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アッツ島血戦勇士顕彰国民歌コミュのアッツ島占領と過酷な防備(アッツ島血戦勇士顕彰国民歌)

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日本軍はミッドウェー作戦と時を同じくしてカムチャッカ半島の東方に位置する西アリューシャン列島とキスカ島(鳴神島)のアッツ島(熱田島)を占領した。その目的は、北辺の防衛と米ソ遮断という戦略に立つ作戦だった。ミッドウェー作戦は失敗したが、アリューシャン作戦は成功した。このアッツ・キスカ両島の攻略の成功は、米国領土の一部占領を意味していたのである。以後アッツ・キスカ島の防衛体制につとめた。だが、防備作業はアリューシャン列島の想像を絶する地理・気候条件によって、陰惨な悪戦苦闘を迎えることになった。航空・海上作戦が可能な時期は、3、4、5月と11月である。6、7、8月は深い濃霧に覆われる。12、1、2月は暴風と頻繁な降雪で軍事的な作戦行動は非常に困難を極めていた。そこへ、昭和18年に入ると、アメリカの爆撃がアッツ島、キスカ島に開始されたのである。
 昭和18年1月26日、NHKの国民合唱から「アリューシャンの勇士」という歌が放送された。〈雄々しの勇士を忘れるな 感謝に燃えて伏し拝め ああアリューシャン アリューシャン〉と「アリューシャン列島」防備の重要性を告知するかのような歌だった。作詞・西條八十、作曲・大中寅二。すでに、ガダルカナル島の撤退が始まっており、北方の防備が声高に叫ばれたのである。だが、歌の歌詞にもあるように〈氷の下に埋もれて 気温は零下四十度〉という寒気と資材供給不足のために十分な態勢がとれず、米軍の反攻を受けることになった。昭和18年の年頭より、5月初旬までアメリカ艦隊の砲撃は十数回に及んだ。3月27日には、第5艦隊が敵艦隊と海戦を交えた。第5艦隊は、陸軍輸送船三興丸、崎戸丸、海軍仮装巡洋艦浅間丸からなる船団を護衛しつつ、敵艦隊と遭遇し数刻とはいえ交戦状態に入ったのである。敵は東方に後退。第5艦隊は追撃を始めたが、敵の有力航空圏内突入という状況判断から反転を余儀なくされた。また、この時期になると敵潜水艦が常時、アッツ、キスカ両島周辺を行動し監視を行うようになった。したがって、敵空襲の激化に伴って、この海戦を契機に海上艦船を以てする島の命脈といえる補給輸送はついに中止となったのである。
  
激闘アッツ島

 昭和18年5月12日、敵機が深い濃霧をおかしてアッツ島上空に飛来した。執拗に爆撃を加えたのである。そして、艦隊に支援され正規歩兵第7師団(ランドム少将)を乗せた輸送船団30隻が、マサッカル湾、ホルツ湾北方海岸に上陸を開始した。この部隊は火力装備の優秀な山岳部隊であった。
 山崎保代大佐指揮するアッツ島守備隊はこのような米軍を迎えて敵兵力絶対的優勢の状況下において、悪戦苦闘を展開した。何しろ、日本守備隊の兵力は米軍上陸2万の8分の1、弾薬は一会戦分、集積食糧は予定の3分1、航空兵力は無く、精鋭部隊といえども、如何ともしがたい情況だった。しかも、撃墜王・岩本徹三がいる海軍の281空のキスカ進出予定が遅れてしまい、アッツ島に迫る敵航空部隊を迎撃することができなかった。
アリューシャン方面確保の方針を決定した。大本営は敵上陸の報を受け、アッツ島に対して、北海道にあった師団を徒歩編成に改編し、派遣準備に入った。だが、5月19日に至って突如その増援企図が放棄されたのである。それでも、701空の一式陸攻がアッツ島爆撃を敢行した。戦果は不明。5月21日朝の日本守備隊の兵力損失が2割弱を考えれば、一式陸攻の爆撃はそれなりの有効な援護になったのではなかろうか。だが、日本守備隊は、孤立を覚悟した持久戦を選択せず、戦力の圧倒的な差がありながらも決戦に臨んだ。29日の攻撃の重点を小沼谷地方面から後藤平敵集団地点に向け、敵に最後の鉄槌を下し殲滅し、皇軍の真価を発揮させるという敢闘精神をもって挑んだのである。
 昭和一八年五月二九日、「武人の名を汚すべきにあらずと覚悟し、部下一同も莞爾として、惧に死に邁く」との電報を最後にアッツ島の日本守備隊が全滅した。一二日から始まったアメリカ軍の攻撃に対して勇戦むなしく、救済作戦の展望をみいだせないまま守備隊長山崎保代大佐以下一五〇名最後の突撃を敢行し玉砕したのだ。「玉砕」という言葉がこのとき初めて大本営で使われた。出典は『北斉書』元景安伝のなかにある「大丈夫寧可玉砕何能瓦全」を引用した。玉のように美しく砕けて、いさぎよく死ぬという意味である。マキン、タワラ、クェゼリン、ルオット、サイパン、テニアン、グアムと、太平洋の島々で玉砕戦が展開し、美しく、潔く砕け散る戦死の代名詞として使われたのである。

顕彰国民歌の制定

 アッツ島の守備兵の勇戦を讃えて、『朝日新聞』は、陸軍省と情報局の後援で「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」を全国から募集した。6月3日の『朝日新聞』には次のような記事が掲載された。「アッツ島に壮烈鬼神を哭かしむる最後の突撃を敢行、玉砕した山崎部隊長以下二千数百勇士の血戦に一億国民の血涙感謝を捧げその青史不朽の武勲と赫々たる皇軍精神を永く後世に伝ふべき、記念国民歌を左記により広く募集する」。これに9683編の応募があった。裏(真)巽久信の詩が山崎大佐以下皇軍精神を国民に真摯に伝えていると評され選定された。審査員には陸軍省報道局長・矢萩那華雄少将(審査委員長)、堀田中佐、山ノ内大尉、山口陸軍軍楽隊隊長、情報局から井上司文芸課長、井上清芸能課長、矢部放送協会業務局長、山田耕筰、百田宗治らが名前を連ねた。
この歌は全部で10番まで作られた。〈刃み凍る北海の御楯と立ちて二千余士〉〈時これ五月十二日暁こむる霧深く 突如と襲ふ敵二万〉という米軍上陸から、〈陸海敵の猛攻にわが反撃は火を吐けど〉〈血戦死闘十八夜烈々の士気天を衝き〉と激しい戦闘場面が描かれ、〈残れる勇士百有余遥かに皇居伏し拝み・・・・・・敵主力へと玉砕す〉という守備隊全滅するまでの戦闘状況を遍く伝えた叙事詩である。また、〈傷病兵は自決して 魂魄ともに戦へり〉と野戦病院収容の傷病者は最後の覚悟を決め残酷な処置が施されるなど、陰惨状況も歌われている。作曲者はクラシック界の大御所・山田耕筰。山田は「尽忠の英零に感謝と感激の涙」を捧げるかのように哀悼を込め、その楽想には荘重で剛毅と憤怒の感情が滲み出ている。旋律が勇壮でありながらも悲愴感が溢れていた。
 「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」のレコードはコロムビア(日蓄・ニッチク)から、昭和18年11月新譜で発売された。歌手陣には、重厚なバスバリトンの伊藤武雄、リリクなバリトンで血戦の悲壮表現には定評のある伊藤久男、テナー波平暁男が連ねた。この3人の独唱者による熱唱は米軍を迎えて勇戦奮闘する様子を遍く伝え、国民へ感涙を与えた。そして、この哀歌を歌いあげた独唱に加え、国民感情を込めて日本合唱団の斉唱が花を添えている。〈精鋭こぞるアッツ島 山崎大佐指揮を執る 山崎大佐指揮を執る〉は勇壮だが、悲愴感そのものである。B面は「アッツ島血戦勇士顕彰少国民歌」で作曲はA面と同じ山田耕筰。また、ポリドール(大東亜)からは、同じテーマで玉砕を悼む歌として田端義夫が歌う「孤島の雄叫び」、翌年1月新譜でビクター(富士)からは朗読「アッツ島玉砕」、「壮烈山崎軍神部隊」が発売された。
 一方、キスカ島は、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」のレコードが発売される前に、7月から8月初旬にかけて、撤退作戦が成功した。濃霧の発生を利用した見事な撤退だった。この撤退もアッツ島の山崎部隊の玉砕の後に決定したことであり、それを思うとアッツ島の玉砕は無念でならない。

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