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仏教コミュの仏教で宇宙や生命の誕生を説明できるか?

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 私は現在、アメリカに住んでおります。アメリカではキリスト教が元気で、アメリカ人の半分は日曜日に教会に通っているそうです。また、1ヶ月に1回以上教会に行く人となると、7割くらいになるとか。(ちなみに、念のため、私はクリスチャンではありません。)

 現在、アメリカでは進化論に対するインテリジェント・デザインというのが話題になっています。これは、人間を始めとした生物は複雑かつ合目的的で、これを突然変異の偶然の所産とするダーウィニズムは間違っており、生物の誕生には何らかの知的な計画が関わっているというものです。

 まあ、要するに神による創造論を別の言葉に言い換えただけなのですが、ただし、私は創造論の本を読んで、確かに生命の誕生や生物の複雑さと合目的性はダーウィニズムで説明するのは難しいなあと感じております。同様に、この宇宙にしても偶然としてはあり得ないくらいに精緻に出来いるとのこと。これも偶然論よりも創造論の方が説明が容易なのではないかと思っております(もちろん、だからといって、創造論を支持しているわけではありません)。

 ところで、仏教では宇宙や生命の誕生をどう説明しているのでしょうか? やはり、「因縁生起」で考えるのでしょうか?(しかし、人類が生れるはるか以前のことを因縁で説明できるのでしょうか?) また、唯識の阿頼耶識やアマラ識などで説明するのでしょうか?(もともと、阿頼耶識やアマラ識が存在し、宇宙や生命はそこから生じた?)

コメント(99)

ラプサンスーチョンさん、

 大変興味深いコメントありがとうございました。

 宇宙生命から生命が分離し、その分離生命が人となってこの世で研修し、その成果を持ってまた宇宙生命に合一する、というアイデアは結構いろいろなところで見られる感じがしますね。

 昔、読んだ手塚治の『ブッダ』でもそんな説明がありました(この本は手塚氏の仏教観で書かれていますね)。創価学会の方からも似たような話を聞いたこともあります。それから、最近ではちょっとあやしいカリスマ霊媒師さんなんかも同じようなことを言っているそうです。(彼にはまっている友人の女性から聞きました。)

 ところで、ラプサンスーチョンさんは原始仏教に共感を持たれているとのことですが、輪廻は信じていらっしゃいますか?原始仏教の中でも輪廻を信じる人と信じない人がいるようですが。
 輪廻ですか・・。仏教は、輪廻を信じても、信じられなくても、当面の苦をのぞくことが修行なので、いずれでもいいと思いますが、ただ、仏教から輪廻説を分離しようと頑張ると、仏教全体の構造がゆがんでしまうのではないかと思います。

 私個人は、他でも書きましたが、善悪のカルマの論理から導かれる倫理として、さらにそこから導かれる寓話として、輪廻説を採用しています。イソップ童話を愛読するようなものです。人間の文化には倫理が必要で、それを成り立たせるためには、論理が必要です。その論理を文化に降ろすには、物語とか、寓話が必要なんじゃないかと思います。物語りなき文化は、倫理が壊れてしまい、論理なき無秩序を起してしまう可能性があります。死んだら何もないという「断見」では、倫理を導けないんじゃないでしょうか?

 ところが、輪廻というとすぐ、生命は永遠ですという「常見」が幅を利かせ始める。輪廻をシリアスに捉えると、すぐにおかしな連中が出てきて、トンデモ哲学をこねあげて、霊界の教育計画だとか、宇宙全体が霊的に進化していますだとか言い始めるんですね。そして、輪廻は有意義である、人生には意味がある、生きるってすばらしい、あなたには使命があります、霊界で約束して生まれてきています、などなど、輪廻を正統化する論理を次々にしゃべるしゃべる。

 結局、輪廻は無意味と説いたブッダとは逆のことになってしまうパターンが非常に多い。ゆえに、輪廻は善悪と解脱を説く寓話だととらえたほうが、健全な気がします。

 寓話といえば、基本的人権だって、寓話ですよね。「人間は生まれながらにして幸福に生きる権利を(神から)与えられている。」日本人は変なもので、神から与えられているなどというおとぎばなしには以外と抵抗感がないのに、こと輪廻となると、とたんに拒絶反応を起こす人が結構いる。ところが、サムシング・グレートと言われると、すなおに受け入れちゃう。

 キリスト教の場合も、倫理を成り立たせるために、神の創造という神話=寓話を使っていると見ることができます。どうやら日本人の精神構造にも、多少、この物語が混ざりこんできているのかもしれません。私としては、ブッダの方が安全な気がするので、輪廻の方を自覚的に採用しますが・・。
ラプサンスーチョンさん、

 たびたびの詳しい解説ありがとうございます。

 私は輪廻については、やはり、なくてはならないのではないかと思っています。

 もし、人生が1回で終わりなら、別に出家なんかしなくて、普通に死を待てば良いのではないでしょうか? もし、苦を除くのが仏教なのであれば、拳銃を手に入れて、頭を打てば、苦しまずに死ねます。

 そうすると、残した家族を悲しませる? しかし、原始仏教は出家主義だし、出家というのはもともと家族を捨てることですから、そのことは気にする必要はない気がします。

 いかがでしょうか?
横レスで申し訳ないのですが。

> 私は現在、アメリカに住んでおります。アメリカではキリスト教が元気で、

> 現在、アメリカでは進化論に対するインテリジェント・デザインというのが話題になっています。

トピの主旨から外れていますが、しんさんは、ご自身が感じられたような現代アメリカキリスト教の「動向」には関心を持たれないのでしょうか。

インテリジェントデザインの例を挙げておられますが、(根強い古典的ダーウィニズム否定はあるにせよ)似たような「聖書至上主義(聖書無謬主義)」がアメリカ社会でハバを効かせようとする動きを、どう考えておられますか?
(西海岸だと内陸や東部の雰囲気は感じられない?)

明らかに、現代アメリカのキリスト教は、保守的で強硬な福音派の「極論」が社会のさまざまな場面で採用されることが多くなっています。
ブッシュが福音派の力を借りて大統領になる社会が、今のアメリカです。

仏教が説明する宇宙も結構ですが、しんさんが只今直面しているアメリカキリスト教が、古き良き街の教会から聞こえる賛美歌ではなく、テレビメディアやインターネットを通じて巨大化する「メガチャーチ」のそれであることのほうが、考える上では重要であろうと思うのです。

蛇足レスゆえに捨て置いてください。
まこちさん、

 私は宗教右派の台頭にはそれほど警戒しておりません。宗教右派は人口の20%くらいだそうで、確かに政治的な力を持ってきました。
 
 この集団、日本で思われるているほど危険ではありません。確かに聖書不誤謬だとか、進化論と共にIDを教えろ(IDだけを教えろ、と言っているのではありません)、中絶廃止だとかの過激な主張は見られますが、やはりアメリカのクリスチャンだから、他の人間の信教の自由は尊重しています(自由の原則は建国の理念だから、絶対に捨てません)。それから、この人たちは一所懸命に働き、家族を大切にするという伝統的なプロテスタントの生活を守っています。人権意識はことの他強く、私はたまにキリスト教右派と思われるラジオ番組を聞きますが、中国や北朝鮮の人権侵害を非難しています。

 日本から見たら、「(とりあえず人権弾圧は見ないことにして、)中国とは友好、北朝鮮には融和政策」といったクリントンのリベラルな外交政策より、人権意識が強いキリスト教右派が押す共和党の外交政策の方がはるかに良いですね。ブッシュも横田さんのお母さんに会ってくれたし、まった脱北者の受け入れを始めてくれました。クリントンだったら、ここまでやってくれなかったでしょう。
しんさんが今のブッシュをとりまく状況を支持されるのなら、何も申しません。

ただ、本題に言及するならば、仏教的にはそのような強い「人権意識」も、「虚妄の分別」に過ぎないと説明されるでしょう。

そのような人権意識が、一握りの人権を守りつつ、多くの死を奨励しているのですから。
まこちさん、

了解しました。まあ、政治的な話になってしまったので、この辺で。
>ただ、本題に言及するならば、仏教的にはそのような強い「人権意識」も、「虚妄の分別」に過ぎないと説明されるでしょう。

 そんなふうに言う仏教もあるのかもしれませんが、ブッダ本人は別の論理で「他の生命を殺してはならない、殺させてはならない」と言います。それは「誰もが自分が可愛いから、類推して、他を傷つけてはならない」という何とも卑近な論理なんですね。神の超越性を借りないで、人間的レベルで倫理を成立させ、慈悲を説く。

 どうも、キリスト教の正義を見ると、ダブルスタンダードになりやすいように見えます。神は不可知だから、人間が勝手に神の意志を都合良く考えてしまう。つまり、論理として抜け道があるように思います。

>いかがでしょうか?

 断滅論では、昔、沖雅也というタレントが「涅槃で待つ」と言って自殺したことも、最近はやりの「安らかな練炭自殺」も、否定できなくなってしまいます。それでいいなら、なにも苦労して修行なんかする必要がなくなりますね。ゆえに輪廻説を採用する。

 私としてはこの論理に違和感はありません。ただし、同時に魂の永遠不滅論を否定しておく必要があるとは思いますが・・。
ラプサンスーチョンさん、

お返事ありがとうございました。

>ただし、同時に魂の永遠不滅論を否定しておく必要があるとは思いますが・・。

というのは、どうしてですか?
お邪魔いたします。
>ラプサンスーチョンさん
 突然すみませんが、疑問に思いましたので質問させてください。
 ここでもそうですし、以前にもどこかで仰っていましたが、宇宙やら生命やらを無明に基づく苦しみの世界だから解脱しましょうというようなニュアンスの事を仰っていられたと思います。
 その事自体は別に疑問ではなく、仏教の基本ラインだと言えますが、釈尊は入滅の前に「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」と仰いましたが、このあたりはラプサンスーチョンさんはどのように理解されているのでしょうか?
>>ただし、同時に魂の永遠不滅論を否定しておく必要があるとは思いますが・・。
>というのは、どうしてですか?

 ロスのしんさん、どうも。そちらは今ごろ朝ですか?こちらは夜の11時を回ったところです。

 え〜と、仏教は輪廻を説くのではなく、輪廻からの解脱を説くのですから、魂の永遠不滅だと、その魂が輪廻から外に出るという論理になります。実際、そういう論理をヒンドゥー哲学では使いますね。サーンキャ・ヨーガ学派などがそうです。ヴェーダーンタ学派の場合は、魂の宇宙原理との融合となります。いずれも輪廻を前提にします。ところが、その論理だと、その魂が、いつまた再び輪廻に巻きこまれるかわからない。論理的に双方向なんですね。

 すると結局、輪廻から出たというが、そこも輪廻の一部なんじゃないの・・・という批判が成り立ってしまう。そこでブッダは、我執を滅したらニルヴァーナですと表現した。双方向はあり得ない。輪廻を説くと同時に、ゴールはニルヴァーナですと、あらかじめ言っとかないと、輪廻から出られなくなっちゃう。

 一見複雑に見えますが、たとえばミャンマーの人々など、田舎のお父さんに到るまで、何の疑問もなく、「ニバン(ニルバーナ)が最高、ニバンに行きたい」というんですね。もしかしたら、ニバンに行くのは魂だとおもってるのかもしれませんが・・・(汗)。

>釈尊は入滅の前に「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」と仰いましたが、

 あなんさん、お久しぶりです。あなんさんも荒れ気味コミュに結構つきあってらっしゃいますね。他のトピではあなんさんとの議論が途中で終わってしまいました。他の方々がすごい勢いだったので・・・。

 「この世は美しい」の件ですが、これは説一切有部所伝のサンスクリット版「マハー・パリニルヴァーナ・スートラ」に出てくる言葉だそうですね。釈尊が最晩年にヴェーサーリの町を旅立つときに、象のように町を振り返ってこう言ったとなっているそうです。

 ところが、奇妙なことに、パーリ語の「マハー・パリニッバーナ・スッタンタ」では、同じ場面でそんなことは釈尊は言ってないんですね。岩波の中村元訳『ブッダ最後の旅』では、こうなっています。

「アーナンダよ。これは修行完成者(=わたし)がヴェーサーリを見る最後の眺めとなるであろう。さあ、アーナンダよ。バンダ村へ行こう」これだけなんです。

 これは私の愚見ですが、おそらく文学的センスのある有部の僧が、感動的場面につい感極まって脚色をしてしまったのではないかと疑っています。いかにも俗世間受けする文句ですし、実際、パーリ版にはないこの文句を目ざとく見つけて、嬉々として解説する仏教関係者があとをたちませんね。

 ただし、この経のほかの部分で、ヴェーサーリは楽しいとか、なんたら霊樹は楽しいとか繰返しでてきます。同様の言葉が、『テーラガータ』などにも見うけられます。この言葉の意味は解脱した聖者の心境なので、私にはわかりません。

 もしかしたら一切皆苦は修行中の仏弟子用であって、解脱した阿羅漢やブッダにとっては、楽しいと言葉で表現されうる何かがあるのかもしれませんね。素朴な表現ですが、極めて高度なことではないかと推察します。私は結構、大乗批判的な見解を持っているんですが、その教説の一部が成り立つ地平があるとすれば、解脱した聖者が、ブッダの教法も筏として捨て去った、その先の話しなのではないかと思います。

 あなんさんがよく言う、勝義というやつでしょうか。よくわかりませんが、それが成り立つ地平が仮にあるとしても、軽々しくそれを言葉で表現することは、あらぬ誤解を招くだけで、あまりよいことではないのではないかと思います。せいぜい楽しい、とか、筏を捨てる程度の素朴な表現にとどめるべきでしょう。

 それに、大乗の説くところは、なんでもかんでも勝義ですというのも、いかがなものかと思います。あなんさんがそう思っているとは思いませんが・・・。
ありがとうございます。
「この世は美しい」やら「なんたら霊樹はたのしい」云々も含めて、おそらく勝義という考え方は私も同じです。
ですから、単純にこの世を否定的に見ることばかりを私は避けてきました。
 同じくらいかそれ以上に肯定的に見ることを避けてきましたが。

>大乗の説くところが何でもかんでも勝義〜

仰るとおり私はそう思っていません。
大乗に限らず、対象者のいる経は大なり小なり方便と取らえています。
勝義は勝義、悟り、真如、・・・結局悟るまで見ることのできない世界です。ただそこに至った方々が必ずしも否定ばかりではない肯定的なことばが多い事も大切な事です。
 否定も肯定も執着によるものです。
ラプサンスーチョンさん、

 何度も詳しい解説ありがとうございます。

 しかし、まだ良く分からない。涅槃というのは、輪廻を超えた状態を言うのではないのですか?
 しんさん、どうも。こちらは朝です。そちらは夕方かな?

>しかし、まだ良く分からない。涅槃というのは、輪廻を超えた状態を言うのではないのですか?

 輪廻を超えた状態だと思います。それが何か?

 あなんさん、おはようございます。あなんさんとはいつも同じような結論ですね。大変温厚な人柄が伝わってまいります。私などは、どうも尖がっておりましてね・・・。否定も結構だがいいかげんにせいとおっしゃりたいような・・。少しは心がけてみようかと思います。ありがとうございました。
ラプサンスーチョンさん、

 おはようございます。こちらは、夕方です。

>え〜と、仏教は輪廻を説くのではなく、輪廻からの解脱を説くのですから、魂の永遠不滅だと、その魂が輪廻から外に出るという論理になります。(中略)ところが、その論理だと、その魂が、いつまた再び輪廻に巻きこまれるかわからない。論理的に双方向なんですね。 すると結局、輪廻から出たというが、そこも輪廻の一部なんじゃないの・・・という批判が成り立ってしまう。そこでブッダは、我執を滅したらニルヴァーナですと表現した。双方向はあり得ない。輪廻を説くと同時に、ゴールはニルヴァーナですと、あらかじめ言っとかないと、輪廻から出られなくなっちゃう。

→魂が永遠不滅だと輪廻から出ても、また戻ってしまう可能性があるし、出たと思っても、実は輪廻から出ていない可能性もある。だから、ニルバーナだとのことですが、なんでニルバーナになると輪廻に戻らないのですか。ひょっとして、ニルバーナとは魂が消滅することですか? 確かにそうなったら、もう輪廻はしないでしょう。

 たびたびすいません。
>ニルバーナとは魂が消滅することですか? 確かにそうなったら、もう輪廻はしないでしょう。

 このへんが不思議なところだと思います。世界のどこを探しても「魂」なるもの「私」なるものを見つけることはできないとブッダは説くのだけれども、私たちは、「私がここにいる」というリアリティーを持っている。それは自我妄想だとブッダは言う。魂なるものの根拠は自我妄想であると。自我妄想の究極の根拠が魂(真我)なる概念ではないかと。

 自我妄想が消えない限りは輪廻の中にいる。自我妄想を破れば輪廻が止む。それは魂が消滅するということではなくて、魂妄想を破るということだと考えます。

 よく、無我だから輪廻の主体はなく、輪廻は成立しないと言う人がいます。しかし、私は、我執という妄想が輪廻していると考えます。というか、輪廻は妄想の上に成立している。幻のように、蜃気楼のように・・・。それが虚構であるというのではなく、現実のリアリティーそのものが幻のごとくに成り立っていると言う、SFのような話しなのではないかと思います。ちょうど映画『マトリックス』のような・・・。うまく説明できないんですが、いかがでしょう?
ラプサンスーチョンさん、

 なんかすごく面白くなって来ました。(^-^ )

 魂(輪廻の主体となるもの)があったとしても、それは定義できないんですよね(仏教では「非我」というらしいですね)。私の体、感覚器官、脳、運動神経、知能とすべて親からもらったものです。そして、最近の心理学の研究によると、性格なんかも遺伝の要因が極めて大きいそうです。さらには、記憶だって脳に残るものであって、死んで肉体が燃やされれば、一緒に消えてしまうものです。

 そうすると、肉体から以上の要素をすべて取り去って残ったものが魂となりますが、「じゃあ、これはなんだ?」という感じですね。それは確かに輪廻の主体なんだけど、なんと定義したら良いか分からないものという感じですね。それから、誰々さんの魂と誰々さんの魂はどう違うのかも説明がなかなか難しい。特に二人が死んで、残った魂があったとしたら、「これは誰々さんの体を着ていた魂で、これは誰々さんの体を着ていた魂」としか言いようがありません。しかし、魂自体には個性がないので、二つがお手玉みたいにシャッフルされたら、どっちがどっちだったか、全く分からなくなってしまいますね。

 ところで、密教やウィルバーの思想が似ていることは既に申し上げました。まず、宇宙生命(大日如来)があって、個々の生命が発生するというものです。よく考えたら、これってヒンズーのアートマンとブラフマンの関係の再来のような気がしますね。結局、この枠組を出ていないと申しましょうか。

 ただし、これを原始仏教で説明出来ないでしょうか? すなわち、宇宙生命からその一部が分かれて、生まれてくる子供に宿る。人間が住んでいる世界は3次元なので個々の人間に分かれた魂は別々のものに見えるけれど、大本の宇宙生命でつながっているし、一つなのだと。仏教では差別(しゃべつ)を戒めるけど、差別をなくしていけば、この世の中は全て一つの生命から来ているということに気づくのではないでしょうか?

 ↑ぶっとんだ意見かも知れませんが、一応まじめに書いたつもりです。
>ところで、密教やウィルバーの思想が似ていることは既に申し上げました。まず、宇宙生命(大日如来)があって、個々の生命が発生するというものです。よく考えたら、これってヒンズーのアートマンとブラフマンの関係の再来のような気がしますね。結局、この枠組を出ていないと申しましょうか。

 そのとおりだと思います。

>ただし、これを原始仏教で説明出来ないでしょうか?

 アドヴァイスしかできませんが、原始仏教と密教やヒンドゥー教の違いは明確にされた方がいいかと思います。ごちゃ混ぜにすることには、個人的には反対です。ヒンドゥー哲学も原始仏教も、猛烈に高度なレベルでしのぎを削っている。個人的な見解としては、原始仏教は完全に超越した世界を知っている。ヒンドゥーは、完全には超越していない。

 密教やヒンドゥー哲学は梵我思想や魂仮説などによって、比較的理解しやすく人気もあるが、原始仏教の無我説、縁起説は非常に難しい。なぜなら、凡夫のリアリティーに基づかない概念だから。結構誤解されやすいし、人気もない。これ以上は、各自で求道していくしかないんですね。

 どうしても、原始仏教になじめない人もいるし、ヒンドゥーイズムや密教の方がいいという人もいる。大乗のやさしさに惹かれる人もいるし、原始仏教のドライさを受け入れる人もいる。そういうことなんです・・・。 
ラプサンスーチョンさん、

了解しました。

これからは、本コミュやラプサンスーチョンも加入されている原始仏教、上座仏教等のコミュで研鑽したいと思います。(依然、密教やヒンズー教も好きですが。(^^ゞ)

なんどもありがとうございました。それにしても、ラプサンスーチョンさんのご説明は分かりやすいですね。
釈尊がじかに語られたたくさんのお言葉の背後にある論理や世界観までも明らかにしようとしたアビダルマ論書の中の、ヴァスバンドゥ師による『倶舎論』によれば、

私たちが住んでいるこの宇宙が誕生する前に、すでにあった他の宇宙の生き物たちの行いから生じた形成力で空無の所に微風が吹き始め、大気の層が生まれ、その中央上空にこれまた他の宇宙の生き物たちの行いの形成力で雲がもくもくと集まり出して、やがて雨を降らせて水の層が生まれた……。
というように仏教の学僧たちも壮大な世界誕生の仕組みを考え出していますね。
「宇宙の誕生についてあれこれ思い悩み大切な時間を費やすよりも、自分の心が浸食されている煩悩と苦しみをそのままに放っておかないですぐさま対治に取り掛かるほうが先決だろう」
というブッダのお心が僕は好きです。
素粒子は量子力学の法則に従って振る舞います。それらは我々が減じ世界で経験することが可能な、物質世界の「原子」や「分子」の振る舞いとはまったく異なっています。

素粒子のある性質を知ろうと思って何らかの測定を行う前は、相反する性質を併せ持っている「重ね合わせ状態」であるというのです。
素粒子という究極の物質構成部品を見いだしたと思ったらそれらは、実体としてはとらえることができない、いわば中身の不明な存在だった、まさに「空」であり「縁起生」ではないか。

物質的世界のミクロな働きとしては、仏教の概念は素粒子物理学の理論や実証結果と仲良くできそうです。
十二支縁起をすっきり納得したい気持ちが強いです。
な〜んだ そりゃそうだよね。といったあっけらかんとした明白さで
ひとつひとつの関係も 十二全体も腑に落ちると うれしかろうと思う

「取」-「有」はどの存在形式(欲界・色界・無色界)においても成立しないとイヤ。

物質の世界にあっても 観測と理論化さらに信念に基づく観測装置建設
科学者の組織化の果てに つまり「取」(固執・執着)に依って
場なる「有」が確認されるわけでして 
それは わたしの十二支縁起理解におおいに貢献してくれるのであります
仏教から宇宙や世界の生成論を導き出すのは、お釈迦様が「答えない・考えても無駄=無記」とされたように、時間の無駄であり実りがないでしょう。

重要なことは、最新の実証科学的知見と、仏教の教えがぶつからない・矛盾しない点だと思います。

この点においては、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一神教は不利です。3つの一神教がともに「啓典」だとするいわゆる「旧約聖書」の創世記の記述と明らかに矛盾し、現代アメリカにおいても、一部の州の学校の教科書で「生物進化論」を否定しなければならないほど深刻な問題となっています。量子力学やビッグバン宇宙論なども迷惑な理論でありましょう。
科学的知見が事実であると認めた瞬間、たやすく「聖書の創世記はウソじゃん」と言われてしまい、「聖書」の権威が亡くなるとその語り手である「神」もはなはだ怪しい存在となりうるからです。

科学的事実は事実と認めた上で、それに対する人間の認識や存在意義に焦点を当てる仏教の方法論がありがたいと思います。
亭主さん

同感です。
仏教は観察によって発見された因縁果の法則(縁起・因果律・因縁生起・因果・因縁)に基く教えだと思いますので、科学的な事実と矛盾しないのだと思います。

その仏教で教えられている大切なことは、「自らの心に平和をもたらすこと」と、「慈悲」による利他行ではないかと思います。

一神教の教えは科学的な事実とは矛盾が多い神話がありますが、それは方便であり、教えが目指すところは、仏教と同じ「平和」と「愛(仏教でいう慈悲)」だと思います。
(というようなことをダライ・ラマの本で読んだ気がします。)


全ての宗教が本来の目的を大切にして、愛と平和を築くために協力できれば良いのにと思いますぴかぴか(新しい)
私たちは同じ宇宙に生きる仲間ですから・・・夜
しかし因果なことに、人間はあれほどかたくなに「無記」を貫いたお釈迦様に反して、その「無記」な部分、宇宙はどうしてできたのか「無からできたのか、有からできたのか云々」「そもそも宇宙はどんな姿をし、誰が作ったのか、勝手にできたのか云々」「時間は永遠か有限か」「魂はあるのかないのか」を考えることが、たぶん三度のメシより好きなのです。
まして現代実証科学の時代は、考えた理論が実証されるという無上の喜びまでつけてしまったからもう止める手段はないのです。

その一方で、科学的知見と、人間の心の底にある認識は一致しないままです。いまだに地動説より天動説がしっくりくるのです。誰もご来光を見て「ああ!すばらしい、地球が回っている」という感想はもらさないことからも明らかです。

宇宙論だってアインシュタインあたりは「神の創造たる宇宙には整然たる秩序があるはずだ」ということが、考えの根底にあったのだと聞かされています。

宗教は、この人間の心の奥にある「心的事実」と現実の実証知見をどうつなぐかにあるのかも知れません。
わたしは認識論的仮設として 唯識を受け入れているので
科学的知見も意識に映ずる影像だという点で 
日常的な世界受容と本質的な違いはないんだろうな と思ってます

観測・実験の裏付けがあるという理由で 科学的「実証的事実」のほうに
リアリティを感じて そちらを実体化してしまうなら 
仏教的にはちょっとまずいかなと そういうイメージですね
>>[092]

仏教においても、部派仏教になるとそのアビダルマにおいて壮大な宇宙論が展開されているものもあります。
仏教は現実にある実体そのものを扱ってるんだから、観察された科学に矛盾しないのは当然だ。
縁起というのは、自然の現象そのものなんだよ。

自然現象を記述するのが、自然科学だ。ただ記述された自然と、記述の対象となった自然はイコールではない。
仏教の教えるところは、我々は自然界の生き物だ、ということであって、我々を記述することではない。
生き物は、生きることが自己実現であって、記述し評論することは、余暇の余業だと思う。

また、実体は無いというが、何もないわけではない。瞬間瞬間には物や事がひしめいている。
それが相互に関連している。
その関わり方を、空とか法とかいう。
力学の理論は、仮設のものであるから、真理に近似のものであるが、
空は、真理をさす。

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