IV. 現時点での被害が事故の全貌か?
原発事故は現在も進行中です。放水作業の一応の成功で事態は収まったかに見えるかもしれませんが、それは単に「差し迫った危機の一部を回避した」だけで、事故全体が収束したとはとても言えない状況です。実際、II章で議論したように、放射能汚染の拡大と言う点では、東京消防庁の放水作業後の 3/21から、むしろ悪化しています。原子炉がコントロールされたと言えない状況で、また高濃度の放射能の排出が防げていない現状では、今後も放射能汚染が拡大する可能性がかなりあります。それがどの程度深刻かはわかりません。たとえ、ある地点での現時点までの汚染が大したことないとしても、今後についてはわかりません。
科学者による事故の分析としては、たとえば、カリフォルニア大学サンタバーバラ校におけるMonreal氏の講演スライド
http://online.itp.ucsb.edu/online/plecture/bmonreal11/
が有志科学者によって和訳もされ、多くの方に広まっています。
http://ribf.riken.jp/~koji/jishin/zhen_zai.html
この内容には私個人としてはいくつか異論がありますが、少なくとも現時点で明らかなこととして、講演での被害の見積は楽観的に過ぎたということは言えると思います。仮に講演時点での見積は正しかったとしても、講演ではその後の被害の拡大について予見していません。たとえば、17ページ(ページ数は翻訳版に準拠)で茨城県東海村での放射線強度がすぐに下がった記述がありますが、21日以後は空気中線量もなかなか下がりませんでした。この際にはII節で新宿について議論した以上に、この地域は放射性降下物によって汚染され、農作物や水道にも被害が出ています。翻訳された方々は研究者として尊敬できる方ばかりで、また善意からなさったことだと思いますが、敢えて申し上げますと、結果的には楽観的すぎる見方を広めてしまったことにはならないでしょうか。(もちろん、翻訳は翻訳であり、翻訳者の意見と内容は別であること、また仮に内容が間違っていたとしても一つの情報提供として意味があること、などは理解しています。)現状では(まだ)チェルノブイリ未満であると私も思いますが、スリーマイルアイランドよりはむしろチェルノブイリに近い状況ではないかと考えます。[4/12 追記:原子力安全・保安院もついに福島原発事故がINESレベル7相当の事故であることを認めました。過去にレベル7とされた事故はチェルノブイリのみです。4/12現在ではまだチェルノブイリより小規模とは言え、チェルノブイリと大きく異なるとは既に言えません。]スリーマイルアイランドだと思って油断するよりは、チェルノブイリの可能性を覚悟して準備し、それが空振りであれば笑って喜ぶ、方が良いのではないでしょうか。
V. LNT・ICRP勧告で十分か? リスクの見積もり
I節で議論したように、現在のところ、放射線防護は国際的にもICRP勧告をベースに行われており、その背景にはLNTモデルがあります。原発事故等の場合にも、これらを基準にリスクを見積もるのが標準的ですが、それで正しいことが立証されているわけではありません。楽観的・悲観的なさまざまな見方があるようです。
1.) 低線量被曝と発がんリスク
2009年の時点で、ほぼ中立的な立場と思われるレビュー記事が以下にあります。
Assessing cancer risks of low-dose radiation
L. Mullenders et al. Nature Reviews Cancer 9, 596-604 (August 2009)
http://www.nature.com/nrc/journal/v9/n8/abs/nrc2677.html
このレビューの内容を一言でまとめると、結局いろいろな議論があり、低線量被曝による発がんリスクについては現状では良くわからない部分が多い。LNTを放棄するほどの強い材料はない、ということのようです。安全サイドに立つなら、やはり最低限LNTは仮定するべきでしょう。
2.) 原発とリスク
今回の福島原発事故も含め、リスクの見積もりは、被曝線量を推定してそれに基づいて行われています。この文書でも、その枠組の中で議論して来ました。(それ以外に定量的なリスク推定の手法がないからでもありますが。)
事故がない場合の通常運転時の原発では、空気中線量が定められた環境基準以下であることになっています。その環境基準は、健康に影響を与えないはずである水準に設定されています。たとえば、ドイツでは、原発による一般市民の被曝は 0.3 mSv/年以下に規制されています。これは、自然に存在する 1.4 mSv/年(ドイツの平均)よりも小さく、ICRP勧告による一般公衆の被曝限度(1 mSv/年)よりも小さい値で、何の問題もなさそうです。また、実際には、この基準値よりも被曝ははるかに小さいと見積もられています。そうすると、「理論的」には原発が健康に与える影響は無視できるはずです。(もちろん、事故の無い場合の話です。)しかし、ドイツでの大規模な研究の結果、原発付近では子供の発がん率が有意に上昇したと言う統計的な結果が得られています。これは一つの原発についてではなく、いくつもの原発についての統計データの綿密な解析です。
Case-control study on childhood cancer in the vicinity of nuclear power plants in Germany 1980-2003.
C. Spix et al., Eur J Cancer 44(2):275-84 (2008).
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18082395
Leukaemia in young children living in the vicinity of German nuclear power plants.
P. Kaatsch et al., Int. J. Cancer 122(4):721-6 (2008).
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18067131
後者の Kaatch et al., Int J. Cancer より主要な結果を示す TABLE IV と TABLE V を以下に引用します。原発から5km以内に住んでいる子供の白血病(leukaemia)の発症率が2倍程度に増加し、95%の信頼区間でも1.5倍以上になると言う結論です。
この結果からは、標準的な被曝リスクの見積もりは不十分であることが懸念されます。何故このような影響が生じるかは良くわかりません。個人的には、空気中線量が小さくても、放出された微量の放射性物質を体内に取り込んだ内部被曝の効果によるものではないかと想像します。II節で、実効線量係数を用いた内部被曝の推定を紹介しましたが、これもある種の仮説であって、実際のリスクはそれ以上である可能性もあります。いずれにせよ、理由がよくわからないからと言ってリスクの存在が否定されるわけではありません。
もちろん、これは一つの報告(論文)であって、それだけで何かが確定するわけではないことは研究者ならば誰でも知っていることです。しかし、リスクを考える上では見過ごせない報告です。この結果を見ても、「◯◯ mSv以下の被曝なら無害」とは簡単には言えません。
しかし、実際の被害ははるかに大きいと言う議論もいくつもあります。その代表例として、
Chernobyl: Consequences of the Catastrophe for People and the Environment
Alexey V. Yablokov (Center for Russian Environmental Policy, Moscow, Russia), Vassily B. Nesterenko, and Alexey V. Nesterenko (Institute of Radiation Safety, Minsk, Belarus). Consulting Editor Janette D. Sherman-Nevinger (Environmental Institute, Western Michigan University, Kalamazoo, Michigan).
Annals of the New York Academy of Sciences
Volume 1181, December 2009
http://www.nyas.org/publications/annals/Detail.aspx?cid=f3f3bd16-51ba-4d7b-a086-753f44b3bfc1
を挙げておきます。これは、ロシアと白ロシアの研究者が現地での研究をまとめたものです。WHO/IAEAの推定の問題点としていくつもの指摘がされています。たとえば、実際の被曝量、特に内部被曝の推定が難しく、WHO/IAEAの議論が準拠している仮定の正当性は全く明らかでないことが指摘されています。また、放射性物質を体内に取り込んだ場合の内部被曝の影響は科学的に明らかになっていないことも指摘されています。II節で紹介した実効線量係数による議論は、あくまでも一つの仮説です。同じ放射線量であれば体外被曝も体内被曝も影響は同じはずだと言う議論もありますが、これも乱暴な議論と言うべきです。たとえば、体内に取り込まれた放射性物質が特定の組織に固定されてしまった場合、その周囲の細胞は非常に強く被曝すると考えられます。このような場合の健康への影響は十分理解されているとは言えません。
そこで、上記文献で Yablokovらは、実際に各地域でどのような病気や健康問題が生じたか、そしてそれが放射性物質による汚染状況やタイミングとどのように相関しているか、を調べ事故による健康被害を推定しています。(状況は大きく異なりますが、上記 2.)節のドイツの原発周囲における小児の発がん確率の調査とアプローチとしては似ています。)
いくつかの例を以下にあげます。
A) 100mSv程度以上の被ばくによる健康リスクを科学的に証明した調査・研究が用いる単位は、一年あたりの被ばく量を表すmSV/年ではなく、(一生涯にオーダーが近い長期に)累積された被ばく量を表すmSvです。
したがって、現状で20mSV/年の外部被ばくが見込まれる注11のであれば、そこに5年程度以上住むことを前提とすると(セシウムの半減期が約30年と長いこともあって)、既存の科学的な調査研究の結果は「健康に影響を及ぼすこと」をむしろ証明しています。
B) 100mSv(あるいは50mSv)未満の低線量被ばくのリスク(影響)が「厳密に」証明できないのは、リスクがないからではなく、「厳密」という旗印の下で使われたアプローチが適切でないためです(追加的な説明は別に行うので、関心のある方は3節をご覧ください)。
つまり、「リスクが証明できない」ことが、あらかじめわかっているアプローチをあてはめて導かれた「リスクが無いこと」の証明には、科学的な価値が全くありません。(なお、低線量被ばくのリスクに関する研究論文や調査報告では、多重比較などの言葉をつかって詳細な検定/下位検定を行うなどと書かれることがありえます。そのときには、同様の不思議なアプローチが取られている可能性もあるので、注意する必要があります。)
C) 長期被ばくに関する有力なデータの多くは原発作業従事者に関するデータです。したがって、そのデータに基づいて今回の事故の影響を考えようとしても、データが主に成人男性に関するデータであるため必然的に生じる限界があります。
子供の健康が放射線による影響を受け易いことについては(影響の受けやすさの程度については別としても)科学者間で合意があり、それを考慮しないで100mSvという数字が取り上げられてしまうと、科学的な意味で明らかに子供の健康に対するリスクを過小評価することにつながってしまいます。