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上座仏教を知るためにコミュの苦しいとき

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仏教の真理の一つに苦(ドッカ)というものがあります。
一切皆苦とも言われてます。
皆さんはどのようなときに苦しみを感じますか。
それに対して、どのように考えるのか、皆で考えて見ましょう。
私はつい最近、病気になり死を体験しました。
死の瞬間は苦しみではないと知りましたが、
病気は苦しみでしたね。
私はそんなとこですか。

コメント(51)

: pochi さん
なかなか素敵な考え方をしていますね。
?モラル(道徳心)
?知識・教養
?集中力
それはそのような考え方をしている個人には必要でしょうが、私のような刹那的に今がよければいいと思っている人には通じないと思いますが、どうせ死ぬのなら勝手にやって楽しんで死ねばよいのではないでしょうかね。
快楽主義ではいけないのですか。
人に迷惑をかけなければいいのではないですか。
: pochi さん
いろいろお答えをありがとうございます。
それぞれの考えがあると思いますので、
ぜひ皆さんで私の問題に反論してくれませんか。
この問題は世間一般に言われる問題ですから。
快楽主義に対してどのように考えるか、考えてさい。
スポーツや楽器などの練習をサボると、目に見えて能力が衰えていきます。それと同じように、普段の生活でも、楽ばかりを求めて楽な方に流れていくと、心身の衰えによって、かえって不自由が増えていくような気がします。
そういう意味では、快楽主義も度が過ぎると苦しみに変わるのかなぁと思います。

私が特に「苦」を感じるのは家族や親しい人が苦しんでいる姿を見たときや、苦しんでいるのが分かっているのに、何も出来ないときです。
はすみ
>親しい相手とのやりとりの中でそれを感じることが多い、ということです。
すごくそれを感じます。身近な相手とのやりとりの中でそれを感じることが多い、ということはなぜでしょう。執着が強いのでしょうか?教えてください。

親しい相手というのが、異性なのか同姓なのかによって変わりますね。
同姓ならばあまり執着はないでしょう。
嫌ならば少し離れていれば良いのですから。
異性ならば執着が苦しみになることは当然ですね。
異性間は取引と同じですから、損をすれば苦しくなりますよ。
慈悲とは違いますからね。
興瑞さん
興瑞さんの答えは私は好きですね。
周りの人が苦しんでいるのを見て、苦しくなるという
やさしさがいいですね。周りの人たちの苦しみを助けるためには何が必要だと思いますか。

らりゅう さん
その通りですよ。思いどうりにならないと人は苦を感じます。でも思いどうりなるものなど、一つもこの世界には
ありませんけどね。
さて、どうしましょうか。
らりゅうさん
親なら別に執着しなくてもいいのではないですか。
親と仲良くしたいならば、私は行ったことがありませんが、
内観などがいいみたいですよ。
それも自分の心を変える方法ですが。
親は、自分が期待するほど、なにもしてくれなく、立派であるはずはないのかもしれませんね。たぶん自分も同じようなことでしょうしね。

別な生き物ととりあえずしておくととらわれが減り、ひとごとのように眺めておられるかもしれませんね。自分に対してもそうかもしれませんしね。

本当は、自己をコントロールし、自立するしかこの問題は解けないかもしれません。親に対しても、人がよくかかるさまざまな依存症の最たるものかもしれませんしね。



そして、親も子もその周りの人も、生き物もその辺の事情はそんなに違わないのかもしれませんね。
話は違いますが、
先日、臨済宗の僧侶が訪ねてきました。
ミャンマーに修行に行きたいけど、どこが良いかという
ことでした。
前に一ヶ月ほど、ミャンマーのマハシで修行をしたようです。聞けば、二三年はミャンマーに滞在したいと言うことでした。
私は長く行くならばパオク瞑想道場が良いと薦めました。
パオクはサマタ瞑想から入り、非想非非想処の瞑想まで行ってヴィパサナー瞑想に入ります。
ですので、ヴィパサナー瞑想に入るまで、少なくても三余年は繋ってしまうのです。
しかし、この方法が清浄道論にもある、仏陀の瞑想に一番近い方法です。
近頃は在家でも瞑想ができやすいように、サティを中心のマハシ瞑想が日本でも流行っていますが、本格的に悟りを開きたいならば、パオク瞑想がもっとも適切だと思われます。
このような人が出てきてもらえれば、日本人で悟る人が現れるかもしれませんね。
皆さんもミャンマーで瞑想をしたいと思ったならば、サポートもしますので、私を訪ねてください。
話題をずらしてしまって、申し訳ありません。
「どうせ死ぬんだから、好きなことをやればいい」
「欲があるからがんばれる」
という意見には、どう答えればいいのでしょうか?
ご意見お願いします。
なんとか自分で答えようと思いましたが、
自分の理解がいたらず、説明できませんでした。
はすみさん
人間ですから、親子も他人もありませんよ。
特に親子関係は遠慮がないので、うまくいかない人も
多いですよ。
それが、世の中です。
でも親子ですから、一生離れられませんから、
少しの間、離れてお互いに距離をとったらいかがですか。
離れても親子には変わりがありませんから。
うまくいかそうと思わないことも、必要だと思いますよ。
個人は個人ですので。
はすみさん
親子だからうまくいかそうと考えてもできないものは
できません。それは親子であっても個人と個人、個性があるからですよ。
親子だから、うまくいかなければならないというのが、間違いですといいたいんです。

親子こそ難しいときがありますし、親子ならば切っても切れませんから、一度離れてみることも必要だと思いますが。

そこで、お互いの良いところを発見するかも知れませんから。
げっこー さん

「どうせ死ぬんだから、好きなことをやればいい」
「欲があるからがんばれる」
という意見には、どう答えればいいのでしょうか?
について、私なりの見解を言っておきます。

これは私もいつも困る問題です。
「どうせ死ぬんだから、好きなことをやればいいという
答えには、
「好きなことだけ、できますか。」「嫌なことも沢山世の中にはあるのではないですか。」「仕事を好きになってと言うことと、好きなことをやってということは違います。

人生は好きなことだけをやって生きることはほとんど不可能です。

だれでも遊びたいでしょうね。誰でも仕事も何もしないで
南国にでも行って遊んで暮らしたいでしょうね。
そんなことは、ほんの一部の人しかできません。

皆、悩んで苦しんで迷って生活のために仕事をしております。
だから、好きなことをやって生きることはほとんど不可能です。

ただ、仕事に楽しみを見出す人もおります。
それでもすべてが好きに生きられるかといえばそうではありませんね。

身体も駄目になりますし、病気にもなりますし、子供たちが問題を起こしますし、好きなことだけやって生きられることはほとんどありません。
問題がない人間など誰もいないでしょうね。好きなことだけやって生きることなどだから不可能でしょうね。

しかし、大金持ちでなにもせずに遊んで暮らしている人もおります。その方は、好きなことをやって一生暮らしているようにも見えます。

でも、ヨットで遊んでも、酒を飲んでいても一時の楽しさでまた次の楽しみを捜さなくては成りません。
そのうちに身体を壊してどうにもならなくなるときもあります。
社交界にいても、人間関係で悩むこともあります。
人間に接触しないわけには行かないからです。

つまり、好きにやればいいと思うのは無理があるのですよ。
それはいつ無くすかの冒険をいつもしているのと同じだからですよ。

好きにやっても、満足感がなければ幸せにはなれません。
欲を満足させて、
幸せ感をつかめるのは、その欲を満足した
一時だけです。
次にはまた更に次の欲に向かって心は進みます。
その欲に向かっている間は、やはり様々な苦しみがあります。

でも人間はそのような苦しみはできるだけ忘れようとします。それが、無知な人間の生きかたです。

更にはもしも来世があるのならば、好きにやったその後は、
確実に徳が切れて餓鬼道か動物に生まれ変わります。

それでも良いと無知な人間は言うでしょうね。
私は人間の僅かな快楽と引き換えにするのは、あまりにもわりがあわないと思いますが、それでも良いという方はほおっておくほうが、いいのです。

体験しなければ分からない人もいるのですから。そこが、動物であり、餓鬼道であり、地獄なんですから。

だから、人間としていきることは、心を向上させる、人格の向上を第一にすべきなんです。

そうすれば、幸せも自然に手に入りますし、来世が仮にあっても安心です。

欲だけではなく、好きなことだけでも決して生きられないのですから、人間としてやるべきことは心の成長、人格の向上です。
それによって安心な幸せが得られると思います。
お答えありがとうございます。

>らりゅうさん
自分でも、そう言われるとそうかもしれないなあ・・
と思う部分があるので、答えられないのかもしれません。
こう思う、といえるだけの理解がやっぱりないのだなあと、思いました。

>ねぎぼうずさん
じっくり読ませていただきました。
確かにそうです。
でも、そう言われると確かにそうだ。と思うのに、
すぐそのあとで、何か楽しいことはないかと買い物してまわったりして、結局楽しくしていたいと自分も思ってしまっている気がします。
自分でもちゃんとわからないのに、人に説明はとてもできませんね。
: げっこー さん
楽しく、明るく毎日を生きるのは正しい生きかたですよ。
ただ、快楽に走る生きかたは必ず苦を伴います。
その区別だけです。
毎日を明るく、楽しく、前向きに生きてください。
それが正しい生きかたです。
mayaさん こんにちは
毎週、瞑想頑張ってますね。
フラメンコや英語も習っているのですよね。
うつ病対策にもなっていいと思いますよ。
一般の人に対して仏教では何をやってはいけないなどということは余りありません。しかし、仏教徒には趣味としても魚釣りや猟など殺生することはよくないとはっきり言ってます。
勿論、ギャンブルや酒も良くないと禁止しておりますが。
他はありません。どんどんやられても良いと思いますよ。
サティも出来る範囲で気付いていてください。
歩くときはサティを入れるとか、フラメンコで踊っている状態にサティを入れてみるとか工夫しながらやってみたらいいと思いますよ。
楽しんでやればいいんですよ。
そんなに立派な性格作りと構えなくても、気楽にやるべきですよ。サティが続けばそのうち、何とかなりますから、気にしないことです。
今の瞬間を楽しんでください。
ごくごく身近ないろいろなことや、
少し離れたいろいろなことや、
遠い遠いいろいろなことから影響を受け、関係し、考え、呼吸している自分の心が、

表面的にはどうであるか、
その少し下の心の層ではどんなふうであるか、
もっと深い深い霧のように見えにくい心の層ではどうであるかに、
常に静かな気づきを持ちながら、

心の内と心の外のさまざまなものを幸せな方向に運べるように毎日を生きさせていただけたらいいなあと思います。
固定した楽はなく楽は苦の不在でしかない、1つ1つの感覚は必ず苦というものを生じさせその感覚が別の感覚に変化する時に苦が消えて楽を感じるわけだ

生命は人間であれ畜生であれ神々であれ地獄の霊であれ感覚を求めて感覚からくる刺激で心を変化させて生きとるわけだから生命が生きるということからはこの世であれ彼の世であれ苦しみが消えることはない、これが簡単にいうところの一切行苦(よく一切皆苦と書かれとるけど一切行苦のほうが正しい)の理ってやつだ

この一切行苦の理への理解が深まると存在することへの執着が弱まる、そして存在することへの執着がある程度弱まると「もう存在しなくていいや私という存在は終わりにしよう」と存在することへの諦めが心に生まれる

この存在することへの諦めが生まれるのが預流向の境地で更に瞑想修行を続けて存在欲を停止させると無常を体得できて預流果を悟る

こういう心の流れで預流果を悟ることが出来る、私は一切行苦に心を集中させて預流果を悟ったけど諸行無常でも諸法無我でも存在欲を停止させて預流果を悟れるのは変わらない自分が心を集中させやすい真理を選んで瞑想すればいいのです(^人^)
>>[046]

もうサムパットさんは存在欲を停止してしまった、という意味でしょうか。
>>[047]

存在欲は阿羅漢果を悟るまでは消えないけど預流果の段階でも悟りを得る時には存在欲が一時的に止めないとならない

だから預流果を悟った時は存在欲が止まっていたけどそのまま止め続けることはできないので今は普通に存在欲は働いてます

次の一来果を悟るにはもう一度存在欲をガンバって止めねばならないけどコレがなかなか難儀でね一度止めたことがあるから二度目は簡単とはいかなくて苦労してますf(^ー^;
>>[047]

この存在欲を停止させるってのが辛いんだわ、何せ意欲や希望や喜びも全て存在欲と結び付いた感情だから3つとも消えるからねぇ

そして意欲と希望と喜びが完全に消えると心はドン底まで落ち込んでしまう、もう端から見たら重度の鬱病かノイローゼにしか見えない

そんな真っ暗闇の中で闇の向こうに悟りの光があると信じて修行を続けるマジに地獄のような苦しみだわ

これだから在家の暮らしでは預流果を悟るのも難しい、在家で意欲も希望も喜びも消えた状態で日常生活を維持するのは困難だかねぇ(´-ω-`)
意欲や希望や喜びなど意図するしないなどと関係なく、生体だから存続の生存欲があり、持病の病気は苦しみだから、あれこれと辛すぎて原因や理由を虚しく妄想しては絶望し、痛みが和らぐ瞬間はしばらく、生き抜く疲れとめまいにむしろ寛ぎながら、また痛みの再来で辛く苦しみ、その繰り返しの日々。存在欲以前として、生体物理本能的生存欲も切れない状況で、今更,敢えて存在欲などどうこうするしないなどの気力も悟り欲などもない。ただ老病死は「苦」であり、その受け止め方で、「無明」から完全に離れ、もろもろの煩悩や執着から離れることが出来て、常に「無我」や「空」の境地にでも入れれば、生存欲も、そして当然に存在欲も越えられるのかもしれないが・・・。「生存はすでに尽きた。清らかな行いは修せられた。なすべきことはなされた。もはやこの世の生存を受けることはない。,と確かに知るのである。(サンユッタ・ニカーヤ)」、となりたいものだが。。。
>>[50]

人により生きている条件やありようはおっしゃるように大きく違うでしょうから、他人と比べたり無理やり同一視するよりも、
自分自身の条件やありようにしっかりと念をふらつかせずに住して、
まさにそこにおいて自分と一体の仏法を丁寧に追究してゆきたいと僕も思います。

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