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日本の城と籠城戦コミュの岩屋城籠城戦 〜開戦〜

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●開戦
◇◇◇◇天正十四年(1586年)七月十二日◇◇◇◇
▲総大将:島津忠長、伊集院忠棟
(城の西側〜薩摩・大隈・肥後勢)
▲秋月種実、長野惟冬
(城の東側〜筑前・筑後勢)
▲上井覚兼
(野頸〜後続、日向・宮崎勢)
▲城井友綱、草野宗養、原田伊賀守、星野九左衛門尉(豊前勢)

以上、盟主薩摩・島津氏を中心とする・肥・筑の総勢5万の大連合軍が岩屋城を包囲。

対する城方は高橋紹運率いる岩屋城兵763名。
彼我の兵力差は50倍をゆうに超えています。
連合軍総大将・島津忠長は圧倒的な兵力差の前に無益な戦いをやめるよう城方に降伏勧告をします。密かに岩屋城に入城した豊臣秀吉の家臣・黒田孝高(如水・官兵衛)の使者も立花城への退去を勧めますが紹運は死戦の選択を変えることはありませんでした。


大友家・そして九州の命運を決める戦いともいえる岩屋城籠城戦は同十四日に開始されます。

◇◇◇◇七月十四日◇◇◇◇
九州最強を誇る島津軍は鳥銃・石火矢などを用いた激しい波状攻撃を行います。岩屋城兵は紹運指揮の元、整然と守りを固めて一歩も退かず、特に鉄砲の手練による猛反撃は島津軍を幾度も撃退しました。同二十日から本格的な攻撃が始まりますがこの猛烈な城方の反撃は続き、島津軍はおびただしい被害を出しました。立花城からは夜陰に乗じて抜け道より兵糧・弾薬も運び込まれ、城方の士気はさらに高揚します。

紹運は島津将士の気質を見抜き、薩摩兵の勇猛さを逆手にとって、島津軍を正攻法に固執させることに成功したのです。ここにおいて、紹運の籠城は捨て死の戦いではなく、戦略的勝利をもぎ取るための戦いへと変化しはじめます。


◇◇◇◇七月二十一日◇◇◇◇
島津軍は城下の農民を捕らえて城の水の手を聞き出します。秋月勢が間道より裏手に回り、水の手口遮断に成功します。しかし依然城兵の士気は高く、反撃はかえって激しさを増しています。


◇◇◇◇七月二十三日◇◇◇◇
城兵は水を失って疲労が現れ始めますが夜になって雨が降り出します。岩屋城はこれによって断たれていた水を補給することができました。
島津軍は攻撃を中止する。


◆◇◇◇七月二十四日◇◇◇◆
前夜からの雨が続き、城攻めは中止されました。両軍共に休息をとったようです。
紹運は各部署の将を集めて軍議を開きます。外郭の防御力がそろそろ限界に来ていたための善後策を練ったと考えられます。

攻囲軍は城の搦手で城内に忍び入ろうとする間者を捉え、毛利氏から紹運に宛てた密書を発見。
密書の内容は毛利の援軍が近く、秀吉も動くとあり紹運を励ますものでした。
5万の兵力がこの岩屋城に釘付けにされている間に秀吉は仙石秀久、中国・毛利勢を先鋒として準備しており、島津忠長はまだ見ぬ関白軍の到着に焦せらざるをえない状況に追い込まれました。


◆◇◇◇七月二十五日◇◇◇◆
雨によって足場がぬかるんだためこの日も攻撃中止。


◆◇◇◇七月二十六日◇◇◇◆
水の手を断たれた城兵に乾きと疲労が露出し始め、城兵は猛烈な島津軍の攻撃を受けてついに防衛拠点で押され始めます。
夕刻には紹運が二十四日の計画通り、退却の下知を行って防戦する各部署は戦機をにらんで三の丸後退を開始します。

夜半に秋月・城井勢は鳥銃の援護と共についに岩屋城の外郭を破り30余りの城兵を討ちとります。勢いづいた島津軍は一挙に本丸を目指します。しかし城兵はここでも死力を尽くした猛反撃を行い、島津軍は軍議の不足と甚大な被害のため後退せざるをえませんでした。


◆◇◇◇七月二十七日◇◇◇◆
ここまでの攻防で目を覆う被害を出した島津軍。
二十七日の日の出と共に予定された総攻撃前に、
島津忠長はこれ以上の味方の被害を抑えるため
城に再び降伏の使者を送り、城兵の面目を保つ寛大な条件を提示します。
紹運は生きて二君に仕える武士道を説く薩摩軍使に

「仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候。」と

一喝します。
これを城の外郭から聞いた薩摩:島津軍は紹運の意気に敵ながら感歎の声を上げたそうです。
島津忠長は味方の被害もさることながら、紹運の武勇とその人柄を惜しみなんとか討死させることだけはさけようと再三粘り強く交渉しますが紹運は頑として首を縦には振りませんでした。

忠長は単騎で城に近付き、
最後通告として

『如何に匹夫の勇をもってしても討死は必至、
 降伏することこそ賢明である』

と呼びかけます。

この言葉を聞いた城兵は抜刀して城より躍り出て忠長に襲い掛かります。
忠長を守ろうとした従者4名は討死し忠長は得物の槍を半分に切断され、配下・永長長介によって救い出されます。

紹運のみならず、城兵の壮烈な決意をも悟った忠長は降伏勧告をあきらめます。
午前4時、総攻撃は開始されました。
各防衛拠点ではいよいよ最後の激戦が繰り広げられ、守将の中には辞世の句を門の塀柱に記し、島津陣中に猛然と切り込んで、手傷を負い包囲されると敵将を組み伏せその身もろとも
岩屋の谷に転落して死出の道連れにするという勇戦を敢行します。
守備する部隊長も次々と討死に及び、ついに本丸に島津兵が乱入します。
ですが紹運の壮絶な武勇は健在であり、自ら17人の島津兵を討ち、再びその侵入を押し戻します。
最強を自負する島津の将兵は目の前の敵に畏怖の念すら覚え始めますがこのとき紹運は既に数箇所に傷を受け、生き残った兵50余名は深手を負うものが多く、これ以上島津兵と戦うのは不可能でした。

夕刻、紹運は籠城戦の終結を悟り、切腹。 享年39歳。

旗本の吉野左京介が介錯し、返す刀で自らも自決。岩屋城では守兵の全てが討死、もしくは割腹して果てたと伝えられています。

島津軍はこの不転退の岩屋城兵に戦慄し、
最高の鎮魂の礼をとりました。
ことに総大将・忠長は敵将紹運の死を膝をつき
平身低頭で惜しんだそうです。

二週間にわたったこの玉砕とも言うべき壮絶な籠城戦で
島津軍の被害は
喜入掃部助・伊集院左近充・蓑田弥四郎・矢上太郎五郎・有馬弥六・宮原越中守、討死。
上井覚兼が負傷、率いた日向・宮崎衆はほぼ壊滅、島津の勇将・山田有信、新納忠元は重体、死者・3〜4000人、負傷者1500人と伝えられます。

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◆◇◇◇伝説となった攻防の激しさ◇◇◇◆


熾烈を極めた伝説の第四回川中島合戦で
越後勢の死者が3000人、甲斐信濃勢が4000人強、

武田家衰退の印象を強く残す長篠合戦では
織田徳川の死傷者6000人 武田の死傷者1万人がおおよその数字で、武田家の実際の死者は2000人余りではないかと観られているようです。

長谷堂城合戦の死者は
上杉方が1580人、最上方が623人

手取川合戦では
織田方の死傷者は2000人

一乗谷城の戦いの前哨戦:刀根坂の戦いで
朝倉軍が織田軍から受けた致命的打撃が
およそ兵3000人以上という表記である。


城方が763名という寡兵であるにもかかわらず、島津軍の死者3〜4000人、負傷者1500人というのは想像を絶し、岩屋城攻防戦の激しさが有史に残るほどの壮烈な物であることがわかります。
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◆◇◇◇九州三国志の終焉◇◇◇◆

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岩屋城を落とした島津軍は続いて宝満城を計略によって攻略し、
天正十四年(1586年)9月に九州に上陸した上方・先鋒隊を島津家久は偽走と伏兵を駆使して戸次川で迎え撃ち完膚なきまでに打ち破る。
仙石秀久は四国まで敗走し、長宗我部信親、十河存保は討死、後詰だった長宗我部元親は戦わずに四国まで退却する。

天正十五年(1587年)3月
徳川家康との講和を成功させた秀吉はついに10万を超える本隊を南下させる。
これを迎撃する余力は疲れはてた島津軍にはなく、秀吉の本隊を背後に得た立花宗茂は全軍を挙げて島津軍を翻弄し、本陣を奇襲する攻勢に出る。島津軍は紹運との戦いで消耗しきっており、軍再編のため撤退するしかなかった。
このとき宗茂は、島津軍を追撃、高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の二城を奪還して武功を挙げている。

4月 島津氏は全面降伏する。


紹運の戦略は見事に成ったといえよう。

後に、紹運の長男の立花宗茂は秀吉に
「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」 とも
「東に本多忠勝、西には立花統虎」とも激賞され
以後、豊臣家直臣の恩寵を受ける。
加藤清正を「日本軍第一の勇将」、
小早川隆景を「立花家の3千は他家の1万に匹敵する」と評させたほどの名将へと歩んでゆく。



主膳入道 紹運 辞世

「屍(かばね)をば 岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に 名をとどむべき」
「流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」

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●『九州治乱記』には紹運が道雪の死に際して
「盲者の杖を失い、暗夜に灯の消えたる心地なれ、中にも紹運の嘆き大形ならず、生きては行を同じくし、死しては屍を列ねんと思いしことの空しく、心中いかばかりか思われむ」と記しています。

紹運は士道を貫く意義を武人の師である立花道雪からまなび主家のために命を全うするという高潔なる精神はここから昇華され、壮絶な籠城戦を可能にしたのだと思います。


?:【岩屋城マニアックス】
〜運命の天正十四年七月二十七日〜
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7190687&comm_id=731999

コメント(8)

岩屋城籠城戦は、何回読んでも熱くなってしまいます。
こういった戦いが、歴史好きな人以外に知られないのがちょっと悲しいです。
>トムとジェリーさん
壮烈なる決意というのはまさにこの紹運のことを言うのだと思います。私も文を書いていて何度も目頭が熱くなりました。
紹運がほんとうに慕われていた指揮官であるということが分かる、そんな戦いですね。
私は高橋紹運や岩屋の城兵の決意はもちろんのこと
立花山城から、玉砕覚悟で岩屋へ援軍に向かった
兵士たちの決意にも胸を打たれました。

実父・紹運の岩屋籠城を聞いた立花宗茂。
弟・直次の籠もる宝満城も島津の攻撃を受けている。
どれだけ助けに行きたいという衝動に駆られたことでしょう…。

しかし道雪亡き後、立花家の当主となっていた宗茂が
軽々しく動くわけにもいかず、歯がゆい思いをしていました。

その気持ちを察した吉田右京ら数十名の有志が
玉砕覚悟で岩屋援軍を申し出る。

命を賭して主君の気持ちに応える。
彼らの心意気には心を打たれました。

本当に紹運・宗茂が兵に慕われていたということが分かります。
長文失礼いたしました。
>ジロウさん
吉田右京らの決死隊志願は戦国武士の美しさを物語る足跡となっています。名を惜しんで死に場所を求めるというのは苛烈な生き方ではありますがそんな生き様があったこの国の歴史、学んでいきたいですね。

>イタムネさん
岩屋城のことをもっとたくさんの人が知れるよう籠城コミュもがんばっていきたいです^^
ご助力を宜しくお願いします!
>へスキーさん
島津を向こうに回してというのがまたその壮絶さを否が応にも感じますね。

大友なり竜造寺なり、強い大名家だったと思うのですが、島津は日本の常識から外れた桁外れの軍事国だったのでしょう。

それと対抗しえた紹運。
岩屋城籠城は戦国期の美談としては最高峰の物だと思います。

紹運はとても好きな戦国武将なので
コミュ用に絵を描こうかなと思っています^^
でもイメージに沿わないとファンの方に怒られそうですね〜

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7021704&comm_id=731999&page=all

で知らざれるエピソードについてレスがあります。是非ごらんください〜
島津もあほですね・・・。

抑えに、3〜5千も付ければ完全に無視できるのに・・・。
特に、水の手を絶ってしまった後なら、わざわざ攻めなくても
勝手に落ちるのに・・・。

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