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ベルばらと今の日本を考えるコミュの世界史から今の日本をみてみよう

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私たちは近視眼的な目でしか今の問題点をみることはできませんが、それでは何も学ぶことは出来ません

また日本の歴史をみることと同時に古代からのアジアやアフリカ、ヨーロッパの歴史をみなくては国際化といわれる時代、生き残ることは難しいのです

そこでここではフランス革命はもちろん、ローマやロシアなどの歴史について見ていきたいと思います

多分 用語集的になるかもしれませんがよろしくお願いします

タイトルは空から日本をみてみようを参考にしました

コメント(25)

スラヴ人
印欧語に属する、東ヨーロッパに広がる民族。
 スラヴ民族は、現在東ヨーロッパに広く分布しているスラヴ語系の言語を話す人々。スラヴ語はインド=ヨーロッパ語族の一つである。原住地はよく判らないが、カルパチア山脈の北のヴィスワ川からドニェプル川にかけての一帯で、狩猟・農耕生活を行っていたらしいが、4世紀からのゲルマン民族の大移動に続いて、6世紀以降にバルカン半島やロシアの草原に広がり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を脅かす存在となった。7世紀にはブルガリア人(本来はトルコ系で非スラヴ人だがスラヴ人に同化した)のブルガリア王国やチェック人のモラヴィア王国などが人がビザンツ領内に国家を形成し、9世紀にはロシア草原に最初のロシア人(ノルマン系の征服者がスラヴ系民族に同化した)国家ノヴゴロド王国が出現した。10世紀にはポーランド人が建国、東ヨーロッパの強国となっていく。ビザンツ帝国領内に建国したスラヴ系諸民族は、ビザンツと抗争しながらその影響を強く受け、ギリシア正教会を受け入れていく。ロシアもギリシア正教を受容し、ビザンツ滅亡後はその保護者となる。ビザンツの影響の薄かった地域のスラヴ民族はフランク王国を通じてローマ=カトリック教会を受容したが、東ヨーロッパはギリシア正教とローマ=カトリック教会が布教を競う場となった。
Episode Slavesの意味
 スラヴ人は英語で Slavs という。また奴隷を意味する英語は Slaves である。これは955年にドイツのオットー大帝がマジャール人を討った時、その地にいたスラヴ人を捕らえ、多数が奴隷として売られてから、ヨーロッパでは「スラヴ」が「奴隷」と同じ意味に使われるようになったからだ、という。<泉井久之助『ヨーロッパの言語』岩波新書 p.120>
東スラヴ人
 ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人。9世紀にスウェーデン系のノルマン人(彼らはルーシと言われた)が移住してきて東スラヴ人と同化してノヴゴロド国、ついでキエフ公国を作った。これがロシアの起源となった。ロシア人など東スラヴ人の多くは、ギリシア正教会を受容した。ビザンツ帝国滅亡後はロシア教会が正教の正統を継承したとしている。
南スラヴ人
 セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人・ブルガール人(本来はトルコ系だが南スラヴ人に同化)。このうち、ブルガール人=ブルガリア人以外の南スラヴ人は近代に連邦国家であるユーゴスラヴィア(「南スラヴ人の国」の意味)をつくったが、現在は分裂して個別の国家を作っている。南スラブ人の中のセルビア人はくはギリシア正教会の信者となったが、オスマン帝国の支配がバルカン半島に及んだことによって、イスラーム教徒(ムスリム)となった人々も多い。また、クロアティア・スロヴェニアはフランク王国に接していたので、ローマ=カトリック教会を受け入れ、カトリック信者が多い。
西スラヴ人
 ポーランド人・チェック(チェコ)人・スロヴァキア・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)。西スラヴ人の居住地には、12世紀ごろから西方のドイツ人による東方植民が行われ、ポーランドやチェコにはドイツの領土的野心の対象となっていく。西スラヴ人は西ヨーロッパのローマ=カトリック教会圏と接していたので、その影響を受け、カトリック信者となる人が多かった。
教科書に載っていない世界史 EUと多くの類似点があるローマ帝国滅亡の理由 
ローマ帝国滅亡 476年
source :文藝春秋SPECIAL 2017年 季刊春号 genre :ニュース,国際,読書,政治
壮大なインフラ、都市文化が姿を消した。
帝国滅亡にとどまらない文明崩壊はなぜ起きたか。 ◆ ◆ ◆  2015年、EU(欧州連合)にシリア、アフガニスタン、イラクなどから、100万を超えるイスラム系の難民が押し寄せた。  大量の難民の受け入れを巡ってEU諸国は動揺し、難民受け入れを積極的に進めたドイツのメルケル首相は、内外から批判を浴び、苦境に立たされた。難民危機の中、フランスのパリでは11月13日に同時多発テロが起こり、12月31日にはドイツのケルンなどの都市で主に女性に対する大規模な略奪、暴行事件が起こった。いずれの事件にもイスラム系難民を装った者が関与していた。翌2016年の6月にはイギリスが国民投票の結果、EUから脱退することになったが、これには前年からEUを揺るがしていた難民危機も大きく影響したことは疑いないだろう。難民危機を前に、各国では排外主義が広まり、世論は右傾化している。離脱ドミノが起こることで、EUそのものが崩壊することが現実味を帯びてきた。  難民危機に直面するEUの姿は、ローマ帝国末期の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる。ヨーロッパのみならず、中東、北アフリカにまで広がった巨大な領土を500年以上支配した帝国ローマも、「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれる、ゲルマン系の大量難民の波に4世紀以後襲われ、排外主義が高まる中、5世紀に滅亡したからである(この点は現段階ではEUとは異なるが)。  問題はEUという組織の崩壊だけには留まらない。フランス国民戦線のマリーヌ・ルペン党首は、2015年9月に「フランス国民の行動が皆無なら、私たちが被っている人口移動の侵略は4世紀のそれに何ら劣らず、同じ結果をもたらすだろう」と述べ(墓田桂『難民問題』中公新書)、フランスの文明の行く末に危機感を示した。ルペンの発言には扇動的であるとの批判も多い。しかし、難民問題に加えて、既存のイスラム系移民を多数抱えるEU諸国にとっては、文明のあり方そのものが4世紀以来の大きな変化を被(こうむ)る可能性は否定できないだろう。  2050年には、イギリスやフランスなどの西欧諸国では、イスラム教徒の増加で、キリスト教徒の人口が半数を割り込むという予測もある。これからのEU、あるいはEU諸国の文明の行く末を考える際に、ローマ帝国末期の事情を知ることは無駄ではないだろう。
滅亡は難民問題から始まった
 ローマ帝国の滅亡は、難民問題から始まった。ローマ帝国の国境の一つであったドナウ川の北方には、ゲルマン系のゴート族が広く居住していたが、ゴート族は370年頃から遊牧騎馬民族フン族の攻撃を受け、一部は征服され、一部は征服を免れたものの、フン族の攻勢を支えることはできず、郷里を捨ててローマ帝国内への移住を求めてきた。376年夏のことである。時の皇帝ウァレンスは、ゴート族の求めに応じ、彼らを帝国領内に受け入れた。  ウァレンス帝には、折からの帝国の兵力不足を新来のゴート族で補おうという魂胆(こんたん)があった。現在のドイツが難民を受け入れた思惑に労働力の確保があったと指摘されていることが想起される。正確な数字は分からないが、こうして20万とも言われる膨大なゴート族がドナウ川を渡った。これがローマ帝国を滅ぼすことになる「ゲルマン民族の大移動」の始まりとなった事件であり、今日の言葉で言えば、難民、それも部族単位を維持した大量難民の到来に他ならなかった。当時のローマ帝国の人口は、5000万から6000万程度。EUの人口が2015年で5億820万人であるので、ゴート族のインパクトは現在のイスラム系難民の比ではなかったのである。  大規模な難民の受け入れは現代の国家をしても至難の業である。案の定、ローマ帝国政府によって杜撰(ずさん)な扱いを受けたゴート族は、翌年には蜂起(ほうき)し、バルカン半島を荒らし始めた。鎮圧に向かったウァレンス帝は、378年8月にアドリアノープル(現トルコのエディルネ)で、ゴート族と会戦し、戦死してしまうという事態に至った。  ローマ帝国には、ゴート族が大挙して押し寄せてくる以前から、移民として多くのゲルマン系の人々が入っており、特に軍内では高位高官に上る者も少なくなかった。しかし、アドリアノープルの戦いの後、帝国内では、こうした平和裏に移民として入ってきていたゲルマン系の人々をも排撃すべきであるという考えが広まっていく。京都大学の南川高志は、この現象を「排他的ローマ主義」と呼び、これがローマ帝国を滅ぼすことになったと主張している。  ウァレンス帝の後継者となったテオドシウス帝は、ゴート族と一進一退の戦いを長く続けたが、結局、ゴート族を帝国領外に追い出すことも、殲滅(せんめつ)することもできずに、382年には彼らにバルカン半島の土地を与えて、帝国内での居住を認めざるをえなくなった。ローマ側にとっては苦渋の選択によって、ゴート族の難民問題は一旦解決したかのように見え、実際ゴート族はテオドシウス帝一代の間は落ち着いていた。  しかし、テオドシウス帝が395年に没した後、帝国は東西に分裂。さらに東西帝国の対立が鮮明になると、この機に乗じて、ゴート族は再び動き始めた。ゴート族は、その矛先を脆弱(ぜいじゃく)な西ローマ帝国に向けた。なお、ここでのローマ帝国の滅亡とは、西ローマ帝国の滅亡を指す。
領土を次々と奪われる
 テオドシウス帝の後を継ぎ、西ローマの皇帝となったホノリウスは幼少であったため、後見役の将軍であったスティリコがゴート族に対処した。スティリコの母親はローマ人であったが、父親はゲルマン系のヴァンダル族で、移民出身のローマ帝国の軍人であった。ゲルマン民族の移民の子孫がゲルマン民族の難民に立ち向かったのである。
・iStock.com
 ゴート族は、たびたびイタリアを脅かしたため、スティリコはイタリアの防衛を強化すべく、ローマ帝国のもう一つの国境であったライン川に配備されていた軍をイタリアへ移した。このスティリコの処置は、帝国にとって致命的な結果をもたらした。406年の大晦日に、ヴァンダル、アラン、スエビの諸族が、手薄になっていたライン川の防衛線を突破したのである。ヴァンダル族らも背後でフン族の攻撃を受けていたのであり、彼らもまた難民であった。ヴァンダル族らは、ガリア(主に現フランス)を2年間、荒らしまわり、409年にはイベリア半島に入った。ヴァンダル族らに続いて、ブルグンド族やフランク族、さらにはアラマンニ族なども、ローマの国境が崩壊したのを目にし、徐々に帝国領内に進出し始めた。この間の408年、スティリコは宮廷内の陰謀で殺害された。スティリコという重しのとれたゴート族は、その動きを一層活発にし、410年にはついにローマ市を占領、略奪した。
 結局、ローマ帝国は、これら大量の難民を「同盟部族」として帝国領内に受け入れることで、事態の最終的な解決を図った。「同盟部族」とは軍役を条件に、土地と部族の自治権を与えられて帝国領内に居住を認められた部族のことである。
 例えば、ゴート族は、418年にガリア南西部のアクイタニア地方に土地を与えられ、同盟部族として定住した。一方で、ヴァンダル族のように、ヒスパニア(イベリア半島)から429年に北アフリカに渡り、武力で制圧した後、同盟部族と認めるよう帝国に迫り、不法占領を正当化させた場合もあった。北アフリカに渡ったヴァンダル族は、8万人であったと推計されている。
「同盟部族」というのは、聞こえはいいかもしれないが、この立場になった部族は事実上、帝国から領土割譲を受けたに等しかった。その上、彼らが帝国に従順であったのはほんのわずかの期間でしかなく、ヴァンダル族はもちろんのこと、ゴート族もやがて居住を認められた領域を越えて、その勢力を拡大させていった。こうしてローマ帝国は、その領土を「同盟部族」となったゲルマン系の難民部族に次々と奪われていったのである。テオドシウス帝の子孫の王朝は、455年に滅びたが、この段階でローマ帝国はその領土のほとんどを失っており、イタリアの地方政権と化していた。
 そして、風前の灯火のようになっていたローマ帝国は、最後の皇帝ロムルスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位されたことで、476年に滅んだ。奇(く)しくも、ゴート族の難民がドナウ川を渡って、ちょうど100年目のことであった。
 興味深いのはこの100年間、ローマ帝国の中央政府はほとんど無力であったが、ガリアやブリタンニアといった地方は中央から分離独立していく傾向を示さなかったことである。仮にEUが崩壊するとすれば、加盟国の漸次(ぜんじ)離脱という形で起こり、元の国民国家の分立状態に戻ることになるだろう。これと比較して考えるならば、ローマ帝国の地方には、独立の核となる、戻るべき帝国以前の国家のようなものがそもそも存在しなかったのである。
 一方で、排外主義の広まりにもかかわらず、帝国民のローマ帝国への愛国心も強くはなかった。反ゲルマンを掲げて、ローマのために積極的に抵抗するような勢力もみられなかったのである。
貧富の差と文明の亀裂
 ローマ帝国の滅亡過程を以上のように見てくるならば、そこに大きな謎はない。にもかかわらず、ローマはなぜ滅んだのかと史上、繰り返し問われて来た。その最大の理由は、ローマ帝国の滅亡が、単なる一帝国の滅亡にとどまらず、帝国という政治組織とともに、ローマの文明そのものも同時に崩壊してしまったからであろう。ここでいうローマの文明とは、都市生活であり、都市生活を支えた上下水道や公共浴場などのインフラであり、貨幣経済であり、高度な識字率などであるが、ローマ帝国の滅亡後、これらの全てが西ヨーロッパでは急速に姿を消し、ブリテン島などの一部地域では、社会は帝国以前の先史時代の状態近くにまで逆戻りしてしまったのである。
 では、なぜ帝国のみならず、ローマ文明までが滅んだのであろうか。この原因をゲルマン民族の破壊的行為に帰するだけでは、十分な説明にはならない。
 過去を振り返って見るならば、実はローマが万単位の外来部族を受け入れたのは4世紀の後半が初めてではなかった。それは帝国の初期以来、幾度も繰り返されて来たことであった。問題は、ゲルマン民族を吸収、同化できなかった当時のローマの文明にもあったのである。
 このことは中国の歴史と比較してみると鮮明になる。ユーラシア大陸のもう一方の端にあった中国も4世紀以後、ローマ帝国と同じく北方からの民族移動の波を受け、五胡十六国時代と呼ばれる時代を迎えた。しかし、中国では、ローマ帝国の場合と異なり、混乱の中でもその文明が滅びることはなかった。むしろ、移住してきた異民族は中国化し、文明の継承者となっていったのである。
 東洋史家の川勝義雄は、中国文明の強靭(きょうじん)さの秘密を、これを担った文人貴族である支配者層が民衆の大多数に支持されていたことに求めた(『魏晋南北朝』講談社学術文庫)。文明が上下を問わず住民全体によって支持されている状態にあったため、異民族も中国化しなければ、統治がままならなかったのである。
 このような中国史の事例をヒントに考えるならば、ローマ帝国では、ゲルマン民族が4世紀後半に入って来た時に、その文明が住民全体によって支持されていなかったのではないか、との推測が成り立つ。
 ローマ文明の主たる担い手は、都市の支配者層であった。ローマ帝国の最高の支配者層は元老院議員の身分に属していた人たちであったが、彼らもまた本をただせば都市の支配者に他ならなかった。
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 都市の支配者層というのは、実態は富裕者層であり、彼らは自らのポケットマネーで、自身の出身都市に公共建造物を寄贈し、上下水道などのインフラを整備し、金品、あるいは剣闘士競技を提供する独特の慣習を有していた。このような慣習を、現代の学者はエヴェルジェティズム(施与〔せよ〕行為)と呼んでいる。このエヴェルジェティズムは当時、名士たる都市の富裕者層の義務であるともみなされていた。そして、民衆はこれを享受することが出来る限り、彼ら富裕者層を自らの支配者と認め、その文明を支持してきたのである。
 ところが3世紀末頃から、都市の富裕者層はエヴェルジェティズムを止めてしまう。ノブレス・オブリージュが放棄されたのである。その原因は定かではないが、これによって支配者である富裕者層と民衆との間に亀裂が入ったことは疑いない。
 この亀裂を一層深めたのは、当時、深刻になりつつあった貧富の差の拡大であった。都市の富裕者層の代表である元老院議員は、4世紀には以前にも増して巨大な富を蓄積するようになっており、その一方で民衆は貧困化していたのである。
 ローマ帝国では、3世紀末以後、軍事費を始めとする国家予算が著しく膨張したため、租税負担は重くなっており、これを回避するすべを持つ富裕者層はいよいよ富み、そうでない者は貧困になっていた。住民の2極分化に直面していたローマ帝国の文明は、4世紀には中国とは異なり、住民全体でその価値が共有され支えられる状態ではなくなっていたと言えるだろう。弱体化していたローマ文明は、新来のゲルマン民族を吸収、同化する力をもはやもたなかったのであり、ゲルマン民族の側としても、積極的に同化する必要を感じなかったのである。
 歴史を振り返って見れば、文明というものは、常に少数の支配者層のものであった。この傾向は時代が古くなればなるだけ甚(はなは)だしくなる。しかし、いつの時代においても彼らによってのみ、その文明が支えられているのではない。民衆の大多数がその価値を認め、支持するからこそ文明は存続するのである。
 逆に言えば、支配者層と民衆の間に亀裂が入り、文明が民衆の大多数に支持されなくなると、文明は弱体化する。そして、弱体化した文明には、新来の異文化を持った集団を大量に同化する力は残されておらず、滅びることになるのである。
西ローマ帝国の滅亡
476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされる。
395年の東西分裂後も、西ローマ帝国は存続したが、4世紀に始まるゲルマン人の大移動の波がその領内に及ぶようになり、5世紀にはいるとゲルマン人、さらにアジア系のフン人がローマをたびたび掠奪し、大きな脅威にさらされるようになった。帝国の防衛もゲルマン人傭兵部隊に依存しなければならず、皇帝は傭兵部隊の意向でたびたび廃位された。
5世紀のゲルマン人・フン人の侵入
 406年 東ゴート人の侵入
 410年 西ゴート人のアラリックのローマ掠奪
 430年 ヴァンダル人のガイセリック、アフリカに入りピッポでローマ軍を破る。
 451年 フン人のアッティラ大王のガリア侵入
 452年 アッティラ大王、ローマに侵入。ローマ教皇レオ1世による説得で撤退。
 455年 ヴァンダル人のガイセリック、ローマ掠奪
 474年 ガイセリック、アフリカ・シチリアその他の地中海諸島を領有。
 475年 西ゴート人のスペイン領有、ブルグンド人などのガリア分割。
 476年 西ローマ帝国、オドアケルによって滅ぼされる。
古代都市「スパルタ」の軍事教育は早期から。生まれた時から過酷な運命を背負い、強靭な戦士へと育て上げられる男子
2018年05月14日 知る ι 歴史・文化 ι #


古代ギリシア時代の「スパルタ」は当時、世界最強の軍隊で鳴らした都市国家だ。

国家は戦士の強さを信頼するあまり、城壁など無用とばかりに取り去ってしまった。アレキサンダー大王が目にしながら制圧しなかった唯一の国でもある。

スパルタは他のギリシャ諸都市とは異なる国家制度を有しており、きわめて厳しく過酷な軍事的教育制度があった。スパルタに生まれた男の子は幾多の試練を経て戦士へと育てられる。彼らの育ての親は母親ではなく、国家だった。その教育法はスパルタ教育の名で今もなお知られている。


10. 弱い赤ちゃんは放置されて死ぬ

スパルタでは弱い赤ちゃんには生きるチャンスすら与えられなかった。体が弱かったり、病気や奇形がある子はそのまま放置され死んだ。子供が生まれると、父親はその子を町の長老たちの元に連れていく。長老は赤ちゃんを身体検査し、虚弱であったり、異常があったりすれば、父親にアポテタイ(Apothetae)という穴に入れるよう命じる。そこに入れられた子はそのまま飢え死にすることになる。検査をパスしたとしても、その子が生きられる保証はない。自宅に連れ帰られた子は母親によってワインで体を洗われる。これは古代のてんかん検査で、これによって発作が生じれば、やはり育てられることはない。推定によると、子供の半分は育児放棄されるか殺されるかだったという。

9. 7歳から兵舎で暮らす

母が我が子と一緒に過ごせる時間は短い。7歳になった男の子はスパルタ教育(agoge)を受けるべく、親元を離れて少年監督官(warden)という教師から学ぶようになる。その暮らしは過酷だ。子供たちは互いにいじめや挑発し合ったり、喧嘩したりするよう推奨される。ここは平和が保たれた場所ではない。子供たちの間で口論が起きようものなら、少年監督官は拳で決着をつけるよう促した。少年監督官は鞭を携帯しており、子供を叱る際はそれで打ち付けた。その一撃は強烈だったが、それで終わりではない。父親がそれを知った場合は、さらに鞭打つよう義務付けられていた。手心を加えれば、却って子供をダメにすると考えられていた。

8. 食べるためには食事を盗まねばならない

スパルタ教育では、生活必需品などほとんど与えられない。靴は贅沢品とみなされ、裸足で生活せねばならなかった。服は自然への抵抗力を弱めると考えられ、1枚の薄いクロークのみが与えられた。また食べ過ぎは太ることから、生きる上で最低限の量の食事しか与えられなかった。だが、それ以上食べてはいけないということではない。子供たちは腹が減れば盗めと言われた。とはいえ、盗みが許可されているわけではない。したがって盗みで捕まれば、食事は取り上げられ、鞭打たれた。しかし誰にも見つからず盗みだすことに成功すれば、己の食事を獲得したのだとみなされた。

7. 飢えた子供たちはチーズを巡って戦うよう命令された

毎年の祭りも過酷なものだ。アルテミス女神の祭壇にはチーズが供えられ、少年たちはそれ手に入れるべく激闘を繰り広げるのだ。しかも戦いの間、年長者から鞭打たれた。この祭りでは命を落とす者もいたほどだ。少年たちは常に勇猛な顔つきを忘れてはならず、鞭打たれたとしても笑顔を浮かべる必要があった。
しかし、子供たちの必死な姿は滑稽にも映った。祭りには大勢の人々が集まり、少年たちの過激な戦いを見ながら笑ったという。チーズを最も多く手にした少年には栄誉を称える称号が贈られた。

6. 食事はまずい

スパルタの食事は5つ星レストランで提供される料理とは真逆のものだ。なにしろ、スパルタ兵と食事をしたあるイタリア出身の男が、「スパルタ人が死を恐れぬ理由が分かった」と感想を漏らしたという逸話が残っているほどだ。彼が話しているのは、メラス・ゾーモスというスープのことだ。それは塩、酢、豚の足と血で作られていた。スパルタ人は1つのテントで同じ釜の飯を食ったが、メラス・ゾーモスは主食で、与えられる肉はこれのみだった。もっと肉を食べたければ狩りをするしかない。鹿を仕留めた者は、その肉をわかち合わねばならなかったが、少量のみ自宅に持ち帰ることが認められた。スパルタ人が自宅で食事をできるのはこの時のみで、それ以外は固く禁じられていた。

5. 口頭試験に間違えると噛みつかれる

食事が終わると、教師が訓練生に質問をする。この質問は現代の小論試験のようなもので、もっとも多い質問が、「町一番の男は誰か?」というものだった。少年たちはそれぞれの答えを理由とともに述べねばならなかった。回答は機転が利いており、かつ素早く答える必要があった。そうでなければ少々変わった罰が与えられた。プルタルコスによれば、冴えない答えをした少年は親指を噛まれたという。しかし教師にとっても楽な仕事ではない。この問答が終わると、彼らもまた審査され、厳しすぎたり、甘すぎたりすれば、罰として鞭打たれた。

4. スパルタ教育以外の教育は禁じられた

スパルタ人として生まれたということは、戦士として生まれたということだ。商人や農民ではなく戦士なのだ。彼らは戦い方を仕込まれ、タフであるよう求められた。また必要がある時に限っては文字も教えられた。それ以外のスパルタ教育から外れたことは固く禁じられた。課外の教育は危険な贅沢とみなされ、引き算や足し算を学んだり、哲学的な謎を考察することなど一切認められなかった。
兵士は命令に即座に従うことを求められる。したがって伝統的な教育法は彼らを弱体化させると考えられたのだ。兵士がそれ以外の職業に就きたいと考えれば、戦いや命令に集中しなくなる。そのため、戦いに関係しないことは一切が遠ざけられた。

3. 人前で鞭打たれる祭り スパルタには鞭打ち(Diamastigosis)という過酷な祭りがあった。少年たちは観衆の目の前で、鞭打たれその苦痛に耐えるのである。まるで拷問のようだが、スパルタ人にとっては名誉であった。自ら進んで鞭打たれ、自分が誰よりも長く苦痛に耐えられることを証明しようとしたのだ。他の文化にとってはまったく奇異な習慣である。ローマがこれを知ると、この祭り見たさにスパルタで休暇を取る者が現れるほどだった。300年頃には、スパルタは劇場を建設し、ローマ帝国にチケットを売るという商売まで始めている。

2. 軍事訓練で奴隷を殺した
スパルタにはヘロット(Helot)というパレスチナ人の奴隷がいた。その扱いは酷く、クリュプテイア(Krypteia)という軍事教練では、奴隷を恐怖で縛り付け、少年たちに戦う準備をさせるために、命すら奪われた。スパルタの少年たちは短剣と食料を与えられ、できるだけ多くの奴隷を殺すよう命令される。夜になるまで待ち伏せしては、そこを通りかかった奴隷や働いている奴隷に襲いかかった。少年たちにとっては殺しの訓練であり、奴隷たちにとっては自分たちの置かれた立場を思い知らされる出来事だった。

1. 戦場で死んだ兵士にのみ墓石が与えられる

年老いて死んだスパルタ人はまるで尊敬されない。平穏に終わった人生は恥ずべきもので、ただ何もない墓に葬られるのみだ。墓標が欲しければ戦いで死ぬことだ。戦いの最中で死んだスパルタ人の遺体は、その場に葬られ、敬意の証として、その名と戦死と刻まれた墓石が置かれる。女性の場合、戦争に赴くことはなかった。しかし出産で死んだ女性には、戦死者と同じ敬意が払われ、墓石が与えられた。スパルタ人にとって、その女性は新しい兵士を生み出すために戦い、惜しくも命を落としたのと同義だったのだ。
サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!
自由を求めた女たちが起こした革命 
2020/07/14 17:17
  人間は、自由なものとして生まれ、
             権利において平等である。

1789年 7月14日 フランスはパリにて起こった革命。
世に云う フランス革命 にて発せられた 世界初とも言われている 人権宣言 にて、こうした言葉が生まれた。 



   それは輝かしい事であり、劇的な出来事でもあったと思う。

私は、今更ながらも自分の無知な事柄に、少々落ち込んでいる・・・・・
それは、 1974年代 に世に出された作品であり、今でも様々な人々から喝采を浴びている作品。 ベルサイユのばら を読んで、少しながらもフランスの革命という時代の歴史に触れて、どうしてそれが起こってしまったのかと、随分とわかっていたと思っていたんだなと、・・・・・・

その時起こってた革命は、決してベルばらの世界のキャラクターが綴った・・・・歴史や事柄だけではなくて、そこにはもっと多くの人の思惑があったんだなと、この年になって改めて知る機会があったからだ。



勿論その真実の世界には、マリーアントワネット とその恋人と噂された フェルゼン 以外の人々は登場しない。 でもね、実はずーっと気になってたことがあったんだ。 

「共和主義の女性になることを望むなら、夫や子供達に権利の行使を思い起こさせる法を愛し、法に従い法を教えるがよい。」
      (1793年11月19日付 「モニトゥール」 新聞の記事より。)

このような記事が、当時のフランスでは世に出されていた。

「服装は質素に、家庭では勤勉であれ、発言しようなどという気持ちで、集会に出向いては断じてならない。」

これらは、 共和主義の女性諸君へ とした文の中の一文だが、フランスという国では、当時信じられないくらいの起立の難しさや身分差別や長く続いた圧政などがあって、その中でも特に女性自身 の立場は、貴族などの特権階級を除いた他では、それこそ人にあらずな立場だったことが見えてきた。

男は外に、女は内に・・・・・
それが当時のフランス国での当たり前だった。 日本でいえば・・・・
亭主関白 的な家庭内での妻・女でいろとの事だろうか。
実際これが、理想とされた時代で、革命指導者達には、その女性が
王党派 であろうが、 ジロンド派 (穏健派) であろうが、・・・・
ジャコバン派 (急進派) であろうがそんな事はどうでもよくて、
女性というものが政治に直接的な関わりを持つこと自体が、悪 とされていて、家事・出産・育児のみ。 ほぼ家に縛りつけられるような人生を、送る事が当たり前だったようだ。

なら 離婚 すればいいじゃない!
と、思うだろうが・・・・。 その権限さえなかったんです。 



反革命派と対決したと言われている ロラン夫人 さえ・・・・・
政治に口を出し積極的に関わってきたと、後に処刑をしてしまった。

彼女は、革命当時の 国王ルイ16世 に対しても、夫をかえして一通の手紙を送り、文章を書く事が得意だった彼女は、夫の政治力を後押しするようにして、国王に自分達側の人間につくように求める。

しかし、国王はその時彼女の交渉事に背を向けた事で、その後々の
不幸な出来事が続く事となり、取り返しのつかない人生となったんだともいう。 彼女の求めに答えていれば、少しは身の安全を保守できたかもしれないのに・・・・・。

革命という嵐は、女であれ誰であれ、容赦をしなかった。

女性としての 美徳 ・・・・そこから抜け出ることなど、決して考えてはならない。 革命政府は、ますます弾圧を強めて・・・・・・
テルミドールのクーデター後には、「女性が5人以上で路上で集まって、話しをしてはいけない」 ・・・・そんな法律まで作り上げて、ますます女性の行動を封じてしまった。



女性ながらも 武装化 を主張したという テロワーニュ は、精神を病んでしまい。 精神病院で20年間もの長きに渡って収容された後、回復することなく亡くなった。

正しいとさえ口にできない・・・・そんな世の中でもあった。

そこへきての貧困極まりない生活状況と、報われることのない毎日。
身分という差別意識などが、彼女たち女性をも、革命への原動力とし、世の中を大きく動かす力と変えていったのは間違いない。



1789年10月 ・・・・・
旧体制の都であった ベルサイユ から、革命の都となっていた
パリ へ、その舞台を移した事が、女性達の働きによる勝利とされた
ヴェルサイユ行進 と言われるものだ。

これは、ベルばらの漫画にも登場するシーンですが、多くの女性達が武装して、6時間ほどもかかる距離を進軍し、王と王妃をパリへと連れ出した有名な史実。 この時、王妃マリーアントワネットは、宮殿の
バルコニーに出て、押しかけた暴徒と化した彼女たち (一部男性も) の前にて、優雅にお辞儀をして驚かせたというもの・・・・・

口々に、「王妃は生まれながらの王妃なのだ」と、認めさせた。
実際バスティーユ陥落の現場でも、武器を持ち戦った負傷した女性名が残されていて、 1792年8月10日 民衆がチュイルリー宮殿を襲撃して、王政を倒しこれを機に革命が一気に動いた時も、多数の女性の参加があったという。

彼女達は、常に戦っていたんだ。

上記に書いたロラン夫人も、そんな1人だろうと思う。 何故ならこうした世の中の動きに敏感に反応して、わざわざパリへ出てきたくらいなのだから・・・・・。






「生涯かけて わたしひとりか!?」

「わたしだけを 一生涯愛しぬくとちかうか!?」
「ちかうか!?」

おいおいおい!? そんなに疑わなくてもいいんでないかい?
もう何度となく目を通していて、そう思ってしまうのは、第7巻での・・・・
オスカルが、初めてアンドレに告白をするシーン。
これにて、アンドレの長きに渡る身分違いな恋も、成就されるのだけれど、彼女は何故こんなセリフを言ったのだろうかと、ついつい疑問に思った事があった。
この頃のフランスでは、貴族の体面さえ保つことができれば、夫婦がそれぞれに妻や夫以外の人間と、つき合うことがあったとしても、何も問題がないとされていた。 家を継ぐ後継さえ残す事ができれば、それ以外の事は全て自由だったんだ。

実際年下の男性と、長くつき合っていたという貴婦人もいたそうだ。

オスカルの父や母親が、仲睦まじく生活をしているのを、外部の貴族達に冷やかされるシーンもあるが、それは事実だった。

貴族は、家に問題を持ち込んだり、問題視される行動などをしない限りは、どうぞご自由にと・・・・夫婦で夜会に出かけた後でも、帰宅後別々の愛人のもとへ出かけても、誰も文句をいう者さえいなかった。

仲のよいジャルジェ夫妻の姿を見ていたら、ついついオスカルも・・・・・
アンドレに念押ししたくなるのもよくわかる。・・・・・が、なら平民はどうだったんだって・・・・・・。

革命後、平民達での女性の立場が、少しながらも改善されている。

革命前では、貴族以外の女性は、ほぼ家に縛られていたが・・・・・
革命後は、社会的な行動はダメだが、家の中では個人としての権利は認める。 結婚も21歳になれば、親の同意なしで可能となった。
男たちは、これほどまでに女性達を表舞台に出そうとせず、一切を認めなかったにも関わらず・・・・革命の象徴として、民衆を引き連れて
旗を手に向かう 自由の女神 などを描いたのは、女性を聖女として崇めたかった。 そして、それに救われたいといった 崇拝 の思いがあったのかもしれないという人もいる。
この絵の中の自由の女神とは、そう・・・アメリカ独立100周年を記念して、フランスからニューヨークに贈られた 自由の女神像 そのものなのです。 もう1つ、同じ自由の女神の小さいものが、フランスにも存在しています。

1つ余談ですが、女神の前に立つ少年に扮して、美術館を楽しめる・・・・。それが、先日書いた 大塚国際美術館 でのイベントの1つにあります。 ブログを読んでみて下さいね。 ルーヴル美術館展での項目です。



フランス革命で倒したはずの王家が、ナポレオンの死後・・・また復活する事となる。 しかもその時の王様には、革命時にはいち早く
逃亡をしていたブルボン王家の生き残りであり、処刑されたルイ16世の弟となる人物。 その新たなる ルイ18世 が 王政復古 にて再び 離婚制度 をなくしてしまい。 またもや女性は、男性と同じような自由さをも、失う事となってしまうのだった。

ちなみに、ルイ17世がいたんだが、それはアントワネットの次男であり、幼くして親と引き離されて、洗脳的教育を受けて・・・・親の死後病にて亡くなっている。 まだ小さな子供だった・・・・・
こんな現実を見ていると、いったい何のための革命だったのかと、疑問も湧いてくる。 短期間に多くの人間達の命が奪われて、最後は人を殺すことだけに、生きがいを感じていたんではと思ってしまう。
オスカルとアンドレは、なんで死ななきゃいけなかったんだよ!
あ〜〜、生きて生き抜いて欲しかったね。 (。? _ ?。)


女性からの要望で作られた革命期の制度が、復活するのはその70年後の 1884年 の事であり、更に夫婦双方の合意による・・・・・
協議離婚 が、フランスで認められるのは、なんと 1975年 となるのだ。 こうしてやっと本当の 男女平等 が認められたわけだ。 それでも、不貞や虐待などの理由請求事由が必要だった。


    さて、ここで登場するのがご存知 ナポレオン くんだ。

彼が表した ナポレオン法典 には、こんな事が書かれている。

浮気・姦通罪
夫は自宅でのみにしか罪とならず・・・・それも、罰金刑のみであり、妻は場所に関係なく 3ヵ月〜2年 の懲役。
刑法には、妻の現場を押さえた場合、夫は妻の相手の男を殺しても、罪には問われない。 夫は妻の不貞で、離婚を請求できるが・・・・・
妻は夫が相手の女性を、自宅に同居させた場合にしか、それを理由に請求できない。

せっかくフランス革命という世界的有名な出来事の後なのに、このようにしてまだ虐げられたような不条理な世界。 しかも、これが革命後であったという事は、その前はいったいどうなっていたのかと、恐ろしくなる。 自由を求めた女性たちの戦いは、男子と同等の財産相続権が認められて、革命時は社会的活動を一切封じられていた女性たちの・・・
革命後改めての社会的行動能力を証明する事となった。

それまで認められた唯一の権利は、処刑台に上る事だけだった。
こうして彼女達にも、一応に離婚制度が適用された。
確かに、日本においても江戸期まではもっとも厳しい離婚とよばれる事への決まりごとはあったけどね。 西洋のフランスでは、まだその上をいっていたのかもしれないね。 
>>[018]

知ってますたらーっ(汗) 友人のひとりも実は事実婚してたくちです
遺体は“1000人以上” 暴行、レイプ…先住民の子どもを大規模虐待〜カナダ寄宿学校の闇〜
国際
 TBSテレビ
2022年7月30日(土) 16:00
萩原豊
■異例の“懺悔の旅” ローマ教皇の謝罪

謝罪したローマ教皇フランシスコ
「心から深くお詫びします」極めて異例の謝罪となった。85歳という高齢のローマ教皇フランシスコが、7月25日、カナダ西部のエドモントン郊外を訪れた。カナダ国内で最大級の寄宿学校があった跡地だ。集まった先住民の人々に向けた演説で、カトリック教会運営の寄宿学校での、先住民の子どもに対する政策は「取り返しのつかない過ちだった」とした。謝罪の言葉が英語で翻訳された直後に、大きな拍手が沸き起こった。長年求め続けた教皇本人からの「直接の謝罪」を、ようやく得られた歴史的な瞬間だった。さらに教皇は「キリスト教徒による悪行について、謙虚に許しを請う」とまで語った。

だが、この謝罪を「意味がない。決して許せない」と語る人々がいる。取材した寄宿学校の元生徒たちだ。彼らが明かした虐待の実態は、「悪行」という言葉だけでは、決して言い表せないものだった。


モホーク寄宿学校があった建物
■「誘拐」から始まった
カナダ東部オンタリオ州にある小さな町、ブラントフォードに、モホーク寄宿学校があった建物が残る。一見、瀟洒(しょうしゃ)に見えるが、ここが、先住民の子どもたちへの「虐待」の場だった。

モホーク寄宿学校は、1828年から1970年までカトリック教会によって運営されていた、カナダで最も古く、長期間にわたり開校していた学校のひとつ。20近い先住民族出身の約1万5000人の子どもが暮らしたという。

この寄宿学校の元生徒、バド・ホワイトアイさんは、学校から車で2時間半、200キロ近く離れた米国との国境近くに住んでいる。78歳という年齢とともに、膝の状態が悪く、最近歩くことも難しくなっていた。それでも、私たちの取材依頼に、学校があった「現場」での証言を承諾してくれた。


モホーク寄宿学校の元生徒 バド・ホワイトアイさん(78)
取材した日は、緯度が高いカナダでも、日差しが照りつけ、焼けつくような暑さだった。寄宿学校の建物の前に立ったバドさんに、学校に来た経緯から訊いた。

「黒い車がやってきて、私たちが歩いている長い間ずっと、ついてきたのです」

8歳のときだった。自宅と祖母の家との間の道を弟と歩いていると、突然、黒い車が近づいてきたという。車内にいた男たちから乗るよう誘われたが、何度も断った。だが「アイスクリームを買ってあげるから」と言われ、幼い二人は車に乗ったという。アイスをもらったあと、家に帰ることができると思っていた。ところが、車は家とは反対の方向に進んでいったという。途中、眠りに落ちたあと、車が大きく揺れて、目が覚めたときには、全く見たことのない場所にいた。そこが、自宅から100キロ以上離れたモホーク寄宿学校だった。

「しばらくして、私たちは、誘拐されたんだと気づいたのです」

バドさん兄弟のケースは特別ではない。モホーク寄宿学校にいた、多くの子どもたちが自宅から拉致されたと指摘されている。

カナダでは、1870年代から1990年代までに、約15万人もの先住民の子どもたちがインディアン法に基づき親元から強制的に引き離され、カトリック教会が主に運営する139校の寄宿学校に送られた。先住民を教育して、白人と「同化」させようという狙いだった。


カーライル寄宿学校(1890年代)
■先住民の伝統を奪った「文化的大虐殺」

「自分の番号を今でも覚えています。53番でした。彼らは、何かをやらせたい、納屋かどこかで作業をさせたければ、番号で呼んだのです」

子どもたちは、名前ではなく「番号」で呼ばれたという。このとき、私は、過去に取材したアウシュビッツ強制収容所の元収容者の言葉を思い起こしていた。その男性は左腕の袖をまくって、肩の近くに彫られた数字を見せながら「私たちは、人間ではなく番号だったのです」と語った。無論、寄宿学校と強制収容所の役割は全く異なる。だが、人権侵害という視点からは重なり合う部分も見えてくる。バドさんも、のちに、ナチスによるユダヤ人強制収容所の実態を知り、寄宿学校と似た部分があると感じたという。

「同化政策」の名の通り、先住民固有の文化を奪うことが目的だった。子どもたちは先住民の言葉を使うことを堅く禁じられた。「私たちの言葉を奪われました。何の問題もない、完璧な言語があったのに。最も悲しいことでした」とバドさんは話す。

カナダ政府は、寄宿学校の実態を解明するために「真実と和解委員会」を設けて、生存者の聞き取りや資料の調査などを行った。その報告書(2015年)では、先住民の伝統を奪う、こうした同化政策を「cultural genocide=文化的大虐殺」と批判して、こう定義した。「集団としての存続を可能にする構造や慣習を破壊することである」。

■教職員から連日続いた「暴行」
「そこは教育の場ではなく、農作業の場所でした。そして殴られました。罰は教育のためではなく、ただ私たちを壊すことが目的でした」

勉強よりも農作業ばかりを強いられた、とバドさんは話した。

「暴行は毎日でした。生徒の集団の中から何人かを選んで連れて行き、大きなベルトで殴っていました。どこに当たるかは気にしていませんでした」

教職員らからの暴行が連日続いたという。


元生徒 ダイアン・ヒルさん(66)
同じモホーク寄宿学校の元生徒、ダイアン・ヒルさん(66)にも取材できた。ダイアンさんは、元生徒のなかで最も若い世代である。

「私は58年間、このことを決して話しませんでした。私は一度も言ったことがありません、一度も」

彼女は7歳の時に、この寄宿学校に連れて来られた。膝下まであった長い髪。先住民の伝統文化で、三つ編みにするのが少女の誇りだったという。ところが、到着直後、強制的に髪を切られた。さらに裸にされ、固いタワシで身体を洗われたという。その後、ベッドで横になり、寂しくて泣いていると、部屋のドアが開いた。ダイアンさんは「誰かが慰めにきてくれたんだ」と喜んだという。だが入ってきたのは、見知らぬ職員の女性だった。このあと、何が起きたのか。58年前の記憶は鮮明だった。

「彼女は、私から布団を奪いました。突然、顔を殴られて、白い星みたいなものが見えて、鼻血が出ました。それまで殴られたことがなかったので、何が起こったのかわからなかった。大人は殴らない、という世界から私は来ました。でも殴られ、足首を掴まれ、ベッドから引きずり下ろされました。7歳の子どもだった私は、ショックで反応できませんでした」

さらに女による暴行は続いた。

「床に叩きつけられると、その瞬間から、殴る蹴るの暴行が始まりました。ベッドの下に潜り込もうとしたら、髪を掴まれ、引きずり出されて、また殴られ、叩かれ…。『泣くな、泣くな、泣くな』と言われたんです。『泣くな、絶対に泣くな 』って 。それが、ここでの最初の夜でした。翌朝に見ると、毛布やシーツが血だらけでした」

彼女は噛み締めるように語った。閉じた瞳からは涙が流れていた。
■明かされた「性的暴行」の経験
バドさんは、膝の痛みをこらえながら、一歩、また一歩と、歩みを進めて、寄宿学校があった建物に入った。階段を降り、何カ所かのドアと廊下を通って、その場所になんとか辿り着いた。今も地下1階にあるボイラー室だ。ここで、ある経験を明かした。


ボイラー室で証言するバドさん(78)

9歳のとき、何度か会話をしていたという教職員の男から「ボイラー室を見に行こう」と誘われた。室内に入ると、石炭で湯を沸かすというボイラーの仕組みを説明されたという。そして男は、バドさんを壁に押しつけた。

バドさんは当時と同じ場所に残る、その壁に向かって語った。
「彼は、私を壁に押し付けたんです。何か他のものを見せてくれるのだろうと、私は喜んで壁に向かいました。でも違いました。彼は私の首に指を回し始めました。そして、私のシャツを引っ張り出して、服を脱がし始めました。私は悲鳴を上げていました。私の服、靴、すべてを脱がされました。それから、私を弄んだのです。彼は私の上に覆いかぶさり、私の心は悲鳴を上げていました」

職員の男からの性的暴行だった。恐怖心が今も強く残っているとバドさんは言う。だが性的暴行は、この1回だけではなかった。
ある夜、ベッドで寝ていると、身体に重みを感じたという。そこにいたのは、面識のない職員の男だった。

「すぐには目が覚めませんでした。半分寝ているような状態でした。彼が毛布を取ると、それで目が覚めたんです。その大柄な男は、簡単に私を押さえつけました。うつ伏せにして、下着を脱がされ、何度も、何度も犯されました。私は全力で抵抗しましたが、少年にできることは限られていました」

その後も、同じことが十数回、繰り返されたという。レイプの経験については「恥ずかしさ」から誰にも報告できなかった。初めて語ることができたのは、バドさんが50歳を過ぎてからだった。弟も、性的暴行を受けたことを最近になって初めて告白したという。

世代が少し若いダイアンさんも、こう証言した。
「女の子だけでなく、男の子も多くがレイプされていました」

二人によれば、当時、校内で性的暴行を受けた少女が、校舎の壁のレンガに「Help me」と文字を掘っていたという。だが、そのSOSは外部に届かなかった。モホーク寄宿学校で性的暴行が継続的に横行していたと見られる。調査委員会の報告書によれば、他の寄宿学校でも多数の報告があるとされている。

■「飢え死にしそうだった」
食事や衛生状態も劣悪だった。ダイアンさんが、ある日の食事について語った。器に穀物が入っていた。ぐつぐつと沸騰しているように見えたという。ところが…。

「穀物は、ほとんど温かくなかったのです。なんで沸騰しているのだろうと、よくわかりませんでした。でも熱くない。実は、その中にウジ虫が入っていたんです」

女の子たちはスプーンで一度、口に入れてから、歯を使って虫を取りだして、テーブルの下に押し込んでいたという。

バドさんも常に空腹で、ゴミ捨て場に行き、ゴミのなかから焦げたサンドイッチを拾ってよく食べたという。それでも「飢え死にしそうだった」と話した。
虐待、劣悪な食事などから脱走を試みる子どももいたという。バドさん自身も一度、脱走したがすぐに捕まり、罰として何度も激しく鞭打ちされたと話した。

■消えた数千人の子どもたち…跡地で千人以上の遺体発見
「あの大きな木の向こう側に、幼い子どもが埋まっていると聞いた」

建物の裏側にある木を指さしながら、バドさんは言った。

「多くの子どもたちが消えています。死んだのか、殺されたのか、わからないのですが…あんなに酷い暴行があったのだから、死んでいてもおかしくない」


警察による調査作業

レーダーによる遺体の地中調査
私たちがモホーク寄宿学校跡地に到着した日、10人以上の警察官らがエントランス近くで地中調査に向けた作業を進めていた。コンクリートの下に子どもが埋められているのか。地中調査に使われていたレーダーは、深さ2.5メートルの状況を把握する性能があるという。当日、作業をしていた責任者、ジェシー・スクワイアさん(26)の曾祖父母も、モホーク寄宿学校にいた。

「元生徒たちの話を聞くと、間違いなく、このあたりに遺体が埋まっているようです。不幸なことに、人道に対する罪が数多くあったのです」


モホーク寄宿学校跡地の敷地
子どもの遺体が埋まっている可能性のある敷地は、600エーカー、東京ドーム50個分に及ぶ。調査をすべて終えるには、今のペースでは6年から10年近く必要だという。
こうした遺体探索の作業を、ジェシーさんは「歴史をつなぎ合わせている」と表現した。元生徒のダイアンさんも遺体の発見を期待している。

「私たちの子どもたちを見つけたい。そうすれば、彼らを安らかに眠らせることができ、空へと旅を続けるのを助けることができるのです」

去年5月、カナダ西部カムループスでは、学校の跡地から子どもと見られる約200体の遺体がレーダーの地中調査で発見された。これまでに複数の寄宿学校の跡地周辺で、合わせて1000人以上の遺体が見つかっている。だが、これも一部と見られる。カナダ当局の発表によると、これまでに4000人から6000人の先住民の子どもが行方不明とされているのだ。

■教皇の謝罪…元生徒は「意味がない」
ローマ教皇の謝罪について、バドさんも、ダイアンさんも「意味がない」と突き放した。直接の詫びがあっても「決して、許すことはできない」と語った。

寄宿学校での過酷な経験は、当事者たちのその後の人生に、あまりに深い傷を残した。バドさんも、長い間、アルコール依存症に悩まされた。虐待や性的暴行の記憶を「ごまかす」ために、酒に頼っていたと話す。

「彼らは、言語、勇気、立ち上がる意志など、多くのものを私から奪ったのです。彼らは全てを奪ったのです。 銃も撃つこともなく、全てをやったのです」

言うまでもなく、カトリック教会の責任は極めて重い。だが、宗教だけの問題と捉えるべきではないだろう。なぜ長き年月にわたり、愚劣の極みとも言える性的暴行が横行し、数千人という命が奪われるまでの大規模な虐待が見逃されたのか。少数派の先住民に対する「人種差別」、子どもという「弱者の人権蹂躙」。こうした問題は、今の時代にも通底する人類の課題でもある。

また現在のカナダ政府の、「多様性こそが力」という姿勢があるが故に、寄宿学校の実態調査が進んだとも言える。当事者にとっては十分ではないが、ローマ教皇とともに、少なくとも「過去の過ち」に正面から取り組んでいる。今回のケースは、自国が抱える“歴史の闇”にどう向き合うのか、という問いを考える材料にもなるだろう。

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