ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

戦争責任・戦後責任コミュの関東大震災に於ける朝鮮人大虐殺

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
(先にわっしょいさんが立てたトピックhttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=22381932&comm_id=661670と話題が重複する形になってしまいますがお許し下さい。資料として採用していただければ幸いです)

1923年(大正12年)9月1日に神奈川県・千葉県の沿岸部一帯を震源として発生したマグニチュード7.9 の大地震は、「関東大震災」と呼ばれる大災害をもたらし、約10万人の犠牲者を出しました。
またこの災害の中で、多くの朝鮮人・中国人・社会主義者が、群集や日本軍によって虐殺された事実も忘れてはなりません。
デマに踊らされた群衆が朝鮮人を虐殺した事件は、東京だけでなく神奈川、千葉、群馬、栃木、そして私の住む埼玉県でも発生しました。
「朝鮮人が爆弾を投じた」「井戸に毒を投じた」などというデマが流れましたが、これらのデマの元は、火災現場で何かが破裂する音がしただけであったり(竹の棒を焚き火で燃やしても破裂します)、朝鮮人が井戸の水で米を洗っているだけであったり、飲み薬を携帯していただけだったのです。

また埼玉県は次のような「通達文」を発し、混乱を拡大させました。
------------------------------------------------
埼玉県通達文
東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候就ては此際警察力微力であるから町村当局者は在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ一朝有事の場合には速かに適当の方策を講じるやう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也
------------------------------------------------
これは10月になってから各紙が取り上げ、「埼玉県当局が震災直後に管下各町村に向つて激烈な通牒を発し自警団の暴行を誘発」したと、「非難の的」になりました。
(みすず書房「現代史資料6 関東大震災と朝鮮人」P-145)

こうして埼玉県内でも各地で凄惨な朝鮮人虐殺事件が発生しました。その中でも有名な本庄市の事件を紹介します。
地震発生から3日後の9月4日、本庄警察署は保護していた朝鮮人をトラックに乗せ、群馬県藤岡署に移送しようとしました。しかし藤岡署から受け入れを拒否され、本庄署に戻ってきたところを群衆に襲撃され、何十人もの朝鮮人が虐殺されました。
(↓続き)

コメント(30)

------------------------------------------------
語る人  元本庄警察署新井巡査

群馬県へ送ろうということで、神流川の河原までいったが、群馬県側が受け取らず藤岡署と交渉した。その間十六名の朝鮮人を河原におろして交渉した。
本庄署では、前夜(三日夜)から保護していた朝鮮人が四十三名いたが、電話でデマにおびえた人達からの出動要請があって警官は出はらっていた。私が警察に残って外からの電話に出ている時、警察がからっぽであることを見ていった奴がいたのだ。

私が神保原の派出所に電話をかけると、電話からキャーキャーワーワという惨劇の声が伝わってきた。トラックに同乗して神保原に行き、群衆におそわれて派出所に逃げこんだ村磯署長をその電話に出してもらおうと思ったが、村磯署長は机の下にかくれているということだった。

本庄署へ引き返してきた三台のトラックは、朝鮮人を満載していた。私もそのトラックに乗っていたが、集まってきた群衆の中に青木紋九郎というギュウタロウがいた。その紋九郎が、「あいつは朝鮮人の偽巡査だ。あいつからやっちまえ」と煽動した。それがあいづとなって一せいに群集が襲いかかり、あの惨劇がはじまったのだ。私は一瞬早く車から降り避難した。この紋九郎という男は、長野県の県会議員の息子で教育もあり、弁も立つ男だった。私は後になって加害者を報告する時、この男を一番先にあげた。
惨劇の模様はとても口では云いあらわせない。日本人の残虐さを思い知らされたような気がした。何百人という群衆が暴れまわっているのを、一人や二人の巡査ではとうてい手出しも出来なかった。こういうのを見せられるならいっそ死にたいと考えたほどだ。

子供も沢山いたが、子供達は並べられ、親の見ている前で首をはねられ、その後、親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後で、おばあさんと娘がきて、「自分の息子は東京でこのやつらのために殺された」と云って、死体の目玉を出刃包丁でくりぬいているのも見た。

当時演武場は、警察署の方ではなく、町役場の方から電灯をひいていたので、演武場の電気は警察の方からは消すことができなかった。私は演武場の中の四十三人が見つかっては大変だからと、電気を消すように役場の方へ頼んだが、一向に通ぜず、そのうちに、演武場の中の朝鮮人も見つかってしまったのだ。「ここにいた」というわけで、群集は演武場に押しかけ、四十三人ことごとく殺してしまった。朝、私が演武場に行った時、立てかけてあった畳の陰にいて助かった二人の婦人から、水をくれ、と頼まれ小使いにもたしてよこすから、といっている間に、朝早くからやってきた群集に見つかり、昨夜の凶行場所に連れていかれ、ベンチの上で刺し殺されてしまった。私はどうすることもできなかった。

警察署の構内は前夜の凶行で血がいっぱいだった。長靴でなければ歩けなかったほどだ。警察署の構内で殺されたのは八十六人だが、本庄市内で殺されたのもいた筈だ。死体も見たが十五、六人位・・・二十人まではいなかったと思う。

署内の留置所にいて一人助かったが、これも群衆が「凶行を見られてしまったからには、朝鮮へでも帰って話されたら大変」というわけで、留置所の鉄棒の間から、竹槍で突こうとしたのだが、あっちへ逃げ、こっちへ逃げして、とうとう助かったのだ。これは後でどこかへ送られた。私は長い間、朝鮮人の「アイゴウ、アイゴウ」という悲痛な叫びが耳からはなれなかった。(中略)
------------------------------------------------
9月6日には、朝鮮人を保護しようとした村磯署長や新井巡査に不満を持つ群集が再び本庄署を襲撃し新井巡査を殺害しようとしましたが、すんでのところで軍隊に制止されたそうです。

------------------------------------------------
警察署に集まった群衆は署内に入りこんで数々の乱暴をした。そして私のいるところまで上がってこようとした。私は既に覚悟を決めていた。もし上がってきた奴がいたら切り殺してやろうと身構えていた。群衆はいろいろと私に見られているので、私をねらったのだ。しかし群衆の中にも私の味方がいた。
これは後で聞いた話だが、当時本庄署の構内に大きな桜の木が何本かあったが、その木に私の味方が登っていたのだ。そしてピストルをどこから持ってきたか知らないが、ピストルを持っていて、近づこうとする奴がいると、大きな声で「新井巡査に近づくとピストルで打つぞ」とどなっていたのだそうだ。

そんなわけで私はどうにか無事だったが、いよいよもうだめだという時が来た。私は時計を見ながら、後五分だと思った。その時、東京へ向かう軍隊が在郷軍人の人達の努力で、本庄におり、この暴動をおさえるために出動してくれたのだ。剣付鉄砲のおかげで、群衆はとび散ってしまった。後五分遅れていたら私は殺されていたろう。この事件後、しばらくの間、本庄町には軍隊が一個中隊駐屯していたし、憲兵屯所もできた。事件後、人々はこの事件でおとがめはあるまい、もし何かのさたがあるとすれば、論功行賞だと考えていた。虐殺事件の翌日など、ある人間は、私に向って「不断剣をつって子供なんかばかりおどかしやがって、このような国家キン急の時には人一人殺せないじゃないか。俺達は平素ためかつぎをやっていても、夕べは十六人も殺したぞ」といったりした。
------------------------------------------------

このように殺害犯は反省するどころか手柄だと自慢していたようです。また処罰もまともに行われませんでした。

------------------------------------------------
この事件の関係者の検挙は、九月十八日、一せいにねこみをおそって行われた。これには駐屯していた軍隊が着剣して応援した。
逮捕された人達は、本庄で又混乱が起ってもというので、深谷警察へ送られた。この二階に臨時検事局ができ、十人の検事によって調べが開始された。私はその時つきそっていたのだが、その時皆口々に「論功行賞にあづかるんなら申し上げましょう」といい、検事に「人を殺してほうびをもらえるのは、戦争の時だけだ」といわれると、皆ふてくされて「それじゃ何も知りません」というのが皆の態度だった。全然らちがあかないので、下調ということで警察の方へ廻され、演武場で皮のバンドでなぐりつけた。みんな、体中はれあがってしまった。

裁判もいいかげんだった。殺人罪ではなくて、騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたが、ほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれたが、検事は虐殺の様子などつとめてさけていたようで、最初から最後まで、事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして、安藤刑事部長など私に本当のことを言うなと差しとめ、実際は朝鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上のことは絶対に言うなと私に強要した。私も言われた通り証言した。

私は大正十五年まで本庄署にいたが、事件の真相を尋ねに来た人には皆同じこと(内地人半分)を言っていたのをおぼえている。私はいろいろ町会から表彰されたが、最初はすべて県からそれを押さえられてしまった。理由は事件があったことがわかってしまうからということだった。私は後に金時計を四個も貰った。神保原での死体処理も私がやったのだ。それから検事に呼ばれたとき「熊谷は本当は五十七人らしい」というのを聞いている。
------------------------------------------------
朴慶植/著 未来社「朝鮮人強制連行の記録」P-234〜239より引用。原典は「日朝協会埼玉連合会『埼玉県内における関東大震災朝鮮人虐殺事件資料』1963年」とのことです。
その後、朝鮮人のジャーナリストも調査を開始しました。「独立新聞社」の特派員も、激烈な憤りを込めて調査結果を報告しています。
------------------------------------------------
金希山 先生前

先生と別れた私達は、千辛万苦して十日目に、やつと焦土化した倭京に着き、各々、確かと責任分担した地方に散つてゆきました。
ですが、先生も想像がお出来のように、詳細に調査完了するには、極めて困難があります。従いまして、秋も過ぎ、白雪粉々たる今になつて、やつと各地の報告を綜合して、第一次として、大網を記送致しますから以上より詳しいものは、次の便をお待ちになつて、ひと先づは胸のつかえをお解きになるようお願いします。
果たせる哉、私たちの生活は甚だ不自由で、定処なく、通信も不便で、長報告の時間と便宜もないので、これを深諒されるよう願います。
先生!敵京の惨酷なる「ざま」は、憐れむ可きと云うよりも、賀す可きであります。
奴等が吾が同胞を虐殺したことを考えると、怒りで歯ぎしりがで、敵土が全滅しなかったことだけが恨まれるのです。
先生!だが私は血が沸立ち、肉が踊り、胸の動悸は激しく、涙が顔面を覆い、筆を執つてこれを書くことを敢えてなし得ません。
これを見る吾が同胞中の誰が、そうでない者がありますでしょうか。
到る処の、苗束のような屍を見れば胸は痛み、両の眼で、焼け残った肉の跡を尋ねては、身体が震えました。
嗚呼!天地は際限があるとしても、吾々の積り積つた怨恨たるいつかや、はらす日があるだろうか。哀哉。この冤讐をはらす者は誰であろうか。
空山明月夜三更に、杜鵑が哀しくなけば、7千の吾が同胞達の孤魂を思い出すべきでしょう。
糠雨が止むことなく降り、稲妻が光り、真暗で静かな悔日の夜、遠くで響くかみなりを聞いたならば、倭地で冤魂となつた7千、否、7千よりもっと多い魍魎の哀哭なのだと思つて下さい。
嗚呼、春の風、秋の雨が、これから幾度来るのか。唯、願うことは、吾々の一片丹心だけであります。
------------------------------------------------
------------------------------------------------
報告
被殺地  被殺人数

亀戸  100人
小松区内  27人
亀戸停車場前  2人
大島六丁目  26人
同 七丁目  6人
大島八丁目  105人
小松川附近  2人
三戸地  27人
三戸地附近  32人
亀戸警察署演武場  36人
向島  43人
寺島請地  14人
平川  7人
清水飛行場郊  27人
八千代  3人
?島署内  14人
月島  11人
深川  4人
埼玉県北葛町 稲村大字幸房 17人
品川停車場前  2人
茨城県東那須野  1人
宇都宮  3人
埼玉県芝公園  2人
埼玉県熊谷  60人
〃 本庄  63人
千葉県船橋  37人
〃 法典村、塚田村  60人
〃 南行徳  3人
〃 流山  1人
〃 佐原  7人
〃 馬橋  3人
群馬県藤岡警察署  17人
埼玉県寄居  13人
埼玉県妻治  14人
東京府下  1人
世田谷  3人
府中  2人
千葉市  37人
成田  27人
浅草  80人
埼玉県神保原  25人
赤羽巌淵  1人
埼玉県大宮  1人
荒川付近  100人
波川  2人
我孫子  3人
長野県界  2人
荒川  17人
馬橋  3人
千住  1人
神奈川県  1795人
合計 3240人
(以上は屍体を探せなかった同胞)


以下の記録は屍体を発見した同胞だが、その数1500に達するが、私(特派員)が実際に見たのは1167人、残余333人は、所在調査中

発見場所  屍体数

神奈川県浅野造船所  48人
神奈川警察署  3人
土方橋から八幡橋  103人
山手本町立野派出所  2人
本牧  32人
若屋別荘  10人
根岸町  35人
山手町埋地  1人
御殿町付近  40人
程谷  31人
井戸谷  30人
新子安町神奈川駅 150人
神奈川県鉄橋  500人
久良岐郡金沢町  123人
川崎  4人
戸部  30人
水戸上鴨田  30人
東海道茅ヶ崎町駅前  2人
鶴見  7人
久保町  40人
津間町  40人
習志野営林巌  13人
合計 1167人
以上累計  4407人


上記の第一次調査を終了した11月25日に再び各県から報告が来た。

被殺地  被殺人数

東京府  752人
神奈川県  1052人
群馬県  17人
茨城県  5人
千葉県  133人
埼玉県  293人
栃木県  4人
以上累計6661人

大韓民国5年11月28日
血涙の中で ○ ○ ○ 上
独立新聞社金希山先生前
------------------------------------------------

みすず書房「現代史資料6 関東大震災と朝鮮人」P-338〜341より引用。原典は「愛国同志援護会編「韓国独立運動史」とのこと。
「茨城県東那須野」という誤りや合計の人数が合わない部分もありますが、この資料集では全て原典のまま収録されています。
なお、「日本帝国主義の朝鮮支配 上」(朴慶植/著 青木書店)P-342〜346にも同じ報告書が紹介されていますが、表現が異なる部分が多数あります。別々に翻訳されたと思われます。
トピテーマと戦争責任・戦後責任との関係は何ですか?
独立新聞社って、世界中から無視されていた上海の大韓民国臨時政府の機関紙でしょう。
この報告書も、東京を「倭京」「敵京」と記したり、「敵京の惨酷なる「ざま」は、憐れむ可きと云うよりも賀す可きであります」と表現したりと、実に香ばしい前文が付いてます。

http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20020901
こちらで徹底的に検証されてます。ご一読を。
>7
付け加えるなら、このトピ立ての目的がわからないですね。
ただ、こんな事実があったことを知らしめたいだけ?

>0
>(先にわっしょいさんが立てたトピックhttp://mixi.jp/view_bbs.pl?id=22381932&comm_id=661670と話題が重複する形になってしまいますがお許し下さい。

誰に対して、許しをこいているの?
自ら、誤りだと思うなら、あらためるべきでしょう。

>資料として採用していただければ幸いです)

↑が、わっしょい氏に対してのコメントなら、
「トピ立てしないで、メッセージでやれ」という感じです。
 鷹嘴さん 「関東大震災に於ける朝鮮人大虐殺」の史料
 ありがとうございます。このジャーナリストが出会った
 おびただしい数の犠牲者は、その一人一人の生活史に関心が 向けられることなく、この数のみ、事件の記録として残ると いうことが悲しいですね。

 この史実が戦争への準備と深く関連しているという点で
 きちんと「なぜおこったか、どう起こったか」の「事実」を
 認識しておく必要があると思います。

 
>11
つうか、千田是也のことすら、知らないんですかね?
大体、「屍体を探せなかった同胞」とは何なのか。単なる目撃証言の合計か?
しかも、計算あってないし。合計すると2889人。なのに3240人とはね。
「屍体を発見した同胞」も、合計すると1274人。しかし、記載されてるのは1167人 。

足し算もできないのか?
こんにちは、鷹嘴さん。
貴重な史料の提示をありがとうございます。

やはり、まずは実態の解明が先決ですね。その意味では、今回、掲載された史料は貴重なものだと思います。

ぜひ、戦後責任ドットコムに転載させて頂きたいと思うのですがよろしいでしょうか?
よろしくお願いします。
わっしょいです。

さきほど鷹嘴さんの快諾をいただき、ドットコムのサイトに、同資料をアップしました。よい資料を紹介して頂き、どうもありがとうございました。記して感謝致します。

http://sengosekinin.peacefully.jp/
>11
>差別意識をなくすことのほうが重要だろ?

それを、日本人に向かって言うのですか?ウッシッシ
防災の日に合わせて、まず考える事が日本の災害による悲劇と、今後の対策ではなくて、本件だというのが異常ですよね。
まあ防災はコミュ違いなのですが、本件もコミュ違い。

人手が足りなく忙しい身なので、調査はしていませんがそう思います。
7: 瀬戸山 さん

結局わっしょいさんと鷹嘴さんが言いたいのは、「日本人はこんなに酷い事をやる人種なんだ」という事なんですかね?

それなら15で せりーぬ@万葉堂 さんが書いておられるように、阪神大震災の事例から見て現代の日本人は違う、という話で決着がついてしまうと思うのですが。


それとも、この日本人の行為と戦争を関連付けたいのでしょうか。
でも日本と朝鮮は戦争してませんからねぇ。
虐殺というなら今年にアメリカで韓国人がアメリカ人32人を虐殺しましたがそれに対して韓国政府はアメリカに賠償したでしょうか?


災害の混乱に乗じての政府の関与しない殺人事件でありそれを当時の帝国政府と関係の無い今の日本政府及び関係の無い今の日本人に責任を要求するのは不適当であります。


>日本人の抑圧もあったのだろうが
敗戦と同時に、朝鮮人・中国人が日本人に対して
簒奪・強姦・暴行・殺害ってのを行ったんだよ



以下飛び飛びですが、山口組の組長の自伝を基にした終戦直後の様子を描いた映画だそうです。ご存知かもしれませんがご参考までに。

http://www.youtube.com/watch?v=Lg-vGIgid04&mode=related&search=


http://www.youtube.com/watch?v=_JMfqsDbUjI&mode=related&search=


http://www.youtube.com/watch?v=y6xob58wC5o&mode=related&search=



http://www.youtube.com/watch?v=oMlQ8fNWXXg&mode=related&search=


http://www.youtube.com/watch?v=zZz0MZvdtSA&mode=related&search=

http://mirror.jijisama.org/sangokuzin.htm

↑も勉強になりました。個人的に。

学校でも、個人的にでもこうしたお話はネットやるまで知りませんでしたね。
その当時を生きる日本人の心情。
それを抜きに語るには、今後の教訓にはなりえない。
そういう検証能力は、必要だと感じます。
検証などいらない、事後の観点だけで充分だとする者は今後も同じ過ちを繰り返すのかな。
ドットコムに掲載していただいてありがとうございました。今後もよろしくお願いします。
遅くなりましたが追加の資料があります。参考にしていただければ幸いです。

事件当時の「朝鮮人が爆弾を投じた」「井戸に毒を投じた」などというデマの詳細を、地方紙が報じていました。
------------------------------------------------
横浜方面から 鮮人三百人押寄す 爆弾を投じ掠奪をなす
東京電気大学生徒西郷正秀君談

品川は三日に横浜方面から三百人位の鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました 鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした 其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました(北海タイムス 大正12・9・6)
------------------------------------------------
(みずす書房「現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人」 P-173)

------------------------------------------------
土管で生きた三万人 鮮人の恐るべき自白 逃れて来た罹災者の話(抜粋)

やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した揚句遂に彼は次の如く白状した。
「われわれは今年の或時期に大官達が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し次で全市至るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅塵殺を謀らみ また一方二百十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし 機の到来を待ち構えていた折 炳大地震がありこれで御大典もどうなることか判らないからこの地震こそは好機逸すべからずとなし此処に決行したのである」
と聞いた一同の憤懣遣る方なく さてこそ風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりバチバチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつたことが判然したので恨みは骨髄に達し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直ちに一刀の下に刎ね飛ばされた かく捕へられた鮮人二十四人は十三人一塊と十一人一塊と二塊にして針金で縛し上げ鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまつたけれどもまだ息のあるものもあつたので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺したが余り深く突き刺さつて幾人もの鳶口がなかなか抜けなかつた また外に三人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置場の石炭コークスが盛んに燃えている中へ生きてゐるまま一緒に引き縛つて投げ込んで焼き殺してしまつた
実際惨酷らしいやうだがしかし深川辺りでは井戸へ毒を投入したため罹災者の子供がそんな事とは知らないでその水を飲んだため握り飯を持つたままころころ死んで居つたり毒入り飴を子供が食て死んでゐるのを見たりするのに較べるとまだ何でもない事である。
(河北新報 大正12・9・6)
------------------------------------------------
(同上 P-171〜172)
このようなデマの元は次のようなものでした。
------------------------------------------------
爆音の実情

悲しくなつて見ている中に、浅草の各興行物の家屋もどんどん焼けて、時にボーンボーンと大きな爆弾を投げたやうな音がきこえる。瓦斯管とか、建設用材の鉄管とかいふものが熱のために中の空気が膨張して爆発するのだろうと思つたが、この音が後に朝鮮人が爆弾を投げ込んだといひふらされた音である。若し真実さうだろうと思つている人が多いならば朝鮮人は余程迷惑を蒙ることであろう。竃の中に竹を一本入れて燃やしてもかなり酷い音がする。種々の設備のしてある家屋の焼ける時はこの位の音はいろいろの物から発するのである(来馬琢道「一仏教徒の体験したる関東大震災」)
------------------------------------------------
(同上 資料解説P-19)

------------------------------------------------
九月十九日臨中第一四二号(憲兵隊の報告)

一、 九月四日午前11時頃、子安町一一七番地内山泰治方の井戸に年齢十八才位の白のシャツ股引を着したる男、及朝鮮服を着したる女二名にて、毒薬を投じたる事実ありとの風評に関し調査したるに、女三名は米を洗ひ居たるを附近の者見誤りて、彼等が劇薬を井戸に投じたるものと吹聴したること判明せり。

二、九月四日、新子安(京浜電車停車場附近)に於て、薬瓶に入れたる毒薬を携行せし朝鮮人一名俳諧し居たりとの風説に対し、調査したるの、該当鮮人は自己の服用すべき治療薬を携行し居たるものなること判明せり。(海軍省文書「公文備考」)
------------------------------------------------
(同上 資料解説P-19〜20)


「埼玉県通達文」に対し、「埼玉県当局が震災直後に管下各町村に向つて激烈な通牒を発し自警団の暴行を誘発」したと非難が集まったことを報じたのは以下の記事です。
------------------------------------------------
非難の的となつた埼玉県当局の移牒文
園部警察署長は愈々引責辞任するらしい

埼玉県当局が震災直後に管下各町村に向つて激烈な通牒を発し自警団の暴行を誘発し非難の的となつていることは既報の如くなるが右事件の公判は近く開廷されるので弁護の地位に立たんとする各弁護士は早くもこの点に着眼し材料蒐集に着手し問題の移牒文を最も有力なる材料としている。当時斯く長官が斯る誘引材料を自から撒いて置きながら自警団の続続検挙されるのを余所事のように見ている態度に憤慨しているものが多いが玆に本庄助役が通牒を郡から接受した際一読その過激文句に驚き町内に触れ廻りその危険を感じ一度は握り潰そうとしたが『極秘急』の印があるので渋々ながら各区長に早駆け人夫を飛ばしたが今日に至り当時全然握り潰せばよかつたと後悔して居るという 本庄町民は助役の心事を多とすると同時にますます県の処置に憤慨している 斯かる非難の間に司法権の発動は容赦なく進められるのでこれ等総体的の責任の地位にある友部警察部長は深く感ずるところあり 事件紛糾以来辞表を懐にし事件落着と共に天下をして無警察の状態に陥らしめた責を引いて辞任する決心を固めているといふ。(埼玉電報)(河北新報 大正12・10・20)
------------------------------------------------
(同上 P-145)
対話する気が無いくせに自分の主張しかしないゼロポストとそのオトモダチに辟易とする。

ログインすると、残り8件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

戦争責任・戦後責任 更新情報

戦争責任・戦後責任のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング