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90年代サブカルチャーの総括コミュの今日のサブカル情報

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・サブカルなトピック(イベント情報など)を紹介。
特に激安古本屋情報など求む。

・ブックオフ早稲田店にて、ele-kingを百円棚に十冊ほど確認(1/26日現在)。表紙は田中フミヤ、ジェフミルズ等。

コメント(856)

昨年の五月に日比谷野音で行われたフィッシュマンズライブの模様を収録したDVDを見た。二枚組のボリュームなのだが、あっという間の時間だ。そして、あっけなさも感じる。ヴォーカルとして既視感のないのはやくしまるえつこぐらいで、あとは、いつものフィッシュマンズとその周辺、な人たちだなという印象がある。やくしまつえつこの孤高ぶりに恐れ入る。彼女が歌い上げる「JUST TIHING」はセルフエフェクトを加えた「8月の現状」バージョンだった。フィッシュマンズの楽曲においてもっとも極北に位置すると思われるこの曲をいともたやすくものにしている(ように見える)彼女の力量をひしひしと感じている。去る3月15日、吉祥寺で行われたフィッシュマンズナイトへ赴いた。いつも仕事の繁忙期と重なっていたこともあり、ここ6年ほどいけていなかった。昨年は地震で中止となっている。久方ぶりの吉祥寺スターパインズカフェには一晩で70人ほどの来客で、こぢんまりとしたものだった。初めてこのイベントへ行った時は人大杉状態で自由に動き回ることもできなかった。翌年は400人限定という条件付きチケットを売るイベントであった。しかし今年は70人である。切なさと物足りなさはあるが丁度よいという気分もある。フィッシュマンズの追悼とリバイバルバブルを乗り越えて、ゆったりとした世界が出現しているなという気もする。ライブ終わりで顔見知りのスタッフと話すのだけれど、この「界隈」から、結婚や転職や引越しで去る人は去って残る人は残っているという印象を受けた。どこまでも身内なのだけれど、その身内ぶりが魅力的で「仲間に入れて欲しい」と思わせるような世界がある。ただ相当に歳を取っているので老成ぶりを感じることもある。されど身内の一定の効用を提示した文章を収めた大月隆寛『全身民俗学者』を読んだせいか、身内を一方的にくさすこともできないでいる。80年代を主として90年代まで延命した大学生のミニコミ文化を取り上げて、一方では「圧倒的な身内」というのも大切ではないかという言葉に一定頷くところがある。今でも大学生のフリーペーパーはあるが、あまり面白くない。必ず企業協賛が入っており大学生版「R25」の域を出ていない。もっと潜在的無能な大学生の立場を最大限利用したようなものが欲しい。それは「貧乏人新聞」」であり「同志社鬼畜新聞」、の、ような、ものである。大月の著作のあとがきで、ウィキペディアにも触れられている、刊行までの紆余曲折が綴られている。ウィキによれば、本来は新曜社から刊行予定だったが『諸君』誌上で大月が、同社のドル箱書籍である小熊英二の顔つきについて揶揄する評論を掲載したことから、出版が見送られたという。このいきさつについて『全身民俗学者』のあとがきではさらなる詳述がなされている。新曜社のある編集者と大月が旧知の仲であった。その編集者は大月の宿敵である大塚英志の著書をまとめるなどしていた人物であるが、それでも党派的な殻に閉じこもらず、時折大月とも連絡を取っており、彼の民俗学作業を集成する本の出版を提案された。その話は進みげラまで出ていたのだけれど、小熊英二を揶揄する文章を寄稿したことから、新曜社の社長判断で、出版が見送られることになった。大月の小熊批判の骨子は、情報収集と処理能力にたけた偏差値エリートが無味乾燥な分厚いだけの本を出した、というものであり、それは偏差値エリートというくくりでともすれば人格批判におよぶものでもあったが、それは大月の意図する「あえて」のものでもあった。編集者はゲラの返却とともに「小熊さんは(自分を批判した著者の)本を出してもかまわない」と言っていたと伝達する。その態度そのものが気に入らないと大月は激昂する。この潔さは貴重だ。昔の「別冊宝島」を読むと、ぷりぷりと怒っている彼がいる、ゴーマニズムで小林とつるんだ彼もいる。BSマンガ夜話で司会を勤める黒ぶちメガネの太っちょの彼もいる。ただ、彼の印象はそこで止まっているのだ。2000年代に彼のすがたを随所に見ることはない。ウイキペディアを見ると札幌圏の大学教授となっているようだ。彼の地で「ホッカイドウ学」なる学問を立ち上げようと目論んでもいるという。しかし姿が見えない。彼の苛立ちは正しい。倫理を希求するさまも清々しい。「噂の真相」にならえば、元オタクが成熟を経て「大人になれ」と説教するだけともなるが、その通過儀礼の過程にあるべき逡巡というべきものも愛おしい。呉智英やら浅羽通明やら「別冊宝島」(ベツタカ)系知識人の後退が著しい。朝倉喬司は物故者となった。いま、彼らに私淑する二十歳の青年はいるのだろうか。桜が咲いた春先ゆえかそんな意識が浮かぶ。『大学で何を学ぶか』を割りと真剣に読んでしまった世代であるが、いまこの本がどこまで神通力を保ち続けているのかも気になるところである。
桜が咲いたというのに春の嵐がやってきた。花びらが散ってしまうかとやきもきしたが満開ですらない世界は、あからじめ壊されることがなかった。桜はまだ咲いている。春はいつでも精神のバランスが崩れる。アレルギーの初歩としての花粉症発作を抱え込んだ所為かかもしれない。くしゃみと鼻水と涙で、ぼんやりした思考を巡らせる。五年ほど前だろうか、東京には同じように豪雨が降り注いだ。今も通っている図書館へ向かう神田川沿いに、産業の悪臭をたたえた水が流れ込み、その上に桜の花弁が大蛇の鱗のようにひだを作って流れていった。桜は咲けば散るまでだ。その刹那を感知したい。桜が咲いている間に坂口安吾の「桜の森の満開の下」を読まねばという脅迫とも付き合っていこう。春先にはいつも聴くCDがある。サニーディサービスの「東京」とブラーの「ザ・グレートエスケープ」だ。前者と春は季節ともども合っているが、後者は個人的な記憶と結びつく。95年発表のこの作品を聞いたのは2004年のことだ。作品に溢れるどこまでもお気楽な気分がギリギリ通用していた時代だと思う。あるお気楽なバイトの中で聴き始めた一作という個人的体験もある。一番気に入ったのはキャッチーなイントロからはじまる「アルトラノル」という楽曲だった。対訳を読むと、それは向精神薬の名前で、一錠でハッピーになれるぜヘイヘイヘイってな内容で、鶴見済『人格改造マニュアル』にも通底する、個人的救済が一義にあるような時代を体現するような一曲になっている。そんなんねえよ、といいつつ、それもいいかもね、が首肯された時代だ。去る3月19日、ネイキッドロフトで宮沢章夫と大根仁とダイノジの大谷ノブ彦が集い、90年代サブカルチャーを語るというイベントがあった。いま「健全に何か」を語れる三人が無難に集められたな、という印象があったがイベントには行った。そこで95年前後に青山正明が提示した鬼畜カルチャーと、阪神の大地震について語る場面があり、この直後に「不謹慎」と括られる解釈がサブカルチャーの周辺で表出したという話になった。鶴見済の言葉を用いれば「デカい一発」とされるそれである。古雑誌を探ると「ガロ」が世紀末を題された特集をしており、メルツバウが神戸の磁場と地震を引きつけて書いている。世の中の表に出てくるものでそういうものが許されていた空気があった、という記録と記憶は貴重だ。ブラーの話に戻り、クスリでハッピーな「アルトラノル」の前には「YUKO
AND HIRO」なる楽曲がある。ジョンとヨーコのパロディなのかもしれないが、曲中「我々は会社で働いている。いつも彼らが守ってくれる」という日本語の女性コーラスが入る。なんという皮肉だろう。まぎれもなく「社畜」である境遇を嘆きながら、日本の「底力」を信じて疑わない姿勢に驚愕する。95年の日本はそくれらいに「安泰」で「そこそこ」で「先進国」であった。少なくとも大英帝国で活躍するブリティッシュロックバンドからそういう解釈を受けていた、ということになる。以降のブラーは、デーモン・アルバーンの「マリ」への傾倒や、現状の最新作アルバムのタイトルが「THINK TANK」と名付けるなど、グローバリゼーション批判を主とした社会化が進んでいるのだけれど、あくまでも先進国の立場に立った紳士であるという点において、有用性を欠く。それは「会社」を絶対的なものとして扱った95年ブラーが見た「日本」などどこにも存在していないというサバイブな現状を浮き彫りにする。それでも「ザ・グレートエスケープ」を偏愛したい。デーモンの髪の毛の量に準じた「ふさふさ」な「余裕」のある社会への憧憬を忘れず、音楽における救済は最後の残余(希望)として担保しておきたいからだ。一方で音楽は状況を反映するものであるというテーゼも浮かび立つ。カーネーションの新作はミニアルバムという形で発表された。「UTOPIA」とローマ字表記された変則的なタイトルから想起されるように、新作の構想があの震災によって切断された末に出現したアウトプットである。7曲のうち、2曲は既発曲のライブバージョンである。オリジナルは5曲のみだ。表題曲の一曲目に続く「ELECTRIC COMPANY」のサビで繰り返される「きみのオヤジさんに会いに行かなくちゃ」は、上田ケンジプロデュースの名曲「MOTERCYCLE&PSYCOLOGY」のフレーズ「彼女のオヤジに会わす顔がない」と呼応する。カーネーションは永遠の恋する青年である。ミュージシャンとして表現するものとしての特権を享受する、ボヘミアンである。郊外、レコード、長髪、若き恋人…彼らはそういう曲を作り歌い続けることを許されていた。されど地震がそれを引き裂いた。圧倒的な現実の前に表現は何をなしうるか。ロッキング・オン・ジャパン的なあるいは村上春樹的なクリシェであろうか「そこからの希望」が彼らの新作には溢れている。
「ヘルタースケルター」を見てきた。前評判が散々で駄作と切り捨てることもできるかもしれないが、愛おしさが残る。いわく脚本がなっていない、カットの唐突な繋ぎが物語を破綻させている、あなたは映画監督ではない、と酷評する書き込みもあった。原作は一度読んだきりなので細かい内容は覚えていないが、ラストは漫画に沿っている。消えたはずのりりこが現れ、不敵に微笑む。エンディングテーマはAA=である。これは、マッドカプセルマーケッツのTAKESHIのソロプロジェクトだ。ドラゴンアッシュと並び90年代の初頭に売れないパンクバンドとして気を吐いていた、彼らはデジタルミクスチャーロックという武装を施して世紀末へ突入する。99年に北海道の地で奇跡のラインナップが実現した第一回目のライジングサンロックフェスティバル=エゾロックのシークレットゲストが彼らだった。解散後、KYONOはWAGDUG FUTURISTIC UNITY、TAKESHIがAA=と各々ソロプロジェクトを開始する。AA=のファーストアルバムでは、涙を流す動物をジャケットにあしらいアニマルライツ(動物の権利)を歌い上げた。彼のピュアネスの結晶である。MAD時代のアルバムのシークレットトラックに収録された「THE LIFE IN FAIRY STORY」の切なさとも通底する。MADは怒り猛っていた『俺とお前は最初から頭の作りがまるで違うんだ!』(マスメディア)しかし、優しさと不器用さがまとわりついていた。それは90年代的心象の原風景である。援助交際におよぶ女子高生をめぐって彼女たちの心は「傷ついている」(大塚英志)「傷ついていない」(宮台真司・暫定)と論争が繰り広げられたのも、優しさが不用意の前提としてあったゆえだろう。映画「ヘルタースケルター」には蜷川実花の愛が込められている。それが不器用であるがゆえに人に伝わらない。美意識とナルシズムが先行して空気を読まない映像が続く。それが、90年代の原風景でありグロテスクな廃墟ではないか。とても懐かしい。ぶっ飛んだ設定の漫画を、監督は自己世界の中で完結させようとする。映画中、りりこファンの女子高生たちが登場し、渋谷の街を闊歩するが、彼女たちのスタイルはルーズソックスにミニスカートに茶髪にと、90年代の女子高生である。今の女子高生がどのような格好をして、どんな流行があるのかはわからないが、作中の女子高生たちにきゃりーぱみゅぱみゅは導入されていない。渋谷の街並みに一瞬浜崎あゆみが挿入される。また別の場面では戸川純 「蛹化の女」が流れる。椎名林檎さえ飛び越えてしまった。もちろんガルドアも西野カナもやくしまるえつこの姿は微塵もない。そこには90年代の荒野が拡がる。何かをしているようで何もない、ひるがえって何かをしたいが何から始めればわからない世界がある。終わりなき日常があることへの唾棄、雑誌「H」の読者投稿欄のようだ。りりこは後輩のモデルに雑誌の表紙を奪われたことに激しく嫉妬する。誰も読んでいない重いだけ没落するメディアが画面の中ではいきいきと輝いている。りりこは雑誌を端緒としてマネージャーの恋人に頼んで硫酸をかける謀略を張り巡らせる。郵便を使ってスキャンダルが発覚する。2ちゃんねるによる中傷も、SNSによる相互監視も、バカ発見器=twitterの姿もない。漫画の設定を忠実に守っている。原作を愚弄している、という言葉もあったが早計だ。むしろ、ここまで愚直な脚本はない。沢尻エリカは圧倒的に美しい。見惚れているうちに時間が進む。駄作と聞いて、140分は辛いと思ったけれども、やり過ごせたのは彼女の美しさゆえである。りりこは田舎から出てきて東京で一旗上げるという立身出世の人物だ。芸能事務所の女社長を「ママ」と呼び、彼女を演じるのはコントのような格好をした桃井かおりである。バブルがある、東京がある、夢がある。そういえば夜景の描写にはスカイツリーと六本木ヒルズは現れなかった。しかし渋谷の風景で強調されるのはQ-FRONTである。109はわずかに描かれるのみである。(また90年代に女子高生をテーマとした映画「ラブ&ポップ」では、援交の象徴として扱われることに109が難色を示し映画では写せなかったとも聞く)さらに映画では光り輝く東京タワー(東京は夜の7時!)も現れる。映画の設定は現在ではなく、終わらない90年代が続いている1999X年である。「AKIRA」「スワロウテイル」「BALLET BALEET」といくつも描かれてきた架空の東京、過剰な東京に「ヘルタースケルター」も加えられる。90年代のグロステスクな廃墟はとても居心地が良い。そこには、情報を食べ欲望を餌に生き延びる人間がいる。映画中の中でりりこはセックスをしてこんこんと眠るが、食事の描写はわずかにビスケットを口にするのみだ。ママは彼女に吐いてきなさいという。嘔吐の快楽の前提に不快感がありその前に快楽がある。いびつな愛情に包まれた世界はループを続ける。
90年代末、千葉市内へ買い物へ出るとQuick Japanのバックナンバーを2~3冊買って帰るということを繰り返していた。ある時、同じ判型の「リトルモア」という本がとなりに並んでいたので一冊買い込んだ。いくつかの特集を見比べて「リアルな日本映画の話をしよう」と背表紙に銘打たれた第3号を選んだ。「リトルモア」は文芸であったので、定期的にストリートノベル大賞を開いていた。3号には第一回目の発表がなされており受賞者は福永信の「読み終えて」だ。定価で買っているのでわからなくても字は端から端まで読んだがよくわからなかった。受賞作なら第3回受賞者の宮崎誉子「世界の終わり」の方が印象が強い。ミッシェルガンエレファントが大好きでロッキング・オン・ジャパンの愛読者で、投稿コーナーの常連で、ロッキング・オンに入りたいがために校正の勉強をしたという26歳フリーター、かつ同じ千葉県在住の彼女の方が身近な存在として惹かれたのだ。リトルモアは文学とともに映画配給も行なっていた。1998年から99年にかけてテアトル新宿のレイトショー枠で各監督のデビュー作を上映した。その1つに豊田利晃監督の「ポルノスター」があった。主演は千原浩史。当時はジュニアと名乗っておらず東京進出直後だった。地下駐車場で血まみれのフードをかぶるポスターを見たのはいつだろう。リトルモアの3号を引っ張りだしてきたのだけれど、そこには載っていない。6号にはあったが、これは立ち読みだろうか、と考えていたら思い出した。これは高校3年の終わりに山梨に合宿免許取得へ向かい、その地にあったブックオフで買ったはずだ。じっくりと読んだのも暇な場所だったせいだろう。東京にはテアトル新宿という映画館があって、夜遅くの時間帯にインディペンデントな映画がかかっているという状況だけを知った。その後、レンタルで「ポルノスター」を眺め、3年ほど前に10年ぶりに見返した。そして、今回、本家テアトル新宿で三度目の鑑賞と相成った。舞台は90年代末の渋谷。鬼丸率いる愚連隊がデートクラブを経営し、坂の上にあるヤクザの親分宅へ日参する。さらに渋谷を仕切る別のヤクザをうとましく思う。そこへ突然の闖入者として千原浩史が現れ「ヤクザはいらん」と次々人を指し、拳銃をぶっぱなしていく。千原の言葉は少なげだ。ある時、外国人のプッシャーからLSDを受け取る交渉の場で、千原は外国人たちを射殺しまう。焦る愚連隊。さらにデートクラブで働く女性が、千原を気に入り、一緒に逃げようとLSDとともに逃亡を企てる。彼女は99年から2000年への境目、南国フィジーで初の日の出を見ながらレイヴで踊り狂う「グランドサマーオブラブ」へ憧れる。果たしてそのようなムーブメントがあったかと思うがパンフレットを確認すると監督の造語だという。南の島とレイヴという取り合わせが何ともお気楽だ。それは精神変革ではなく、少し変わった海外旅行くらいのものではなかったか。ただ逃避行を決意させるほど渋谷という街はクソとして描かれる。パンフレットのイントロ文は微妙であったのだが1つ惹かれる言葉があった(ただパンフレットの寄稿者が宮台真司、阿部嘉昭、阪本順治という並びはいい)。「SHIBUYAの街を徘徊してみればいい。あなたが、この街から逃れたければ、坂を登り切るしかないことに気付く」見事だ。映画の冒頭、千原演じる荒野が、東横線で渋谷へたどり着き、ハチ公口からスクランブル交差点をセンター街へと向かってくる。地の底からの行進である。この当時、渋谷の街並みにはQ-FRONTは建設中であり、HMVは健在である。発展途上にあるが、出演者たちの精神は互いに分裂している。街を仕切るヤクザの親分は坂の上から下々の街を眺めることはしない、愚連隊は上下関係などなく、互いに暴走を繰り返し反目する。千原演じる荒野と、デートクラブの女アリスとの淡い恋も成就しない。唯一、切なさと暖かさが同居する場面がある。荒野が宮下公園でスケボーに興じる少年たちと邂逅し、街並みを走り抜ける場面である。坂を登るか、登り切れない坩堝の中によどむしかない渋谷の宿命から逃れられている。街をハッキングしている。この短い場面はアリスが荒野に「一緒に乗ろう」と二人乗りを試みてすぐさま転げる場面に象徴されるように、少年たちとの不幸な離反と、再会へ結実する。「ワルだけど心は優しい」「なんだかんだで友情」といった「ブクロサイコー」に象徴される2000年代の文化を拒絶している。映画が作られた1998年という年にはSNSやケータイにおけるバーチャルな連帯が存在しない。むき出しの孤独がある。無力感が前提にある。同時期のベストセラー天童荒太「永遠の仔」にも通ずるテーマだ。「ヘルタースケルター」はかなりバーチャルなものだと気付く。レイトショー上映はあと1回、8月29日のみ。テアトル新宿で見ることに価値があるので是非。
↑書き込みの677番に3年前の感想あり。大体同じことを書いている。同じことを考えている。

追記。
デートクラブの女性を演じる緒沢凛は、極楽とんぼ加藤浩次夫人である。
今年読んで面白かった本を列挙する。手帳の記録から抜き出すと14冊となった。昨年度の刊行物も含まれているが、ほぼ1年というカウントに含めたい。

・「ピョンヤンの夏休み わたしが見た『北朝鮮』」柳美里
作家の北朝鮮旅行記。ガイド付きで芸術家=作家という立場で招待された立場なので観られる場所は限られているが祖国としての共和国へ惹かれてゆく。韓国籍の女性があえて、その物言いをはじめることのをキャッチーさをあからじめ意識している作家としての卑しさも感じる。だが、彼女の文章にはずっと同じことを感じているし、読んでしまうのだから「ハマっている」のだろう。映画「新しい神様」で雨宮処凛が北朝鮮に渡り、最初は早く日本へ帰りたいと泣き喚くのに、よど号のハイジャック犯たちとの交流を重ね、観光を経るに連れて「ここへ残りたい」と言い出す場面を思い出した。入れ替え可能で、何にでも憑依する彼女の姿が柳美里に重なる。もうひとつ意外だったが高校中退の柳美里は、中学生程度の英語も全くできないという事実である。そうなると、かろうじて海外旅行を成立させる中学生英語も無価値とは言えないのではないか。

・「長春発 ビエンチャン行 青春各駅停車」城戸久枝
中国残留孤児の父親のルーツを求めた紀行で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した筆者の受賞後第一作。将来は父親のことを書きたいという思いを胸に秘め、学生時代留学した長春の大学にある寄宿舎で知り合ったラオス人男性とのほろ苦い恋にまつわるストーリーである。男性は彼女を追いかけて日本へ来たこともあるが、恋愛は成就することなく、彼女は日本人男性と結婚する。要はおばさんの恋話なのだが、筆致は落ち着いている。中国と己の関わりを記した女性のエッセイでは同じく大宅賞を取った「転がる香港に苔は生えない」星野博美がある。彼女が帰国後の東京生活を綴った「銭湯の女神」も今年、読むことが出来たのだが優れたエッセイストは環境に関係なく己の文体を獲得してしまうのだと感じた。

・「現代思想の20年」池上嘉彦
雑誌では奥付や編集後記、巻末のコラムといった端数のコンテンツに惹かれることが多い。雑誌『現代思想』に記された編集後記を年代別にまとめたもの。徹夜と激務を重ねた校了明けに記されており、また時間の制約もあるのだろう、跳躍、書き飛ばし、万能感と幾つもの雑多な要素が混ぜ合わさった文章が展開する。それがライブで収録されているのは味わい深い。

・「紳士協定ー私のイギリス物語」佐藤優
今年のベスト級である。次々に刊行される佐藤勝本であるが、本書は現在に寄り添っていない。「ぼくのなつやすみ」のごとき、イノセントさを保っている。舞台は外務省に入り、ロシア語研修へ向かったイギリスである。モスクワへ行かなかったのはソ連にとって日本は潜在的な敵国であるためロシア語がわざと上達しないカリキュラムが用意されているためだという。佐藤は同期入省の青年とイギリスへ向かう。青年は少年時代をイギリスで過ごしており、佐藤に様々なアドバイスを向ける。いわく「どんなに下手でも英語を喋ればイギリス人は自国の成員と認めてくれる」といったものだ。イギリスのホームステイ先でグレンという少年と知り合う。グレンの家庭は中産階級の下に属し、日本で言うところの公立の優良校へ通っている。グレンはなけなしの金で佐藤にフィッシュ&チップスをごちそうし、日本について、佐藤自身について好奇心旺盛な質問をぶつけてくる。佐藤はグレンを子供ではなく対等な友人として扱い、お互いの知識を高め合う。映画「戦場のメリークリスマス」(日本軍の捕虜収容所における日本兵とイギリス兵の友情を描くストーリーである)を共に見る場面が印象的だ。佐藤はこの本のもとになる記憶は東京拘置所の独房で呼び起こされたという。それゆえに透き通った記憶となったのではないか。時折挟まれるイギリス料理のまずさも楽しんだ。イギリスは七つの海に植民地を持ちあらゆる食材が手に入るので自国の料理は要らないという寓話の体現である。

・「ベトナム戦争(コレクション 戦争×文学)」
集英社がテーマごとに刊行しているシリーズ。読んだのはこの巻のみだが、充実の内容だ
。中でも開高健の文章は初めて読んだが見事にハマッテしまい文庫本を揃えている。ひたすら食って排出し眠り汗をかく。戦場である以前に生活があることを知らされる。ほか、一ノ瀬泰造、沢田教一などベトナム戦争へ向かったのカメラマン、医療従事者、ジャーナリスト。又吉直樹が記す沖縄の米兵の話、ベ平連を取り上げた中上健次、死体洗いのバイトを記す村上龍。ベトナムに対し当事者と部外者、双方の側面を持つ日本の姿も浮き彫りになる。
・「東京右半分」都築響一
分厚い。オファーも写真も文章もほぼ全部彼が手がけていることに驚く。東京右半分といえば京成立石の有名立ち飲み屋「宇ち多」へ行き酔って戻ってくるくらいしかなかったのを後悔する。「こういうのもアリよね」で収まらないところもいい。これからもマイナーでありつづけるがゆえに資本に回収されることもないだろう。マイナーの強みを知る。そのマイナーを個人的な興味と情熱を出発点として普遍的な価値、面白みに結びつける都筑のセンスに敬服する。

・「どん底ー部落差別自作自演事件」高山文彦
九州のある土地で、部落差別を助長するハガキが市役所に届く。細かい人事異動なども把握された悪質なものだ。同和政策で市役所に臨時職員として採用されている人物に宛てたものだが、その人物の自作自演であることが発覚する。自分が被害者として装うことで採用の任期を延長させたかったというが、さらに深い業があるのではないかと高山は読み取材をはじめる。犯人は結婚し妻の苗字を名乗ることで、苗字=部落の人間とわかることを避け出ている。しかし子供は部落の学習会に通わせ、無職同然の暮らしをしていたが、市役所に同和行政で採用される。都合の良し悪しを使い分ける軽薄さを詰めていく。ラストに筆者が目撃する犯人の足取りは圧巻だ。

・「反原発の思想史 冷戦からフクシマへ」スガ秀美
震災以降、原子力にまつわる本は無数に出ているがその中でも異質な一冊となっている。やみくもに反原発を叫ぶのではなく、戦後史をゼロから検証することで、反核反戦の欺瞞性を解く。まず戦後、日本の左翼は共産圏の核兵器を肯定していた。さらに中ソ関係が悪化すると第三極、民族解放としての核を首肯するに至る。「明日への神話」を受けて、反戦の象徴とされた岡本太郎にいたっては、70年代の大阪万博では敦賀原発から未来のエネルギーとして原子力発電が送られていた事実を披露する。太陽の塔もその理念に与するものであると指摘していく。なんとなくアリになっている和合亮一の詩にも違和感を示す。著者の反骨精神が溢る。

・「直角主義」渋谷直角
「リラックス」休刊後は、「SPA!」や「クイックジャパン」で目にするライターの雑文集。ライターになった経緯が詳細に記された文章は、センチメンタルな90年代の精神が溢れる。地方から専門学校へ進学し、マガジンハウスのバイトへ潜り込む。そこで名物編集者・椎根和に見出され「リラックス」のライターとなる。潤沢な経費とギャラが与えられる代わりに「得たものはすべて自分の雑誌に書くこと」という条件が与えられる。本社から離れた雑居ビルの一室でサンプルのCD、レコードに囲まれて夜な夜なビールとパーティーが繰り広げられる。サブカルチャーがもっとも豊穣で、何より金に支えられていた白昼夢の時代の記憶である。年齢の離れた妹とのコミュニケーションとして音楽を通じて擬似ロッキング・オン・ジャパンインタビュー文体を採用するヒネた企画も面白い。

・「ひっ」戌井昭人
演劇系の作家が多くあるが、どれも面白みに欠ける。染み出す自意識と、適当に書き飛ばしている感じが嫌なのだ。だが戌井の小説は面白い。主人公は決まって風来坊風の男で、酒を飲み串焼きを食いピンサロへ行く。街も横浜や東東京のうらぶれた雰囲気が似合う。過剰に反社会的だったり理由なくモテたりしないところがいい。さらに男はやさぐれているが一人ではない。誰かと関わり会話をする。その細やかなコミュニケーションの書き込みもいい。

・別冊太陽「中上健次」
92年から没後20年を経てのムック本。特筆すべきは、小説のモデルになった実父、叔母など親族の写真がスナップならが掲載されているもの。当事者が読んだら傷つき激怒するような小説を中上は記していたが、20年を経てその怒りも鎮まったのだろうか。ともすれば、再び読まれるべき作家ではないか。若松孝二の遺作が「千年の愉楽」となったのも象徴的だ。

・「岡崎京子の研究」ばるぼら
読者投稿欄にまで遡って岡崎京子の足跡を追ったもの。ネットですべて手に入るわけではないと知らされるが、著者はものを書くにあたって出版物(非商業のミニコミ含む)+ネットを組み合わせる妙がある。テキストも会話調で記されているので読みやすい。映画化された「ヘルタースケルター」の悪評と怒りをクールダウンすると、あの映画化ありきでこの本あり(当初は私家版として作る予定であったという)だったのではないかとも思う。
・「ルック・バック・イン・アンガー」樋口毅宏
膨大なサブカルチャー語彙が散りばめられたハードボイルド小説「さらば雑司が谷」でデビューを飾った著者の最新作。彼の経歴であるコアマガジンのエロ本編集者経験が存分に生かされている。アクの強い登場人物たちにモデルがいることを確信させる。同じ会社から出ていた『BURST』編集長だったピスケンも自伝的な小説を記しているが彼の場合、登場人物も少なくひたすら「俺節」が展開していく。物語の根底には孤独がある。一方で樋口の作品には過剰な交友(究極にセックス)がある。あらゆる作品に繰り返し現れる男色モチーフの理由も知りたい。彼は自らを作ったメディアとして『週刊プロレス』と『ロッキング・オン』の二誌をあげる。両誌の特徴は読者投稿を奨励し、熱心な読者がそのままライターや編集者として参画していくところにある。『ビックリハウス』や『宝島』も投稿コーナーが多くあるが、あくまでぶつ切れのネタを提供するにとどまる。AMラジオのハガキ職人は放送作家になるが、FMラジオのメッセージはヌルいだけの違いだろうか。中二病宇宙がどこまで拡散していくのかは見ものである。

・「新世紀読書大全 書評1990-2010」柳下毅一郎
年度末に飛び込んできた大作。20年分の書評をとりまとめたものでとかく分厚い。高校時代「テレビブロス」の連載で読んでいた文章も取り込まれており記憶にあるものもある。ページの上段が町山智浩のUSAおもしろ話(タイトルは「まいっちんぐUSA」だったかと思う)で下段が柳下の「アイちゃん、雲に乗る」だった。冤罪のヒーロになるも再び殺人事件を起こした小野悦男について、根本敬の漫画に出てくるような人物と絶妙にたとえ、彼が獄中で記した詩については、そういう(冤罪運動を盛り上げた左派的文化人)人物にこう書けばウケるとわかって書いていると喝破する。「奇跡の詩人」へのコメントも興味ふかい。脳性麻痺で体が全く動かせないはずだが母親が手を添えると文字盤を指出して言葉を紡ぐのだけれど、メッセージの内容がスピリチュアル全開で母親の趣味そのもの。奇跡は信じる人の前にしか現れない、と見事に締めている。
年に何度か海外旅行へ出かけるようになって幾年かが経つ。訪れる国のタームというべきものが出現している。なるべく安い路線を選ぶので直行便には乗らない。タイのバンコクへ向かうにもベトナムのホーチミン、ハノイや台北、上海を経由することになる。各々の都市では数時間から半日ほどのトランジットタイムがあるので、なるべく都市へ出るようにしている。現地の通貨で食事を摂り現地のビールを飲むくらいしか用事がないのでその程度で済む。空港から都市へ鉄道アクセスを利用するのも味わいのひとつだ。このような味気ない旅を繰り返しているせいか旅行記をやたら読むようになった。小林紀晴にはじまり彼のプロトタイプとしての金子光晴。ベトナム戦の濃密な体験を文体に練りこんだ開高健の文章にも惹かれ文庫本をひと通り揃えた。開高は存在は知っていたが文章を読むには至っていなかった。きっかけとなった集英社の「戦争×文学」シリーズには感謝したい。とりあえず古い文章を集めただけではない硬軟織り交ぜたテーマ別のラインナップが魅力だ。沢木耕太郎の「深夜特急」シリーズも6巻並び、もとよりアジアとサブカルチャーの結節点となったクーロン黒沢の著作のほか、ゆるりとした旅行系作家の系譜というべき蔵前仁一、下川裕治、前川健一の文庫本もちらほとらとある。さらにこの分野で一発屋状態の「上海の西、デリーの東」素樹文生、藤原新也の漂流シリーズ、「バンコク楽宮ホテル」にプレミアがついている谷恒生のアジア本も揃った。「バンコク〜」は、カオサンロードが発展する前、バンコクのチャイナタウンに常駐していた日本人旅行者たちの生態をつぶさな観察によって描き出した秀作である。徳間文庫に入っていたが絶版状態になっていたのを紀伊国屋書店がライセンスを取り、アジア各国の支店で販売していたようだ。手元にある二冊の文庫本にはシンガポールドルとタイバーツの値札が貼られている。そんな本が文庫棚の二列を支配するまでになった。それでもいまだ触れぬ旅行記は多い。最近読んだ星野博美「愚か者、中国を行く」には感銘を受けた。大宅壮一賞を受賞した「転がる香港に苔は生えない」は読んでいた。学生時代を香港で過ごした彼女が、1997年の返還前後一年間を再び彼の地で過ごしたルポルタージュである。その後、帰国後の身辺雑記を綴った「銭湯の女神」をたまたま読む機会があって、彼女は優れたエッセイストだと感じた。彼女は背が高く短髪を好み時として男性として間違えられ、現地でも日本人と見られないことがあるという。その不確かな佇まいを被虐的に記すわけでもなく、誇示するわけでもない。どこかにくすぶる居心地の悪さをさらっと描く。その筆致に惹かれる。「愚か者〜」は、香港留学時代に知り合ったアメリカ人の男性留学生と中国各地を列車の旅でめぐる珍道中だ。本書は彼女と中国(香港)との出会いからはじまる。大きな理由もなくただ「餃子が好きだったから」中国に惹かれ、今はパンダグッズであふれる渋谷スペイン坂の雑貨店「大中」で人民服とカンフーシューズを買う。さらに、デビット・シルビアン率いるジャパンのジャケットに描かれた毛沢東に思いを馳せ、部屋にポスターを飾る。西洋人の東方的エキゾチックを東洋人自身が味わうという倒錯。以降、彼女の根幹にはいくつもの「倒錯」が出現する。入学した大学(ICU)で白人留学生に群がり、頭二つ分を見上げて話しかけ続ける女子学生たちの輪になじめず、図書館の地下へ籠りロシア語のアルファベット書き取りに興じる。これは無意識な西欧的なものへの対抗だろうか。小さな植民地と定義したICU図書館の地下で知った交換留学制度を用いて、大きな植民地(香港)へと旅立つ。この場所で彼女は共通語である北京語ではなく地域言語である広東語を学ぶ。返還を控えた香港は都市全体が不安神経症にさいなまれている。もとより数多の人種が集まり往来していた奇妙な「東と西の融合実験」が行われていた場所の住民は我々はどこへいくのか、どうなってしまうのかと答えのない問いを求める。「広東語ができないと商売にならない」と自らのルーツの言語を習得しにやってきたオーストラリア人の華僑三世は、問い合わせ1つしても学校の受付嬢から手を握られる。女性たちは結婚による逃避を強く望んでいる。そんな場所で、金を落とす観光客でもない貧乏学生の日本人女性である星野は孤立するもそこに侘しさはない。香港の圧倒的なざわめきが彼女を包み込む。星野の文体の真髄は、中国の地名にカタカナではなくひらがなのルビをふること。香港の繁華街である旺角は「モンコック」ではなく「もんこっく」なのだ。これで数段柔和になる。自分探しやら過剰な日本社会批判から、クスリ、オンナ、デンジャラス体験の誇示など旅行記が陥りがちな罠を見事に回避している。ゆえに読んでいてもひっかかりがなく心地良い。
ふと思い立ち『ガロ』のねこぢる特集号を開く。この号には伏せられていた彼女の肖像がある。何のことはないスナップ写真だ。モノクロ印刷なので太めの黒縁メガネの色白な容貌がのぞめるのみだ。普通の人である。神経質そうという印象は、後付のエピソードが加えられ理解されるものだ。このコミュニティの写真として掲げた『自殺されちゃった僕』には、ねこぢるのキャラクターが「キモカワイイ」として受け入れられスターダムにのしあがっていく反面、彼女の創作環境を苦しめていった様子が描かれている。ねこぢるの漫画は、彼女自身が観た夢を漫画に描くとものだった。当然すべての夢が漫画にできるほど面白いわけではなくネタの量産は限られてくる。ネタのために夢を見るわけにはいかない。ねこのキャラクターが一人歩きし東京電力のマスコットにまでなる。今思うと、でんこちゃんは内田春菊であり、これからの超メジャーシーンではないところからの起用は、原発と広告問題が絡んでいたのだろうか。サザエさん、ドラえもんができないのでマイナー漫画からというのはうがちすぎだろうか。結果、ねこぢるはメジャーとなった。そのキャラクターに魅入られたのが女子高生の南条あやであった。ネットで日記を記し、リストカットの果てに出血死を遂げてしまう。厳密には自殺ではなく、繰り返される出血によって心臓の弁が弱っていたためとされる。「GON!」にも不定期に執筆していた彼女がねこぢるをメジャー化する前から知らなかったのかという疑問は生ずるが、当時の「GON!」は変わり者アイテムとして機能していた。能町みね子と雨宮まみの対談にも出てきたが「GONなんか読んでるワタシ」という、80年代ナゴムギャルのループが生じていた。さらに「GON!」とヤンキーの親和性も高い。同誌を作った比嘉編集長は「ティーンズロード」を起こした人物である。雑誌にレディーズの女の子が載れば売り切れが続出しファンレターが殺到する。そんな時代があったのだ。南条あやが死したのは1999年3月30日、ねこぢるは1998年5月10日。ほか、春に死した人といえば二階堂奥歯が浮かぶ。文学部を出て出版社へ勤務していた彼女は、ブログに膨大な読書記と精神の痛みを綴り、自殺宣言を書き込み2003年4月26日に死する。とても春なので彼女の著作「八本脚の蝶」を図書館で借りようとしたら、除籍されていた。以前ずっと借りっぱなしだったので、そのまま返却されなかったのだろうか。単行本の値段がアマゾンでいつの間にか一万円まで値上がりしていた。これでは補充もなされまい。本書には死に至るまでの彼女の日記とともに親交のあった人物の言葉が寄せられている。編集者として仕事をした有名作家から、学生時代の恋人、そして彼女が高校時代に知り合った雪雪さんという書店員だ。彼女が自殺をほのめかす前、雪雪さんは「あなたにとって満足がいかないことでも愚かな選択(生きること)をしてくれ」と懇願する。この本を初めて手にとったのは、2008年の春先だったと思う。23区内とは思えない僻地の施設で会社の研修を受けていた。一泊二日で解放されたのち北千住へ出た。腹が減っていたのでつけ麺を頼み、最後にスープ割りを願い出ると、隣のヤンキーが物珍しそうに真似をした。この町の古本屋の在り処を調べ、日光街道沿いの店を訪れると二階堂奥歯の編集した「稲生モノノケ大全 陰之巻 」が並んでいた。あとがきを眺めると彼女への追悼の言葉が見られた。彼女の言葉は極めて抽象的だ。プレSNS時代の、ひとりよがりで、傷つきやすい、140字でも3行でもまとまらない言葉が溢れる。高校時代、書店員である雪雪さんの手書きポップを見たことから親交を持ち、本の話をしながら喫茶店で遅くまで話すという体験を彼は描く。うらやましい。制服姿の女子高生と、という前提はあるとしても、そういった時間や友人を渇望する。ねこぢるの没年齢が31歳と知って私と同じではないかと気づいた。彼女は多くの出版社と仕事をしていたが、編集者泣かせの作者でもあった。怒りのポイントがわからない、というのがその理由だ。こちらが不義理を働いたのならば謝ればいい。しかし彼女が怒る理由がわからない。「デブだから」という理由で更迭された者もいるらしい。彼女の死を知ったテレビブロスでも、追悼記事で山野一が同時期に死した某ミュージシャン(HIDE)の後追いを否定し、葬儀でエイフェックスツインを流した旨が説明されるとともに、編集者が死の前に電話がかかってきて二時間くらい文句を言われたと記していたと記憶している。自身は神経症の気質はあると思うが、彼女のようにはふるまえない。私自身10代の頃「表現者になりたい」と言っていたが、世間への馴致がその心根を削ぐ。春に死した人物は多い。漫画家の山田花子は5月24日。尾崎豊は4月25日。イアン・カーティスは5月25日。カート・コバーンは4月5日。春には何かがある。
久方ぶりに吉祥寺へ行く機会があったので、武蔵小金井駅まで足を伸ばしてラーメン二郎へ行った。駅前に店はなく一キロほど線路沿いを歩き学芸大に沿う新小金井街道沿いにある。家賃や地価との相関関係があると思うのだが、三多摩の二郎は盛りが多い。野猿街道店が多いと思っていたが、八王子の奥地にできためじろ台の店舗はさらに上をいく。食べ終わり、小金井の町並みを歩く。半分以上は散ってしまったが小学校の校庭に桜が残っている。まだ歓待される春は残っているのだなと安心する。今日は早く戻り眠らねばいけない用事がある。明日は早い。とはいっても一つ今夜中に仕上げる原稿がある。テープ起こしはすでに行なっている。あとは専門用語をネットで補足して話し言葉にすればいい。雑談に寄っている部分が多く、話が重複している部分もある。あれこれといじりながら、ラジコをつけるとダイノジの大谷ノブ彦の声が流れてくる。聴いてはいないのだけれど、彼はラジオをやっている。お笑い芸人のラジオというのは珍しくない。芸人仲間を呼んで内輪ネタで盛り上がり、当たり障りの無いネタコーナーで埋められるものかと勝手に思っていたのだが、この番組が洋楽主体と聞いて驚いた。5月に予定されていた大型ロックフェス「TOKYO ROCKS」がチケットがあまりにも売れずに中止になった一報を聞いたばかりであったからだ。ブラー、プライマル・スクリーム、マイブラッディバレンタインというフジ=サマソニのヘッドライナー級の並びに驚愕したが、舞い上がっているのはオールド層だけだった。ロキノン系の邦楽勢を揃えて、ヘッドライナーを洋楽のそれにすればよかったと2ちゃんねるに記されていたがマーケティングの手法としてはそちらが正しかったのだろう。洋楽なんて誰も聴いていない。ダイノジ大谷ノブ彦の音楽観は歴史をふまえ情報をふまえるド文系のそれだ。踊れればいい、ノリがよければいい、なんて次元に留めない。ラジオから流れてくる彼の声はひたすらアツい。母親との確執、青春期の鬱屈、相方の出会い、芸人としての潜行時代などの自分語りをはさみながら、ブルース・スプリングスティーン、バズコックス、サム・クック、嵐、エルビス・コステロと続く。ジャンルもバラバラだけれど彼の中で繋がっている。その一本線を説明する、つくり上げるのがサブカルチャーの醍醐味だ。AMと洋楽の親和性はそれほど高くないように思う。それこそANNがターゲットとする中高生に洋楽をなったら「セックス・ピストルズの名前は聞いたことあるかもしれませんが…」やら「やっぱりビートルズ」とお茶を濁すこともしない。ピストルズでもクラッシュでもダムドでもなく、UKパンクとしてバズコックスが現れる。おっさんのノスタルジーではなく、現在進行形で流れている。バズコックスがかかる前はマンチェスターの解説がなされ、電気グルーヴの「NO」が、NewOrderの略であることも伝えられた。この話はまったく知らなかった。気づきを与えてくれる。情報と情熱が同居している。この生きたライナーノーツに戦慄する。サンボマスターが現れた時、あのアツさにノレなかったのはパッケージされたものであったゆえではなかっただろうか。生放送の深夜AMラジオには、冷笑を向ける時間は用意されていない。TBSのジャンクで展開されているテレビで活躍するお笑い芸人の息抜きの場としてのゆるゆるテイストの真逆を確信犯的に歩んでいる。とんでもないものを聴いてしまい眠れず今に至る。これから大学院の入学式に向かう。いい歳だが修士課程の学生となった。文系でローでもMBAでもなく、社会人入学、夜間、語学力なし、人文系という時点でドキュン確定だが、久しぶりの学生である。2004年に卒業した時は、ユーチューブもウィキペディアもメジャーではなくコピペレポートを作る機会はなかった。大学院という場所に行くのは初めてだが、少なくとも本を読んでものを考えて文章を書くことを苦としない人たちがいると思うので、俗世間で感じ、時に苦痛ですらあった渇きは多少回復されるのではないかと思っている。昼間の仕事としてはフリーライターをやることにした。というわけでお仕事募集中である。大谷のラジオではネタコーナーを一切やらなかった。今後募集するかもとも伝えられていたが、ハガキ職人が群がり「小手先」のネタを集めるようなものはやってほしくないとも思う。番組のエンディング、オアシスに乗せて彼は秋葉原事件の加藤に言及した。大谷は彼への思い入れがあるようだ。「でも俺は加藤にはならない」という言葉で「さてと僕は何をしようか/少なくとも校舎の窓は割らないよ」真心ブラザーズ「素晴らしきこの世界」の一節を思い出した。暑苦しいものが好きだ。端的なものが好きだ。孤独なものが好きだ。てらいのないものが好きだ。打算のないものが好きだ。純粋なものが好きだ。
最近遅ればせながら読書メーターを始めた。読書記録をつけられ、同じ分野を読んでいる者同志をマッチングさせてくれる。読了した本は、グラフ化され、総ページ数も表示される。この半年で読んだ本が3万ページに達した。なにか偉業を成し遂げたようにも見えるが、厚手の文庫本ならば100 冊程度である。漫画も雑誌も参考書も食らえられるので、ページ数の水増しは決して難しくはない。ここ数ヶ月、mixiの本格的な終了、断末魔が聴こえてくる。山形浩生のコミュニティのトピックに「山形在住です。近くの人絡みましょう」という出会い系の書き込みがある。これは、山形浩生が“山形”浩生としか認知されていないということを端的に指し示している。彼はネットワーク文化について理想的な世界を描く書き手である。研究者やハッカーたちの世界を変える原理に忠実であろうとするものだ。情報が送り手と受け手の区別なく、双方に発信され、批判、検証され更新されてゆく。人類の叡智が刻み込まれる知のオートノミーがそこにある。しかし、その山形浩生がアルゴリズムにハッキングされ、地方都市の名がピックアップされ、どうでもいいフレーズが記される。マキタスポーツが批評芸の初期段階において「流行の最終消費者は田舎のヤンキー」と述べていたが、田舎のヤンキー文化と出会い系サイトはいまや完全に結びついている。「そこ」と山形浩生かよという落胆はある。mixi終了説を前にFacebookへの以降をためらう。なぜならば私は本名が現れることに激しい拒否反応を示すし、誇るべき学歴も職歴も持ち合わせていない。持ち合わせていたとしても学歴や職歴をネットにさらすことへの抵抗がある。研究者や評論家ならば一定の評価軸において両者は機能しえるが、ほとんどの人間にとって両者は「いらんこと」なのではないか。しばらく前からこのコミュニティは承認制としている。どのような人物が興味を持ってくれるのか。それを見ようとするためだ。週に一人だった登録者が月に一人となり二ヶ月に一人となり、珍しきものとなった。赤字のインパクトはいまだ逃れられない。すでに定期的に飲む仲となった友人が、Twitterのダイレクトメッセージの調子が悪くなった時の手段として利用するのみだ。先月だったか久しく登録希望者が現れて、廃墟に惹かれる人物であった。mixiそのものが廃墟ではないか。匿名と日本的な馴れ合いが最終段階まで訪れ、出会い系業者が最後のハイエナとして大量流入しメッセージに連絡手段を記すことさえ検閲によって制限される。慣れ合うことさえ予め用意されなければならないのか。深みはないのか。mixiのオンから離れたオフ会もまた薄っぺらいものだった。共通項を持つ場であるにも予備知識がなさすぎる。我々は日本語を母国語とする日本語話者の日本人である。コンセンサスはこの程度まで低めても大差ない。これがmixiのカルチャー系オフ会の実態であった。私は本を読む。本の話をする人間と出会いたい。しかし語学力が全くないので日本語圏内で日本語の出版物を読むしかない。本の話をしようとするときの困難はいくつかある。まず本といっても文字の本を読んでいる割合は少ない。特にサブカルチャー系の人間は顕著である。漫画しか読まない。読んでもラノベだけという奴は多い。さらに画集や写真集が好き。ビジュアル色の強い雑誌をぱらぱらとめくるのが好き。このゾーンを除くと純粋に本を読んでいる人は少ない。さらに文字の本を読むのが好き、という中にSF好き、ミステリー好きがいる。私は両者はほとんど読まないので、これまた話が合わない。SFは隣接領域、パンクやらゲームやらアニメやら宇宙、サイエンスネタなんかをフォローしているのでまだ面白い話ができるんだが、ミステリー好きはミステリーしか読まないので共通項がない。ビジネス書・自己啓発書はいわずものがなである。さらにサブカルチャー方面でもみうらじゅんや唐沢俊一なんかの王道は読まない。クーロン黒沢が好きといってもサブカル方面ではマイナーであり、アジア旅行記でも傍系となる。メインからずれた傍系というのが私の惹かれるゾーンになる。文章の書き方も本筋から離れたような話題から中心へ向かうという思考法が好きだ。ゆえにテクストそのものへの向き合いが疎かになる。読書メーターにつけはじめた記憶も、本そのものよりも、本とともにあった生活、本と私、による。他者よりも自己への興味が勝っているのは確かなのだろう。人と本の話をするとき傍系の話をいきなり出すことはしない。まず理解されないという前提があるから。ゆえに村上龍とか、ではじまってしまう。そこに削がれる「深み」がある。思考と履歴を体系化、一覧化する読書メーターはけっこう使えると思う。ということで、読書メーターはじめました。→http://book.akahoshitakuya.com/u/367367
このコミュニティの設立日が2006年の1月26日と知って驚く。もう10年にもなるのか。最近は積極的に書き込みをすることはないとはいえ、フェイスブックもラインもやっていないので、よくミクシーは眺めている。ミクロな趣味の世界の仲間に出会えるものだと思っていたのだけれど、それほどディープな人に会ったという印象はない。一度連絡をくれた人がいて、その人が実は終夜開放の自主法政祭で話したことがある人だった。ともに法政の学生でもなく、相手はすでにOBとして、マスコミの地方支社に勤務にしており、たまたま上京していた。なんというか、出会う人には出会うもので、ネットがあってもなくてもどうでもいいのかもしれない、とも考えた。このコミュニティを作りあげたのは私が20代前半の頃である。大学を出て、2年目だかで、当時は塾講師をしていた。今もそうだと思うのだけれど、塾講師の仕事というのは学校が終わったあとに生徒が来るので、仕事は夕方からで良い。その分、終わりは9時とか10時になる。だから、朝まで酒を飲み、ラジオを聴き、本を読んで、午後起きるという学生のような暮らしが可能だ。一度授業の待機時間ができた時に宮台真司と宮崎哲弥の対談集「エイリアンズ」を読んでいたら、塾講師の先輩の人に話しかけられて「珍しい組み合わせですね」と言われたことがある。少なくとも作家とか評論家とかの名前くらいは知っている人が塾講師をやっているのだと思ったのだ。当時住んでいた某区の公園にもずっと住み着いている人がいた。近くのスーパーで試食を食いに私がふらりと行くと、その人もいて、友人をあとを追ったら書店で「噂の真相」を立ち読みしていたこともある。彼も、作家とか評論家の名前くらいは知っていて動向に興味がある人なのだ。その後私は、とある出版社に入り、編集者として勤務を始める。このコミュニティでは自ら編集者であることは明かさなかった。私のいた版元は零細であったし、サブカルチャー的な思考は活かせる場所であるものの、同時にサブカル野郎は要らないという風潮もある、不思議な場所だった。居心地は割合良い場所だった。本当は数年でどこかへステップアップすべきなのだろうが、だらだらといてしまった。月刊誌を作っていたので、校了を終えればわりかし休みが取れる。連休のタイミングを見計らい海外へ行くこともあった。朝の会議に顔を出し、夕方の飛行機に乗って、3日、4日アジアをめぐって戻ってくる、といったことを繰り返した。オリジナルな旅ではない、小林紀晴「アジアンジャパニーズ」や、クーロン黒沢の一連の著作を参照し、同じ場所を訪ねる、絵葉書的思考の旅である。両著作に登場するバンコクの運河沿いに展開する違法占拠市場である、サパーンレックも解体された。中上の路地の解体、地の果て至上の時である。サパーンレックはクーロン黒沢が違法改造プレステコピーの穴場と紹介し、小林はアジアのインド人街を訪ね歩く旅で訪れた場所だ。サパーンレックに隣接するようにパンフラットと呼ばれる地域があり、リトルインディアがある。ある旅の終わりに、チャイを一杯だけ飲んだバングラディシュレストランは撤去されていた。今の東京の住まいもアジアの延長線上のような場所だ。スラム感がある。隣には日系ブラジル人が住んでいる。ブラジルで用いられているのはポルトガル語だ。311の時、インターFMが在日外国人向けに四ヶ国語放送を行っていた。英語、中国語、韓国語、そして日系人に向けたブラジルポルトガル語だ。スペイン語と似たようなものだと思っていたのだけれど、もっと静謐な言葉だ。菊地成孔が紹介したジョビンの「3月の水」も、曲と来歴が一致した。そういやマラッカの夕陽を眺めながらこの曲を聴いた。マラカのポルトガルコミュニティを追う旅であり、金子光晴を追う旅でもある。雑誌編集者の仕事は雑誌休刊にともない廃業を余儀なくされた。その後、私は社会人入試を受けて、ある大学院の修士課程へ入る。20代の頃の将来の夢は「大学院に行ってみたい」というものだったから、叶えたことになる。試験科目は面接と簡易的な専門試験のみだったので、入学早々、英語論文を読まされて、パニックに陥った。研究テーマを選ぶにあたり、外国語は使えないので、日本に向かう。明治大正期の文献に向き合うも、漢語と文語体と旧字体の応酬に音を上げる。明治期の行政文書はすでに別の言語であった。昨年の今ごろは修士論文にかかりきりだった。第四稿からまともになるとネットにあったのだけれど、実際そうした感じだった。ずるいことがない、学術の世界は非常に風通しが良かった。卒業後の現在は、フリーライターとして活動をしている。紙とネットの比率は2:98くらいだ。ペンネームを複数用いている。ご興味ある方はメッセでお問い合わせいただければお伝えします。書き仕事も募集中。
・昨日の7月23日は村崎百郎の刺殺事件から10年の節目にあたる。事件現場となった村崎の自宅は、当時住んでいた場所から1キロくらいの距離にある。本人とすれ違っていたかもやしれないとも思う。森園みるくの追悼漫画作品「私の夫はある日突然殺された」を読むと、村崎の膨大な蔵書は藤本由香里のはからいで明治大学に寄贈されたという。村崎は明大OBでもあるし、ひとつの文化史的な資料ともなりそうだ。村崎はゴミを拾う人間であるとともに、捨てられない人でもあった。没後の展覧会では村崎の日記などのほかに、ペヨトル工房の編集者時代に山形浩生とやりとりしたFAXまで残っていた。編集の過程が、オーラルヒストリーではなく、ものとして残されているのは貴重ではないだろうか。
・以前の書き込みから3年ほどになる。たまにこのコミュニティのタイトルを検索すると言及してくださる方がおり、トルコロックさんという方がいた。どうやら都内の飲み屋をいろいろとめぐっているようで、上野のとあるお店で隣り合った。書き込みの話をいきなり振るのもなんだと思い触りの話くらいをした。ゲームの企画などを手がけているようで、岡田斗司夫が「ゲームの企画書はキロ単位。バイトではなく、キログラム」それくらい紙を使う、みたいな話を訊いたら岡田自体のうさんくささみたいなものを教えてくれた。その後、しばらくツイッターの更新がないと思ったら、亡くなったようだった。
・その人の死を知らない限りは、自分の中では生き続けている。大学生のころに自主法政祭の「法政の貧乏くささを守る会」ブースにおいてボアダムズとモーニング娘。が好きという人と話した。音楽の話ができる人が少なかったので嬉しかった記憶がある。ボアダムズは西八王子のツタヤにあった「チョコレートシンセサイザー」だけは聴いていたが、ほかはまだ触れておらず、彼から「スーパーアー」は絶対聴いた方が良いと言われ、これまた新宿のツタヤで借りたのだ。いつなのかはわからないが、その彼もすでにこの世にいないという。
・もうひとつ、日大芸術学部の文芸学科の学生がゼミナール単位で雑誌を出していて、ほとんどが読む気も起きない文芸創作小説がならぶのだが、その中に現役の雑誌編集者が指導にあたるものがあって、その中にコアマガジンの『BURST』編集長だったピスケンにある青年が会いに行く話がある。大日本印刷の出張校正室で雑誌の校了に立ち会い(私ものちに雑誌編集者となり大日本印刷は取引先となるが、あの会社の出張校正室ほど殺伐とした場所はない)、その後は打ち上げの飲み会へ。さらに会社の別の人間が合流し絡まれ嫌な思いをする描写がある。当時『BURST』を読んでいたので、同学年の彼の存在は覚えていた。似たような人間もいるものだなと思っていた。その後、彼は編集者になったのだろうかとたまに気にかけていたが、ピスケン本人のブログによれば、すでに23歳で自死しているという。10年以上も彼は私の中で生き続けていた。そういえば『BURST』で本城美音子という若いライターが、阿部薫と鈴木いずみを特集した時に、読者から「死んだやつのことなんてどうでもいい」と反応が来たようだ。いかにもこの雑誌らしいというか、伝説の何とか、といったものはほとんど意味をなさないのかもしれないんとも考える。
・私の興味や関心はひたすら過去に向かう。90年代サブカルチャー、特に鬼畜系と呼ばれるものが今ごろになって戦犯扱いされているのも困ったものである。N国に対して、90年代に電波系だの政見放送をサブカルチャー的に面白がっていたことへの真摯なる反省といった見方も出ている。ネタがマジに、というのはあるだろう。
・『伊集院光深夜の馬鹿力』において構成作家を務めてきた渡辺雅史が引退の意向を示して、次なる新人作家を選抜中であるようだ。これは伊集院と渡辺の青春期の終わりと見る声もある。さらには、伊集院がポンコツ作家たる渡辺を養っているのではなく、伊集院が渡辺に依存しているともいう。渡辺は、企画を考える、台本を書くといった構成作家の基本的な作業はどうやらやってしないようで、ただそこにいて欲しいといった存在であった。もうほとんどのリスナーが10年選手、20年選手であり、惰性で聴いているだけの感も否めない。若手芸人話と旅行話が出た途端に、ああそれねとなるのだ。いつ終わるのだろう、そしてどのように終わるのだろうといった思いはある。あとはほかのラジオ番組のように番組のハガキ職人から構成作家を最後まで選抜しなかった。20年以上もやっていれば、どうしても使って下さいといった人間は来ていたようにも思えるが、伊集院はどう扱っていたのだろう。
・mixi的なるものはどこへ霧散していったのかと考える。フェイスブックやツイッターの所属文化、炎上、特定文化はどうにも居心地が悪い。
『BURST』(コアマガジン)編集長だったピスケン(曽根賢)さんが、重度の糖尿病により余命六ヶ月の宣告を受けたようだ。もともと最近の姿は病的に痩せていて、体のどこかは悪いのだろうとは思っていたが、周りの人間が病院へ強引へ連れてゆき診察を受けさせたところ、当然ながらアルコール依存症の診断が下り、即入院の診断が下される。内科検診で糖尿の数値が悪いとも出て、専門病院で治療をしなければならないレベルであるという。ピスケンさんは定期的にブログを更新しており、この春の段階で年を越せないだろうと思っていたのだという。それでもあがかないのは金がないのはもちろん、あきらめも早いためと。この余命六ヶ月というのは治療をすれば延びるものなのか、最大値なのかはわからないが、期待はできないものなのかもしれない。ピスケンさんとの本を通した出会いは、大学に入り、一水会に参加している友人と知り合い、そこから見沢知廉を知り、インターネットのホームページに名前を出したところ、『BURST』の連載がヤバイと交流があった人が教えてくれたのだ。イトーヨーカドーの書店へ行き、タカミトモトシのイラスト付きの見沢の連載を読んだ。以降、月ごとに見沢の連載を読むために『BURST』に触れる。買わなかったのは金がなかったからだ。たまに「ブックオフ」で100円で出ると買っていた。なぜだかブックオフの雑誌は、まとまって出ることがあり私は鉱脈と呼んでいた。まさにディグ、掘り起こす楽しみがあったといえる。私の本棚のほとんどはこの時期にブックオフの100円棚で買いそろえた雑誌や書籍で埋まっており、それはブックオフが新古書店として5年くらい前の商品を並べる性質にあるのだろう。私が大学に入り「BURST」を知った、2000年ごろには、まさに出版サブカルチャーの爛熟期ともいえる1995年以降から2000年にかけての商品があふれていたことになる。オウム真理教のムックすらあった。「BURST」の名前は知っていたが編集長の名前は知らず意識したのは『文藝』(河出書房新社)に載っていた彼の小説を読んでからだ。10月の最終日の月曜だっただろか。手に入れた原付バイクで武蔵野美術大学の学園祭へ向かった。今は無くなったようだが、当時は金曜から日曜に加えて月曜日も祭りがあり、美大なので人が来る日曜までは外部、月曜は内部の祭りだったようだ。晩秋だと言うのに半裸の神輿とかが出ていた。映画に興味があった私は、短い映像の上映会へ行った。ポケモンのピカチューが石か何かの下敷きになり「ポケモンデットだぜ」と言う、といったショートフィルムだ。アンケートにメールアドレスを書いたらその日のうちに儀礼的なメールが来た記憶がある。当然そこでラリーが終わるやつである。帰りぎわに一橋大学に立ち寄り、構内のビラ置き場にポツンと転がっていたのが『文藝』だったのだ。誰かの忘れ物でもないだろうしと持ち帰り「あとかたもない春」というセンチメントな小説を講義中に読んだ。ガツンとやられて、酒を飲む主人公にあこがれて、スーパーでウイスキーのポケット瓶まで買った。一番安い300円のやつだ。そこからピスケンさんの名前を意識するようになる。実を言うと大学四年生になり、新卒時にはコアマガジンの採用試験も受けた。配属希望雑誌を2つまで書けたのだが、第一志望『BURST』のみとした。筆記試験の会場には80人くらいはいただろうか。担当の人が「みなさんは何かものを作りたいと思ってこの場にいる。その思いが持てること自体が才能です」といった、就活生励ましフレーズが記憶に残っている。試験日は5月の下旬で、板橋のアパートから高田馬場まで自転車で向かった。スーツの下に汗をかき、青だか紫のTシャツの色素が白いワイシャツに滲んだ。それほど、就職活動をアバウトにとらえていたといえる。あっさりと落ちた。その前だかに日本大学芸術学部の文芸学科の学生が作る雑誌で、白夜書房の編集者が講師をしているものがあり、そこで学生がピスケンさんに会いに行くルポルタージュがある。大日本印刷の出張校正に立ち会い、打ち上げに参加し、クセのあるエロ本編集者に絡まれるまでが記されている。同学年で、似たような気弱さを抱えていたであろう彼の存在はずっと意識していた。私は雑誌編集者になったが、彼もそうした仕事を選んだのだろうか。最近、ピスケンさんブログで彼は23歳で自殺していたと知る。それを知るまで、彼はずっと私の中で生きていた。先日、ピスケンさんに「みちくさ市」で会い少し話をした。シングル小説の通販が開始されず(ブログを見るとビニールカバー、内カバー、本体からなるレコードジャケ一式を作る体力もないようだ)直接買いに行った。サインをもらった。みちくさ市で何度か目にしていたが、いつも取り巻きな人たちがいたので踏み込めなかった。
津田大介が炎上している。「あいちトリエンナレー」の「表現の不自由展・その後」をめぐっての対応がいかがなものかということで批判を集めている。さらに、過去に在籍していた編集プロダクションの社長が、勝手に副社長を名乗り仕事の収入を着服していたといった不祥事を告発している。その社長は現在は出版業界からは離れているようだが、津田大介の力量については文才がない、向学心もない、基本的な知識がない、テンプレで原稿を処理していたと批判している。それでもライターとして成り立ったのはITバブルのおかげだともいう。出版業界はジリ貧なのかと思いきや、そうではなく発行点数を見る限り1995年以降に一時的に巻き返す。これはWindows95にはじまるパソコンブームが起こるためで、マニュアルとは別のガイド本が無数に出たため、ライターの需要が無数にあったためだろう。「ホームページの作り方」といった本を、パソコンの立ち上げから解説するようなビギナー向けの本なので、プログラムなどの専門的な知識は求められない。このITバブルは、どこまで続いたのかはさだかではないが、その後は携帯電話やPHSなどが出てくるし、さらには着メロや、mixiなどのSNSブーム、iPhoneから便利、おすすめアプリなどの本もあるので、出版業界のITバブルは細々とは現在まで続いているといえる。スマホの充電パックでどれが買いか、といったガジェット系の話題もITバブルの恩恵のひとつといえる。私が出版業界に入ったのは2000年代の後半戦であったので、もはやITバブルのにおいはない。Wikipedia日本語版の記述が一通りそろい、もはや編集にそれを活用していた段階であり、そのファクトをめぐっての議論などがあった。Wikipediaは信用ならん、といったことが表向きは言われていたが誰もが見ていたと思う。それほど便利なツールだったのだろう。津田大介が自分にとってはどういった存在であったのかといえば、なんとなく社会派の人くらいのふんわりとしたイメージで、「文化系トークラジオLIFE」のパーソナリティーとしても印象が強い。このラジオ番組が20代の私にとっては、なんとも距離の取り方が難しいもので、番組が始まったころは、無職同然の生活を送っており、その後底辺版元に編集者として入るので、この番組のリスナーたちの、ワナビー感がとてつもなく苦手であった。自分は編集者という名の雑用係を会社員としてのサイクルの中で引き受けているのに、どうにもこいつらはお気楽に、自分に何かしらの適性があるものだと思いこんでいて、フリーライターや構成作家になれると素朴に思い込んではいやしないかと。怨嗟と被害妄想の混ざりあったこじれから聴かず嫌いの時期もあった。津田大介を支持する人たちもそうしたタイプではなかったのか。編プロの社長が、津田大介は出世欲が強いので危ない人間にもついていったし、ある種の人たちにとって必要な存在とされていたと。もちろんライターとしては、そうした魅力というのは大切なものであるし、ブランディングも重要な作業ではあろう。ドローン少年ノエルを、未成年ゆえの特権をともないながら過激な行動、電波少年的な突撃を行うさまを応援していた大人たちの支援金の総額が100万円を越えていたような話と同じなのだろうか。それでも津田大介的なフリーライター像というのはひとつの理想ではある。何もしていないのに何かをしているように見せる。資本主義の象徴ではないか。出版社の試験に落ちたので編集プロダクションに潜り込み、フリーランスでライターとして活躍をしていくと。それがITバブルの時代であり仕事が無数にある。その場数の多さは貴重である。100打席で3割くらいヒットを打てばプロ野球選手と同じでクビにはならないのではないか。さらに津田大介の父親は社会党の活動家であったのは知られている。板橋周辺の労働活動家の間では「大介」扱いだとも聞く。高校は北園高校で、私服通学ができる自由な校風として知られる。そこでの新聞部の活動がジャーナリズムの原点という。私の通っていたのは底辺私立高であり、自由な校風はなく、服装髪型に厳しい規律があり、本人の了承のない持ち物検査もあった。さらに図書館もなかった。前はあったらしいが、本を万引きされすぎて閉鎖したといった話があり、文化祭も非公開なのは過去に暴走像が突っ込んできたからといった逸話もある。自由な校風への憧憬はある。津田大介は代々木ゼミナールに通い西きょうじとの共著もある。その後、早稲田大学へ進学する。当時は授業に出ずとも卒業できるタイプの学校だ。この自由のコンボに憧れていた部分もある。ただ永遠に自由ではない。津田大介的なものの終わりはモラトリアムの終わり、幼年期の終わりではないか。あるひとつの90年代サブカルチャーの終焉ともなろう。
日比谷野外音楽堂で行われたナンバーガールライブの外聞きへ行ってきた。日比谷野音は音が外へ漏れ、キャパも少ないので、チケットが取れないファンは外へ集まるのだ。日曜日は午後に起きて、ちょうど良いタイミングのイベントかと思い向かうと、大量の人がいた。一曲目の「大あたりの季節」はわかったが、あとの曲はあいまいだ。イントロで即座に反応する人たちが大勢いた。幻の一曲みたいなものもやったのだろうか。私はナンバーガールは聴いていたが熱心なファンではない。一度ロックインジャパンフェスで見たことがあり、その時は観客に外国人がおり驚いた記憶がある。『SNOOZER』言うところの98年世代のジャパニーズロックでは、スーパーカーがもっとも好きでくるりが続く。ここにナンバーガールが来るのだが、この3つのバンドは音楽性もバラバラだ。スーパーカーが青森、くるりが京都、ナンバガが福岡と、地方からやってきた人たちといった共通項があるだろうか。それでもくるりは、初期メンバー3人中、2人は付属中高出身で、京都の貧乏大学生ではなかった。ネットで当時の音楽ができる人を募ると、必ずナンバーガールが好きな人が来るので、少し敬遠していたところもある。ナンバーガールは「SAPPUKEI」を熱心に聴いていた。というのも近所のツタヤで借りられたのがこの作品しかなかったのだ。皆、夢中だった。あとは『Quick Japan』で向井秀徳が取り上げられていたのと、のちに福岡出身の人に聞けば、ナンバーガールより人気のあるバンドはいて、彼らは傍系だった。そのライブに熱心に通っていたのが高校生だった椎名林檎だとものちに知る。こうした90年代の風景は、00年代に大学生になってから後付で知ったものだ。ナンバーガールに夢中になる人の気持は最後までわからずじまいである。2000年くらいには、洋楽には詳しくないというかまったく聞かないのだけれども、ナンバーガールを見るためだけにフジロックへ行くという人もいたと聞く。そうした邦楽一択お目当てとしては椎名林檎の東京事変にも、厚底ブーツを履いたゴスロリ少女みたいな人たちが現れたと聞く。東京事変はホワイトステージのトリだったはずなので、あの岩だらけのステージで厚底ブーツはないだろうと思うのだけれども、最近のフジロックでは、ホワイトステージに椅子を広げて放置するといった問題も起きているようだ。20年のタームはあるのだろう。ナンバーガールの演奏は、18時にはじまるのだけれども、半を過ぎると真っ暗になって日は落ちていくのだなと思い、さらに過去の話も思い出した。夏の日比谷野音というのは何度か来たことがあって、スキップカウズやイン・ザ・スープといった2000年代に活躍した、といっても今も活動を続けているバンドのほかに、1997年にニッポン放送主催で行われた「トリップフォークジャンボリー」なるイベントにも来たことがある。旬のお笑い芸人とミュージシャンの融合イベントと銘打たれており、お笑いはつぶやきシローからはじまって、U-turnやノンキーズ、底抜けAIR-LINEなんかがいたように覚えている。ミュージシャンはスキップカウズ、キュリオ、井手功二率いるチャミグリ、ムーンチャイルドなどだ。これはお笑いと音楽の融合イベントと言いつつも、実際はミュージシャンのライブの転換にお笑い芸人が出てきてつなぐ、といった内容であったように思う。あとは、このイベントは最後までいられなかった。田舎の最終電車に間に合わなきゃいけないので、8時半くらいに出たのだ。私の家は郊外都市からローカル線をさらに乗り継ぐ必要があって、その都市に22時くらいまでについていなきゃならないのだ。高校時代は「テレビブロス」を毎号買っていたはずなのだが、ところどころ抜けている号があって、調べると夏休みなどの長期休暇にかかっている。ブロスも買えないような環境にいたのだと思うと絶望的になるし、そのような文化果つる場所にもニッポン放送の電波だけは届いていた。物理的な距離でいえば東京より横浜の方が近いので、ハマラジもガンガンに飛び込んでくる。この日比谷野音のイベント、トリはムーンチャイルドだったようだが観られていない。このバンド、絶頂期に解散してしまった。このイベントは好評で、8月にお台場の特設会場でも行われたようなのだが、インターネットを検索してもまったく情報が出てこないのが気にかかる。すでにネット検索に出てこないものは、なかったことにされているのだけれども、現代史ですらエアポケットが生じてしまうのだろうか。「ぴあ」あたりのバックナンバーを見れば確認できるのだろうが、20年前はとてつもなく遠い過去でもある。ただ、どうしても感慨がわかない。あまり時間の経過を感じるようなものではない仕事をしているためか、だらだらと過ぎてしまっている。
通っていた高校のあった千葉県木更津市の駅周辺を歩いてきた。父親の車で郊外にあるブックオフの前で降ろしてもらい、そこから地元名物の竹岡ラーメンを食べ、駅方面へと歩いていった。女子校である木更津東高校の脇を抜けていくと、美術予備校の入るビルがあった。この場所は昔からあり、美大や芸大受験などには縁がなかったが、進学校の端っこにでも引っかかっていれば、成績が伸び悩んで「俺は美大志望」と言い張っていたかもしれない。何より私は、絵が下手であり、歌も下手である。その点において芸術には向いていないと勝手に規定していたのだけれども、むしろ絵が下手でも何とかなりそうにも見える現代美術などを知っていたら、そちらにかぶれていたかもしれない。私の通っていた学校はこの街に無数にある学校の中でもランクが低いところで、予備校が配っているパンフレットなどは私の制服には渡してもらえないような場所である。実際に文化祭は11月に行われていた。普通の学校ならば、受験があるからと一学期や、あるいは秋口にやってしまうのだが、なぜだか11月だった。その分、文化祭の準備は晩秋の寒さや、早い夕暮れとセットなので特別な記憶とともにある。それでも、文化祭といっても昔暴走族が突っ込んできたという理由から非公開で、ずいぶんと鬱屈した場であったように思う。木更津駅のダイエーがあった周辺は、若者タウンのようになっていて、一歩裏手の路地にはミントンハウスというセレクト音楽店があり、バンド募集メンバー掲示板などがあって、友人について行ったことがあるが、CD一枚買うのも大金ゆえに、足繁く通っていたわけではない。けっこうな高校生たちがたむろしていた思い出があるが、そうした身内感がイヤだったのだと思う。すぐそばには高校生に制服でタバコを吸わせる喫茶店があったと聞くが、一度も踏み入れてはいない。制服で喫茶店へ行くといった行為はできないような学校だったので、マクドナルドでハンバーガーを食べるか吉野家で牛丼を食べるかくらいしか楽しみはなかった。駅の西口にはデパートのそごうが入っていたビルがあって、2000年代のはじめだかに、そごうが経営危機に陥って、即時に閉鎖された数店舗のうちひとつが木更津店で、その年の地価下落日本一を記録したきっかけになったとも聞く。そごうの8階に書店が入っていて、『ガロ』がデジタル化したあとのCD-R0Mマガジンの「ねぎ」や、『クイック・ジャパン』などが並んでいた。そこで小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』を買った。この書店では中学校の一学年上で美人だった人が、メガネ男と手をつないでデートをしている場面を目撃した。彼女には私の二学年下に弟がいて、そいつは大学を卒業後に教員採用試験に落ちて自殺したと伝え聞いた。そごうの裏手にみまち通り商店街が通っており、そばにボロい古書店があって遠藤周作の『海と毒薬』を100円で買った。あとは「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン」の番組本も買った。この番組は一度も聴けていないのだが、リア充向けの番組だったとも聞くが、実際のところはどうなのだろうか。この商店街は「木更津キャッツアイ」の舞台になった場所として聖地巡礼でわずかに話題になるも、あっという間に忘れられ寂れていた。駅前には恐ろしいほどに何もない。商店街を抜けると、古くからある書店があり、私はそこで中学3年生の時に初めてエロ本を定価で買った場所である。一緒に買ったのはこれまた小林よしのりの『ゴーマニズム宣言脱正義論』である。発売日に東京の書店を回るも見つけられず、ここまで来てやっと見つけたのだ。この書店の向かいには喫茶店があって、高校の後輩の兄が行きつけだったという。その兄とは一度も会っていないのだが、早稲田の第二文学部に入って、留年を繰り返して、二十五歳くらいで東洋史の修士課程に入ったとも聞くので、会えば良い話が出来たように思う。どういう統計なのかはわからないが、江戸時代の百姓は一生かかって手に入れられる情報が週刊誌二冊分だったというが、この街の情報も週刊誌二冊分に等しい。小さな図書館がひとつあって、きっちり17時に閉まる。学校が終わってバスターミナルから歩いていくと10分で閉館のBGMが流れてくる。私の通っていた学校には図書室がなく、何でも本を万引きして売る生徒がいたからと聞く。どれだけ文化果つる場所にいたのだろうと唖然とするが、東口にあった博文堂書店に入荷していた『Quick Japan』は5冊くらいあって、あれを読んでいたのはクラスに一人だったのは確かで、学校に一人だとしても街に数人はいたはずで、900円も出して買ったのだからと取り上げられているなにかもわからずに文字列だけを追ってきた体験は無駄ではなく、同じ判型で内容も似ているからと『リトルモア』も買えた90年代の空気は愛おしい。
『TVBros/テレビブロス』(東京ニュース通信社)が、この3月売りの号で休刊する。春からはウェブ媒体、不定期刊への発展的移行を強調しているものの、実質的な廃刊であろう。雑誌の最後は、そういったポジティブな話とことさらに強調するものだ。私自身、関わっていた雑誌の休刊で退職しているので気持ちはわかる。ブロスは、2年前にそれまでの隔月刊から月刊へリニューアルを果たした。テレビ番組表を廃止して、エンタメ記事を強化するとあって、定期購読はしていたが、そのエンタメページはすべて飛ばしていた。世の中にエンタメマニアみたいな人はいるにはいるんだろうが、アイドルも、イケメンもラジオも映画も音楽も全部好きなんて人はいるのだろうか。マスコミ志望の「私は何にでも興味あります」とふるまうことに長けた学生のポーズならばともかく、数十年にわたってエンタメの陽の部分をすべて追っている人間などいないのではないか。むしろ負の側面に殊更興味を示す『噂の真相』脳みたいな人間はいるだろうが、総合エンタメ誌、しかも『Quick Japan』(太田出版)よりもセレクトショップ度が薄いとなれば、誰も興味を示さないだろう。ブロスは定期購読の案内が先日届いたばかりで、海外へ行っておりその通知を受け取ったのが、締切の1日前で、これも何かの縁だと思い、もう1年付き合ってみようかと8000円強を振り込んだばかりだった。ブロスの定期購読はここ10年くらい行っており、当初は隔週刊と送料無料で4500円だった。出版社が上乗せする特別定価ではなく、定価180円である時期まで計算されていたので、かなりお得な精度だとも思っていた。この雑誌との関係は長い。私がはじめてブロスを買ったのは、高校受験の帰りだった。ある事情で、自分のレベルより低い私立高校を単願で受験した。合格は確実であり、懸念は得点率が70%ならば、公立校と同じ学費で通える準特待生を取れるかだった。80%以上を取れば全額免除の特待生である。数学が多少しくじった思いはあったが、取れたように思える。数学の試験を一番後ろの席だった私は回収していったが、どの受験生も応用問題が並ぶ、大問の4や5は白紙だった。結果は、準特待生にもなれなかった。入学してから周囲の人間と同じ話になったが、得点開示はなされないので、実際はいくつ取っていたかわからない。皆、実感としては7割は越えていたと話していたが、どうでもいい。この学校は駅から2キロくらい離れた場所にあり、受験生にはスクールバスが出ていたが、ものすごい行列だったので、歩いて戻ることにした。試験が終わった開放感はある。郊外の書店へ入ったところ目に止まったのがテレビブロスで、170円を出して買ったのだ。この雑誌の名前は、中学3年生の夏前に買ったお笑い芸人のカタログ本で、爆笑問題がコラムを持っている雑誌として知っていた。そういう雑誌があると名前だけを知り、現物を目の当たりにしたのだ。近くには、同じ学校を受験したと思しき、ヤンキーがエロ本を読んでおり、思い切り睨まれた。こんな人間と3年間をともにするかと思うと絶望的な気分になった。高い志望をして不合格ならば、それは自分が至らなかったと思い至れるだろう。いろんな事情があって、あえて自分のレベル以下の高校を受験し、入学前から、関わりたくない人間に睨まれるなど、それは西村賢太ではなくとも、根がセンチメントに出来ている人間にとっては耐え難い苦痛だろう。その当該号ではないのだが、爆笑問題のコラム「天下御免の向こう見ず」に「受験」という回があった。太田も受験勉強をまったくせず「落ちたら落ちたで別にいいや」と思っていたようだ。この楽観性にはずいぶんと救われた。私の高校時代のものの見方は、ほとんど太田光のコラムに依っていたと言えるだろう。私は早生まれなので、ブロスを初めて買ったときは15歳の誕生日を迎えたばかりだった。あと1ヶ月でも早く買っていれば14歳からブロスを読んでいると自称できたことになろう。この1歳へのこだわりは些末なものだが、翌年に酒鬼薔薇聖斗の事件が起こり「キレる14歳」がフィーチャーされる。この1年の、運命的なズレはほかにもあり、私の大学卒業年は、就職率が戦後最低となった年の翌年である。ロスジェネど真ん中ではなく、少しずれて、自己責任、ネットもあるから、自分で何とかなるかも希望時期となる。私の通っていた高校は自宅からローカル線を1時間乗った場所にあった。水曜日の放課後にブロスを買い、ゆっくりと読んでいくとちょうど1時間だった。活字を読む行為に慣れていなかったので、ブロスは訓練になった。同じく「こち亀」くらいしか読んでいない私が、文字の本を読もうとして、まず手にとったのがブロスOBとも言える泉麻人だった。やはりもっとも思い入れのある雑誌は『TVBros』となる。
『TVBros/テレビブロス』(東京ニュース通信社)の紙版最終号、2020年6月号を読み終えた。連載第一回を収録した別冊付録もある豪華なもので、定価は史上最高の990円を記録した。20年以上経って、やっとこさ気づいたのだが、この雑誌名は末尾に「.」ドットがついていた。この雑誌は「note」へ移行するため「終わりませんよ」アピールが激しいのだが、自社のウェブサイトを立ち上げる余力がない時点で、もう終わりでも良いのではないかと思う。雑誌には歴代連載陣一覧があり、故人なのはアボンヌ安田、忌野清志郎、川勝正幸、ナンシー関、ねこぢるくらいだろう。いずれも不幸にも、病死や事故死などを遂げた人たちで、これだけ執筆者がいながら、故人が少ないのは、それだけ執筆者が「若い」雑誌だったのではないだろうか。各年ごとの主要表紙もあって、私が高校受験の帰りに初めて買った号は1997年2月8日号だ。私が買った号は定価170円で、前後の号は特別定価の200円だった。これ、200円ならば買っていただろうかと考えた。たかが30円でも、中学三年生には大きい。目当ての爆笑問題の連載だけを立ち読みで済ます、といった習慣づけが出来てしまえば、私はサブカルチャーの密林に踏み入ることはなかっただろう。当時は金を出して買っているのだからと、隅々まで読んでいた。同じく隔月刊の『Quick Japan』(太田出版)も、わからなくとも文字列だけは必至に追っていたが、そういう作業が血肉となることもある。こういうきっかけは偶然でしかない。私は、新卒時に「ブロス」編集部志望で、東京ニュース通信社も受けている。説明会が5人くらいずつの予約制で、質疑応答に重点が置かれたイヤーな感じだったのを覚えている。会社はあくまでも組織なので、いざ入れたとしても「ブロス」に配属されるとは限らない。これは出版社でもテレビ局でも、まあマスコミ全般に言えることだろう。どうしても「ブロス」に関わりたいならば、おぐらりゅうじのように履歴書と企画書を一方的に送りつけるといった手段もあったはずで、それを試さない時点でダメなのだろう。おぐらとともに、ある時期から注目していた同誌の編集者、前田隆弘による「<特集>の特集」もすごく良かった。前田が巻頭言で、「ブロス」の特集は好き勝手にできる場だった。それを支えるのが「ブロス」の存在意義として、2週間のテレビ番組表を安く提供するのが第一にある。さらに「豪華なオマケ」として、サブカルチャー系文化人による安定の連載コラムがある。歴代連載陣の中には石丸元章や鶴見済の名前もあった。さらに、スキップカウズのイマヤスが、今泉泰幸と本名でクレジットされており、これは補足がいるだろうとも思った。2つの安定コンテンツに支えられているので、特集のプレッシャーはない。「外す」ことが許される、ゆえにフルスイングができる場だったのだ。このフロンティアは魅力的であるとともに編集者の力章も如実に試されるだろう。前田の手がけた特集では歴代の編集者が思い出の特集をセレクトしているが、「ほかの編集部や雑誌やそうではない」という断り書きが付いている。私は雑誌編集者をしていたので、現場の実体験んとして「その通り」と同意する部分はある。この号ではないのだけれども、中川淳一郎が「『テレビブロス』の編集者は、業界では一番楽しい仕事だと思う」と振り返っており、博報堂出身でめんどうくさい広告案件を無数にこなしてきた彼の感慨は正しいように思う。私は「ブロス」が好きで、東京ニュース通信社を受けて落ちた。新幹線が好きだからJR東海くらいの浅はかな理由だ。その後ライターとしてこの雑誌に関わるといったこともなかった。五年前に前田が、個人的に新たなコラムの書き手を募集していた時に、当時ハマっていた突発OFFに関する話を送ったが特に返信はなかった。「ぴぴぴくらぶ」にも数年に一度思い立った時に送っていたが掲載されることはなかった。ハガキ職人をしていた高校時代に送った「似て蝶」が、番組表脇の「はみだしピピピ」に一度載っただけで、テレフォンカードが送られてきた。「ブロス」は初期衝動の雑誌だったのかと思う。この雑誌の最終号を眺めていて蘇ってくるのは、大学時代に作っていたコピー用紙をホチキス綴じしたミニコミの記憶だった。「ブロス」を毎号買っていたのは大学の生協で、安い雑誌がさらに1割引になる。毎号買っており顔を覚えられたのか「これ持っていって」と販促用のクリアファイルを大量にもらった。水曜日の午後に搬入され3限の「法学基礎研究」の時間に読んでいた。同じ授業を取っていた奴で、同じくブロスを机の下に入れて読んでいる奴がおり、話しかければ良い友人になれたかもしれないが「あえてのディスタンス」を選ぶのも、ブロス読者らしいふるまいであったように思う。
宅八郎が8月に57歳で脳出血で亡くなっていたと知る。死去の報道を受け、彼の著作『イカす!おたく天国』(1991年・太田出版)『処刑宣告』(96年・同)『教科書が教えない小林よしのり』(97年・ロフトブックス)が高騰しているが、すべて手元にあった。さらに『週刊SPA!』(扶桑社)のツルシカズヒコ編集長が記し、宅への言及もある『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(05年・朝日新聞出版)もある。されど、私は宅八郎の熱心な読者であったわけではない。むしろ小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』の熱心な読者であったので、よしりんにしつこくまとわりつく極悪人といった印象は当初はあった(評価軸がどのように変わろうとも、切通理作への攻撃はテロだろう)。ただ確認しておかなければいけないのは、小林と宅は最初から揉めていたわけではない。初期「ゴー宣」で小林は宅に「変な奴だが面白いところもある」と一定の評価を加えている。これは世間の大部分の人が宅に抱いていた印象ではないだろうか。とんねるずやビートたけしのバラエティ番組に出てくる変な人として宅八郎を知った。「お笑いウルトラクイズ」にも出ていたので、軍団ではないがたけしが目をかけていた松村邦洋や出川哲郎、ダチョウ倶楽部あたりに連なる存在のように思っていたが、番組内でたけしは「宅さん」と呼んでおり、見なし芸人ではなくバラエティ番組もこなす文化人、マルチタレントだったと知る。さらに宅のテレビ出演は、北朝鮮やオウム真理教に興味を持っていた、テリー伊藤の影響も大きそうだ。それは単なるオタク風な見た目(これはテリーの演出という話もある)ではなく、あえてイタイ奴を擬態する宅の批評性をテリーは面白がったのではないだろうか。さきほど私は宅の熱心な読者ではないと記した。それでも「週刊! 宅八郎」はすべてコピーで持っているし、もっとも読み込んだ本は『教科書が教えない小林よしのり』だった。この本はロフトプラスワンで行われたイベントの議事録がメインコンテンツだ。この議論が行われたのは歌舞伎町ではなく、新宿の外れの富久町にあった時代だ。メジャーバンドの幻のインディーズ作品のように、富久町のロフトには憧憬がある。そうした志向があるゆえ、当然ながら大学に入り「ゴー宣」から距離を取るようになり、『噂の真相』へ興味が傾き、小林が嫌悪した「価値相対化」へと埋もれるようになる。さらに、のちに雑誌編集者になるので「教科書〜」で、頻出する編集権や反論権といった言葉を仕事を通じて体験するようになる。もちろん大学のジャーナリズム論で開陳されるような原理原則など、そこにはなく「売れてる奴、力がある奴、声がデカイ奴が勝つ」世界であって、小林の主張はわからなくもない。ある物書きの人は「宅八郎は警察だ」と言っていた。この評価を私なりに意訳すれば、制限速度50キロの道路があったとする。大体の車はルールを守らず60キロくらいで走っている。世の中はそういう風に動いている。それでも、宅は52キロで走っている車を無理やり止めて「お前は制限速度を2キロオーバーしている。ルール違反を認めろ」と言い続ける人だ。車の流れを無理やり止める方が、往来を妨害して危険ながら、宅はそれを許さない。外山恒一が、95年のオウム騒動時に、信者たちが微罪で次々と逮捕されていく時、異議を唱えたのが宅だけだったと評価していた(何よりコロナ禍で自粛が進み、主権制限が取りざたされる今、はっきりと反対姿勢を示したのが小林よしのり、浅羽通明、外山恒一の3者だったのは興味深い)。原理原則へ拘泥する宅は当然ながら「社会」と揉める。「社会」の先鋒にいるのが編集者だ。普通なら(という言葉自体を宅はもっとも嫌うだろう)折り合いを付けていくものだが、宅はそれができない。宅の仕事で興味深いのは、00年代後半に岩尾悟志周辺での活躍だろう。『日本列島ウラ情報』なるDVDムック(申し訳程度にエロ記事があるだけで、足立正生インタビューなど、政治とサブカル、ロフトプラスワン濃度が濃い)では、長野県知事になった田中康夫に執着する動画も収録されていた。あと何の雑誌だったが、アダルトDVDのレビュー(キャプチャ画像は見たとしても文字など誰も読まないだろう)の先割を埋めていく作業の様子も記していた。最近でも素性を伏せて書く仕事はしていたのではという弟氏の証言もある。原稿に徹底してこだわる宅は、無記名原稿にどのように向き合っていたのか。さらに『イカす!おたく天国』を読み返していたら、法政大学の社会学部へ通っていた宅は、多摩移転にかかっておらず、市ヶ谷の校舎で学び、漫研に所属し、学生会館にも出入りしていたと知る。上田高史=橘玲や、香山リカ、大塚英志に並ぶ、宅八郎の80年代論も読んでみたいと、ふと思った。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観た。東京でなく神戸の劇場だ。当然のごとくネタバレが記されているが、この廃墟ではどうでもよいだろう。もともと18きっぷを使い京都、大阪をめぐる予定だったが、北九州の小倉の外山恒一展まで足を伸ばすことにした。今、山陽本線を西へ向けて移動している。このあと岡山の万歩書店に立ち寄り、本来ならば尾道まで移動し、深夜営業の古書店20dbへ寄ろうと思っていたが、今日に限って仕入れのために休み。私は定休日を呼び寄せる。関西三府県は、緊急事態宣言が解除されたとはいえ、飲食店に関しては21時までの独自の要請があり、夜は真っ暗となる。首都圏から逃れるように旅に出たのは、背徳感もあったが、どこも同じようなものだ。京都から神戸まで阪急電車の優待券を使い390円で移動し、宿に先に荷物を預け、元町の古書店をめぐっているうち、すぐに上映時間が迫ってきた。チェックインを済ませ上映前にシャワーを浴びると、備え付けのアメニティにカミソリ負けし、鼻の下から血が流れる。白いタオルへの鮮血で気づいた。私は普段は、海外旅行には自前のカミソリを持参しているのが、今回に限ってそれはなく、血のモチーフはなんだかエヴァっぽいなと思った。上映前にパンフレットを買おうとすると、クレジットカードのレシートが切れ、今まさに交換するところで、思わず嘆息を出してしまい、現金決済に切り替えてもらう。2時間半を超える上映を前にトイレを済ませ、指定した座席に入る。前方から後方を見上げると人でびっちりだ。私の隣に開いていた2つにも、間もなく食い物と飲み物プレートを持った男の2人組がやってきた。映画を観ながらものを食う行為はあまりしたことがない。小学生のころ、妹とアニメ映画を見に行って、カールを買ったことくらいか。京都で88円安売りされていたカールのチーズ味が半分残っていたので、映画を観る前に宿で食べた。「シン・エヴァ」は、止まっていた時計が動き出す、己の過去の記憶も喚起させる作りだ。エヴァの呪縛により14年後にも、アスカは変わらない。されど、友人のトウジとケンスケは生きており歳を重ねている。ネット上では「昭和パート」と呼ばれているシーンは、監督の精神の摩耗具合が伺える。何より、表現において人は、同じモチーフから逃れなれないのだと痛感する。監督の故郷である呉の風景がひたすら出てくる。これは、まるで『式日』ではないか。私の故郷の近くにも、煙突が並ぶ臨海工業地帯の風景がある。日本の近代化と、衰退の象徴の場だ。さらに、トウジとケンスケたちが暮らすユートピア的なトポスは、村上龍が『5分後の世界』で作り上げた地下都市国家「アンダーグラウンド」の、庵野秀明なりの解釈、アップデートでもある。無条件降伏を受け入れず、ゲリラ戦を繰り返した日本は、人口が28万人まで減少し、地下空間で暮らしている。不便はあるものの、人民たちは高い倫理性を持って暮らしている。昭和パートの村そのものではないか。この村は鉄道廃墟を援用し存在する。本来の映画公開のタイミングに合わせて、『エヴァンゲリオンと鉄道』なるムック本が出ており、内容はスカスカな編プロクオリティのそれなのだが、これは前振りであり示唆であったのだ。昭和パートが終わると、まあいつもの展開が続く。「恋する惑星」のフェイ・ウォンシーンのように、昭和パートを何度も見返していくようにも思える。私にとってのエヴァンゲリオン体験は一気見だった。妹が先にハマっており、深夜の一挙放映を録画していた。それをある夜にまとめて観たら面白かったのだ。竹熊健太郎も、これまでアニメをほとんど観たことがなかった『Quick Japan』(太田出版)の編集長だった赤田祐一を強引に誘い、強制的に見せ、あの熱を帯びたエヴァ特集が生まれる。雑誌のアシスタントを務めていた近藤正高が、広末涼子に綾波レイのコスプレをさせてはと提案し、大塚幸代が動くも、事務所にはまるで相手にされなかった。アニメファンというか、オタクは虐げられた存在だったのが、90年代末の風景だ。映画を見終わり、古本屋めぐりで海を見ていなかったと旧居留地を抜けて波止場まで行くが、無人の荒野が広がる。私は、大学生だった2001年に神戸まで原付バイクで行った。神戸連続児童殺傷事件、酒鬼薔薇聖斗の現場を見に行こうと思ったのだ。ニュータウンの適当な場で野宿のち、バイクが動かなくなったので、ホンダだったがカワサキの店で見てもらう。兄ちゃんにいろいろと直してもらい、「九州なんかいったらあかんで」と、おじさんに言われたので、そのまま戻ってきた。20年を経て、私は九州へ向かう。図書館で何度も貸出延長を繰り返した分厚い本を読了できるのは良い機会となった。この旅は夢の続きのようでもある。読むものが多すぎてまだパンフを手に取れていない。
タナカさんコメントありがとうございます。まさかの「U-turnのオールナイトニッポン」(木曜二部)リスナーに会えるとは。「シン・エヴァ」同様に20年クラスの懐かしさを感じております。この番組、土田のアニキの相方が引退して一般人となってしまったので、なかなか語られることもないので、嬉しいです。
吉永嘉明が『実話GON!ナックルズ』(ミリオン出版)に2006年から2008年にかけて連載した「自殺されちゃった僕たち」を通して読む。時系列で言えば2004年11月に飛鳥新社から出た『自殺されちゃった僕』の単行本版の刊行後であり、同書が2008年10月に幻冬舎文庫に入るまでの間だ。実はこの2つの版には、一部で大幅な書き換えがあり、思考の変遷を伺い知れるのが「自殺されちゃった僕たち」だと言える。ただ、通して読んだ印象としては、とにかく生真面目で退屈な印象を受ける。妻や友人に自殺されてしまった事情はあるにせよ、吉永の文体がとにかくカタく、校長先生の訓話か、新聞の社説のようなのだ。道徳的とでも言おうか。さらに自殺と密接な関連のあるいじめ問題に関しても「僕はいじめられたことも、いじめたことも、いじめを目撃したこともない」とサラリと言ってしまう。そんなはずはなく、おそらく彼が鈍感であり、ぶっ飛んでいるためではないかと思う。高校は自由な校風の都立高へ行っていたと連載では記されていた。北園高校出身の津田大介が、お互いの個性を適度に尊重し合う高校ではいじめが起こり得なかったとドキュメンタリーで証言していたが、そうなのだろう。吉永は都立高校である記述を見るまで地方出身者だと思っていた。実は吉永さんとは一度会ったことがあり、どういった学生生活を送っていたのかと訊ねたら、ずっと名画座にいたと話していたのが印象に残っており、地方から出てきた文学、映画青年の姿を重ねていたためだろう。吉永さんと話せた場は、吉祥寺のサブカル古書店のバサラブックスが主催したトークショーであり、本人が現れないグダグダな展開となってしまった。文庫本の女性担当編集者も来ており、一度頓挫している話もしていた。出版業界では常識らしいのだが、単行本の飛鳥新社と、文庫本の幻冬舎の社長は「犬猿の仲」である事情もあったようだ。私は質疑応答で赤田祐一さんの編集者像について訊ねると、吉永さんは「赤田さんは毎日会いに来てくれる。来られない場合でも電話やFAXをくれる」と話していた。発注だけして、締切前日にご機嫌うかがいの連絡を入れるだけの、ありがちな編集者となっていた私は、その話にいたく感銘を受けた記憶がある。吉祥寺の公民館で行われた講演会の打ち上げは、西荻窪のハンサム食堂で行われた。吉永さんは来るか来ないかわからなかったのだが、大量の荷物を抱えて現れた。宝島社の話などをもろもろ訊ねると、ゴシップ話も聞かせてくれた。このトークショーが行われたのは2009年1月なので、12年前になる。そこから吉永さんはどこへ行ったのだろうか。かろうじての消息が1年に1度出る文芸同人誌の『ウィッチンケア』だった。彼はここに、ほぼほぼ実体験だろうと思われる小説を寄稿していた。2014年の第5号に載った「ポケットの中には」では、ギャル雑誌のライターで糊口を凌ぐ私が、取材で知り合った女子高からが、友達がドラッグをキメて死んじゃう泣きつかれ、応急手当をしに向かう場面が出てくる。少なくとも彼は震災後までは、出版業界の片隅にいたのではないかと思わせる。「自殺されちゃった僕たち」では、府中の外人ハウスに入るも、あまりのパリピ、リア充ノリについていけず半年で出たと記さている。その後、恋人にも出会ったようだが、14年の小説では別れたとある。吉永嘉明は今どこで何をしているのか。何より生きているのか。これが最大の問いかけだ。連載では複雑な関係の父親は2007年に78歳で亡くなっている。夫婦の間に極端な年齢差がなければ、母親も今は90歳前後ではないだろうか。ツイッターでは、吉永さんが精神病院に入ったなる断片情報があったが、検索したらその書き込みは消えていた。元雑誌編集者だった私の感覚からすれば、元同僚や関係者の消息は、風の噂程度には入ってくるものだ。実際に吉永さんの消息を探し回った人もいるようだが、一切掴めなかったという。この名前はペンネームであり、本名はほぼ誰も知らない。実家とも疎遠で、父親もすでに亡くなっているとあれば、彼はどこにいるのか。もう死んでいると考える声もある。だが、出版業界の風の噂を重ねるならば、忽然と失踪してどこかで生きながらえている人もいないことはないのだ。私はつまらない大学生活を送っていた時に、自主法政祭に足を運び、モーニング娘。とボアダムズが好きというマニアックな彼と話をした。「『スーパーアー』は絶対聴いた方がいい」と言われ、新宿のツタヤで借りて旋律した。この話をツイッターに書いたところ、彼はすでにこの世にいないと知られていた。市ヶ谷の夜から、彼の死をネットを通じて知るまで約10年強はあっただろうか。その間、私の中で彼はずっと生きていた。この場所でもひっそりと呼びかけよう。吉永嘉明さんの消息をご存知の方おりませんか。
吉永さん、消息不明だったとは。しりませんでした。
>>[843]
wikiにもありますが、元担当編集者が自宅を訊ねるもすでにそこにおらず、あらゆる関係者に連絡をとっても誰も知らない状態だそうです。もともとネットをやらない(やれない?)タイプの人ですが、ここまで音沙汰がないのは気になります。
『映画:フィッシュマンズ』を完成披露試写会で眺めてきた。映画製作のクラウドファウンディングに参加するのは初の試みだが大満足の内容だった。以前、フィッシュマンズのライブDVDを完全受注生産で申し込んだが、直前になって「少しでもいいものを作りたいから猶予をいただきます」とメールが来て、届いた商品はTシャツは白色で、ファンクラブ会報も誤字脱字だらけだった。白色のシャツは、は好みの問題なのだろうが汚れが付くので私は好まない。さきほどメルカリを調べたら大量に出品されていた。言っている内容と結果が釣り合っておらず、要は締切に間に合わなかっただけなのに「少しでもいいものを」みたいなきれいごとの言い訳をするなと思った記憶がある。この体験があるので、今回の映画に不安要素がないわけでもなかった。単なるファンムービーならば必要ないと思っていた。川村ケンスケによる『HE LONG SEASON REVUE』は、当事者と仕事としていたこともあって、フィッシュマンズ全集補遺といった内容だった。この映画、私が実質的な無職生活を終える最後の週末に見に行った。下高井戸のミニシアターに、開場を前に次々と人が来て、そのあとは新宿へ移動して突発オフで飲んだ。『映画:フィッシュマンズ』は、まず音が良い。VHSのデジタル化で、ここまで音をクリアにできるものかと驚く。ツイッターの書き込みなどを見ると、初号試写でも音の弱さが指摘され、最後にZAKが入ったようだ。映画にマジックがかけられたのだと思う。『映画:フィッシュマンズ』は彼らが出会った明治学院大学のサークル部室から風景が始まる。HAKASEを除いて、全員が大学で知り合ったメンツだ。このゆるさがフィッシュマンズの根底にはある。ただ、佐藤伸治は音楽には妥協しない。鹿野淳が「あの人は自分が笑われるのは良いが、音楽が笑われるのは許さなかった」と回想していたが、まさにその通りだ。佐藤の中にやりたい音楽が明確にあり、ほかのメンバーも、当然そこに同調してくれるものだと思っている。ただ、佐藤の要求はとてつもなく高く、なおかつ、それを明確に言葉で伝ええようとしない。ゆえにメンバー脱退を招く。最初に脱退したギタリストの小嶋謙介は、『ロングシーズン』に自分の居場所はないと考えていたという。さらに、もうひとりのフィッシュマンズというべきエンジニアのZAKでさえ、途中でスタッフを降りている。彼が戻ってくるのは佐藤の死後からだ。今回の映画では佐藤の母親が多く出ているのも良い。父親は数年前に亡くなっており、佐藤の家族とフィッシュマンズを繋ぐ役割は父が担っていたとも聞く。家にはいまだに佐藤の写真が飾られている。母親が言うには佐藤は、本が好きだったので「国立図書館」への就職を考えていたという。これは国会図書館だろうか。佐藤の本棚に村上龍の『海の向こうで戦争が始まる』があり、これを亡くなった加藤典洋が高く評価していたのだけれども、この作品は『限りなく透明に近いブルー』と『コインロッカーベイビーズ』の間に位置するものであり、割合手に入りやすいものであったように思う。私もタイトルに惹かれて高校時代に古本屋で100円で買った記憶がある。この手の表現者の些末な好みを針小棒大に語る振る舞いはどうにも苦手だ。宇多田ヒカルが中上健次と家永三郎が好きなる話があって。どちらもブログでちょろっと言及しただけで、前者は本棚(藤圭子が中上どころか、小説を読むとは思えないから父親の蔵書だろう)に『異族』があり、後者は彼女が通っていたインターナショナルスクールで1コマだけ日本語の授業があって、そこで家永の本が使われていただけの話だ。それでも佐藤は、本が好きで、言葉へのこだわりも強く持っていた。デビューアルバムに「レゲエの魂がない」と書かれたことを川崎大助にずっと愚痴っていたという。音楽ライターの書き飛ばしや妄想の投影のような文章にも佐藤は触れており、それが彼を苛立たせていたのだ。鼓舞されるようなことはなかったのだろう。こうした、関西弁いうところの「いらんこと」はのちにネットにも溢れるようになる。1998年に亡くなった漫画家のねこぢるは、あまりにも仕事が忙しかったため、パソコンは買ったはいいが、箱を開けないままだったという。ネットはもちろん、お絵かきソフトも使っていない。彼女がネットを通じて「ファンと交流」をしていれば、悲惨なコミュニケーション地獄に陥っていたのは容易に想像が付く。佐藤はパソコンは使っていたが、ネットはやっていたのだろうか。このあたりも気にかかる。『映画:フィッシュマンズ』は紛れもない傑作だとは思うが、上映時間も長過ぎるし、多分コケるだろう。佐藤は生前「売れたいが下北沢の路上に座れなくなるのはイヤだ」と言っていたそうだが、それくらいの塩梅で聴き継がれる方が良い。
青山正明の命日が6月17日であり、1日遅れで「赤いきつね」のビッグバージョンを食した。青山が縊死の直前にも食していていたほどの長年の好物だと吉永嘉明の『自殺されちゃった僕』で読んだためだ。ある人と、何を食べたかの話になって、偶然に青山の名前が出た。正しくは「『赤いきつね』を食べて死んだサブカルチャー系の人がいる」といった話で、『危ない1号』に興味があるというので、手元に数セット用意してある1号から4号に『鬼畜ナイト』を加えた全5冊を進呈した。青山の命日の2日後には太宰治の桜桃忌がある。青山の場合は鬼畜忌となろうかと思うが、むしろ当人はそのキャラクター付けを嫌っていたと聞く。鬼畜の名は7月23日に刺殺された村崎百郎ことふさわしいかもしれない。この文章を書いているのは池袋の外れの公園であり、村崎の事件現場までは直線距離で4.5キロほどになる。コロナ禍で、すべての店が21時で閉まる今、池袋のジュンク堂本店だけは堂々と22時までやっているので、最後に立ち寄るスポットとして重宝する。混雑した池袋駅方面ではなく東池袋へ足を進める。雑司ヶ谷霊園そばの静かな場所だ。この街の名前を有名にしたのは樋口毅宏の『さらば雑司ヶ谷』だろうが、私はその前から馴染みがある。やたらと拘束時間の長い雑誌編集者時代に夜家に戻りクーロン黒沢の『ロンパオ:風雲カンボジア日記』を読み進めるのが密かな楽しみだった時期がある。黒沢が住まう街が雑司ヶ谷なのだ。池袋のHISに格安ケットを閉店ギリギリに買いに行くためタクシーを使う描写などあった。黒沢は、人生においてネガティブな経験もしたのか、池袋から海外へと足を向ける。最初は香港、バンコクあたりをうろつくも、最終的にはカンボジアのプノンペンへ落ち着く。香港にはイギリスから中国の返還直前にも滞在している。現在は廃止されてしまったフィリピンマニラ経由のパキスタン航空の描写も読ませる。徳間書店の電脳コラム集が香港、バンコク、プノンペンと続くのはその象徴だ(ただし最終巻は、モデルが明らかにわかるフィクション小説の体裁が取られている)。池袋のそばにありながら、驚くほどの静寂のある街が雑司ヶ谷だ。樋口毅宏に会ったことはないが、彼の叔父と叔母が経営するアットホームな居酒屋へは何度か行った。あとは『BURST』編集長だったピスケンさんもいまだ雑司ヶ谷在住だ。石丸元章の旧宅も何度も前を通った。青山正明の思い出といえば、30歳の時に、とある大学の掲示板で「青山に影響を受けまくったミニコミを作りたい」募集がかけられていた。その大学の関係者でも無いのだが偶然目にしたのでメールアドレスを張ると、数ヶ月して連絡が来た。ちょうど6月か7月の土曜日の夜だったと思う。何往復かして話も盛り上がり、もうこれから会うかくらいのテンションになったのだが年齢を訊かれて、30歳と答えたら沈黙された。青山正明の影響は受けまくっているが、おっさんは勘弁なのだろう。私は大学時代は青山の名前は知っていたが『危ない1号』は幻に近い雑誌だった。ある時、ブックオフの100円棚で見つけて、あとで買おうと翌日行ったら、そこだけきれいにスペースが無くなっていた。なぜ買わなかったのかは惜しまれるが、その後4巻揃いを別のブックオフの100円棚で見つける。2000年代はじめのブックオフは宝の山だった。当時のブックオフは1年前の新古本は半額、5年前の古本は100円で並ぶ。ちょうど90年代末のサブカルチャーバブルの雑誌や書籍がほぼ100円で変えた。象徴的なサイズが『別冊宝島』や『Quick Japan』に代表されるA5判ムックだろう。オウム真理教の機関誌『VAJRAYANA SACCA(ヴァジラヤーナ・サッチャ)』も、このサイズを採用しており、ほかの雑誌とともにしれっと並んでいた。ブックオフは同じような雑誌が大量に並ぶ場合があり、金鉱脈と呼んでいた。『GON!』もそうした雑誌の一つで、サークルの予算が降りたあと、自転車を15キロくらい走らせてブックオフに7冊の『GON!』を買いに行った。その雑誌をいまだ通読していないのだから、まとまって読めるのはいつになるのだろうか。ゴールデンウイークにまとまった時間が取れたので手元にあった『Jam』『HEAVEN』のデータ原稿をざっと読んだのだけれども、幻や伝説が先走りする割には、平凡な内容だった。その時代の状況から見ればニューウェーブ音楽の情報などは貴重なのだろうが、今からすればジャンクの集積でしかない。この本が中古ではものすごい価格で取引され、なぜだか山崎春美が権利管理者のようになっているのはどうなのかと、あるマニアと話した時に疑問に出た。ある時期の編集長だった高杉弾(佐内順一郎)の強い影響を受けたのが青山正明と山田花子だったと言う。固有名詞の繋がりは面白い。
コーネリアス、小山田圭吾が炎上している。東京オリンピックとパラリンピックの開会式と閉会式の楽曲を担当し、過去のいじめインタビューが蒸し返されている。これまでにも『ロッキング・オン・ジャパン』(ロッキング・オン)と『クイック・ジャパン』(太田出版)の記事がインターネットで書き起こしがなされ、定期的に炎上してきた。雑誌の発言が元になっているため「切り取り」ではない。この話は、少しサブカルチャー系のトピックに詳しい人であれば周知の事実であったのに、まるで初めて明らかになったかのように炎上している。国立近代美術館に一定期間展示されていたチンポムの「気合い100連発」が時間差で炎上したのと同じ流れだろうか。90年代にアリだったものが、20年強を経てナシになっている。さらに事後的な謝罪や釈明も要求される。現在地が奪われかねないキャンセルカルチャーも生じている。手元にあった『クイック・ジャパン』の記事を読み返す。当初は小山田がいじめていた知的障害の人物を、卒業者名簿から探し当て対談を申し込むと断られ、単独インタビューになっている。名簿まで漁るなんて非道いと思うが、マスコミはそれくらいのことは平気でする。この記事のキーとなっているのは小山田が通っていた和光学園で、中学校でも障害児を普通のクラスに混ぜる。これが何か良い効果をもたらしたのかと言えば疑問符が付くようで、ツイッター上では当事者の証言として、障害児はいじめやネグレクトの対象になっていた、教師の力が弱く、何も出来ていなかったと。これが自由の隘路でもあるのだろう。岡崎京子の「リバーズ・エッジ」が映画化された時、ロケ地が和光学園で「うおお」と思ったものだが、ネットでは思ったより話題になっていなかった。こうした学校のブランド力というか個性みたいなものは、もはやどうでもいい時代になっているのかもしれない。このコミュニティのタイトルは「90年代サブカルチャーの総括」と言い、吉永嘉明の『自殺されちゃった僕』(飛鳥新社)に端を発している。ここいらで、あの時代を考えて見ようと思い立ったのが2006年なのだが、そこから15年が経ち、はるかに公共性が要求されるレベルで「総括」が始まっている。己に猛省を求めるネットリンチ的様態は、自分で自分を殴らせた連合赤軍フィーリング全開だ。過剰に道徳的な姿は学級委員会のようでもある。ツイッターランドの正義には付いていけない。総括の範囲は個別の事象から、あの時代全体へと拡散されている。『BURST』(コアマガジン)や『GON!』(ミリオン出版)も、鬼畜系サブカルチャー雑誌としてやり玉に挙げられている。これらの雑誌のバックナンバーも大量にあるが、いまだ読み切れていない。このあたりの総括についてはロマン優光『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)に詳しい。ロマンの言う、人の絶対数が多いので、剰余として、露悪的なもので金を得る場があったといった分析は正しいように思う。今年はフリッパーズ・ギター『ヘッド博士の世界塔』のリリースから30年にあたるようだ。この作品はサンプリングを多様しすぎて、リマスターを行った場合は膨大な権利金がかかるので、出来ないらしいと曰くが付く。そこから小沢健二と小山田圭吾に分裂し、当然情緒や文学性を帯びた(しかしチープな表現だ)小沢の方が好きだったのだが、ある時から小山田の音楽も好きになった。おもちゃ箱をひっくり返したような『FANTASMA』は名作だと思う。さらにオーストラリアのアヴァランチーズの大名作『Since I Left You 』は、明らかに『FANTASMA』以降の音で、コーネリアス的なものが海を越え影響を与えた事実は喜ばしい。もう一つコーネリアスと鬼畜と言えば、古谷実の『行け! 稲中卓球部』にも小山田がモデルのキャラクターがおり、作者と対談もしている。古谷の漫画にも小山田の音楽にもニヒリスティック、退廃的な空気が漂う。それが90年代の空気でもあったし、居心地も良かった。ミュージシャンが覚せい剤で逮捕された時「あいつは天才なんだから許してやれ」的な擁護がある。小山田にその文法は当てはまらないが、一方的な糾弾には加われない。あの記事は読み物としては面白いし、大学の部室に現れた中学浪人を経験した秋田県出身の女性も絶賛していたし、突発OFFで出会った美大大学院生の女性にも雑誌を渡したら「面白すぎます」と感想をもらった。ある時期、院生の彼女には会うたびにブックオフの100円棚でサブカルチャー書籍を買って渡して行ったのだがそのうちの一冊に『完全自殺マニュアル』があり、それが本棚に並ぶのを母親が心配したとも聞いた。すべてとはいわないがほとんどがネタでありノリであったのだけれども、それがマジになってしまうのは超現実の時代に突入してしまった感慨がある。
青山真治が亡くなった。体のあちこちにガタが来たヘロヘロなイメージがあったので、細く長く生きていくのかなとは思っていた。ウェブ日記で胃瘻を付けたとあって、そこまで悪いのかなと思ったが、回復を前提とする一時的なもののように感じていた。文体にも熱意が溢れていた。ラッパーのECDや、あるいは昨年亡くなった京都大学の大学院生もそうなのだが、病気で亡くなる人は直前までSNSを更新する。病室でやることと言えば、スマホいじりくらいのものだろう。それまでの闘病ブログならば、更新頻度が、分量が減り、しばらく開いたのちに近親者による報告の流れが定石化していたが、最近の亡くなり方は異なるように思える。青山真治の名を知ったのは中学校の時に購入したCD-ROMマガジンだった。AVのサンプルが入っていながら、あくまでネット情報誌なのでエロ本として買ったはずだが、そこに「Helpless/ヘルプレス」の予告編も入っていたのだ。雑誌を作る側からすれば広告の塊なのだが、中学生の小遣いで買ったので、隅から隅までコンテンツを消費した。岩井俊二が好きだったので浅野忠信の名前はかろうじて知っていたかくらいだろうか。高校生になりレンタルビデオの会員証を作ってほぼ最初に借りたのが『Helpless』で、よくわからなかったが、ダビングはした。青山映画に出てくる製鉄所の工場が私の街にもあったので、その繋がりを意識しながら眺めた。この映画のことをずっと気にかけており、大学生になりとある文科系サークルに入った時に、一学年下の後輩が眺めて、青山真治にハマり始めた。先日、資料を整理していたら、その頃作っていたミニコミが出てきて、後輩は蓮實重彦やら青山真治やら黒沢清やらが言い出しそうなことをそのまま書いていて辟易とした。その後輩とは長年の没交渉が続いている。青山真治の映画をまとめて観たのは2002年の2月か3月だっただろうか。池袋の文芸坐で行われるオールナイト上映会で、中上健次の「路地へ」と、「ユリイカ」、最後に流れたのが「シェイディー・グローブ」だった。準備万端に夕方を越えて夜近くまで眠っていったが、最後はヘロヘロで半分寝ていた。「シェイディー・グローブ」を後に観たら、1999年は昭和74年、平成が訪れていない世界であり、この夢現と重なるものもあるだろう。ストーカー同然の粟田麗も愛おしい。このイベントの終わり、春から住む板橋区の物件を観に行った。内見なしに契約して、両親から怒られた記憶がある。青山真治と言えば映画監督の印象が強いが、彼の小説も熱心に読んでいた。『Helpless』は浅野忠信の健次ではなく、斉藤陽一郎の秋彦が主軸に動く。「わがとうそう」「軒下のならずものみたいに」と続くにつれ秋彦は(売れない)作家になる。ツイッターの書き込みで、青山真治には斉藤陽一郎が不可欠であるという指摘があった。正確な出典はないけれども、青山も斉藤陽一郎を「ダメ」という理由で起用しているといった話もある。超人である健次に対し、凡庸な秋彦の対置は、ずっと変わらない。昨年、北九州まで鉄道で向かい、外山恒一展を眺めると同時に、裏テーマで青山真治聖地めぐり「サッド ヴァケイション」の赤い橋や、間宮運送跡地も眺めた。ただ「Helpless」のトンネルはレンタカーでなければたどり着けない場所のようだ。「サッド〜」の冒頭の食料倉庫は解体されてしまったらしい。青山真治には一度サインを貰った。大学で行われたシンポジウムの合間、一人佇む時に声をかけて、中上健次の映画のパンフレットにサインを貰った。このパンフレットは千円もして、大学生にはなかなかの買い物だった記憶がある。サイン会でもなく、上映会の終わりでもなく、固有の場所、時間で青山からサインを貰った記憶が強く残る。ビーチボーイズを聴き始めたのも青山真治の小説に出てきたからのように思う。アメリカのさわやかサーフィンロック・バンドくらいにしか思っていなかったが、青山とは別に、深みのあるビーチボーイズの話を知り聴くようになった。来日ライブで、一番好きな「オールサマーロング」は東京、千葉マリンスタジアムでは披露されなかった。名古屋と大阪では披露されたようで、ブライアン・ウィルソンの当該曲を聴ける機会はあるのだろうか。2800円もしたLPサイズパンフレットは売れすぎて大阪では90部しか残部が無かったとも聞く。アルバート・アイラーは中上健次が聴き、青山真治が聴く二重の影響がある。ビーチボーイズは青山固有のものだろう。先に小説を読んでいた「月の砂漠」は映画冒頭から「キャロライン・ノー」が流れていた。私がもっとも偏愛する青山の小説は「軒下のならずものみたいに」であり、この幻の映画は追悼に関わる上映で眺めてみたい。一度横浜の東京芸大で上映されたようだが、私は海外にいたので観られなかった。
田森赤貝さんの断片集『フラワーズ・オブ・フロウ』を入手する。音楽の楽曲が付けられた、ある物語のそれぞれの話数にイメージイラストが添えられている。個展で展示された図録であり、曲の入ったCD-Rも付いていた。アイチューンズのデータベースにも登録されている。オアシスやウィーザーやくるりなど、90年代末から00年代の大学生の部屋に並ぶCDのような並びを通して聴く。ここには入っていなかったが、イースタンユースの『夏の日の午後』をめじろ台のドラマで借りて紫色のMDに落とし、酷暑の中で聴いた思い出も蘇る。アルバムやアーティストのイメージとMDの色に合わせて選んだ体験はサブスクにはないものだと思う。同時に彼が作成した作品集『マスタベ』も本棚の奥から引っ張り出して来た。学生時代、八王子に住んでおり、原付を入手したあと、近隣の大学をよく回っていた。法政大学の多摩校舎に田森さんは通っており、そこで配られていた『ひなげし』というミニコミに漫画を寄せていた。もともと軽音楽サークルにいたようで、そこでライブのフライヤーのイラストなどを手がけており、ミニコミに漫画を寄せるようになったという。絵はなんというか音楽用語を用いればグランジとなるのだろうか。荒削りと切なさが同居したようなもので、この人はプロになるのかなと思っていた。ミニコミには田森さんのアルバイト先のエピソードを紹介する記事もあり、歯科医でアルバイトをしていたところ、院長の親戚の子の漫画が雑誌に入選したから「お前会ってみろよ」と言われ、年下の彼と対面すると、最初は下手だったが、すぐにマウントを取ってきたみたいな話が書かれており、エレファントカシマシの「奴隷天国」を聴きながら家へ戻るといった、これまたダウナーな世界が描かれていた。この入選漫画が、陸上部を舞台だかにしたベタベタの青春モノだったのも、ますます田森赤貝的なるものとの相性の悪さを際立たせていたように思う。田森さんは大学を卒業後、大学時代のミニコミに寄稿していた作品集、習作をまとめ『マスタベ』(意味はマスターベーションだろう)としてまとめフリーペーパーとして配った。私は吉祥寺のタワーレコードで偶然それを見つけた。洋館のような建物の二階に上がっていく昔のタワレコだ。近くには地下一階に展開するヴィレッジヴァンガードもあった。今読み返してみると『マスタベ』にはロットナンバーが振られており、450部程度は発行されたようである。世界中でディガーが追い求めるレアレコードのロット数は300やら500やらなので、一定の分量はある。ホチキス留めのコピー雑誌が今どれくらい残っているだろうか。『マスタベ』では大学の雰囲気も語られており「人がいないキャンパス」とあったがまさにそうしたものだった。今は学部が増えているが、当時は社会学部と経済学部の2つしかなく、校地はのっぺりとしていた。ある時期までは図書館にゲートがなかったので誰でも入れた。『BUZZ』を購読していたので眺める。あとは生協書店で『Z-Kan』という雑誌を立ち読むのも楽しみだった。これはZ会が出していた雑誌で、斎藤哲也が編集をしていた。旅とかフリーターとか恋愛とかが特集されていた。十年ほど前に、ふいにミクシーを検索したら田森さんを見つけたのでメッセージを送り何往復かメールのやり取りもした。卒業後もずっと八王子に住んでいるようだった。プロにはなっていないようだ。そもそもプロとは何だろうかと考える。田森さんの絵柄は雑誌で括れば「ガロ」「アックス」から「スピリッツ」周辺といったところだが、こういうカテゴライズを拒否するような表現でもある。かといってアンチセールスを強く標榜するものではなく、もちろん承認への渇望はあるのだけれども、自分を切り売りしないような姿勢がある。これは彼の表現の核に音楽やバンドがあるためではないかと考える。『マスタベ』には夏コミに出店する小説に絵を付けて欲しい依頼があったが、その内容がキモキモなもので断ったなんて話もあった。田森さんの表現からはモラトリアムな空気感じられて、八王子に留まる理由も同じものなのではないか。何より八王子は物価が安い。以下は20年前の記憶だが、今もあまり変わっていないのではないだろうか。学生のひとり暮らしが想定されているのでスーパーには、家族が食べる量ではない一人分の小分けの惣菜が売られており、さらに見切り品になれば半額で入手できる。ドン・キホーテには3個100円のカップラーメンや、オール50円コーナーには業務用のカレーやハヤシライスのレトルトパウチが売られていた。ロックインジャパンフェスティバルへ行った時に、屋台の奥でこの50円パウチを使っているのを目撃した思い出もある。今回の本は田森さん本人ではなく、代理人を名乗る人から届いた。田森さんはどうしているか気にかかる。
7月26日の早朝、東京地方は早朝4時くらいから雨が降り始めました。僕は東南アジアの旅が好きなのでこれはスコールだと喜びました。ところが、雨がずっと降り続くので、ひと仕事を終えたあとに、のんびりと牛丼チェーン店のすき家でビールでも飲もうかという思いが打ち砕かれて、ボロいマンションの室内で怒りの叫び声を挙げてしまいました。本当のことを言うと、自転車で無理に行こうとしたのですが、50メートルくらい進んだところで全身がびしょ濡れになってしまったので引き返しました。そこから少し眠って起きた時に、あなたの死刑執行がなされたことを知りました。いつかは来るだろうと思っていましたし、死刑執行は支援者の有無や、冤罪の可能性などが考慮される事情を鑑みても、あなたが冤罪である可能性はゼロです。限りなくゼロに近いではなくゼロです。もちろん、心神耗弱状態で別人格がどうのこうのしたみたいな話もあるでしょうけど、あなたの場合はそれに当てはまりません。7月26日は相模原の事件の日ですから、あなたは政治利用として死刑執行されたわけです。相模原の事件の犯人である植松聖と、あなたは同列の扱いを受けたわけです。これは、あなたとしては納得がいかないのかもしれませんが、もうどのようにも意思表示はできないでしょう。僕はあなたとは学年は一つ上です。世間、というか『朝日新聞』あたりが言うところにはロスジェネと扱われるのでしょう。僕は高校を卒業後に2000年に大学に入り、2004年に卒業しました。僕の一学年上の2003年の卒業生が戦後最低の大卒就職率を記録して、55%くらいで、僕たちの学年は少しは改善してもいまだ50%代だったと思います。まわりの半分は就職していないので、お気楽な空気はありました。僕は最初から就職したくない気持ちはあったので、その時代の空気に寄り添いました。こういう小細工をあなたは器用にできなかった人という印象があります。あなたの出身高校の同級生に『Quick Japan』の編集部を経て、小学館でライトノベルの編集者をしたのちに、物書きとなった山田さんという人がいます。いまは飯田一史というペンネームで活躍されています。彼が『QJ』にあなたとの記憶を書いていました。年に一回文化祭だかに合わせて生徒会が作る雑誌があります。これは地方の進学校なんかではよくある伝統のようですね。そこで、三年生が一言ずつメッセージを書くみたいな欄があって、あなたは綾波レイについて何かを書いていました。山田さんは宮台真司なんかを絡めて90年代の記憶を書いていたと思います。私も一時期は宮台さんの著作を熱心に読んでおり、青森は「いちご」の場所と紹介されていた記憶があります。援助交際の女子高生の相場が「1万5千円」で全国最安値だから「いちご」みたいな断片の記憶だけを覚えています。確定死刑囚は精神の安定のために映画視聴が許されているという話を確か佐藤優さんの著作で目にしました。あなたは完結編の『シン・エヴァンゲリオン』は眺めたのでしょうか。私は何故だか神戸の映画館で見ました。一度見たらいいやという感じでしたが、1800円のパンフレットも買いました。ビニールにくるまれていたので、岡山のチェーン店でハサミを借りようとしたら、断られました。それなので店員さんに頼んで切ってもらいました。こういうセキュリティ意識の高まりもあなたの事件がきっかけとなったのかもしれません。あなたの軌跡については政治学者の中島岳志さんの著作でつぶさに知りました。中島さんは、あなたの周辺を細かく取材しています。あなたは事件を起こす二日目に、新幹線と特急を乗り継いで福井までナイフを買い出しに向かい、その帰りに沼津で性風俗店に立ち寄りましたね。さらに事件の前日にも同じ店に入り、同じ女性を指名している。中島さんは、その女性を探して話を訊きたかったそうですが、見つけられなかったそうです。これは興味本位ではないと思います。あなたについて取り上げたフジテレビのドキュメンタリーは、中島さんの著作と照らし合わせれば雑駁さが目立つのですが、沼津の風俗話だけはしっかり取り上げていました。むしろ軽蔑すべきは、こういうセンセーショナリズムだと思います。あなたの著作で印象深いのは、東京拘置所でランダムに流れてくるラジオを聴いていると自分が興味を持てる話題や世界があることに気づいたといった後悔めいた記述でした。私はラジオが好きでよく聴いているので、この感覚はわかります。テレビのような大文字の縛りやきれいごとを抜きにした細やかさや、偏屈さがラジオというメディアの魅力です。場所柄、深夜ラジオは聴けないでしょうが、もしあなたがあの下らなくも温かいぬかるみの世界を知っていれば、自らの緊張を弛緩させ得たのえはないかとも思います。とても残念です。加藤智大さん、さようなら。
加藤さん。前回の書き込みでさようならを言ったつもりでしたが、まだ書いておきたいことがあるので続けます。あなたが死刑になったあと初めて図書館へ行きました。午前の死刑執行ですから夕刊には間に合っていますが速報であり、翌7月27日の朝刊で識者や関係者、被害者のコメントが掲載されていました。『朝日新聞』で、あなたが高校時代に所属していたソフトテニス部の顧問が「自ら友人を作ろうとせず、失敗を人にせいする」と人柄を語っていました。僕は中島岳志さんの著作で、あなたには高校時代に友人がおり、放課後誰かの家に集まってゲームをしたり漫画を読んだりといった暮らしを、1年のうち360日は続けていたと知りました。なんだか「稲中卓球部」や「アフロ田中」みたいな世界だなと思ってツイッターに書いたら一部の人たちが反応してくれました。あなたは中部地方の短大を卒業したあと、このグループを頼って仙台に移り住みますよね。誰かの家に転がり込んで1ヶ月くらいして、警備会社に就職したと聞きます。中島さんは、札幌のコミュニティFM局でやっていたラジオ番組で「1ヶ月も転がり込める友達は僕にはいない」と語っていました。僕も同感です。2~3日、長くても1週間くらいならいいでしょうが、それ以上はいくら友人とはいえ息が詰まります。あなたはそれほど友人に恵まれていた。気になって、あなたの出身高校である青森高校の偏差値を調べたら71もありました。青森県ではもちろんトップの学校です。僕は青森、というより津軽といった方がいいのでしょうが寺山修司が好きなので、この学校の名前は覚えていました。あなたが事件を起こした時に確か勝谷誠彦さんだったと思うのですが、あなたに太宰治を重ねるような物言いをラジオ番組でしていました。あとは寺山はもちろん永山則夫あたりとも重ねる声もあったと思いますが、すぐに消えました。あとは青森の高校生が始めた「夏の魔物」というロックフェスティバルがあって、高校生は格安料金で参加できて、灰野敬二や三上寛が出演しており、これは「寺山/永山枠」ではないかと思いました。青森、この場合は津軽と言った方がいいでしょうが、地方にはそうした表現の磁場がある。ところがあなたにはそうした深みはなく、すごくフラットな印象を受けるのです。居場所を求めて全国、というよりも関東といった方がいいでしょうが、各地を右往左往する。あなたが最後にすがったネットの空間もとてつもないフラットなものです。あなたの母親は青森高校を卒業しており、さらに受験時には男女で定員の格差があり(当然差別されていたのは女子の方です)、それを乗り越えて合格した。ところが、大学受験に失敗して地元の信用金庫に就職する。そこで父親と出会います。母親はあなたに自分が叶えられなかった学歴を求めます。自殺した弟が、青森高校に行けずに二番手の青森東高校へ行ったことで、ますますあなたへのプレッシャーが強まっていったと手記で書いていた記憶があります。この東高校も偏差値63であり、しょうもないドキュン高校に通っていた私からすれば「十分優秀だろ」(トータルテンボス風ツッコミ)だと思うのですが、71と63の壁は大きいように思います。あなたはこの学校で落ちこぼれたわけですが、仲間には恵まれたのではないでしょうか。伊集院光のラジオにあった「いつまでも絶えることなく友達でいよう」コーナーのネタのような関係を思い起こさせます。青森県に限らないのでしょうが東北地方は、進学した高校で一生が決まってしまう、あるいは決められてしまう世界があると聞きます。そのため中学浪人もいるそうですね。学校の数が少ないので志望校と滑り止めの私立高校の格差が大きすぎるといった問題が背景にはあるようです。私の通っていた大学にも秋田県出身で中学浪人を経験した女性がいました。テレビで合格者が発表され、その後に中学浪人のための塾の広告が入る。その場で電話しないと定員が埋まってしまう世界がある。福島県出身の人は、父親の世代では地元のナンバーワンの公立高校に入れず自殺者が出たとも言います。岩手県出身の友人も、高校に受かるまでは大きなプレッシャーがあったと聞きました。こういった無数のしがらみがあふれる場所が東北なのでしょうか。ただ、あなたは一時期青森に戻り、県内の学校に給食用の牛乳を配達する仕事に就きました。そこで中島さんの本では藤川(仮名)と記される兄貴分に出会う。BSE騒動で売上が激減し働きに出た飲食店経営の藤川さんに「一国一城の主」と絡み、ブチ切れられ、あなたは号泣、嘔吐し、以降慕うようになったと聞きます。こういう経験はとても普遍的だし、人間くさい。だからこそ、あなたがあのような事件を起こすに至る動機や過程がどうしても見えてこないのです。それが明らかにされないまま死刑執行に至ったのは残念でなりません。
・このコミュニティの初期からの参加者でマイミクのMさんが44歳で亡くなっていた。Mさんとはツイッターでも相互フォローの関係で、もともと書き込み数は少なく、月単位の沈黙もあったのだが、ふと気になりアクセスすると昨年末以降書き込みがなされていない。名前を検索するとおくやみ情報が出てきた。本名、年齢、居住地が一致し、地方でもあるため同姓同名の別人の可能性はまずないだろう。
・Mさんは昨年末までツイートをしている。宮台真司襲撃事件の犯人に憤りを示し、お笑いファンだったので「M-1」への所感も記していた。亡くなったのは年明けだ。まわりくどい書き方をしても仕方がないと思うが、Mさんは長らく精神疾患を患っていた。だからこそ44歳の死は、あまり表沙汰にできるようなものではなさそうだ。
・Mさんはこのコミュニティを立ち上げた最初期から参加し、時折コメントをくれた。2016年末に何かのバンドのライブを見るために日帰り上京した時に、夜のバスの時間まで新宿で飲んだ。The Avalanches(アヴァランチーズ)の『Since I Left You』を知らなかったので勧めると、かなり気に入りアナログ盤まで買ってしまったと報告していた。Mさんは北陸地方の実家に住み、何部屋かがレコードやCDや雑誌などのモノで埋まっていると話した。私も同じようなタイプなので共感を覚えた記憶がある。
・Mさんは高校を卒業後、京都のある大学へ進学した。本当は早稲田へ行きたかったようで仮面浪人をしながら文学部を目指していたようだ。再受験は失敗し、その後は大学に籍を残しながらも、学校へは行かずに京都で20代を過ごしたのち、実家へ戻ったようだ。
・コロナで海外旅行へ行けなくなったここ数年、私はよく関西へ旅行していた。大阪の新今宮の安宿を拠点に日帰りで神戸や京都へ足を伸ばすこともあった。いつも予定を詰め込んでいくので、フリーの日を作りMさんに会いに行こうかとも考えたことがあるが実現しなかった。少なくとも昨年末までのタイミングならばできたはずだ。Mさんは1泊2日で大阪へフィッシュマンズの映画を見に行っていたこともあるし、京都まで出てくるか、私が北陸のその場所や近くまで赴いても良かっただろう。
・Mさんはお笑いファンであり千原ジュニアのファンだった。ジュニアの笑いのセンスはもちろん、その背景にある引きこもりだった来歴にも強く惹かれているようだった。ジュニアがネット上でやっていたネタ投稿番組の常連でもあったようだ。Mさん自身も、何かクリエイティブなものへの憧れはあり(それは90年代に青春期を送ったものならば誰しもが少なからず抱く願望だ)、宣伝会議のコピーライター教室へ通っていたという。それは背水の陣を敷いてNSCに飛び込むような勇気ではない、半端な場所、選択だったといった話をこのコミュニティでした記憶がある。「今日のサブカル情報」をさかのぼればまだログはあるだろう。
・「90年代サブカルチャーの総括」と大仰なタイトルを付けたコミュニティも20代のなかばに思い立って作られ、今現在に至るまで細々と続いている。実はかなりの時間を経たのだが、私が拘泥してきたこのテーマに関するテキストを書き評価を受けた。私はこの話を周囲に吹聴することはなかった。どこかで気づいたMさんが連絡をくれるのかなと思ったがそれはなかった。私の父親も新聞広告に名前が載っているにも関わらず伝えるまで気づかず、同業者である知り合いのライターも1年ほど気づかなかった。芥川賞か直木賞でも獲らない限り、世間の大部分の人はテキストなどに興味を示さない。それほど、出版や文章の世界はマイナーなものだ。
・このコミュニティでは自分の言葉をひたすら書き連ねてきた。ある時、Yと名乗る女性が絡んできた。Yのアカウントをたどると「ごちゃごちゃうるさいメンヘル女をやっつけた」武勇伝が記されていた。ある女性ミュージシャンが亡くなるとYが素朴な追悼コメントを書いてきたが私は無視した。するとYはさらに逆上してきたが私は尚も無視した。おそらくYは寂しかったのだろうが、そういう歪んだ愛情表現は私がもっとも嫌悪するものだ。Mさんもそうした私の気質をおもんぱかったメッセージをもらった記憶がある。
・Mさんと直接会ったのは一度しかない。それでも世代も興味も近くすぐに打ち解けた。私がハガキ職人をしていた『U-turnのオールナイトニッポン』(ニッポン放送系)も木曜二部にリアルタイムで聴いていたという。Mさんの居住地は北陸だが関西の電波も入るので、テレビやラジオの選択肢はかなり豊富だったという。お互いの共通体験や情報を確認してから次の段階へ、と思っていたのだけれども、その機会は失われてしまった。それでも青山真治の「この項つづく」にならえば「総括つづく」となるのだろう。
数年分一気に読みました。
U-turnのann、テープがあるはずと実家に帰った時押し入れを探すも段ボールが見当たらず、処分されたんだろうなぁ、と無念です。

爆笑問題カーボーイの前の一か月、爆笑問題スプリングの4回、話題になることもないですが、わずか4回でその後二十年以上続くことを納得できる内容だったと思います。が、そのテープももろとも。

またnaokkiさん飲みましょう。
>>[855]

ご無沙汰しております。

『U-turnのオールナイトニッポン』
電子化した際、あるリスナーから送ってもらった初回放送を記録したソニーのテープは途中で千切れましたが、ダイエーの100円テープ録音分は無事でした。ソニータイマーがここでも発動するのかと驚きでした。

『爆笑問題カーボーイ』レギュラー開始前の2度のマンスリー放送もリアルタイムで聴いていました。古本屋店主の太田が、田中に「変な本」の内容を紹介するラジオコントの印象が強いです。あとは『爆笑問題の日本言論』(宝島社)の宣伝をしており、猛烈に欲しいなと思うも地方の書店には全然姿を見ず(おそらく注文が殺到し都市部の書店に優先的に配本されていた)U-turnのキャンプ企画で上京した折にやっと増刷を重ねた現物を買えた思い出もあります。

是非飲みましょう。上京の際はお知らせ下さい。
コロナ経て、国内旅行をするようになったので北海道も行きたいですね。

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