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ケン・ウィルバー(Ken Wilber)コミュの次なる段階へ

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 質問があり、いろいろなコミュニティーを徘徊しているのですが、これといった答えが見つからないのでお邪魔させていただきました。
 場違いであれば削除していただいてもかまいません。

 それと失礼ですが瞑想コミュニティーへ載せた質問をそのままコピーさせていただきます。

↓↓↓
みなさんのコメントを読んで、瞑想経験者の方々の共感出来るところが多々ありました。が、誰も触れていない事などもあったので、私が経験しているものが変性意識状態なるものなのかどぉか分かりません。
状態に入る方法も独特ですので…

管理者さんにすすめられて、若輩者ながら瞑想経験者の方々からの意見や助言などいただきたく、トピックを立てさせていただきました。
よろしくお願いいたします。


私がいつも体験している状態を文字で表現するには心細いですが…

 私が状態に入る方法は真っ白な天井と壁の角を力を抜いた状態で集中して見ます。
しばらくすると光の輪が出てきて、目を閉じてさらにその奥に意識を集めます。意識がその輪をくぐり抜けようとすると、なぜか拒絶してしまいます。イメージとしては膨大な質量というかエネルギーというか…とにかく未知の恐怖を感じたのは覚えています。(今は大丈夫なんですが)
光の輪をくぐり抜けた瞬間に意識の加速を感じました。(走馬灯もこんな感じなのかも)
輪の中は心の中というより、はっきりと空間を認識しました。通常の意識に還った時に一瞬どっちが現実世界なのかわからなくなります。
空間はエネルギーで満ち、流動しています。私はその一部で、例えようのない幸福感で満たされます。
そこでは主観はあるのに思考を持ち込めません。もしかしたら持ち込む必要がないだけかもしれません…
滞在時間は今のところ長くても三時間ほどですが、抜けた時には何年も何十年も旅にでも出ていた感覚です。

 ざっくりとこんなところでしょうか。

 思想家のケン・ウィルバー氏は、私が体験している意識から、段階的上層に主観もなくなる状態が存在することを言っていたのですが、主観無くして、どぉやってそれを認識したのか不思議です。…今の私にはそこに到達する術がありません。 ここで聞いても思考を持ち込めた試しもないですし……『考えるな、感じろ。』とは、こういったことなんでしょうね。

皆さんの瞑想による体験をお聞かせ下さい。また、次なる段階を体感されている人がいましたら是非ともアドバイスなど戴けましたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。


コメント(13)

この記述は主に視覚的な側面にかたよった記述であるように感じました
感情、情緒がその体験の中でどのようであったのか、
どのような変化をしていたかあるいはしなかったのか、
ずっと冷たい観察者のようであったのか、
3時間後もやっぱり冷たく冷静な観察者であるだけでそれ以上でもそれ以下でもなかったのか…

視覚の向こう側ではなく、視覚のこちら側の自分への気づきはあったのかなかったのか

瞑想を始める前の動機は瞑想の過程で深く見つめられたのか、あるいは瞑想を終えた後で深められたり反省されたりしたのか

問うてみるべきことはたくさんあるので、この記述だけからどうこう判断できるほど能力のすぐれていないぼくにはこれ以上何とも言えません
まずはじめに率直な感想として、このような場でご自身の体験を書き込むこと自体、サトルバンさんは、ご自分の瞑想体験が、「余人にはなかなか出会うことができない特別な体験なのだ」、と思いこみたい&主張したい、という欲望があるようにしか感じませんでした。

瞑想後に、

「あ〜、例えようもなく幸福な体験だったなあ・・」

と思ったなら、別にその体験がいいものなのか悪いものなのか、段階的に正しい物なのか正しくないものなのか、他人からジャッジしてもらう必要なんてまったく無いとしか思えません。

そういう体験をした、という記憶は、記憶(過去のこと)でしかありません。

問題は、そういう体験をした、という記憶について、こんな風に、他人にあれこれ質問せずにはいられない、今現在の、あなたの有り様、という気がします。

あなたは、あなたがそのような幸福な瞑想体験をしていた時について、「そこでは主観はあるのに思考を持ち込めません」、などとおっしゃっておりますが、もしその瞑想の時点で「主観がある」と“思った”のなら、そこには明確に“思考”があるわけですし、その瞑想の時点で「主観がある」と思えていなかったのなら、それ(主観はあるのに、というところ)は瞑想の事後に生じている誤解(迷妄)に過ぎません(「空間はエネルギーで満ち、流動しています」なんて思えた時点で思考は存在しているとしか思えないし、そのようなことをその時点で“思考”しているわけでないとしたら、記憶として思い出しているということでしかなく、その思い出し(想起)は今起こっていることで、そのような想起、および、想起の上での「空間はエネルギーで満ち・・・」云々という記述が、瞑想体験を遺漏無く汲み取っているものなのかどうか、はなはだあやしいと言わざるを得ない)。

そう考えてみれば、ウィルバーが言っているらしい(私自身はほんとのところをよく知らない)「主観もなくなる状態が存在する」ということも、サトルバンさんが過去の体験についてある種の記述を与えているように、ウィルバーも過去の体験についてある種の記述を与えているに過ぎない、ということで納得できるのではないでしょうか。

(瞑想に限らず、人はそれぞれ多様な体験をするわけで、その記述について、より正しい、正しくない、みたいなジャッジは決してできやしない、と私には思われる、ということです。「より売れそうな記述(より人の耳目を集めそうな記述)」とそうでない記述、というジャッジは、非常に強力にありそうではあるけれど)
 皆さんコメントありがとうございます。
さすがにウィルバー好きの皆さんは厳しいですね。

 まず、私は聖なる道を志す者ではありません。『瞑想』という言葉を使うと勘違いされるかもしれませんが、トリップ目的です。幸福感という心地よさにとらわれたジャンキーであります。 
 質問をさせていただいたのは 上層に違う場所があると書いてあったので、(たしかシンプルだったと思います)さらに心地よくなれるのでは?という思いからです。
 
 きっかけは、ひと昔合法だったマジックマッシュルームを初めて食べたときにたまたま見付けました。それ以後その感覚にチューニングする感じです。

 自分のイメージに変換しているのか、事実そうなのかはわかりませんが映像としても認識しています。確かに映像も、幸福感も事後に思い出すことですが、思い出すことが出来るということは、そこには主観があった、でいいのではと自分では解釈しております。
故に、ウィルバーは主観を無くしたことをどぉやって認識したのか?という疑問と、体験してみたい気持ちで質問を出させていただきました。

 思考を用いても万物の関係性やら、それらの流れを模ることは出来ますが、実際あちら側でエネルギーとその流れというものを認識したのは事実です。どぉ突っ込まれても認識してしまったんです。


世の宗教者は摂理を感じたからといって 精神的に向上したとか、こうでなければいけないとか綺麗ごと並べます。繋げるのは個人の自由です。ですが、私からしたら全く別の話です。私が未熟だからかもしれません。
ただただ気持ちよくなりたいという私の反応であり、私という反応です。


文章や言葉のチョイスは苦手なので、変なところがあったらすみません。


 私の体験に対して嘘だ!と思う方も当然いるでしょうが、出来ればそこは伏せていただきたいです。他のコミュニティーでも私生活でも散々やってきて、キリがないんです。
仕方がないんですorz

続、経験者求む。
> 曙光等さん

>ウィルバーも過去の体験についてある種の記述を与えているに過ぎない、ということで納得できるのではないでしょうか。


衝撃!気付きませんでした。そうゆうことなら納得できます!

普段から他者との比較、優越感。確かにあります。これはもぉ100%廃除するのは諦めてました。
けど、それがない所があったんです。そんな開放的な所が気持ち良くないハズないですよね(とまた比較orz)己を塞ぐよりよっぽど気持ちいいマスターベーションを見付けてしまったんです。

戻ってしまえば只の臆病者ですけどね

貴重な意見ありがとうございます。
サトルバンさんはなかなかの正直者ですね。

曙光等さんのウィルバー批判は的を射ていて、ウィルバーがnon-dualityというと、どうしてそんなことを体験したと言えるのか、それはすでにあとから構築された概念に過ぎないのではないかと、私も疑問に思っています。

現在の宗教学や宗教哲学では、宗教体験そのものが宗教言語によって規定されているとすら言われています。つまり、あらかじめその人のバックグラウンドや期待しているものが、体験の内容を大幅に規定しているということです。そして、東西の宗教伝統に共通する体験があるではないかという意見に対しては、そういうとらえ方は東西の宗教伝統への知識が流通してから出てきたものであると言われています。

一方、ドラッグを体験すると、変性意識状態になりやすくなるという話はよく聞きます。僕は、オランダにいたときでさえマリファナに手を出しませんでしたが、それはその意識状態の「記憶」を作りたくなかったからです。いったん出来てしまうと、それを再現しようとするからです。

ある高揚した意識状態と、普段の日常の意識状態は、乖離が大きければ大きいほど、その高揚した意識状態への嗜癖・依存を容易にします。僕が知っている範囲では、やはり精神的に不安定なのではないかなと思われる人が、体験者のなかには多いです。グラウンディングということがよく言われますが、そもそも瞑想は、「快楽追求という苦しみ」から解脱するためというモチーフもあったように思われます。しかし、それをいきなり実現することはできないので、生活のなかでの行も大事という作業療法的な知恵が、修行者のなかにはあったことでしょう。

あまり、直接的な答えにもヒントにもなっていないかもしれませんが、何かを考えていただければ幸いです。
私も私なりの個人的理由で瞑想をしているもので、この件についてはどうしても気にかかるところがあり、もう少し書き込ませてください。

ウィルバーが正確にはどう書いているのかは分からないのだけれど、サトルパンさんがトピックを立てたときに書いていたのは、「段階的上層に主観もなくなる状態が存在する」、ということで、「(瞑想において)主観がなくなることを認識した」とか「体験した」、と書いているわけではなさそうですよね?

もし「認識した」とか「体験した」とか書いてあったのだとすれば、私が3のコメントに書いた通りの理由で、そのような認識もまたはなはだ疑わしいと言わざるを得ないと思うのだけれど、「段階的上層に主観もなくなる状態が存在する」、ということであるならば、なんとなく、“あれ”(というか“それ”というか“このこれ”というか・・・・)について言っているな、という心当たりはあります。

“それ”は、別に、私が瞑想中に「体験」や「認識」したというわけではありません。瞑想も含めたあらゆる体験についてあれこれ納得できるように考えてみるうちに、「主観もなくなる状態が存在する」と記述するより他ないよな、としか思えない“場所”に、いつの間にか立ってしまっていた、ということです。

私なりに精一杯考え、また瞑想などするうち、どうも、事態は確かに思っている通りらしい、と確信が深まっていくにつれ、以前に感じることはまずなかった「心地よさ」というものが、瞑想時に限らず、日常のあらゆる場面で広がりつつある、という感覚もあります(まず、端的に身体的な快も増しているし、なによりありがたいのは、特に自分で何をするでもなく、あれこれの心配や不安といった事柄が、心理的側面からも、外的事情からも、剥がれ落ちていってくれてるとしか感じられないところにあります)。

そういった極々個人的な、なんの根拠も無い私の視点から見てみると、「幸福感」でも「エネルギーの流れ」でもなんでもいいのだけど、瞑想という特別な時にだけ感じられる(認識される)ものにとらわれている限り、「主観もなくなる状態が存在する」と、ついつい記述したくなってしまう“段階”には辿り着けないという気がします。

「主観もなくなる状態が存在する」、とついつい記述したくなってしまう段階というのは、なにか、瞑想時に色を見るとかエネルギーの流れを感じるとかではない、“認識”するようなこととはまた違った別の事態(というか“認識”ということを生み出す母体、というかなんというか・・・)で、このような場で、なんらかの経験者の経験談をつのっても、“次なる段階へ”と繋がる指標のようなものにはならない、むしろ、迷いの本になる、と私は考えます(この私の記述も含めて)。

単なる読み物として楽しむだけなら、私もまた、そのような経験談を読んでみたい気はしますが。
その体験自体が、自身の持つ記憶やら期待などのバックグラウンドに基づいての発生、という説は有り得るかもしれませんね。
もしそうなら真実を知る、という面では当然邪魔になってしまうでしょうね。
ですが私自身、過去に生きてきた記憶や思想に執着していますが それでいいです。
もし私の行く末が何者かにより既に決まっていたとしても、今ここで確かに存在し、選択している実感が有る限り、私以外の全てはたかが背景でしかありませんからね。
 私が求めているのは真実ではなく、実感ということです。



曙光等さん

私もあくまで他人の体験談話や思想として楽しんでいるので、惑わされることはないと思いますよ。その話の中から自分でも知らなかった新たな感覚を見付け出せたらいいなって程度です。

>> 日常でもあらゆる所で心地良さが拡がりつつある。

という感覚が私にもあるんですが、アクセスによって得たものなのか、思考的に常に隣接していた事に気付いただけなのか曖昧で、もしかしてそうなのかな?くらいにしかとらえられていません。まぁ結果オーライです。

あと、瞑想時と通常時を別々にとらえていてはそこに辿り着けないような気がする。との事でしたが、何かボンヤリとした独自の考えやイメージ等があったのでしょうか。興味津々です。不確かでもなんでもいいです。もしよろしかったら聞いてみたいです。言語で表現出来ることではないかもしれないですが、なんというか…すみません…

まるっきりの直感で物事を話す方ではなさそうな気がしたので(勝手に)

サトルバンさん

私自身のなかで、なにやら妙に「心地良さ」が広がりつつある、というのは、あれこれ学んだり瞑想実践を積んだりなんらかの師匠や体験にアクセスしたり、というように、“段階”を踏みつつ徐々にそうなってきた、というわけではありません。

物心ついたときから折に触れ感じてきた・・・、というか、「感じる」、などと特別に言うまでもなく、ごく当たり前で、当然、誰にとっても“当たり前”のこと、と思ってきたことが、あまりに“当たり前”すぎて、普通の人が空気や重力について(無くなるかもしれない)などと気にすることがないように、私の中でもほとんど気にかけずにいたことを、ようやっと今になって取り戻しているにすぎません。

進学し就職し、と、年を経るごとに徐々に気付いてきたのは、私が“当たり前”、と思っていることがらは、空気や重力がそれとして(科学的言説だの常識だのによって)語られているようにはまったく語られていないということでした。むしろ、皆は、あまりに当たり前なので語るほどでもない、と語らないでいるのではなく、その私にとっての“当たり前”を、ほとんど感知していないらしい、ということを、あれこれの哲学者や宗教的教説や神秘主義的言説から気付きはじめたのでした。

そのあたりの周囲と自分との隔たりの気付きが深まってくるのと相まって、実生活上でもあれこれまともに立ちいかなるような事件が連続して、瞑想やトランスパーソナル心理学なんてものにも救いを求めるようになってしまっているうちに、あまりに私にとって当たり前すぎてないがしろにしていたことがらが、実は、一番大切なことだったんだ!、と実践上でも理屈の上でも納得が深まってきているのでありました。

それなりに、その“当たり前”を無視した一般的常識的な生活にも適応していたので、なかなか、その私自身の“当たり前”を、日常の当たり前として取り戻すのには、難しいところもあります。そういった点で、私は、ある種の段階を登ってきた、という言うよりも、「もともといた場所に帰るために、あれこれ余計なものをそぎ落としはじめている」、と言ったほうが実感に近い記述になります(そんな私のここ最近の日常は、意識的にはそうとしか思えない絶対的に大切な“当たり前”を、非常に微妙な行動や思いのうちで、実にあっさり裏切っていると思い知ること、とでも言えるかもしれません。人間世界の日常って、ほんとに細かなところで巧妙ですw)。

そういう私から見ますと、サトルバンさんは「私が求めているのは真実ではなく、実感ということです」と書いておりますが、“実感”するのは、サトルバンさんならサトルバンさんでしかなく、私なら私でしかないのですから、このような場でついつい他人の体験談を求めずにはいられないあなたのような有り様というのは、(他人の体験談を読む前から)「惑わされている」、としか思えません。

(と、このように書くと、事後的に、「言葉足らずでした。私が求めているのは真実ではなく、誰かの実感についての記述です」、とかまた訂正されそうだけれども、指摘される以前にそうサトルバンさんが書けていない時点で、サトルバンさんは、“実感”ということと、“実感について記述する”ということについての、微妙な“感度”が無い、ということなので、私は、そのように微妙な感度の無い人の“実感”の記述というものを見ると、もっと瞑想を丁寧にやれよ・・、とちょっともの申したくなってしまうのでした)
しばらくぶりです
曙光等さんの言っている意味が私の勉強不足のためにちょっと分かりませんでした。せっかくコメントいただいたのにすいません。

それともう一つ皆さんに謝らなければいけないことがあります。
。。。
ウィルバーの著書で
主観がなくなると書いてあったと言いましたが、解釈を間違えていました。
正確には、目撃者(主観)とそれ以外のものが完全に同一化する、溶け合うということでした。
んで、その後ちょっと宗教?禅?瞑想?というものに興味をもって 文献やら覗いてみましたがイマイチ理解できず。。。orz
言語の勉強からやり直すという熱も沸かずに
とりあえず、坐ってみることに。。。



で、今にいたるわけですが
以前の体験とはまた別の体験が出来るようになったので、図々しくもその状態を述べさせていただきます。


私の中に在るものを追い掛けて分解作業しているうちに、サトルパンの脳が情報処理作業をこなしている様子を只々傍観している、もう1人のカラッポな私になっている事に気づきました。

どおやら、私を私として確認するには、私以外を認識することでしか中心に在る私を見出すことが出来なように感じる。

例えるなら、ドーナツの実体がある場所が万物ならば、
実体のない穴という場所こそが私のようだ。

私とは私以外の全てが交わり織り成す連続性の反応のだ。又は状態そのものとも言える。





なんだか日記みたいなになってしまったけど、今んとここんな感じです。。。以前の体験の様な絶対的幸福感みたいなのや、流動性の様なものは感じなかったなぁ。。。
自分の意識のありようや、そこに浮かぶ一つ一つのものの関係性などに思いをめぐらせ、これをより深い洞察へとたどってゆくことはとても大切な一つの実践だと思います。
しかし、また同時に、このような瞑想実践の深まりが単なる独我論的な幸福感へと収拾されてしまわないように常に注意し、自分が瞑想の中でながめて来たすべてのものとの関係に瞑想を終えた後、いかに帰ってゆくのかが丁寧に味わえるような瞑想を、しっかりとコントロールすることも大事なのではないかなあと思います。

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