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人間論および人間学コミュの西田幾多郎著「人間的存在」

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西田幾多郎の人間論である「人間的存在」を連載していきます。人間論に関心ある方だけでなく、西田幾多郎に関心ある方も是非お読みください。なお字体は新しくし、よみづらいのは( )内によみがなをつけました。

ーーーーーーー「人間的存在」ーーーーーーーーーーーーー
               西田幾多郎

掲載
1938.03「人間的存在」 思想 第 190 号
1938.8~9 「歴史的世界に於ての個物の立場」 思想 第 195,196 号

□歴史的現実の世界は制作の世界、創造の世界である。

□制作といふのは我々が物を作ることであるが、物は我々によって作られたものでありながら、何処までも自立的なものとして逆に我々を動かす、これに加え我々の物を作る働きそのものが固(もとより)、物の世界から生れるのである。

□物と我とは何処までも相反し相矛盾するものでありながら、物が我を動かし我が物を動かし、矛盾的自己同一として世界が自己自身を形成する、作られたものから作るものへと行為的直観的に動いて行く。

□我々は制作的世界の制作的要素として、創造的世界の創造的要素として、制作可能なのである。

□而(しこう)して斯(か)く我々が歴史的制作的たる所に、我々の真の我といふものがあるのである。故に此(この)世界は労苦の世界である。

コメント(39)

□人間は自由と必然との矛盾的存在であるのである。

□単に考へられる矛盾だけならば、何の当為もなければ何の労苦もない。世界に始(はじまり)があると考へねばならぬと共に然(さ)考へることはできない。それは自己矛盾である。

□併(しか)しその問題は姑(しばら)く哲学者に任せて置いてよい。矛盾が現実の生命の事実なるが故に、我々に無限の努力があり、無限の労苦がある。無限の当為もそこから出て来るのである。

□矛盾は人生の事実であるのである。それは我々の生か死かの問題であるのである。而してそこに歴史的現実があるのである。

□自己が自己に依存すると考へられるかぎり、弁証法といふものはない。唯内的発展あるのみであろ。又自己が唯外的なるものに依存すると云つても、弁証法といふものがあるのではない。

□之(これ)に反し物と我とが何処までも相対立し相限定する、否相否定すると云つても、何等かの意味に於て単に空間的なるもの、無時間的なるものに於て考へられるかぎり、絶対弁証法ではない。

□絶対の対立は過去と未来との対立でなければならない。過去は既に過ぎ去ったものであり、未来は未だ来らさざるものでしである。そこには絶対の断絶がなければならない。

□而も時は絶対矛盾の自己同一として過去から未来へと動き行くのである。私が自己自身を限定する永遠の今といふのは、かかる絶対矛盾の自己同一を云ふのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立すると云ふ所以である。
□絶対弁証法とは作られたものから作るものへと云ふことでなければならない、物が作られること、創造といふことでなければならない。

□物が作られると云ふことは、因果的に物が現れると云ふことではない、又合目的的発展といふことでもない。

□因果的必然の世界には制作といふものはなく、今日的的発展の世界にも制作といふものはない。制作といふ如きことは従来哲学の立場として考へられなかつたのであるが、歴史的現実の世界といふのは制作の世界でなければならない。制作といふことなくして歴史的現実の世界といふのはない。

□歴史的現実の世界は制作といふことから考へられなければならない。それは対象認識の立場からも作用的反省の立場からも到達し得る立場ではなない。故に人は往々無造作に無媒介的とか神秘的とか考へる。併し思惟作用といふものも、歴史的世界に於ての行為として歴史的世界から媒介せられるものでなければならない。
□制作の底には因果的必然を考へることもできない、又内的発展といふものも考へることもできない。

□我々は意識の底から何物も作ることはできないと云へば、直(すぐ)に単なる自然的生成といふ如きことが考へられるでもあらう。併しそれでは作ると云ふ意義はない。

□私の形成作用といふことは、屡屡(しばしば)芸術的創造作用と同一視せられる。芸術的創造作用も歴史的形成作用の一種ではある。併しそれはその特殊なる一種たるに過ぎない。歴史的形成作用といふのと、単なる自然的生成といふこととは区別せられなければならない。

□それは却つて逆の立場である。前者に於ては、単に與(あた)へられた連続といふものがあるのではない。それあるかぎり、それは形成作用ではない。それは作られたものと云ふのは過き去つたものである、死んだものである。それから作るものへとは云ひ得ないのである。

□そこには空間的には云ふまでもなく、時間的にも連続といふものは許されない。さういふものが考へられるかぎり、それは歴史的形成ではない。故に私は歴史に於ては単に與へられたと云ふものはない、與へられたものは作られたものであると云ふのである。

□作られたらのから作るものへと云ふのは、絶対断絶の連続でなければならない。然(しか)らば、さういふ断絶の連続とは如何なるものであるか。それは我々の表現作用的と考へるものでなければならない。

□作られたものから作るものへの自己同一は、作られたものの中にあるのでもない、作るものの中にあるのでもない。如何なる意味に於ても、自然的生成と考へられる場合の如く、所謂(いわゆる)内在的世界の中にあるのではない。それは超越的でなければならない。

□絶対矛盾の自己同一は、所謂此世界の中にあるのではない。超越的自己同一の世界に於てのみ、作られたものから作るものへと云ひ得るのである。超越的なるものが内在的と云ふことは、自己自身を表現すると云ふことでなければならない。
□表現作用と云へば、人は唯(ただ)主観から客観へと考へるが、それいつも逆に客観から主観へと云ふことでもなければならない。

□主観と客観とは何処までも相対立するものでなければならない。而(しか)もそれは唯空間的に封立するのでなく、時間的空間的に相対立するのでなければならない。

□絶対に主観から客観は出ない、客観から主観は出ない、そこには絶対の断絶がなければならない。而も絶対矛盾の自己同一として物が形成せられる所に、表現作用といふものがあるのである。

□単なる客観から表現といふものが出ないのみならず、単に時間的連続なる主観的作用から表現といふものが出るのでもない。それは内的媒介によるのでもなく、外的媒介によるのでもない、又所謂自然的生成によるのでもない。表現作用的に自己自身を構成し行く世界の自己同一は、その世界に内在的ではなくて超越的でなければならない。故にそこから真に客観的な当為といふものも出て来るのである。

□此世界は何処までも因果的に決定せられたものかありながら、與へられたものは作られたものとして、否定せらるべく作られたものである。作られたものは又亡び行くものでなければならない。

□歴史の世界に於ては何物も永遠不変なるものはない。歴史の世界の底には、如何なる意味に於ても、対象論理的に考へられる如き自己同一が残されてはならない。それあるかぎり、形成的ではない。単に対象論理的立場から考へる時、自然的生成と歴史的形成作用とは区別できないであらう。従つて歴史的形成といふ如きことは考へられないのである。

□我々の行為は唯主観的に生起するのではない。却つてそれは客観的に生起するものでなければならない。客観的と云つても、無論主観に対立的に考へられる抽象概念的な客観から起ると云ふのではない。歴史的形成作用として生起するのである。

□斯くしてそれが歴史的に物を作る真の客観的行為であり、実践であり得るのである。制作的ならざる行為とか実践とかといふものはない。然(しか)らざるものは抽象的意志たるに過ぎない。故に私は行為は直観的に起ると云ふのである。身体的でなければならないと云ふのである。
□直観と云ふのは、我が単に受働的となることではない。我が物の世界の中に弁証法的に含まれることである。客観の中に主観が含まれることである。故に直観はいつも行為的直観であるのである。

□抽象論理の立場から云へば、行為と直観とは単に相反すると考へられ、行為的直観といふ如きことは矛盾の概念とも考へられるであらう。直観と云へば、そこに行為といふものがなくなることだと考へられる。

□併し単に受働的とか、単に物の中に我が消え失せろと云ふことが、直観ではない。我のない所には、直観といふものもない。直観といふことは、物の世界の自己否定として我が物の世界から生れることである、物が我々の行為を惹起することである。

□故に私は動物の本能的生活の如きも、既に行為的直観的といふのである。歴史的現実の世界は、作られたものから作るものへの世界である、形成作用的世界である。

□絶対矛盾の自己同一として、絶対に超越的なものに於て自己同一を有ち、作られたものから作るものと形成作用的なるかぎり、行為的直観的であるのである。弁証法的に見ることが働くことであり、働くことが見ることであるのである。動物の本能的生活といへども、それが歴史的形成的なるかぎり、行為的直観的であるのである。

□弁証法的に見ることが働くことであり、働くことが見ることであると云ふのは、働くことと見ることとが一つとなるとか、働くことがなくなるとか云ふことではない。

□作られたものから作るものへの形成作用と云ふのは、絶対に相反するものの自己同一として物が作られ、作られたものは自己矛盾的として亡び行く、而もその亡び行くと云ふことそのことが條件となつて又新たなる物が生れると云ふことである。

□故に絶対否定が媒介となる、絶対無が媒介となると云ふことである。物が生死によつて媒介せられると云ふことである。外的に媒介せられると云ふことでもなく、内的に媒介せられると云ふことでもなく、又主客合一的に媒介せられると云ふことでもない。

□主客合一的に媒介するものがあるならば、それは有であつて無ではない。絶対に超越的なるものによつて媒介せらかると云ふことでなければならない。絶対に超越的なるものによつて媒介せられる、絶対無によつて媒介せられると云ふことは、積極的には歴史的社会的世界の創造的表現、云はば具体的な言葉によつて媒介せられると云ふことである。

□我々の歴史的生命は客観的表現によつて呼び起されるものでなければならない。我々の生命は客観的表現によつて媒介せられるものでなければならない。客観的表現といふものは唯解釈せられるものではない。客観的表現によつて媒介せられない生命といふものはないのである。

□絶対に超越的なるもの、絶対無を媒介として創造的に現れるものが客観的に表現的であるのである。物が表現作用的に生成する云ふことについて、従来深く考へられてゐない。唯対象論理の立場から、主客合一といふ如き芸術的創造作用の抽象的な見方が連想せられて居るのみである。

□併しそれは絶対の過去と絶対の未来と、即ち絶対に相反する方向の矛盾的自己同一として、歴史的空開に於て物が生成すると云ふことでなければならない。即ち真に作られたものから作るものへと云ふことでなければならない。

□斯く云へば、直にそれが無媒介とか単に直接とか考へられるでもあらう。併し全くその逆である。そこに與へられた何物もあつてはならない。単に與へられたものを基として表現作用は成立せない。與へられたものは作られたものとして、作られたものが自己自身を消費することによつて生産するのである。

□我々の身体とは自己自身を消費することによつて生産するものである。身体的生命といへども、消費と生産との矛盾的自己同一である。自己が自己自身を否定するとは云へない。それは単なる矛盾である。

□作られたものが自己自身から自己自身を否定して作るものへと云ふことはできない。それは他によらなければならない。作られたものから作るものへと云ふには、絶対否定によつて、矛盾せられなければならない。

□與へられたものからの自然的生成と考へられるかぎり、表現作用といふものはない。我々の生命の底には、いつも客観的表現的なものが、我に臨んで居るのである。我々が物を作ると云ふ時、いつも客観的に表現的なるものに対して居るのである。

□かかる意味に於て客観的表現的なものが理性である。ポイエシスはロゴス的である。斯く我々の生命は表現作用的に物を作るにあり、絶対否定によつて媒介せられるが故に、生命は自己矛盾であり、何処までも労苦であるのである。単に直接とか無媒介といふ所に生命はない。
□歴史的世界に於て物が作られると云ふことは、物が表現作用的に形成せられることである。

□それは與へられたものとして有るものが、自己自身を消費することによつて、自己自身を消すことによつて生産することである。死することによつて生れることである。絶対矛盾の自己同一として過去と未来とが同時存在的なる歴史的空間即ち歴史的現在に於て、與へられたもの即ち作られたものが、自己自身を否定することによつて、消え行くこと即ち過去に入ることによつて、新なる物が現れることである。即ち物が創造せられることである。

□それが作られたものが作るものとなる、創造せられたものが創造すると云ふことである。而してそれが歴史的空間に於て物が働くと云ふことである。

□そこに行為といふものがあるのである。物理的空間に於ても、物が働くと云ふことは、物が物自身を否定することであらう。

□物が働くと云ふことは、物が力を失ふことである。併し物理的空聞に於ては、物が消え失せるのではない。従つてそこには真に働くと云ふことはない、真に自己自身を限定する個物といふものはない。故に真に働くものは、生れると共に死に行くものでなければならない。

□歴史的空間は生死の場所でなければならない。それは自己と同列的に対立するものによつて媒介せられると云ふことではない。それは絶対に超越的なるものによつて媒介せられると云ふことでなければならない。客観的表現によつて媒介せられると云ふことでなければならない。
 〔歴史的空間は表現作用的場所でなければならない。

□歴史的世界の動きを表現作用的と云へば、唯物論者からは主観主義と考へられるかも知れない。併しその逆である。

□私は却って歴史的物質的作用といふものを考へて居るのである。故に主観的意識作用といふものを、歴史的物質的運動に於て考へるのである。歴史的物質とは表現性を有ったものでなければならない。然(しか)らざれば、それは歴史的物質でもなければ、弁証法的物質とも云われない。

□例へば、資本主義的社会の富のElementalform (要素形態)である商品は、歴史的物質的として使用価値と交換価値とのZwieschlächtiges(二重性)である。

□その故に資本主義的世界が弁証法的に動いて行くのである。表現性といふものなくして、交換価値を有つなどと云ふことはない。

□表現性といふものが物の性質に属するのでなければ、物の世界がイデオロギイを有つなど云ふことはできないではないか。

□加之(これにくわえ)、社会といふものが、固(もとより)表現作用的に構成せられたものでなければならない。

□世界を相互補足的と考へることは、 主観的と考へることではない。

□主観に対立して単に否定的に考へられる客観は、真の客観ではない。所謂(いわゆる)外界といふ如きものは、今日物理学でも考へない。〕

□歴史的現在に於て、行為的直観的に見られるものは、表現作用的に形成せられたものでなければならない。

□絶対矛盾の自己同一によつて直観的に現れるものは、絶対否定によつて媒介せられ、我々の死の底から見られるものでなければならない、而してそれは又直に客観的表現として我々を死の底から呼び起すものでなければならない。

□絶対否定を媒介として表現作用的に物を作ると云ふことは、自己が消え行くことであり、逆に表現作用的に物が現れると云ふことは、自己が生れることである、そこに自己の働きが呼び起されるのである。

□我々の生命は物を作るにあり、制作的生命は表現作用と云ふものから把捉せられなければならない、従来、表現作用といふことは、意識的自己の立場からのみ考へられて居たのである。

□意識的自己が自己を客観的に現することを表現作用と考へて居たのである。併し意識作用そのものが、固歴史的制作から発展するのである。

□我々の制作が絶対否定によつて媒介せられる、即ち客観的表現によつて媒介せられると云ふことから、意識作用といふものが発展するのである。

□弁証法的世界に於て絶対矛盾の自己同一によつて形成せられたものとして、即ち歴史的生命によつて形成せられたものとして、與へられたものは行為的直観的に見られるものでなければならない。

□而してそれは又直(ただち)に我々の行為を呼び起すものでなければならない。動物の本能的生活が既に行為的直観的と云ふ所以である。

□動物が物を見ると云ふのは本能的に見るのであり、見ることは直に働くことであるのである。

□そこに判断といふ加きものは入らないと考へられるが故に、単に直接とか無媒介とか考へられる。

□併しそこにも既に表現作用的媒介がなければならない。動物の本能的生活も歴史的生命によつて媒介せられるものでなければならない。故にショーペンハウェルの云ふ如く、動物の世界と云いへども、労苦の世界であるのである。それは既に絶対矛盾の自己同一によつて媒介せられた世界である。我々の意識的行為といふものも、此から発展し来つたのである。
□我々の身体と考へられるものが既に矛盾的自己同一として働くものでなければならない。働くことが見ることであり、見ることが働くことである。身体の働きは既に表現作用的である。身体が働くと、云ふのは、単に自然的生成と云ふことではない。
 
□植物は身体を有たない。働くと見るとが結合する所に、身体といふものがあるのである。行為的直観的に物が見られる所に身体といふものがあるのである。見られたものは、我々の行為を呼び起すものである。與へられたものが求めるものである所に、我々の生命が生起するのである。 

□時間的に動き行くもの、即ち働くものが絶対否定によつて媒介せられる、即ち客観的表現によつて媒介せられるといふ所に、身体といふものがあるのである。 

□故に我々の身体といふものが既に自己疎外的な存在であるのである。斯く我々の身体が絶対否定によつて媒介せられ、客観的表現によつて媒介せられるものなるが故に、我々の身体は逆に何処までも否定せらるべきものであるのである。その故に身体から身体を否定した行為といふものも成立するのである。意識的自己の立場といふものが成立するのである。そこには単なる当為も行為と考へられる。 

□併し歴史的身体の弁証法的発展を基として、かかる行為が成立するのでなければならない。それを何処までも否定することはできない、又それを否定すれば行為といふものではなくなるのである。 

□歴史に於てあるものが、歴史を否定することはできない。否定すると云つても、それは又歴史の立場からでなければならない。作られたものから作るものへである。作られたものから作るものへと云ふことは、非弁証法的運動といふことではない、却って絶対否定を媒介とすることである。

□身体といふものが相反する両方向の結合と云へば、判断論理の立場からは無造作に両方向が一となると考へられるかも知れぬが、それは絶対矛盾の自己同一によつて媒介せられたるものとして何処までも自己矛盾的なのである、有であると共に無であると云ふことである。
 
□我々の歴史的生命は制作的として行為的直観的に生起し、それは表現作用的として客観的表現によつて媒介せられるが故に、我々の歴史的生命に於て言語と又ふものが発生する。言語学者は制作から命名が起ると云ふ。ポイエシスからロゴスであるのである。私がロゴス的身体といふ如きものを考へる所以である。 

□我々の歴史的生命が作られたものから作るものへとして、創造的になればなる程、それが理性的となる。故に理性とは制作的な我々の身体的自己に内在的なのではなくして、外から我々に臨むものであるのである、命令的と云ふことができる。 

□更に又我々の歴史的生命が制作的であり、客観的表現によつて媒介せられると云ふことは、我々の生命と云ふものがその根底に於て社会的といふことを意味する。我々の行為が客観的に形成せられた形によつて媒介せられると、いふことを意味するのである。 

□社会といふものは、何等かの客観的表現を中心として、組織せられるのである。何等かのイデオロギィなくして社会といふものは成立せない。我々の身体的生命といふものは固自己矛盾的であり、客観的表現によつて媒介せられるものとして自己否定的たるが故に、自己自身を否定して社会といふものが成立する。 

□併しそれは何処までも身体的生命から身体的生命の予定として成立するものでなければならない。然らざれば単に抽象的存在たるに過ぎない。私が社会を歴史的身体的といふ所以である。 

□而して身体的生命から絶対否定によつて媒介せられ、客観的表現によつて成立すると考へられる歴史的身体的種、即ちゲマインシャフト的社会が、何処までも否定によつで媒介せられ、その極限に於て我々が絶対矛盾の自己同一に対して立つ時、そこに身体的生命といふものが全然否定せられると考へられ、我々は絶対的客観的表現に対して立つ、云はば神の言葉に対して立つと考へられるのである。 

□創造せられて創造するもの、即ち創造物が、創造者に対して立つと考へられるのである。そこに我々は身体的バラスト(注ballast 船体の安定を保つために船底に積む砂・砂利などの重量物。底荷。脚荷(あしに))を離れて、(カントの意識一般とか実践理性とかいふ如き)単なる理性的主観といふものを考へる。

□客観的表現は無限の当為と考へられるのである。そこには直観といふものが否定せられると考へられる。併し何処までも創造せられたものから創造者に至ることはできない。我々は何処までも創造せられて創造するものであるのである、作られて作るものであるのである。

□我々は絶対否定によつて媒介せられ、自己自身を否定することによつて物を作る、逆に物が見られる所から働く。かかるその根底に於て表現作用的な、歴史的身体的行為の極限に於て、我々は無限の当為に撞着するのである。 

□それは與へられたものを否定することではなくして、却って絶対の過去と未来とが同時存在的な歴史的現在に於て、作られたものとして與へられたもの、即ち無限の過去を肯定することである。作られたものから作るものへの歴史的身体的発展を否定することではなくして、却って絶対に之を肯定すよることでなければならない。
 

□抽象的には単なる否定といふものが考へられるかも知らぬが、否定はそこから起る否定でなければならない。與へられたものを過去として見るのである。併しそれを歴史的現在に於て過去として見るのである。そこから歴史的未来への要求が起るのである。絶対否定を媒介とする歴史的現在の個性的自己限定が理性的であり、それが我々の意識的自己に対して絶対的当為と考へられるのである。
 
□人間は最後に創造せられたと云はれる如く、人間は創造せられて創造するものの極限である。此処に人間の行為は判断によつて媒介せられ、行為は当為的でなければならぬと考へられる。併し人間といふものも、作られたものから作るものへとして、歴史的に発展し来れるものでなければならない。

 我々の行為は行為的直観的に見られる物の世界から要求せられるものでなければならない。我々が制作的なる時、客観的表現に対するのである。行為的直観的に物が見られると云ふことは絶対矛盾の自己同一によつて媒介せられ、見ることが働くことであり、表現作用的に我々の行為が要求せられることである。
 
□行為的直観とは形成即直観といふことである。認識論的立場からは、表現は単に了解の対象と考へられるであらう。又制作と云へば、芸術的作品の如く単に鑑賞の対象とも考へられるであらう。併し客観的表現が表現作用的に我々の行為を惹起するのである。その故に身体といふものがあるのである。
 
□身体とは右に云つた如く自己矛盾的存在である。それは絶対否定を媒介として即ち客観的表現を媒介として、作られたものから作るものへと自己矛盾的に自己自身を形成し行く、即ち行為的直観的である。逆にかかる行為的直観的形成作用が身体的なのである。動物の本能的生活といふものも、それが形成作用的であるかぎり、かかるものでなければならない。それは既に絶対否定によつて、媒介せられたものでなければならない。
 

□太始に言葉ありと云ふ語は味ふべきである、それはファウストの如く、意味ありとも、力ありとも、行ありとも訳すべきでない。私が行為的直観といふ語を極めて広く生命全般に用ひる所以である。
 
□抽象論理の立場からは、直観と作用とは単に何処までも相反するものと考へられ、行為的直観にといふ如きことは、非弁証法的と考へられるであらう。

 併し我々の生命といふのは行為的直観的に物を作るといふ所にあるのである。そこに実践といふものがあり、行為といふものがあるのである。そこに我といふものがあるのである。(ambulo ergo sum (注―「われ遊歩す、ゆえにわれあり」)とも云ふべきである。)而してかかる歴史的生命の過程が真に絶対弁証法的なのである。 

□抽象的思惟といふものは、かかる作られたものから作るものへの歴史的生命の極限に於て成立するのである。表現的形成作用からその作用的形成の意義を除去したものが判断作用と考へられるものである。 

□判断は直観的でないと云はれるかも知れないが、行為的直観に基かない判断といふものはない。之(これ)に反し我々が眼によつて物を見る場合でも、行為的直観的に見るのである。既に客観的表現によつて媒介せられて居るのである。(Lachelierの云ふ如く見ることは創造することである)。判断といふものも形成作用的ならざるものはない。然らざれば無内容たるを免れない。

 従来、作用といふものが考へられても、歴史の抽象的横断面に於て考へられて居るのであつて、歴史的発展の過程として考へられてゐない、時間的・空間的な具体的歴史的空間於て考へられてゐない。 

□直観と判断とは、客観的表現を媒介として、作られたものより作るものへといふ表現的形成作用、即ち歴史的身体的作用の両極でなければならない。非弁証法的なものから弁証法的なものが発展すると云ふのではない。 

□我々の生命は動物的生命より発展し、如何に動物的生命を否定すると云つても、動物的生命を一つの極として有つのである。又動物の生命は人間的生命と一つの極として有つことによつて、それが生命であるのである。人間は動物の単なる発展だと云ふのでない、一つの極であると云ふのである。此の如き意味に於て、人間的生命と動物的生命とが対立する。
 
□具体的生命はいつも中間にあるのである。歴史的生命は絶対否定によつて媒介せられるものとして、断絶の連続としていつも中和面を有つ。人間的極限に於て、それが意識面である。 

□意識的自己の立場からは、単に静的なる直観といふものも考へられ、又表現は了解の対象と考へられる、単なる意味と考へられる。併しそのやうな意識的自己といふのも、身体的自己の自己否定の極限に於て成立するものでなければならない。然(さ)考へることそのことが、歴史的身体的でなければならない。そこに既に表現と作用とが弁証法的に結合して居るのである。
 

□所謂判断論理の立場からは、弁証法といふものが考えられない。そこからは、思惟は何処までも連続的でなければならない。思惟は思惟の外に出ることはできない。かかる立場からは、何処までも結合せないものの結合として、弁証法は当為的でなければならぬとも考へられるでもあらう。 

□併し当為と云ふには、先づ我々の自己同一といふことがなければなるまい。我々の自己の自己同一といふのは、コギト・エルゴ・スムと云はれる如く、対象と作用と何処までも相反するものの自己同一といふことでなければならない、矛盾的自己同一といふことでなければならない。

□この故に我々の自己は自己矛盾的として作られたものから作もものへと動き行くのである。そこに我々の自己といふものがあるのである。かかる矛盾的自己同一を私は行為的直観といふのである。
 
□そこには作用に対して絶対に否定的なものから作用が惹起せられる、即ち客観的表現から呼び起されると云ふことがなければならない。絶対否定によつて媒介せられると云ふことがなければならない。然(しか)らざれば、それは実在的自己ではない。自己は身体的でなけわばならぬ所以である。
 
□作用が絶対否定によつて媒介せられる、即ち客観的表現によつて媒介せられると云ふには、何処までも自己自身を否定することによつて肯定すよると云ふことがなければならない。作用の方だけから見るならば、それは単に当為と考へられるであらう。併し当為が直に自己ではない。当為によつて迫られるものは、否定せらるべく與へられたものでなければならない。
 
□併し又単にそれだけならば、自己といふものはない。否定せられらものが又否定するものでなければならない。かかる表現作用的主体にして、当為を有つといふことが云ひ得るのである。判断論理の立場からは、かかる矛盾的自己同一を考へることはできないであらう。併し 矛盾を自知する人の自己に於て相矛盾するものが結合して居るのである。
 
□判断的論理の当為も、かかる矛盾的自己同一によつて成立するのでなければならない。唯それが単に抽象的にして形式的なるが故に、何等の行為的直観的なものがないと考へられるのである。

□而も行為的直観によつて身体的に媒介せられない実在的自己といふものはない。然らざるものは、行為的でもなければ、実践的でもない。真の客観的当為とは、我々が制作的身体的に繋がる歴史的生命の世界の客観的表現として我に臨むものでなければならない。
 
□科学的知識といふものでも、その基礎となる感覚的なるものは、行為的直観的に、歴史的身体的に把握せられるものでなければならない(対象、現実、感性が感性的・人間的活動、実践として主体的に捉へられねばならぬといふ所以である)。(注―マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』)
 

□学的知識といふものも、抽象的自己の判断的立場から成立するのではない。表現作用的形成の世界の表現作用的要素として、我々に客観的認識といふものが可能であるのである。作られたものから作るものへといふ歴史的形成作用の極限として思惟といふものが成立するのである。抽象と云ひ、否定と云ふも、そこから起るのでなければならない。我といふものが物の世界から呼び起されるところに、弁証法があるのである。
 

□歴史的世界を表現的形成と云へば、歴史的世界を、芸術的作品の如くに、唯観照的に見て居るとでも考へられるかも知れない。

□併し表現的形成とは、生れることであり、生むことであり、創造することである。表現的に自己自身を形成するものは、情熱に満ちたものでなければならない、デモーニッシュなものでなければならない。

 歴史的生命の世界は、動物の本能的生活から聖徒の宗教的生活に至るまで、情熱に満ちた世界でなければならない。表現と云へば、従来、認識対象にとしての客観的意味といふものを考へるのみであつて、表現的形成といふものについて考へられてゐない。

□併し表現的形成作用といふのは、機械的でもない、生物的でもない、作られたものから作るものへと云ふことでなければならない。而して歴史的生産作用の歴史的生産作用たる所以は、その表現的形成にあるのである。 

□また右の如く表現的に自己自身を形成するものは、情熱的とかデモーニッシュとかと云へば、すぐにも非合理主義と考へられるかも知れない。併し表現的に自己自身を形成と云ふことは、盲目的に働くと云ふことではない。表現的形成とは、物が客観的に形成せられることである。かかる客観的形成作用が理性と考へられるものである。
 

□情熱的なものの自己形成が具体的理性である(Les grandes pensées viennent du coeur.(注―The great thoughts come from the heart.

なので、直訳すると「偉大な思想は心(ハート)から生じる」となる。))。絶対的合理主義者たるヘーゲルは、如何なる偉大なるものも情熱なくして完成せられなかつたと云ふ。



               
ーーーーーーーーーーーーーー二ーーーーーーーーーーーーー



□実在的世界は個物相互限定の世界であり、私の所謂場所的世界、弁証法的一般者の世界である。

□個物とは何処までも自己自身を限定するもの、即ち内的に媒介せられるものたると共に、個物は個物に対することによつて個物であり、個物は内的即外的、外的即内的に、即ち自己矛盾的に媒介せられるものでなければならない(即は矛盾的自己同一の意義)。

□個物相互限定の世界は内的即外的、外的即内的に自己自身を限定する世界である。それは形成作用的に自己自身を限定する世界、自己自身を形成する世界である。

□形成作用とは唯内的に自己自身を媒介することではない、生物的発展の作用の如きものを云ふのではない。自己自身を形成する世界である。

□世界は単なる合目的的世界であることはできない。然らばと云つて、無論それは単に外的に外的に媒介せられる世界、機械的世界であつてはならない。形成作用的世界の根底には、唯内的にも、唯外的にも、実体的なものを考へることはできない。

□若し何れかの一方に、それを考へるならば、形成作用的ではない。要すろに、それは機械的か合目的的かでなければならない。形成作用的に動き行く世界は、抽象論理的に考へられる如き、単に内的又は外的に媒介せられる世界ではない。

□それは與へられたものは作られたものとして與へられたものであり、作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない、主体が環境を作り環境が主体を作り行く世界でなければならない。故にそれを媒介するものなき媒介と云ひ、絶対弁証法的と云ふのである。

□而してかかる形成作用的世界は、前節に云つた如く表現的形成の世界でなければならない。作られたものが作ると云ふことは、抽象論理的には不可能でなければならない。作られたものは過ぎ去つたものである。過去は再び来らない。過ぎ去つたものは、無でなければならない。

□而(しか)も過去から未来へとして、時といふものがあるのである。時といふものが成立するには、何等かの意味に於て過去未来が同時存在的でなければならない。時は現在が現在自身を限定することから成立するといふ所以である。

□併しその現在といふのが単に空間的と考へられるならば、時といふものはない。それは時を否定することに外ならない。時は断絶の連続と考へられる所以である。

□真に客観的な時は内的に媒介せられるものではない。内的に媒介せられると考へられる時は、何処までも主観的たるを免れない。然らばと云つて、時は単に外から媒介せられるものではない。

□外的にも内的にも媒介せられない、内的媒介、外的媒介を越え、超越的なるものによつて媒介せられるものでなけかばならない、即ち絶対否定によつて媒介せられるものでなければならない。

□而して絶対否定によつて媒介せられると云ふことは、客観的表現によつて媒介せられることである。創造的表現によつて媒介せられることである。故に時は一度的と考へられるのである
□時間的・空間的に動き行く世界、所謂物力の世界も、実に超越的なるものによつて媒介せられる世界でなければならない。

□所謂物理的空間と考へられるものも、既に表現作用的でなければならない。私の所謂発展的空間でなければならない。

□個物が何処までも個物であり、内的に媒介せられると共に、個物は個物に対することによつて個物であり、個物は何処までも外的に媒介せられねばならないと考へられる矛盾的自己同一の世界は、作られたものから作るものへと何処までも自己自身を形成し行く。それが歴史的生命といふものである。

□世界が作られたものから作るものへとして創造的と云ふことは、個物が自己自身を媒介するものとして何処までも個物となると云ふことであり、個物が個物となると云ふことは、世界が創造的となると云ふことである。

□かかる世界の進展に於て、何処までも作られたもの、與へられたものといふ方面に、何処までも外的媒介とせられたものとして、物質の世界、作られて作らないものが考へられると共に、作られて作るといふ方面に於て無限の生命といふものが考へられるのである(物質界も歴史的世界として単に作られたものではないが)。

□而して作られたものから作るものへと云ふことは、右に云つた如く表現作用的形成といふことであり、作用に超越的なるもの、客観的表現によつて媒介せられると云ふことである。

□我我の生命が具体的言葉によつて呼び起されるなどいふ所以である。私が動物の本能的生活も行為的直観より起ると云ふのも之に外ならない。行為的直観とは行為が客観的表現から惹起せられることである。(ロゴスはポイエシス的でありポイエシスはロゴス的である)。

□動物の生命は人間の生命を対極として有つことによつて動物の生命であり、人間の生命は動物の生命を対極として有つことによつて人間の生命である。

□作られたものから作るものへと世界が創造的に発展すると云ふことは、個物が表現作用的に形成することであり、本能的動作の世界から社会的制作の世界に入ることである。生物的身体の世界から歴史的身体の世界に入ることである(そこに意識といふものが出て来る)。

□かかる進展の極限に於て、與へられたものは作られたものとして何処までも否定せらるべきものであり、世界自身が自己自身の矛盾に撞着した時、個物は自己自身を否定して自覚的となる、即ち作用を越えて自己自身を知るものとなるのである。制作作用は思惟的となる、制作なき制作作用となる。ゴギト・エルゴ・スムと考へられるのである。

□作られたものから作るものへと云ふことは、固(もとより)自己矛盾的であり、働きの足場として與へられたものが作られたものであり、何処までも否定すべきものであると云ふことは、自己が自己自身の働きを否定することであり、それは自己自身の矛盾に撞着することである。

□創造せられて創造するものの生命、歴史的形成作用は、その成立の始に於てかかる運命が含まれて居るのである。私は動物の生命は人間の生命を極として有ち、人間の生命は動物の生命を極として有つといふ所以である。

□而して我々の生命がその極限に於てかかる自己矛盾に撞着すると云ふことは、作られたものから作るものへとして絶対否定によつて媒介せられる我々の生命が、絶対否定に撞着すると云ふことであり、そこには逆に絶対無限に自己自身を表現するものに撞着すると云ふことである。そこに我々が死することによつて新なる生命を得ると云ふ絶対者に撞着するのである。

□かかる絶対無限の客観的表現によつて媒介せられることによつて世界は人格的となるのである。而して私は汝に対するのである。個物と個物との相互限定は私と汝との相互限定となるのである。我々の人格的自覚は、無限なる歴史的形成の世界から生れるものでなければならない。人格は我々の身体的自己の歴史的・社会的制作から発展し来るのである。

 個人的自覚の発展には、作られたものから作るものへとして歴史的・社会的形成の自己矛盾が前提とならなければならない。作られたものから作るものへといふ歴史的形成作用を離れることによつて個人的自覚が成立するのではなく、その極限として成立するのである。然らざれば、それは抽象的意志といふ如き唯概念的に考へられるものに過ぎないであらう。そこには何等の実践的意義をも見出すことはできない。

□私は此論文に於て、歴史的形成は表現作用的にして客観的表現によつて媒介せられるとか、或は我々の生命が言葉によつて呼び起されるなどと云つた。此等の、言は、色々の誤解を招くと思ふ故、此処に翻つて私の考を明にして置かなければならない。

□それは意味が作用を惹起するとか、世界が意味の世界だなど考へるのではない。歴史的現実の世界は表現的な物の世界であるのである。物的表現の世界であるのである。私の客観的表現といふのは物的表現を意味するのである。

□概念的には物と表現とは結び附かないと考へられるであらう。併し歴史的現実は然るものであるのである、その故に弁証法的であり、歴史的現実であるのである。(単なる物の世界とはかかる世界から否定的に考へられるのである)。

□物が表現的だとか物的表現とかいふことが、既に世界が自己矛盾的なることを示すものである。而して我々の行為とは物を作ることであり、制作といふものは表現作用的に成立するのである。我々の行為は物的表現の世界から惹起せられるのである。そこに我々の行為的自己があるのである。

□物が表現的に我に臨むと云ふことは、現在の我、與へられた我を否定すべく、我に迫ることである。我々を動かすべく、我々の行為を惹起すべく、我々に臨むのである。人が私に対する時、単なる物質として私に対するのでもなく、単なる意味として私に対するのでもない。

□食物が動物に対する場合でも同様である。それは物質として対するのでもなければ、意味として対するのでもない。物が表現的だと云ふことは、物が表現作用的に見られると云ふことであり、我々が行為する、働くと云ふことは、表現作用的に物を作ることである。

□而してそれは我と物とが絶対否定を通して相媒介することである。表現作用的な歴史的世界に於て、人と物とが弁証法的に相限定するのである。

□故に我々が此世界に於て生きることは、労働であり、苦労である。而して同時にそれが創造であるのである。私が表現的形成作用を媒介する客観的表現といふのは、かかる物的表現をいふのである。それは超越的立場から作用を成立せしめると共に、又何処までも否定するものを云ふのである。

□言葉と云つたのは、キリスト教徒が用ゐる「神の言葉」といふ如き意味に於て云つたのである。キリスト教に於てのロゴスとは、ギリシヤに於てのロゴスの同一ではない。我々がそれによつて生き、それによつて死するものを云ふのである。それは創造的な意義を有つたものである。併し私は宗教の立場から云つて居るのではない、何処までも歴史的形成作用の論理的分析から云つて居るのである。

□歴史的形成の世界に於ては、超越的なものが内在的に働いて居るのである。無論超越的なものが内在的たることはできない。それは表現的に(象徴的に又は符号的に)働いて居るのである(かかる意味に於て意味が実在的なのである)。

□併し私が形成作用が超越的なものによつて媒介せられると云ふことは、デウス・エクス・マキーナ的(注―機械仕掛けの神、もとはギリシア語のἀπό μηχανῆς θεός (apo mekhanes theos) からのラテン語訳で、古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。ウィキペディア参照)に媒介せられると云ふのではない。

□内的矛盾といふことと直観即形成といふこととは、物の表裏の如く一つである。矛盾的自己同一と云つてよいであらう。我々は内的矛盾から直観に行くのである。即ち内的矛盾から超越的に形が現れるのである。(無論その間に時間を考へるのでない)。

□内的矛盾によつて作用的自己といふものが消えたと考へられる時、行為的直観的に形が見られるのであり、而して又それによつて自己が生きるのである。

□かかる場合に、作用が超越的なるものによつて媒介せられると云ふのである。我々が自己自身の中に自己矛盾を知る時、そこには既に自己自身を越えたものが働いて居るのである(作られたものから作るものへである) 。

□見られる形といふのは、作用を越えたものである。それは表現的である、而してそれは象徴的、符号的にまで押して行くことのできるものなのである。併しそれは何処までも作用と離れたものでなく、作用と自己矛盾的に結び附いたものである。作用的自己の矛盾的自己否定によつて形が見られるといふことは、又形が否定せらるべく見られることである。

 物が作用を惹起すると云ふことは、物が物自身を否定することである。かかる自己矛盾的結合を行為的直観的といふのである。抽象論理の立場からは、かかる結合が唯無媒介とか直接とかと考へられる、物と我とが唯一つとなるかのやうに考へられる。それでは見ると云ふこともないのである。

 具体的に見ると云ふには、作用的自己が自己矛盾的にそこに含まれてゐなければならない。行為的直観の歴史的現実とは作用的自己が自己矛盾的に合まれて居る場所であり、そこに我々はいつも絶対否定に面し、絶対に客観的な表現、創造的表現によつて媒介せられるのである。

□而してそれは又同時に現在が自己否定を合み、現在が現在自身を限定すると云ふことでもあるのである。故に行為的直観的な我々の歴史的生命は、本質的に自己疎外的契機を含んで居るのである。然ざれば、生命といふものではない。

□私が動物が人間を極として有ち、人間が動物を極として有つと云ふ所以である。認識主観といふ如きものも、行為的直観的自己の極限に於て成立するのである。絶対否定に面し絶対に客観的な表夫現によつて媒介せられる行為的直観的自己は、自己否定の極限に於て単なる知的自己となるのである。

□我々の生命は表現作用的形成であり、本質的に自己疎外的なるが故に、その成立の根源に於て既に論理的と云ふことができる。論理的契機なくして生命といふものはないと云ふことができる。具体的論理といふのは、表現作用的形成の論理でなければならない。

□歴史的形成の世界を表現作用的と云へば、すぐにも世界を解釈学的に考へるとか、芸術的に見るとか云はれるかも知れない。併し認識作用と云つても、世界の外から世界を知ることではない。知的自己と云つても、単なる眼の如く世界の外から世界を見て居るのではない。

□認識作用といふのも、上に云つた如く作られたものから作るものへといふ歴史的形成作用の極限に於て成立するのである。それ自身が歴史的形成作用的なのである。

□動く世界の中にゐて、動くことによつて知るのである。此故に認識といふことも可能なのである。単に外にあるものならば、知ると云ふことも不可能であらう。歴史的形成作用といふものは、既に論じた如くいつも超越的なるものによつて媒介せられたものでなけれ ばならない。

□歴史的形成の世界に於ては、表現的なものが実在的であるのである。創造者の創造の極限に於て、與へられたものが作られたものとして何処までも否定せらるべきものといふ時、歴史的形成作用は何処までも身体的なるものを否定し、之を越えるといふ意味に於て形式的となる、符号的表現作用的となる。それが思惟作用といふものである。

□歴史的身体的自己は、その尖端に於て思惟的となるのである。かかる思惟的自己の自己矛盾的否定によつて見られる世界が所謂認識対象界であるのである。

□思惟的自己の自己矛盾的否定によつて見られるといふ意味に於ては、それは思惟的当為の世界である。主観的に構成せられる世界ではなくして、客観的に現れる世界である。それは思惟的自己に命令的に臨むのである。

□それを認めないと云ふことは、思惟的自己が自己矛盾的に自己自身を否定することでなければならない。そこに所謂身体的知覚的なものは否定せられ、見ると云ふ如きことは云はれないとも考へられるであらう。

□表現作用的に見るといふことは、作用が物の世界の中に弁証法的に含まれることである。物理的世界と云へども、歴史的身体的な制作的自己の自己超越の極限に於て、符号的表現的形成によつて見られる世界でなければならない。

□符号的表現的自己の純なろ自己形成によつて見られるものが数の世界と考へられるものであらう。そこでは身体的に與へられたものから全然超越すると考へられる(数学も歴史的世界から歴史的に発展するものであるが)。之に反し物理の世界はいつ身体的に與へられたものからである。

□又この世界を表現的形成と見ることは、この世界を主観的に見ることではない。何処までも主客相互補足的な絶対弁証法的世界は、表現的に自己自身を形成する世界でなければばならない。それは何処までも我々の主観的作用を越えた世界であり、我々の主観的作用といふものがその世界の動きから出て来ると考へられる世界であるのである。

□単に我々に対立する世界は真の客観的世界ではない。それは単なる外界といふものか、押し詰めて考へて見ても、要するに力ント的な物自体の世界の如きものに過ぎない。真の客観的世界は何処までも我々を否定すると共に、我々がそこから生れる世界でなければならない。歴史的・社会的物自体の世界でなければならない。

□我々の行為は見ると云ふことと働くと云ふこととの弁証法的自己同一から発展するのである、表現的形成作用的に、制作的に、発展するのである。歴史的・社会的物質は表現性を有つたものでなければならない。

□それは単に機械的に動くのでもない、又単に合目的的に動くのでもない、表現的形成的に動くのである。表現的形成的に物が見られるかぎり、物が物自身を現すのである。この外に暗黒な物自体の世界があるのではない。故に現象即実在である。

□表現的形成性を有たない物質といふものは、唯考へられたものたるに過ぎない。物は表現的に自己自身を形成するかぎり、即ち現実に現れるかぎり、実在的なのである。

□唯物史観に於て考へられる如き物質の世界といふのは、機械的に動く世界でもない、又生物的に発展する世界でもない。それは表現作用的に、即ち制作的に自己自身を形成し行く世界でなければならない。斯くして始めて人間が環境を作り、環境が人間を作る、生産関係の世界、生産作用的世界と云ふことができる。

□歴史的物質とは単に動くものでもない、単に生長するものでもない、表現性を有つたものでなければならない、表現作用的に動くものでなければならない。

□歴史的物質の世界に於ての物力と考へられるのは、表現的形成力といふべきものでなければならない。制作力である、故に又創造力である。物が表現性を有つと云ふことは物の自己矛盾性を現すものである。

□物が自己自身を表現すると云ふことは、物が一面に絶対に自己自身を否定すること、無となることでなければならない(潜在的となるのでもない)。

□而もその自己自身を否定すること、そのことが同時に物が自己自身を現すことであり、物が物自身を維持すると云ふことでなければならない、即ち物があるといふことでなければならない。

□歴史的・社会的世界に於ては、物は表現作用的に、制作的に、自己自身と表現するものでなければならない。かかるものとして、その存在性を有つのである(私は歴史的物質といふものを、かかる意味に於て自己矛盾的存在と考へるものであるから、今日の物理学に於て物質と波との矛盾的結合といふのも、かかる理由に基くのではないかと思ふ)。

□従来弁証法的世界といふものが考へられても、真に絶対否定を媒介とする弁証法的世界といふものが考へられなかつた。故に表現といふことが唯主観的作用に即して考へられて、物そのものの性質として客観的に考へられなかつたのである。

□歴史的世界は外的に媒介せられるのでもなく、内的に媒介せられるのでもない。然らばと云つて主客合一的に無媒介と云ふのでもない。判断的立場から主語的に考へられる主客合一とは、静的統一の外、何物でもない。作るものが作られたものであり、作られたものから作るものへと動き行く世界は、絶対矛盾の自己同一によつて成立する世界でなければならない。それを絶対無の媒介の世界、絶対否定によつて媒介せられる世界と云ふのである。

□そこでは働くもの、内的に自己自身を媒介するものは、自己自身を否定せなければならぬ、否、否定せられなければならない、自己が何処までも外的に媒介せられなけばならない。

□外的に媒介せられると云ふことは、自己が否定せられることである。作るものが作られたものであると云ふことは、作るものが此世界から否定せられることである。そこでは、すべてが過去から決定せられたものでなければならない、過去のみの世界である。

□是故に作られたものから作るものへと云ふことは、作るものが絶対否定の底から、無の底から生れると云ふことでなければならない。それが物が表現作用的に働くと云ふことであり、歴史的運動の世界に於て物が表現性を有つと云ふことである。

□これまで作られたものから作るものへと云つたが、作られたものと云ふのは、過去に入つたものと云ふことである。過去からと云ふことは必然的といふことである。そこから作るものは出ない、そこに自由といふものはない。作られたものからと云ふことは、生命の否定である。かかる否定の肯定に於て歴史的運動といふものがあるのである。

□それは機械的でもない、合目的的でもない。過去は何処までも決定せられたものでありながら、否定せらるべく興へられたものである。時に於て過去が否定せられると云ふことは、未来が生れることである。併しそれは過去の中に未来が内在的に合まれて居るのでもなければ、又働くものとして現れ来たるものが、過去を質料とすると云ふことでもない。

 過去は何虎までも未来を否定することによつて過去であり、未来は何処までも過去を否定することによつて未来である。かかる矛盾的自己同一として、時といふものが成立するのである。

□過去としで與へられるものが(即ち外的媒介として我々を否定するものが)、自己自身を否定することによつて未来を生むべく與へられると云ふことは、表現作用的に見らるべきものとして與へられると云ふことである(過去と未来との同時存在的な歴史的空間に於て)。

□矛盾的自己同一的に外的媒介たる弁証法的世界に於ては、物は表現作用的に見られ、物は表現作用的に目己自身を媒介する。我々の制作的行為は物を見るより起るのである。我々の生命は弁証法的に物を見るより起るのである。但、かかる生命の極限に於て、我々は歴史的形成作用を離れて抽象的自己から行為すると考へる。併し何処まで行つても我々の行意は歴史的社会的構成作用を離れるのではない。

□道徳的行為でも、その続きである。故に「すべきである故にできる」とも考へられるのである。又斯く歴史的社会的構成力が表現作用的であり、物が表現性を有つと云ふことから、実在本が論理的と云ふことも考へられるであらう。具体的実在は論理の対象となるのではなくして、論理が実在の中に働いて居るのである。

□物が表現作用的に働くと云ふことは、物が論理的に働くと云ふことである。実在は弁証法的論理に動くと云ふことができる。抽象論理といふのは、その否定的媒介の極限に於て現れるのである。

□表現作用は否定を媒介とする。その否定的媒介の極限に於て、働くものそのものが否定せられると考へられる時、表現作用は判断作用となるのである(そこに単に符号的なるものが対象となると考へられる)。

□併し表現作用的形成の生命は、固絶対否定を媒介とすることによつて成立するのである。又歴史的形成作用といふものが社会的でなければならぬと云ふことも、歴史的物質の表現性といふことから理解せられるのであらう。



□絶対矛盾の自己同一によつて成立し表現作用的に自己自身を構成し行く世界は、見ることが働くことであり働くことが見ることである、即ち制作的な歴史的現在を中心として作られたものから作ろものへと動いて行く。

□制作的なる所、そこに歴史的現実があるのである、そこに歴史が生きて居るのである。物が作られると云ふことは物が過去に入つたことである、作られたものは死んだものである。

□併し歴史的空間に於ては、それは単に無くなつたのではない、見られるものとなつたのである、表現的世界に入つたことである。

□而してそれは表現作用的に見られるものとして、表現作用的に作用を惹起すろことである、制作的に物が動くことである、作られたものから作るものへと云ふことである、過去から未来へと云ふことである。而してそれはこの世界が何処までも外的に媒介せられると云ふことである。

□物が過去に入らなければ何物も生ぜない、何等かの変化がなければ何物も起らない、原因なくして結果はない。かかる理由によつて、表現作用的に自己自身を構成する歴史的現実の世界は何処までも因果の世界である、物質的世界であるのである、因果的物質の世界と云つても、斯くして何処までも表現作用的に見られる世界でなければならない。

□物質は表現性を有つたものでなければならない(物質は一面に波動的でなければならない)。上に云つた如く表現作用的制作の現実、歴史的身体的現実は、絶対矛盾の自己同一によつて成立し、何処までも否定的に媒介せられなければならない。然らざれば、自己自身を限定する現実ではない。

□何処までも否定的に媒介せられると云ふことは、身体が何処までもロゴス的となり、物が何処までも名目的となると云ふことである。

□現実は過ぎ行くものであり、即ち過去に入るべきものであり、何処まで現実否定の過去から未来への結果として現実が成立するものと考へられる時、現実を越えて唯数学的に(形式的に)表現せられる物理的世界が見られるのである。

□物理実験といふのも、表現作用的に見るのである。数学的形式といふのは、見ることが働くことであり働くことが見ることである表現的形成作用の形式である、対象と作用との弁証法的自己同一の純なる形式である。

□数学的過程といふのは、見ると働くとの矛盾的自己同一の符号的形成と考え得るでもあらう。今日物理学的世界が、現実を越えて非直覚的と云つても、何処までも実験によつて現実の世界から構成せられるものでなければならない。

□歴史的現実は表現作用的に形成せられ表現作用的に自己自身を形成せられ行くものであり、何処までも超越的なるものによつて媒介せられるものたるが故に、自己自身を越えて非現実的なものから媒介せられると考へられるのである。

□右の如くにして歴史的現実に於て物が作られると云ふことは、絶対否定を媒介として物が見られる、物が現れることであり、それは又逆に作用が惹起せられることであり、作られたものから作るものへといふ方面に於て、即ち過去から未来へといふ方面に於て、物質的世界が考へられる。

□併し過去は未来によつて否定せらるべくして過去であり、過去なくして未来なきが如く未来なくして過去もない。未来が過去に合まれて居ると考へる時、合目的的世界といふものが考へられる。

□併し合目的的世界といふものが考へられても、それは制作的現実の世界ではない。それは形成作用的世界ではない、そこには作るものといふものはない。そこには作用の独立性といふものはない、作用が対象の中に、見るものが見られるものの中に合まれて居るだけである。

□それは見ると働くとの矛盾的自己同一の世界ではない。機械的世界であつても、合目的的世界であつても、制作的現実の世界から、作られたものから作るものへといふ方面に於て抽象的に考へられるものである。合目的的作用に於ても、唯未来が過去に含まれて居るまでである。


□制作的現実の世界は作られたものから作るものへの世界でなければならない、作られたものと作るものとの矛盾的自己同一の世界でなければならない。

□それは絶対否定によつて媒介せられる世界でなければならない。作られたものは絶対の過去に入つたものであり、作られたものから作るものへと云ふことはできぬ。それは矛盾である。而も制作的現実の世界は表現作用的に作られたものから作るものへと動いて行くのである。

□判断論理の立場からは、それを有と云ふこともできぬ、無と云ふこともできぬ。自己矛盾に有即無、無即有といふの外ない。

□合目的的世界は云ふまでもなく物質の世界といへども、作られた世界でなければならない。歴史的世界に於ては、単に與へられたものと云ふものはない。與へられたものは、作られたものでなければならない。作られたものにして作るものとなり得るのである。

□作られないものは、作るものとなることはできぬ。物質の世界も作られて作るものとして、何処までも歴史的世界の環境となるのである。而してそれは歴史的生成に対していつも過去的基礎の性質を有つのである。我々の行為的直観の世界に於て、何処までも過去からの方面に見られるものであるのである。

□右に論じた如き歴史的現実の世界は、自己矛盾的として、いつも自己目身の中から自己自身を越えて行く世界である、いつも自己自身を越える所に自己自身の実在性を有つ世界である。

□自己自身を越える所に自己自身の実在性を有つと云ふことは、それが絶対矛盾の自己同一によつて成立し、絶対の他に於て自己同一を有つと云ふことを意味する、自己自身の中に自己同一を有たないと云ふことを意味するのである。

□自己自身の中に自己同一を有つ世界は、自己自身の中から自己自身を越える世界ではない。従来考へられた如き物理的世界は云ふまでもなく、合目的的は生物の世界と云へども、自己の中から自己を越える世界ではない、自己否定に於て自己を有つ世界ではない、自己の中から自己を破る世界ではない。

□それは唯自発自展の世界である。自己が自己を越える、自己が自己の外に出る世界にして、始めてそれ自身が自己矛盾的存在であり、自己矛盾的に自己から自己を越え行くと云ふことができるのである。

□見ることと働くこととの矛盾的自己同一によつて、行為的直観的に自己自身を形成する世界は、自己自身の中に自己同一を有つ世界ではない。それは見られる物の方向に自己同一を有つこともできない、見るものの方向に自己同一を有つこともできない。

□それは外的に媒介せられる世界でもなければ、内的に媒介せられる世界でもない。それは作られたものとして何処までも決定せられたものでありながら、絶対否定によつて媒介せられたものとして、いつも自己矛盾的に自己自身を越え、作られたものから作るものへと動き行くのである。自己自身の中に自己を媒介するものを有たない即ち自己同一を有たない、故に絶対無によつて媒介せられると云ふのである。

□併しそれは単なる無によつてと云ふことではない、絶対に超越的なものによつて媒介せられると云ふことである。私が我々は歴史的現在に於て絶対に触れることのできない現在に触れて居ると云ふのは此故である。

□自己同一は此世界の中にあるのではない。絶対に近づくべからざるのみならず、之に向ふと云ふこともできないものである。被造者から創造者に行く途はない。併し現実はいつも絶対に超越的なるものによつて媒介せられ、我々は之に向ふと云ふことすらできない絶対から、我々は向ふ所を示されるのである。

□作られたものから作るものへと表現作用的に自己自身を形成する歴史的現実は、右の如くにしていつも自己自身を越えた世界である。我々はかかる世界の作用的方面に於て働くものとして、即ち創造的世界の創造的要素として、我々の生命を有つのである、故に自己矛盾的存在である。

□動物の生命といへども、既にかかる自己矛盾的存在であつた。動物的生命といへども、それが意識的であるかぎり、単に機械的でもなければ単に合目的的でもない、歴史的形成的でなければならない。

□へーゲルの云ふ如く、動物もエロイシスの秘儀を行じて居るのである。併し動物的生命とは作らかたものからの方面に即したものである、物の側に附着した生命である。然るに表現作用的に自己自身を形成する歴史的現実は、何処までも形成せられたものとして決定せられたものであると共に、何処までも自己自身を越えたものとして自己自身を形成する。

□我々の歴史的生命は、絶対否定によつて媒介せられたものとして、いつも絶対否定に面して居るのである。之を絶対に触れることのできない絶対に触れると云ふ。かかる歴史的生命の尖端が人間的生命といふものである。歴史的現実の世界に於て、我々は之に対すると云ふことのできない絶対に対することによって、自覚的となるのである。

□絶対矛盾の自己同一として作られたものから作るものへと動き行く歴史的生命の世界の自己矛盾の極限に於て、働くものとして絶対無限の客観的表現(所謂神の言葉)に参する時、我々は自覚的となるのである。即ち人格的となるのである。この外に真の自覚といふものはない。

□此の如くにして我々の人間的生命と動物の生命とは歴史的生命の両極に立つものではあるが、私は所謂日常生活が、その儘(まま)かかる極限的生命だと云ふのではない。我々の日常生活と云つても、肉体的には動物的である、精神的と云つても大概は因習的たるに過ぎない。

□唯、絶対矛盾の自己同一として成立する歴史的生命といふものは両極を有つと云ふのである(人が普通に日常生活と考へるものは、その弛緩したものである)動物は人間を対極として有つことによつて動物であり、人間は動物を対極として有つことによつて人間である。我々は日常生活に於てかかる生命の極限に立つ時のみ、真に人間であるのである。その他は動物的か社会的・自動的たるに過ぎない。

□ベルグソンの云ふやうに創造的進化の生命の流は熔鉄が固まる如くすぐに固形化する。私の生命といふのはべルグソンのそれと同一ではないが、作られたものから作るものへと弁証法的に動き行く歴史的生命はその作られたものの側面に固著することによつて固形化する、自動的となり機械的となる。それは死の方向である。

□行為的直観的に創造的なるかぎり、生命が生きて居るのである。私が日常性的生活を具体的と云ふのは、その因習的自動的なるを以てではない。それが歴史的生命としていつも絶対に面して居るが故である。具体的なるもののみ堕落し得るのである、堕落し得ると云ふことは逆に絶対に接し得ると云ふことである。

         
 



           三

□我々の実在界と考へるものは、何処かで感覚的なものに触れてゐなければならない、否、感覚的なものによつて基礎づけられてゐなければならない。

□従来、感覚といふものが、判断の立場から、唯受働的に考へられた。併しそれでは我々の実在界を基礎附けるものとはならない。

□それにはそれが感性的・人間的活動、実践として捉へられねばならない、主体的に捉へられねばならない。

□主体的にと云つても、先づ主体といふものがあつて何物かを捉へると云ふのではない。感性的・人間的活動とは、行為的直観的に起るものでなければならない。

□見るといふことと働くといふこととの弁証法的自己同一から、感性的・人間的活動といふものが起るのである。それが物を作ると云ふことである。実践と云ふことである。

□故に我々の実在界といふのは制作的実践の世界であり、制作的実践を中心として作られたものから作るものへと自己矛盾的に動き行くかぎり、それが実在界であるのである。

□人間が此世界に現れたのは、幾千萬年かの生物進化の結果でなければならない。而して生物発生以前にまた無限なる物質的運動の世界が考へられねばならない。生物は物質的世界の或結構に於て発生したと考へることができる。

□歴史的世界の発展が表現作用的だと云ふのは、かかる自然科学的法則を無視することではない、却つてそれ等は主客相互補足的な弁証法的世界の自己形成の法則でなければならない。

□而して何処までも相互補足的に矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、表現作用的に自己自身を形成する世界でなければならない。眼とか耳とかいふものができたのにも、過去幾千萬年の進化の跡を思はざるを得ない。

□絶対矛盾の自己同一として、作られたものから作るものへと自己自身を形成する世界は、作られて作るものの極限に於て人間に到達する、人間は所謂創造物の頂点である。そこでは與へられたものは何処までも作られたものであり、否定せらるるべく與へられたものである。作るものより作られたものへと考へられる。神がおのが像に似せて人間を作ったとも云われる所以である。

□我々の身体と云ふものも、既に表規作用的として、超越的なるものによつて媒介せれたたものであるが、作られて作るものの極限に於て、我々は絶対に超越的なるものに面すると云ふことができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。

□我々は歴史的因果から脱却し得たかの如く考へるのである。歴史的実在の世界に於ては、感覚的なるものは単に感性的・人間的活動として捉へられるのではない、何処までも表現的形成作用的に捉へられるのである、歴史的・社会的活動として捉へられるのでなければならない。

□作られたものから作るものへの世界は、創造的となるに従つて、本能的から社会的とならなければならない。その極限に於て、絶対に超越的なるものを媒介とすることによつて、作るものから作られるものへとなる時、自由なる人間の世界といふものが成立するのである。私の所謂個性的に自己自身を限定する世界といふのが、自由なる人間の世界であるのである。

□「種の生成発展の問題」に於て論じた如く、歴史的世界に於ては主体が環境を限定し環境が主体を限定する。主体と環境とは何処までも相反するものでありながら、主体は個性的に自己自身を否定することによつて環境を限定し、環境は個性的に自己自身を否定することによつて主体を限定する。主体と環境とは個性を通じて相互否定的に相限定し、世界は作られたものから作るものへと個性的に自己自身を限定して行く。

□主体といふのは矛盾的自己同一の作用的方面であり、環境とは見られた物の方面である。作られたものから作るものへと、世界が個性的に動いて行くと云ふことは、世界が表現作用的に自己自身を形成し行くことである。而してそれは絶対否定によつて媒介せられると云ふこと、絶対に超越的なるもの、絶対無によつて媒介せられると云ふことである。

□作られたものから作るものへの極限に於ては、世界は個性的構成を中心として作られたものから作るものへと動いて行くといふことができる。絶対否定によつて媒介せられることによつて、世界は自覚的に動いて行く。それが理性的といふことである。與へられたものが媒介せられたものであり、媒介せられたものが與へられたものでのあり、推論式的に自己目身を限定するものが、個性的なものである。

□故に作られて作るものの頂点として人間の世界は、個性が構成を中心として、見られた物の方同と作用の方向とに、何処までも相反する両方面が考へられる。見ると云ふことと働くと云ふこととは、何処までも相反すると考へられるのである。

□世界が自己自身を限定する個性的構成の中心即ち理性といふものが、世界が絶対否定を媒介として、絶対に触れることのできない絶対に触れると考へられる点であり、絶対に超越的なるものによつて媒介せられる点である。

□此に於て、與へられたものは否定すべく與へられたものとして、作るものから作られたものへと考へられる。かかろ立場に於て、何処までも與へられた身体的なるものを超越せる表現的構成作用として認識主観といふ如きものが考へられる、理論理性といふものが成立するのである。

□之に反し、作用の方向に於て抽象的に当為の世界といふものが考へられる。カントの所謂実践理性の世界が成立するのである。而して作られたものと作るものとの対立に於て、作られたものが単に、與へられたものと考へられる時、質料的と考へられる。両者の対立は形相と質料と考へられる。

□併し絶対弁証法的歴史的空間に於ては、作られたものは否定せらるべく與へられたものたると共に、作るものを否定するものでなければならない。

□過去は単に未来によつて否定せらるべく與へられたものではなくして、又未来を否定するものでなければならない。絶対矛盾の自己同一としての歴史的空間に於ては、與へられたものは、単に質料的に與へられるのではなく、作るものを否定する性質のものでなければならない、即ち悪魔的なものでなければならない。

□それは単に形成せらるべきものではなくして、何処までも打克たるべきものでなければならない。故に作られたものから作るものへの極限に於て、絶対否定によつて媒介せられる世界の自己形成とは、対象的形成ではなくして、当為的でなければならない。

□何処までも表現作用的に自己自身を限定する弁証法的一般者の世界は、その自己限定の極限に於ては、個と個と、私と汝と相対する人格的自覚の世界であり、実践理性的に自己自身を形成する世界でなければならない。

□是故に真の当為は意識的自己の立場からではなくして、行為的直観的なる実践的自己の立場からでなければならない。

□我々は創造的世界の創造的要素として具体的当為を有つのである。当為とは表現作用的に自己自身を形成する歴史的世界の客観的表現として、外から我々に臨むものでなければたらない。

□右に云つた如く、歴史的生命の世界は、作られたものから作るものへの極限に於て、個性的構成を中心として動いて行く。世界は個性的に自己自身を構成する。それが理性と云はれるものである。

□我々は個性的世界の個性的要素として理性的であるかぎり、創造的である。かかる立場からのみ世界を見ることが、所謂合理主義的立場であり、かかる立場からの人間を見ることが内在的人間主義の立場、所謂ヒューマニズムの立場であるのである。

□それは作られて作るものの頂点として、人間が自己創造者と考へることである。併し上に論じた如く、作られたものから作るものへと動き行く世界の極限に於て、作られて作るものの頂点として人間といふものが現れるのである。人間は何処までも無限に深い歴史的バラストを脱することは出来ない。又之と脱すれば、人間といふものはなくなるのである。

 そこには唯抽象的意志といふ如きものが残されるだけである。何故に作られたものから作るものへの世界に極限があると云はねばならないか。それは絶対矛盾の自己同一によつて表現作用的に自己自身を形成し行く世界として、それ自身の中に自己同一を有たないからである。

 作るものの方向に於て作られたものを越えれば、唯抽象論理の世界あるのみである。それは亡び行く方向である。見ると云ふことと働くと云ふこととの矛盾的自己同一として、我々が自己矛盾的に物を見る所に、理性といふものがあるのである。

□自己矛盾的存在として、我々が自己自身を否定することによつて物を見、物を見ることから働く所に、理性といふものがあるのである。(働くことによつて物を映し物を映すことによつて働く)。故に理性といふものは人間に内在すろのではなく、超越的なるものによつて媒介せられる所に、理性といふものがあるのである。

□人間が理性的だと云ふことは、人間中心の人間主義を基礎附けるものではなくして、却つてその逆でなければならない。背理的と考へられるかも知らないが、却つてそれは人間的存在の超越的根拠を示すものである。真に理性的なるものは、超越的に媒介せられるものでなければならない。

□私は是に於てドストイェフスキイの小説を想起せざるを得ない。彼の問題は人間とは如何なるものであるかであつた。而して彼はそれを深刻に徹底的に追求した。

□『地下室の手記』の主人公の云ふ如く、直情径行の人はすぐ憤激した牡牛のやうに角を下に壁に打当る。併し自由のない所に人間はない。科学は自由意志などいふものはないと云ふが、人間は数学の公式でもなければオルガンの音栓でもない。

□『罪と罰』の主人公は高利貸の老婆を殺した。併しそれは金を取る為でもなく、それによつて人を救ふ為でもなかつた。唯、ナポレオンの如く強者にはすべてが許され得るか、自由を試すためであった。然るに彼は唯一匹の虱に過ぎないことが明になつた。

□『カラマーゾフ兄弟』に於て有名な大審問官の云ふ所も、之に外ならない。ドストイェフスキイは人間をその極限に於て見た、その消点( vanishing point )との関係に於て見たのである。ニーチェも人間をその極限に於て見た。併し彼はドストイェフスキイと反対の立場から見たのである。

□上に論じた如く、作られて作るものの頂点として、人間は絶対の鉄壁に打ち当る所に、真の人間があるのである。そこには唯二つの途がある。ラスコーリニコフの如く神なくして生きられるかといふ娼婦ソーニヤに頭を下げて新しい生命に入るか、然らざれば『悪霊』の中のキリロフの云ふ如き人神への途である。ニーチェの超人の理想は正にそれである。

 併し私は思ふ、彼の永劫回帰の思想は、超人の立場から彼自身が自ら越えることのできない深谷に臨んだことを示すものではなからうか。侏儒(注―小人)は云ふ、すべて真直ぐなものは偽である、すべて真なるものは曲つて居る、時そのものが円であると。永劫廻帰の立場からは、超人も何時かは侏儒とならなければなるまい。月高く犬は吠ゆ(Vom Gesicht und Räthsel) 。

□ニーチェの永劫回帰の考については、何処までも生命を繰返さうといふ生命肯定の偉大な意志の発現と見る方が、超人の思想から見て至当なのであらう。併し生命が永遠に繰返されると云ふことは、その一裏面から見れば既に生命の行詰りといふものを感ぜざるを得ない『地下室の手記』の主入公の云ふ如く鉄壁に打当つて居ると云ふこともできる。私はニーチェの外からニーチェといふものを見て、かかる考を抱くのである。

□自由といふもののない所に、人間はない。併し人間が徹底的に自由とならうとすればする程、絶対の鉄壁に打当る。人間が真に人間であらうとすればする程、人間は危機の上に立つのである。そこまでに至らない人間は、厳格には酔生夢死(注―《「程子語録」から》酒に酔ったような、また夢を見ているような心地で、なすところもなくぼんやりと一生を終わること。)の動物の域を脱したものでない。

□故に人間は最も神に背く所に、最も神に近づいて居ると云ふこともできる。人間が人間自身を否定する所に、真に人間の生きる途があるのである。私はここに真の理性といふものを考へるのである。真の弁証法として具体的論理は、かかる立場に立つものでなければならない。

□それは人間が神となることでもなければ、神が人間となることでもない。又神と人間とが一つとなる所謂神人合一といふことでもない。神と人間とは何処までも相反するものでなければならない、絶対否定を隔てて相対するのである、否、対すると云ふことはできないのである。

□絶対矛盾の自己同一として作られたものから作るものへといふ所に、神と世界との対立があり、作られて作るものの頂点として、絶対否定によつて媒介せられるといふ所に、人間が理性的なのである。

□弁証法的神学に於てのやうに、人間の絶対否定の方面に於てのみ神を見ることは、真に絶対の神を知る所以のものでないと思ふ。人間から神に行く途はない。そこには絶対の否定がなければならない。併し絶対否定によつてのみ、人間は真の生命を得るのである。最早我生くるにあらずキリスト我が内にありて生くと云ひ、絶後に蘇ると云ふ。真の文化はそこから生れるものでなければならない。

□併し私は此処に宗教を語らうと云ふのではない。私は宗教的体験の立場から論じて居るのではない。歴史的現実の徹底的な論理的分析から云つて居るのである。而もその単に構造を分析して居るのでなく、その運動を究明して居るのである。

□私が右の如く云ふのは、人間の理性とか自由とかいふものを軽視しようとするのではない、却つてその逆である。その根拠を主観的人間から奪つて、之を創造的世界の創造作用に置かうと云ふのである。道徳的当為の根拠もそこに求めようと云ふのである。作られて作るものの頂貼として創造的であるかぎり、人間は理性的であり自由であるのである。

□私は宗教の立場から文化を否定するものに與するものでない。併し上に云つた如く作られたものから作るものへの世界は、いつも自己自身を越えて居る、歴史的現在はいつも動揺的である。

□そこに世界の主観性があるのである。故に作られて作るものの頂点として、人間はいつも恣意的である。理性が理性の方向に理性を踏み越える所に、抽象論理の世界が成立するのである。かかる立場から世界を見るのが主観主義である。

□従来、理性とか自由とかいふことは、多くかかる立場からのみ考へられた。無論、恣意的ならざる所に、人間といふものはない。恣意的なる所に、自己矛盾的として宗教的人間性があるのである。抽象論理的ならざる所に理性といふものがあるのではない。自己自身の立場から自己自身を否定して抽象論理的なる所に、弁証法的理性があるのである。

□併し人間が恣意的方向に自己自身を踏み越えることは、人間の堕落であり、理性が抽象的方向に自己自身を踏み越えることは理性の客観性を失ふことである(技術が技術の方向に技術を踏み越えることは作為である)。

□背理のやうではあるが、上に云つた如く人間は何処までも動物を他の極として有つことによつて人間であり、動物は何処までも人間を他の極として有つことによつて動物であるのである。

□いつも自己自身を越えて居る歴史的現在の世界は、何処までも自己自身を越える方向に進んで行く。それが個性化の志向であり進歩であると共に、又堕落への方向でもある。その極まる点がデカダンである。

□一つの歴史的趨勢はそれ以上に行き様はない。新しい生命を得るには、我々は再び創造的自然の懐に還らねばならない。そこから我々は又新な創造の力を得て来るのである、我々に新な生命が生れるのである。

□そこにはいつも抽象論理的には通約することのできない非合理的な動物的なものが動いて出る。そこには大なる文化の危機があるのである。併しそれが作られたものから作るものへとして、行為的直観的に構成的なるかぎり、それは理性的として又新なる歴史の創造力となるのである。極限が推移となるとか、メタモルフォーゼとかいふのは之に由るのである。

□矛盾的自己同一的に作られたものから作るものへ行為的直観的に構成し行くものが、具体的理性であるのである。

□ロゴス的にして自然的、自然的にしてロゴス的なもの、歴史的自然的なものが、真に理性的なものであるのである。直接的なるものが媒介的、媒介的なるものが直接的なるもの、真に推論式的なるものは、此の如きものでなければならない。

 見ることから働き、働くことによつて見る、我は仮定をなさずといふ所に、真に理性的なるものがあるのである。物を映すことによつて働き、働くことによつて物を映すと云ふことも、かかる意味に於て理性的でなければならない。

□それは作られたものから作るものへと云ふことであり 、絶対否定によつて媒介せられるものとして、そこにはいつも抽象論理的なものが働かなければならない。然らざれば理性的でない。併しそれは何処までも作られたものから作るものへといふ作用的形式としで理性的なのである。

□作られたものとして與へられたものからといふ意義を失へば、それは単に抽象的となるのである。単に抽象的なるものは、却つて非合理的なのである。現実の否定はいつも自己矛盾からでなければならない。抽象論理的立場から現実の否定はできない。縦(たとい)それが可能としても、それによつて客観的知識は構成せられない。

□学問的知識の根底となる公式も、行為的直観的に把捉せられなければならない。斯くして始めて歴史的社会的実在が判断の主語となると云ひ得るのである。

□或固定せる歴史的時代に於ては、或固定せる公式から抽象論理的に進むことができるであらう。そこには知識の連続が考へられる。併しそれが行き詰つた時には、行為的直観の根源に還つて、そこから創造的に構成せられねばならない。弁証法とは、かかる創造の論理である。

□或は判断論理的に出立してそこに至ると考へられるであらう。併し判断論理的に働くには既に行為的直観的に把捉せられた根本概念がなければらならない。

□而してそれは歴史的に作られたものでなければならない。その故にそれが行詰るのである。歴史的主体的に構成せられたものなるが故に、又歴史的に否定せらるべき時が来るのである。歴史の世界に於ては単に與へられたと云ふものはない。



□ギリシャ文化は大体に於て見ると云ふことが主となつた文化であつた、即ち直観的であったと云ひ得るであらう。働くものが見られる物の中に含まれてゐた。それは尚無媒介的に歴史的身体的であつたと考へ得るであらう、即ちポリス的であつた。

□然るに中世文化に於ては、神と人間とが対立した、内在的なものと超越的なものとが、何処までも対立した。而してそれは人間の根源を超越的なるものに求める、即ち宗教的文化であつた。それは弁証法的であつたとも考へられるであらう。

□併し単なる相互否定的対立は弁証法的ではない。中世交化に於ては、人間が否定せられたとも考へられるであらう。併し一面には神が人間化せられたとも云ふことができる。それは教会の俗化である。

□「大審問官」が今更何を云はんとして又此世界に出て来たかとキリストを責めるのは此故である。そこには其の矛盾的自己同一といふものはない、却つて真に宗教的なものは失はれた。矛盾的自己同一は単なる神秘主義として抽象的な修道僧的生活に於て保たれるに過ぎなかった。

□然るにルネーサンスといふのは、単に古代文化の復興といふことではなくして、人間が人間を見出したことだと云はれる。人間が創造的自己に還つたのである、神から主権を取り戻したのである。それはヒューマニズムであつた。そこに人聞中心主義の近世文化が始まつたと云ひ得るであらう。

□超越的なるものの権威は理性と経験とに移つた。今日の文化はその結果と考へることができる。我々は今日作られて作るものの立場の極限に立つと云ひ得るであらう。併し作られたものからは、作るものには行けない。作られて作るものの頂点に於て、自己矛盾的存在として人聞といふものがあるのである。我々は再び人間的存在の根底に還つてみなければならない。而してそこから再び新な人間が見出されなければならない。

□近世の始に於て、教会を離れて人間が人間に還つた人間中心の人間主義は、新たる歴史的生命の展開として偉大なる近世文化を形成した。

□併し人間中心主義の発展は自ら主観主義、個人主義の方向に進まなければならない。理性は理性の方向に理性を踏み越えるのである。そこでは却つて人間が人間自身を失ふのである。人間は人間自身によつて生きるのではない、又それが人間の本質でもない。

□人間は何処までも客観的なものに依存しなければならない。自己自身を越えたものに於て自己の生命を有つ所に、人間といふものがあるのである。中世に於ては神と人間とが対立した。近世に於て人間が中心となつた時(人間が神となつた時)、人間と自然とが対立した。

□自然は環境的として使用的でもあるが、対象的自然は本質的には人間を否定するものでなければならない。人間が自然を作ると云ふことでなければ、人間はその始に於て自然によつて否定せられるの外ない。

□自然を征服すると云つても、我々は唯、自然に従ふことによつてのみ、自然を征服するのである。我々の手も足も物である。内的欲求と考へられるものすら、我を否定するものである。

□自然に対して何処までも否定的に自我といふものを立てるなら、要するにそれは形式的自我たるを免れない。対象的自然に於て自己といふものを見出しやうはない。そこには死あるのみである。人間中心主義は却って人間否定に導くと云ふ所以である。

□主客対立の立場から主観的自己の構成といふ所に、真の自己といふものが見出されるのではなく、却つて自然といふものそのものが作られたものだといふ所からでなければならない。

□歴史的世界に於ては単に與へられたものと云ふものはない。歴史は何処までも自己矛盾的な弁証法的過程である。作られて作るものの頂点として、人間といふものがあるのである。

□世界自身の自己矛盾から、人間といふものが出て来るのである。創造的世界の創造的要素として制作的・創造的なる所に、我々の真の自己といふものがあるのである。

□故に自己自身に真に内在的なものは、超越的なるものによつて媒介せられるものであり、超越的なるものによつて媒介せられるものが真に自己自身に内在的といふ所に、人間といふものがあるのである。

□それは中世に於ての超越的なるものと内在的なるものとの関係とは、全く逆の立場である。中世の神秘的神人合一の代りに制作的創造を以てすることである。抽象論理の立場からは、かかる矛盾的自己同一といふことは考へられないことであらう。

□併し矛盾的自己同一といふことは、何処までも作られたものから作るものへと云ふことである。抽象論理的に相対立するものは、抽象論理的には何処までも結び附かないものである。而もその故に世界は自己矛盾的に、弁証法的に作られたものから作るものへと動くと云ふのである。

□新しい人間は、再び人間成立の根底に還って、制作的・創造的人間として生れ出なければならないのではないかと思ふ。

□近世の内在的人間中心主義から歴史的人間の客観主義に移ろと云ふことは、中世の宗教的神秘主義に戻るといふことではない。

□何処までも働くことによつて見、見ることによつて働くと云ふ行為的直観の立場に立つことである、ホモ・ファーべルの立場に立つことである。実践によつて物を映し物を映すことによつて働くといふ科学的精神も之に外ならない。

□生物の始から、我々は働くことによつて物を見、見ることによつて働いて来たのであろう。科学といふも、ホモ・ファーベルの立場から発展し来つたものでなければならない。

□その対象となるものは歴史的実在でなければならない。物理の世界でも相互補足的たる所以である。実験を離れて理論はない。併しそれは所謂知覚的経験の如きものから理論が出ると云ふのではない。

□歴史的生命に於ては、単に與へられたものと云ふものはない、直接的なるものが媒介的、媒介的なるものが直接的であるのである。

□行為的直観といふのは歴史的生命を以て見ることである。生物の始から行為的直観的であつたのである。かかる歴史的生命の極限に於て、作るものから作られたものとして、それは理性的となるのである。

□そこには生物的身体的なるものは否定せられなければならない。身体的自己が表現作用的に絶対否定によつて媒介せられる所に理論が成立するのである。併し何処までも作られたものから作るものへといふ立場を脱するのではない。然らざれば、それは唯抽象的理論となるの外はない。

 歴史的創造的人間の立場に是ては、伝統といふものも、ティ・エス・エリオットの云ふ如く直観的に作用するものでなければならない。彼は之を化学の触媒に喩える。個性の滅却に於て芸術は科学の状態に近づくとまで云つて居る。

□歴史的制作的人間主義の立場に於ては、意識一般といふ如き又は絶対我といふ如き超越的主観的なものが中心となるのでもない。

□又何処までも主観的なものを否定すると云つても、自然科学的物質といふ如きものが根底となるのでもない。歴史的社会的創造作用が中心となるのである。此論文の最初に云つた如く我々は物を作る。併し物は我々によつて作られたものでありながら、自立的として逆に我々を動かすものである。

□而して更に翻つて考へれば、我々が物を作ると云ふことは作られたものから作るものへとして、物の世界から起るのである。

□科学工業の発展は、かかる歴史的過程によつて今日の所謂資本主義的世界を構成した。併しそれが人間中心の主観主義として、国内に於ての階級闘争と国家間に於ての国際軋轢とに結果した。それは歴史的生命の行詰である、人間の堕落と滅亡とへの方向である。

□それを取戻すのは又人間中心の主観主義からでない(主体を媒介とすると云つても 、主体と主体との闘争から人間の問題は解決できない)。

□そこには絶対否定を媒介とする歴史的制作的としての客観的人間主義への立場の転換が要求せられなければならない。それはカント的な義務の立場でもなく、フィヒテ的な絶対我の我の自己実現の立場でもない。

□後者といへども、尚主観主義を脱したものではない。我々が制作に於て、歴史的生産に於て自己を見、歴史的生産と通して、(人と人と、国と国とが)結合し行く立場である。

□而も単に物質的幸福とか抽象的正義とかいふことではない。作られたものを歴史的生命の客観的表現と見、作られたものを通じて結合し行くことである。世界の個性化の立場である。既に論じた如く、作られて作るものの頂点として絶対否定によつて媒介せられるといふ所に、歴史的制作的人間といふものがある。

□然らざれば、ドストイェフスキイの所謂蟻群あるのみである(物質的幸福といふものを軽観するのではないが)。近世の資本主義は力ルヴィン主義から由来したと云はれる。中世宗教の神の人間化に反対して、すべてのものを超越的神に帰したカルヴィン主義に於て、我々に残されたものは唯孤独の目己であつた。

□而も(ルターと異なつて)神との内的合一を否定した時、抽象的合理主義が成立するの外なかつた。神と人間との関係が情意化せられるを恐れて、合理的に制度化せられるに至つたと思ふ。

□併し力ルヴィンに於ては、それはすべて神の栄光へであつた。然るに神といふものがなくなつた時、作られたものからといふ側面では、マックス・ウェーバーの云ふ如く資本主義といふものが発展したのである。而してそれと共に、作るものからといふ側面では、我々は実践理性的として自己自身を維持するの外なかつた。

□私は今新しいヒューマニズムといふ如きものについて積極的に何事も云ふことはできない。併し私の超越的なるものに還ると云ふのは、唯人間否定の抽象的絶対者に還るといふのではない、中世的世界に還るといふのではない。真に個性的な歴史的現実の立場に立つことである。歴史的理性の立場に立つことである。超越的なる故に真に内在的世界を成立せしめるといふ絶対矛盾の自己同一の立場に還ることである。

□それは非合理的と云ふことではない。歴史的理性的立場といふのは、右に云つた如く働くことによつて物と映し、映すことによつて働くといふ意味に於て科学的である。

□併し見られる物の中に何処までも見るものが入つてゐなければならない、歴史的なものが入つてゐなければならない。然らざれば、抽象的なるを免れない。創造は個人の仕事ではない、民族的なるものなくして創造といふをのはない。民族といふものも、それが創造的なるかぎり理性的であるのである。

□超越的なるものといふ語は、色々の誤解を惹起すろかも知れないが、それは屡々云つた如く絶対矛盾の自己同一として、意識的自己、知的自己に超越的であると云ふことである。行為的自己、制作的 自己に対しては却つて直接であり、我々は之に於てあると云ふことができる。

□それを弁証法的実体などと云つてもよいがそれは却つてヘーゲルがカプト ・モルトゥームといふ如く、形而上化する恐もあるであらう。その動静一如の相について直に之を絶対矛盾の自己同一と云つたのである。かかる矛盾的自己同一といふものは、宗教家の立場からは神と考へられるものでもあらう。

□宗教は過去の迷信とか愚民の阿片とかいふものでなく、歴史の底にはいつも宗教的なるものが動いて居るのである。併し前にも云つた如く、私は宗教的体験の立場から哲学を論じて居るのではない。その逆である。宗教的体験の立場といふのは、自己といふものが死にきつて、絶対が出て来ることである。そこに言語思慮を入れる余地がない。故に宗教には生命の転換、所謂回心といふものがなければならない。

□直接とか直観とか云へば、カント的哲学の立場からは、すぐに非思惟的と考へられる。併し直観といふのは感覚とか想像とかいふことではない。デカルトも、明にそれを区別して居た。

□デカルトの entendement といふのは、寧ろ直観であつたと云ひ得るであらう。有名な封蝋(ふうろう−注、松やにのこと)の例に於てのやうに、此の封蝋、香、色、形、大さを有つて居る。併し之を火に近づければ、それ等のものは直ぐに変ずる。それ等のものが封蝋ではない、封蝋そのものは唯mentis inspectioであると云つて居る。

□デカルトの延長については、その儘(まま)では今日から素朴的と考へられるかも知らぬが、物体といふのは、如何にそれが抽象的であつても、何等かの意義に於て幾何学的なもの、直観的なものを離れることはできない、何処までもメンティス・インスペクティオといふべき所があらうと思ふ。私の立場からは、それは表現作用的な世界に於て行為的直観的に物を見て行くと云ふことができる。

□アランは云ふ( Idées.p.131)。この章句をよく読め。生きたデカルトを、物の前に立つデカルトを、知覚と注意とが離れないデカルトを想見するだけでよい。

Ce n’est pas ici un homme qui arrange ses ideés au mieux, mais bien plutôt il pense l’univers présent…

と云つて居る。これは経験科学者の態度でもある。実験は歴史的世界の地盤の上に於てでなければならない。 「一」の終にも云つた如く、デカルトのコギト・エルゴ・スムは矛盾的自己同一として表現作用的に自己自身を見ると考へ得るであらう。

我々の知識は、我々が歴史的世界の一角として個物として、表現作用的に物を見るより始まる。そこから矛盾的自己同一的に、物を見て行くのである、弁証法的に形成することは、見ることである。

□我々は尚一度デカルトにも立返つて考へて見なければならない。無論、デカルトが弁証法的だなどと云ふのでない。併しすべてを疑つて疑ふことのできない直接の立場に還る時、それは表現作用的自己の立場でなければならぬであらう。デカルトには、それが単に思惟的自己であつた。現象学といふのは、それから唯意識的自己の立場の方向に行つたものである。併し尚その他にも途があるであらう。

以上
   


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