、

おれ変わった気配ないや。
自分をとことんまで蹴散らせ!苛め抜けッ!もがけッ!もがいてくたばるまでやれッ!
こういう日常からしか作品は生まれないんだなあ。(みつを)
松宮くんの本「書論の文化史」(雄山閣)読んでます。

その中の政治家・清浦奎吾を扱った第十二章P.235「書道文学優位論」が面白い。核心ついてる。書とは何ぞや?と問いかけながら生活している人は必読だ。

私なりに解釈すると、

書が美術に擦り寄らざるを得なかったのは、当時の貫名海屋に代表されるような、文学的にはイマイチなくせに、書が芸術だと言い張った教養のないやつらのせいだ。

以下、同ページより引用。

「日下部(鳴鶴)は貫名海屋に私淑したとされるが、(中略)文人中で詩名の高くない貫名の書を特化したことで、書と文学の分離を促す契機が蔵されていたし、後に書道が『芸術』と目されるようになる近代書道史上の過程に於いて一大分岐点となっている。」※()内は山本。

ね?面白いでしょ?あとは各自買って読んでほしいな!
このコミュニティの紹介文、改めて読み返してみると


…荷が重いやね。


「書」とは?


いや〜、最近は内側からあふれでる作品のアイデアを形にするだけで精一杯で、正直自分以外のことを考える余裕なんてなかった。

というか、自分の作品世界(オリジナル)を決定的に確立する時期に来ていると思っているので、

それに必死なんだよね。













迷っている人がいるなら、ひとつだけアドバイスしておきたい。

自分の作品の中で、一番好きな作品、つまりこれまでの「代表作」が、その作家の一生を決めると思う。それはもう実は出来ているんだ。気づいていないのか?

で、あとはそれを書き続けりゃいいんだわ手(パー)

自分の場合は、かんたんな図形を描いて、そこに好きな字を入れていけば、一生遊べると思っている。

各自が一番得意なヤツを突き詰めるのだ。

ただし「だれかの真似はダメ」というキツイルールがつくから注意。

模倣から入って、そこから抜け出すんだ。

それがアーティストの一番のルール。

みんなそれを守ってきたんだよウインク

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

現代において書とは何か? 更新情報

現代において書とは何か?のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング