併し我々の生命といふのは行為的直観的に物を作るといふ所にあるのである。そこに実践といふものがあり、行為といふものがあるのである。そこに我といふものがあるのである。(ambulo ergo sum (注―「われ遊歩す、ゆえにわれあり」)とも云ふべきである。)而してかかる歴史的生命の過程が真に絶対弁証法的なのである。
併し私は思ふ、彼の永劫回帰の思想は、超人の立場から彼自身が自ら越えることのできない深谷に臨んだことを示すものではなからうか。侏儒(注―小人)は云ふ、すべて真直ぐなものは偽である、すべて真なるものは曲つて居る、時そのものが円であると。永劫廻帰の立場からは、超人も何時かは侏儒とならなければなるまい。月高く犬は吠ゆ(Vom Gesicht und Räthsel) 。