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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾将軍との出会いと忘れ得ぬ人々(中)

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◎伊東六十次郎氏

 満州国協和会の創立者兼最高幹部、シベリア抑留11年

――次に、伊東六十次郎さんについて……。
武田 この方は立派な人ですよ。青森県の津軽支部は、伊東先生が中心となってやられた。津軽藩には藩校があるのですが、その担い手の家柄出身です。伊東先生は物凄いズーズー弁でしたよ。
僕が初めて伊東さんにお会いしたのは、石原将軍が昭和16年(1941年)に京都の十六師団長を辞められて、立命館大学の中川小十郎総長の別邸におられた時です。将軍が伊東先生のズーズー弁を僕がちょっと変に感じるかと思われたのでしょうね。「なあ、お互いがズーズーでねえか」とか言ってね、将軍はズーズーじゃないけれども、まあ自分もそうだということにしてね(笑)。ああ、将軍は伊東先生をいたわっておられるんだなあ、と感激しました。これが伊東先生との初対面でしたから、よく覚えています。
――伊東さんは、長年にわたってシベリアに抑留された方ですよね。
武田 そうそう。ラーゲル(強制収容所)の中で日本人が意気消沈しているでしょ。ところが、伊東先生はそういう日本人に向かって、「日本は絶対に大丈夫だ。天皇中心に復興するから」と励ますわけだ。ゲーペーウー(ソ連秘密警察)でも、ちゃんと人を見るんですね。「伊東は人柄の立派な男で早く帰還させてもいいんだが、天皇のことを言い過ぎる。日本に帰還してもそれを言わんようにすればすぐ帰してやる」とまで言われたそうですよ。
ところが伊東先生は、「いや、私はイヤだ」と拒絶した。ナホトカまで送ってこられておるのに、ソ連は最後のダメ押しをやられたら困るので、やはり及第しなくて一番最後の帰還となったらしいです。
――ソ連に連行された約60万人の日本軍人は平均2〜3年で帰されたのに、伊東先生は11年と4ヵ月間も抑留されたらしいですね。恐らく、最長不倒ではないかと思います。
武田 伊東先生は、自分より早く帰還する同志に、粗末な紙に鉛筆か何かで「日本復興の道」という所信を細かい字で書いて、「石原将軍に届けてくれ」と託したそうです。託されたその人は、靴のかかとに細工してそれを詰めて持って帰ったらしい。
そして、将軍の下へ行ってお渡しした。「伊東はかくかくして、なかなか帰れません。ナホトカまで来ておるのに、また送り返された」とあったらしい。すると将軍は涙を催されて、「いやあ、伊東さんはそういう人なんだよ」としみじみ言われたそうです。
――伊東さんが昭和13年(1938年)に書かれた『東亜連盟結成論』とか翌年の『極秘 対蘇思想戦論』(ともに東亜思想戦研究会刊)、それに『協和会戦争学』(満洲帝国協和会哈爾濱支部、著者名、刊行年の記載なし)の著作を拝見すると、ソ連の共産主義に対抗する東亜連盟への熱い思いが伝わってきますね。
武田 伊東先生は満州国協和会の創立者兼最高幹部の一人ですよ。だから敗戦と同時にすぐ捕まってしまった。

 石原将軍と歴史観が近似、ゆえに『戦争史大観』の原本を託す

――これは人伝えですが、近寄りがたいお人柄という印象もあったようですね。
武田 そうですねえ、津軽藩の家学というものが影響していたかも知れません。それに歴史観が伴っておって、その殻が抜けないというので六郎さんもあまり伊東先生とは親しくしなかったですね。ただ、非常に人柄はいいわけですよ。
だから、石原将軍が『戦争史大観』の原稿だったかな、将軍が自分の原稿をどういうふうに始末するかということを色々と考えられたのでしょうね。あの中に伊東先生のことがちょっと書いてあります。「満洲時代に伊東君の書かれた歴史観と自分の歴史観がよく似ているところがあって」と、例によって将軍は非常に謙遜な言い方をされていますが……。
そうだからという訳であるのかどうか知りませんけれども、「これを貴方に保管してもらいたい」と言って渡したらしいです。伊東先生は「いやあ、重大な原稿を私なんかに」と言ったのだそうですが、将軍は無理に「貴方以外にはいないんだ」と言って預けた。伊東先生は非常に遠慮したんだが、将軍は「無理に彼に頼んだ」と私は聞いています。
――そうだったのですか?
武田 青森県に伊東先生を中心とした財団法人の養生会というのがありますよ。今は学党の後継ぎもいないのでしょうから、どうなっていますかね。そこに行けば原稿は保管してあるはずです。
――それが『戦争史大観』の原本ということですね。伊東さんは『最終戦争論と戦争学』(大湊書房、昭和53年刊)という著書を出されていますが、おそらく『戦争史大観』(註)をもとに書かれたのでしょうね。(註:昭和16年4月8日、序文を東京にて脱稿、8月に中央公論社から発行予定であったが、立命館大学出版部刊の『国防論』とともに東條内閣で発禁処分になった)
武田 伊東先生は、将軍の言われたことを如何に忠実に周辺に伝えるかということに一所懸命だったですね。私も伊東先生から本を随分ともらいました。

石原将軍にも奥様にも、生死を見通す「透視能力」があった

――伊東さんにまつわる何かエピソードみたいなものは……。
武田 ある時、「伊東先生が死んじゃった」という情報が流れた。すると、将軍がシベリアのほうに向かって透視みたいなことをすると、「いや、伊東さんは健康だ」と言うのです。将軍には人の生死がすぐ判るらしいのです。そういうことを将軍は滅多になされないんですが、将軍ご自身の寿命にも関係するものかどうなのか、おそらくそうなのでしょうね。
また、津軽支部の同志で応召された人がおって、残された奥さんと子供さんが一人おりました。奥さんが旦那さんのことを非常に心配して、健康にさわるほど心配しているというんですね。その時も将軍はやはり戦地のほうを向いて、「元気よく勤務しておられる」と言われたのを僕は聞いたことがあります。
それに、僕もなかなか帰らなかったからね。僕の場合は「○○に捕まって殺された」という情報だったらしい(笑)。将軍はその時も満洲の方に向かって「いや武田さんは元気よくやっているよ。食欲旺盛だ」と言われたそうです。
――実際、そうだったんですか?
武田 ええ(笑)。銻子夫人もそういうところがあったんです。ある時、同志のおかげんが悪いという情報が来たんです。ある朝うかがったら、「誰それさんは亡くなられたようですね」と言われた。僕は「そうですか」と。そしたら間もなく「戦死した」という知らせが来たのです。これは将軍も、もちろん、知っておられたですね。

▲武田邦太郎(たけだ・くにたろう)氏のプロフィール
大正元年(1912年)12月〜平成24年(2012年)11月。広島県福山市生まれ。昭和10年、東京大学文学部西洋史学科卒業。同11年、鐘紡農林部に入社。中国にて大農牧場の建設・経営に参加。同21年、山形県遊佐町西山開拓地に入植、開拓農業協同組合長。同年3月、国民党結成。同26年、日蓮教同志会結成。同27年、協和党結成、中央委員長。同36年、池田勇人総理の諮問機関、新農政研究所に入所、農政部長。同40年、(財)新農政研究所発足、副所長。同52年、所長。同58年、武田平和研究所設立、代表。同61年、武田新農政研究所設立、所長。この間、赤城宗徳農林大臣顧問。田中角栄内閣日本列島改造問題懇談会委員。三木武夫内閣国民食糧会議委員等を委嘱される。日本新党副代表。平成4年、参議院議員。外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する特別委員会委員。国会等の移転に関する特別委員会委員長。著書に『食糧危機と日本農業の展望』『日本農業前途洋々論―農業イノベーションのすすめ』(共編)『コメは安くできる! 農家は豊かになれる―農業イノベーションの提唱』『永久平和の先駆 石原莞爾』『永久平和の使徒 石原莞爾』(編著)など多数。

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