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人間論および人間学コミュの疎外論再考ノート

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------------------疎外論再考ノート---------------------

(このエッセイは1993年頃書かれたものである。2001年現在においては、修正加筆が大幅に必要であるが、じっくり取り組む時間がとれないので、問題提起の必要性と有効性は少しも衰えていないと考え、あえて無修正で掲載することにした。)

------------前編 何故いま疎外論か------------------

-----------一、「社会主義」の崩壊----------------

「社会主義」世界体制は崩壊した。社会主義の根本的建て直しを意味していた筈のペレ ストロイカは、市場社会主義から混合経済に目標を変えたと思ったら、今や資本主義への移行がロシア経済の目標になっている。

□天安門事件でなんとか命脈を保った中国の共産党政権も、改革・開放政策による資本主義化のスピードはロシア以上である。ともかく資本 主義的搾取体制を打倒して、労働者自身の手で経済を管理運営して、全ての人々が自由で平和で豊かな生活を送れるようにしようとする筈だった実験は、失敗に終わったのだ。

 今にして思えば、現存「社会主義」諸国の経済体制を社会主義経済と認知してきた事自体が、大いなる過ちであった。社会主義の主要な定義には、労働者自身が企業や国家の経済を管理・運営することが含まれていた筈だ。

□しかるに共産党の一党独裁支配の下では、企業や地域さらには共和国や連邦に関して、労働者には制度的に何ら権限は与えられず、 権力から完全に疎外されていたのだ。

□ソビエト(人民会議)という名称自体が詐欺的な名称であり、職場・企業・地域などのソビエトは内戦期に解体させられていた。最高会議の代議員の選挙は、定数内立候補の共産党やその配下の団体の推薦議員を信任するだけの、 党への忠誠セレモニーに過ぎなかったのだ。

□しかも労働組合も労働者の生活や人権を擁護 し、労働者の要求を結集する組織ではなく、党の指導に積極的に追従するように労働者を教育する機関に過ぎなかった。

 エセ社会主義の崩壊は真の社会主義の崩壊ではないから、思想としての社会主義はなんら動揺することはないというわけにはいかない。

□少なくともこれまで現存「社会主義」を社会主義経済体制として認知してきた限り、西側の社会主義者・共産主義者が権力を掌握すれば同様の過ちに陥っていた可能性が高いからである。

 とはいえ現存「社会主義」体制の崩壊は、リベラル・デモクラシーを欠いた社会主義が 真の社会主義とは言えないことを西側社会主義者のコモンセンスにしつつある。これは社会主義の今後の健全な発展に立脚点を与えたと評価できる。

□しかし何よりも衝撃的だったのは、リベラル・デモクラシーの導入による社会主義の建て直しの試みが、共産党支配へ の反発に油を注ぎ、社会主義体制そのものの否定へと進んだことである。

これが社会主義とリベラル・デモクラシーが一見両立不可能であるかの印象を強めてしまった。また経済改革が市場経済化、資本主義導入という形でしか進行せず、社会主義経済体制の再構築の試みが全く進まない。そこで社会主義経済体制の経済効率上の優位性が全く見失われる結果になった。

□結局、社会主義は遅れた資本主義が進んだ資本主義に追いつく為に、誤って選択した資本主義への回り道に過ぎないという評価が有力となったのである。

 ソ連の「社会主義」は中央集権的計画経済を推進して工業化に成功し、巨大な軍事力を 保有して超大国にまで成り上がった。その蓄積過程は社会主義建設の勝利として捉えていた段階では、搾取とは映らなかったが、ノーメンクラツーラという特権階級が形成され、軍事力が異常に肥大化すると国家的搾取体制としての性格が露骨になった。同じ搾取なら資本主義的な私的搾取の方がましである。

何故なら、私的搾取に対しては労働者は労働運動や労働市場を通して抵抗できるが、国家的な公的搾取に対しては抵抗すれば収容所が待ち構えているから。

□実はこれは国家資本主義の全体主義的な包摂体制による、国家的テロル に他ならないのであって、本来の基本的人権を全面的に承認する自由人の連合体としての社会主義のせいではもちろんない。ともかく「社会主義」経済の方が搾取の面から考えても資本主義より改善されているとは言えないことになってしまったのである。

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------------二、疎外論の隆盛--------------------

 話を資本主義社会に移そう。一九六〇年代に高度管理社会・高度産業社会の発展ととも に、ステロタイプ化した大衆社会が形成され、組織や機械システムの取り替え可能な消耗部品として扱われているという無力感が蔓延した。

□それまでのマルクス主義の資本主義批判は経済的搾取構造の暴露により、労働者の階級的自覚を促すものが中心であった。それが労働力商品として巨大な機構に包摂されていて、全く主体性を無視されているという疎外感に訴える疎外論をあらたな批判の武器として獲得したのである。

 マルクスの俗に『経済学・哲学手稿』と呼ばれる一八四四年草稿が、始めて印刷されたのは一九三二年のモスクワで発刊されたアドラツキー版の『マルクス・エンゲルス全集』だった。

□その自己疎外論が共産主義者の中で積極的に体制批判の論理として使用されるのは、この手稿がサルトルやフロムやパッペンハイム等の実存主義者やアメリカ社会心理学 者達に深く影響を与えた後の、一九六〇年代になってからであった。何故ならこの『ドイチェ・イデオロギー』以前の作品は唯物史観に到達する以前の、ヘーゲルやフォイエルバッハの影響下での未熟な作品と見なされたからである。

 モスクワの官許マルクス主義哲学者オイゼルマンは、自己疎外論が「社会主義」体制に対する批判に使用されるのを警戒し、『歴史的概念としての疎外(邦題、マルクス主義と疎外)』(樺俊雄訳、青木書店)を発表した。つまり「疎外」は資本主義社会にのみ適用される歴史的概念であって、社会主義社会には疎外は無いというのである。

□これに対してポーランドの哲学者アダム・シャフは『人間の哲学』(藤野渉訳、岩波書店)で社会主義 社会における官僚主義批判に、マルクスのヒューマニステックな疎外論を適用した。

 こうして一九六〇年代にはマルクス主義・実存主義・アメリカ社会心理学に共通する、現代ヒューマニズの中核的発想として疎外論が流行したのである。

□彼らは人間の本来の姿を主体的な人格存在として捉えた。だが現実には部品的に物化され、労働力商品として売り買いされている。物でありえない人間が、自らがつくり出したシステムによって、物化 ・商品化されて非人間化されているとラジカルに告発し、そうした自己の頽落した姿を「疎外された人間」として自己否定し、体制に異議を申し立てたのである。

 一九六〇年代末に世界中でスチューデント・パワーが爆発し、学園闘争が活発化した。

□特にフランスでは一九六八年には労働者階級を巻き込んで、「五月革命」と呼ばれた盛り上がりを見せたのである。

□日本の全共闘運動の学生たちが叫んでいたのは、大学が労働力商品を生産する工場化しており、人間形成の場に成っていないということだった。

□知を商 品化して切り売りする場としての大学の解体、新規の労働力商品を大量生産して資本主義システムを再生する機能を果たしている大学の解体こそが、人間の物化・商品化を止揚する「疎外革命」の突破口だと封鎖し、人間性を取り戻す砦に変革しようとしたのである。

 しかし現実の社会機構の中で、その社会経済的要請によって新規の労働力を供給することで維持されている大学が、知の切り売りや有能な労働力商品を供給する機能をいつまでも止めるわけにはいかないのだ。

□現に商品経済社会、資本主義社会の中ではその機構のネジ・クギとして有能であり、労働力商品として役に立つことが社会人としての一人前の条件なのであり、それが資本主義社会の人間のノーマルな姿なのである。

□資本主義的に見れば、決して本来の人間性を喪失して非人間化した姿なのではないのだ。

□新宿の高層ビルの五〇階でパソコンに向かっている人物は機械化された非人間的存在で、十勝の原野で牛を 育てている人物が人間的存在というわけではないのだ。

□むしろ両者を同時に存在させて、 自己の中に包み込んでいる巨大な生産機構全体に人間存在を見るべきなのである。

だから当時の疎外論の立場からは資本主義的な人間観は倒錯的なのである。主体的な確固とした人格を持ち、豊かな感性と全体性を持つ無限の可能性こそが本来の人間だというのだ。

 理想の人間像で資本主義の人間の現実を批判して非人間的と評するのは観念的過ぎる。

□機械体系の部品となり、商品に自己の労働を対象化して、商品に自己を代表させ、労働力商品として生産に参画できてこそ人間的であり、それができなければ却って非人間的である。

□疎外はその意味では人間的な現象である。しかし目的意識的な対象変革活動とか、自己の本質諸力の自己実現活動という面では、現実の労働はそれが実感できなくなってしまった。

□だから人間的本質の喪失という意味では非人間的な面を持っている。しかしこれは人間で無くなったのではないのだから、人間的本質の喪失も機械体系や生産物と断絶して捉えられている限りで、そう感じられるに過ぎない。

□それらとの聨関の総体においては目的意識的な対象変革がなされ、自己実現が行われているのである。それが労働主体である労働者には意識できないのが疎外なのである。

実は人間を身体的個人として見なす既成の人間観を克服し、機械や生産物も含む人間的自然全体を人間として捉え返す『人間観の転換』こそが求められているのである。
-----------------三、 疎外論 の凋落 -------------------

主体的な決断による情況への自己投企が、世界を変革する筈だったのに、闘争の熱狂が クライマックスに達すると、やがて人々は叫ぶことに疲れて家路に就き、波が引くように闘争は終焉した。

□それはカーニバルのようだった。世界は微動だにしなかった。大学だけは多少鼻っ柱をへし折られ、権威に傷を負ったが、根本的な変革には到らなかったのだ。

この時実存主義が息の根を止められたのである。結局人々の主体的意識や行動にも動揺せず、むしろそれらを包み込んで、自己をリフレッシュさせる契機にするのが社会体制なのである。

□そこでそのシステム、構造それらに随伴する言語体系を認識し直す方向に思想は向かった。

□個々人の主体的意識自体が、社会構造の働きによって産出されている事を再確認させられたのである。それは主体的な意味での「人間」概念の死として受け止められたのだ。フーコーはこれを「人間の死、言語の支配」と印象的に表現した。

 主体としての人間の死は、疎外論の破産でもある。疎外されるべき人間主体がもはや死んでしまって存在しないのだから、疎外を云々することはナンセンスである。

□構造主義的マルクス解釈家アルチュセールは、主体が自己を投げ出して対象を産出し、対象化した自己を満足できずにそれを否定して再び自己疎外的に対象化する構図は、ヘーゲル的な観念論であり、マルクス主義は、社会構造を構成する矛盾の重層的決定の科学的認識にあるとした。

日本でも廣松渉が「疎外論から物象化論へ」というマルクス解釈の視点を打ち出した。彼によれば、主観・客観的認識図式によって、主体・客体的な疎外論的発想が生じている。

□それは人間相互の社会的諸関係を物と物との関係に倒錯的に置き換えることによっ て、客観的な社会的諸事物が意識的主体に対峙的に現れるからだとされる。

□マルクスは諸々のイデオロギーが生み出される社会的意識生産の構造分析を通して、主観・客観的な認識図式を超克し、事的世界観にたって主体の自己対象化・自己疎外・自己還帰を説く自己疎外論を脱却したということになる。
--------------四、疎外論批判の欠陥--------------------

 構造と主体を抽象的に対置して、主体を構造の働きに還元する客観主義的偏向、逆に構造を主体に還元する主観主義的偏向を思想は振幅するものである。

□いかに客観的なシステムに規制され、決定されていようとも、社会的な諸個人や諸事物がそれぞれの社会的関係や役割に応じて関係しあい、働きかけ合って、対象的な諸個人や諸事物の中にそれぞれの 存在証明を刻み込む事は確かである。

□またそうした活動によってそれぞれの諸個人や諸事物は社会的諸関係での自己の存在を更新したり、変更したりせざるを得なくなる。

 こうした活動の中で人格的な諸主体は自己実現や自己喪失を味わうことになる。自己の主体的活動の成果がかえって自己の存在根拠を損なったり、存在領域を狭めたりする事態に直面すれば、深刻な疎外感にとらわれることは避けられない。人間主体の社会的変革活動の動機はこの疎外情況の克服にあることは一般論として否定できない。

 従ってどのような疎外が現実としてあるかという疎外論の内容はともかく、疎外論自体を思想的領域から排除しようとする態度は生産的ではない。

□それはマルクス主義を「イデオロギーか科学か」の二者択一によって、科学に限定し、主観的意識を科学の対象から除外する態度にでたり、主体・客体、主観・客観などのターム自体を倒錯的な意識として説明する結果になる。

□もちろん形而上学的なそれ自体で自存する実体として主体・主観、客体・客観を捉えるような議論は卒業し、弁証法的に対立物の統一の観点から事物の相互関係、実践や認識の構造を捉えなければならないことは、大前提である。

□その上でなら、主体の活動を、苦悩と情熱の源泉から捉え返す疎外論は、常にヴィヴィットな視点で在り続 けると言えよう。

 マルクス解釈の視点からも、疎外論をマルクスが脱却したという議論は論拠が薄弱すぎると言えよう。

□アルチュセールは、『フォイエルバッハ・テーゼ』を切断点として疎外論の払拭を説いていたが、後期の経済学批判期にも疎外論的発想を認めざるを得なくなり、とうとう『資本論』自体にもヘーゲル哲学のあしき影響を認め、レーニンに依拠しようとするようになってしまう。

 廣松渉も「疎外論から物象化論へ」と両者を対極的で相容れない立場のように立論しているが、実際は『資本論』の方法としての物神性論の中では「労働からの疎外」論が重要な要素になっている
-----------------五、疎 外論の射程---------------------

 オイゼルマンは資本主義的生産関係によって、生産手段が資本家の専有となることで、 労働者が強制労働を余儀無くされることに労働疎外の原因を求め、四つの疎外(生産物からの疎外、労働からの疎外、類的本質からの疎外、人間からの疎外)をすべて労働からの疎外に還元して展開した。こうして疎外が資本主義社会に特有の「歴史的概念」だとした のである。

 しかしマルクス自身は私有財産の運動によって「四つの疎外」が起きると考えている。資本主義的疎外は、私有財産の関係としての相互支配が、私有財産の運動が極点まで発展することで、持てる者と持たざる者の対立になり、その結果資本家と労働者の関係まで発展した姿に他ならない。原理的には自己の生産物を他人の生産物と交換するとい う市場関係に疎外の根があるのだ。

 他人の生産物を自己の物にしようとすれば、自己の生産物を他者化せざるをえず、自己の生産物が他人の物となって、自己に疎遠で自己に敵対的になるという生産物の疎外が起こる。またそれは他人の為の自己犠牲的な強制された労 働の性格を帯びる。そして労働は本来は自己実現であり、自己目的的な活動であったのだが、自己喪失的な生活手段を手に入れる為の手段に堕し、類的本質から疎外されることになる。それは人間が相互に対立的に支配し合う関係であり、人間からの疎外である。

 マルクスは私有財産をラジカルに否定して、私有財産という疎外された物件に置き換え られない、直接的な人間の共同関係を築こうと考えていたのだ。私有財産と市場関係を前提にして、その上に資本主義的搾取関係のない社会を構想しても、やがて私有財産の疎外された自律的な運動が発展して、階級分裂が起こり、敵対的な社会が再生される。私有財 産の原理的止揚によってのみ階級対立の真の克服ができるのである。失う何物も持たない労働者階級こそがこの克服の担い手である、この認識まではマルクスは既に達していた。

 したがってマルクスの疎外概念は、私有財産と市場関係が残存する限り有効性を持っている。たとえ資本主義的生産様式が止揚され、社会主義的生産様式が支配的になっても、生活手段の私有と市場関係が残存していれば、経済的な疎外は解消されない。現存「社会主義」の経済改革は市場社会主義や混合経済を目指すが、そのような方向はもちろん原則的には私有財産に基づく疎外を強める方向である。マルクス疎外論は最も単純でラジカルな批判原理であって、その意味では硬直化した官僚主義的計画経済に対する批判に水をさす役割を果たしかねない。しかし疎外論的見地を堅持しなければ、プラグマチックに生産 力さえ発展すれば、共産主義の経済的土台ができるから、鼠を取る猫は黒猫でも白猫でもどちらでも良い猫だとされ、資本主義復活に道を開くことになる。

 マルクスの『経済学・哲学手稿』の労働疎外論は、私的所有に基づく生産機構で起こる 疎外を論じているのだから、それを土台に付随して起こる管理機構や官僚機構の自立的発展による組織的疎外や政治的疎外、言語・文化・思想・イデオロギー上の様々な疎外を直接説明しているわけではない。そのことは疎外概念が労働疎外論以外に適用できない事を 示しているのではない。逆である。われわれは労働疎外論の成果を踏まえつつ、今後さまざまな領域の疎外をそれぞれの領域に相応しい方法で解明すべきなのである。その意味では『資本論』自体が疎外されたイデオロギーとしてのブルジョワ経済学批判の書である。

 疎外論は疎外感を感じる情況を描写し、説明する議論である。疎外は社会の矛盾が表面化し、意識化された精神症状に他ならない。疎外を生じる原因を根本的に除去できればよいが、そうすれば社会が成り立たなくなって、元も子もなくなる場合も考えられる。また根本的除去にはいろんな条件が整わなければ成らない場合もおおいにあり得る。そういう 場合、疎外感を減少させる為の対症療法的対策が講じられることになる。

 アメリカでは社会心理学、行動主義、精神衛生学、経営学などのさまざな科学が、コンサマトリ(自己実 現)を感じさせるような疎外現象の軽減の方法を、対症療法的にプラグマティックに追求している。これらに対して資本主義的な高度管理社会の矛盾を糊塗して、体制の温存を図る反動的な試みだという批判も聞かれるが、体制の枠内での改良の試みが全く通じなくな って始めて、根本的な体制変革が可能になるのだから、対症療法的改革の試みは大変重要である。こうした経験は新しい体制ができあがった時には、新たな体制の管理能力に大きくプラスに働くと言えるのだ。
----------六、疎外論のアンビバレンツ ----------------

 弁証法は肯定的なものに否定的なものを見出して変革し、否定的なものに肯定的なもの を見出して発展させる物事の捉え方である。疎外論は否定の論理、批判の原理であるが、疎外をひきおこす対象や事態を無条件に否定すればよいわけでは決してない。むしろ疎外を克服する為には疎外を体験し、疎外情況と格闘し、それに打ち勝つだけの教養や力を形 成しなければならないのであり、疎外の中にある肯定的なものを立派に受け継ぎ発展させられるようになって始めて、疎外克服の条件が整うのである。

 アイスキュロスの悲劇『縛られたプロメテウス』は、文明が人間の自己疎外であることを物語っている。プロメテウスは「先立つ思考」という名の神である。プロメテウスが人間を作ったという伝説がある。これは人間は構想力や想像力がなければ、人間として他の動物を凌駕し、存続することはできなかったという考えを神話的に表現したものに他ならないのだ。

 プロメテウスは人間に言語や火を始めあらゆる技術や宗教を与えたと言われるが、これも人間自身が構想力や想像力を駆使し、発展させて成し遂げたことを表現しているのだ。ところが『縛られたプロメテウス』では神々から火と知恵を盗んで人間に与えた咎で、プロメテウスはゼウスの命令で岩に縛りつけられてしまう。そして毎日大鷲が彼を 襲い内蔵を嘴んで貪るのだ。これは人間が自分自身で生み出した文明によって、内蔵を抉られるような苦しみに苛まれる自己疎外を見事に表現しているのである。

 文明という自己疎外からの解放は人間自身によって成し遂げられなければならない。し かしそれは殆ど不可能に等しい。怪力ヘラクレスが大鷲を退治し、縛られた鎖を解いてプロメテウスを解き放すのだが、このヘラクレスは十二の難事を見事に成し遂げて、神々から認められて、神となる位の超人なのである。しかしここではそれが不可能であるから諦 めた方がよいという教訓の説話ではない。神への挑戦、人が自己の限界を突破して神にまで成ろうとするところにギリシア人のヒューマニズムがあるのだ。

 プラトン著『プロタゴラス』でプロタゴラスが語る人間説話では、プロメテウスの弟神エピメテウス(後立つ思考、後悔)が神々が作った動物たちに特性を与える仕事を、受け 持ったが、人間に特性を与える段になって品切れしてしまった。つまり元々人間は、自然に対する適応能力が欠けたまま登場せざるを得ない「欠陥動物」だったのである。そこでプロメテウス(構想力と想像力)は人間に文明を与えた。だから文明はそれなしでは人間がサバイバルできないという意味で、人間の本質的契機なのである。文明はその習熟や維持に気の遠くなるような時間と労苦を伴う疎外である。しかし文明こそが人間の労働的本 質の対象化であり、自己実現の姿に他ならない。
-----------七、 市場原理と疎外論---------------

 マルクスが疎外の克服を説いたのは、あくまでも私有財産制に基づく敵対的な人間関係に伴う疎外であり、この根本的解決は私有財産が止揚されれば新しい共同体ができて実現する。

□これをマルクスは『経済学批判序言』で「人間社会の前史は終わる」と表現した。だが文明それ自体の疎外の克服は、克服自体が新たな疎外であるような形でしか原理的には実現できない。フクヤマには悪いが、「人間社会の本史は終わらない」のである。

 マルクスは分業・私有財産・交換社会等を疎外された克服すべき対象として論じた。

□しかし人間社会の発達、その類的な本質能力の無限発達は実は、閉鎖的な共同体原理を突き破り、普遍的な交わり(=交通)を可能にする分業・私有財産・交換社会ではなかったのか。

□自由人の連合は市場経済の全面的な発達の上でのみ可能なのではないか。私有財産一般の止揚を原理とする共産主義は夢想の産物ではないか。

□市場原理の大幅な導入が急務となった一九六〇年代から、共産主義を生産力の発達による必要の全面的な充足と捉える生産力主義的理解と共に、共産主義に対する原理的な懐疑が鎌首を擡げ、次第に現存「社会主義」諸国ではコモンセンスになっていった。中にはマルクスの「自由人の連合」としての新しい共同体を市場社会主義と解釈する御都合主義者まででてきた。

 マルクスのコミュニズムは、資本主義の諸矛盾を私的所有による貧富の差の極端化として捉え、私有財産制の根底的な止揚によらなければ、いかなる改革も再び貧富の差が拡大し、階級支配の再現となると考えたトマス・モア以来のユートピアンの伝統に立脚しているのだ。

□それは『哲学の貧困』でのプルードン批判や『経済学批判要綱』での労働貨幣論批判でも明らかである。『資本論』でも商品交換の原理を厳密に検討し、そこに根本的な矛盾の出発点を見出し、物神性という倒錯の原理を見極めた。つまり原理的に私的所有を否定的に評価することによって、彼の学的体系は成り立っているのだ。

 中央集権的な計画経済の下で、全国を一工場のごとく中央の指令で運営することを理想 と考えていた準戦時的統制経済では、労働者はノルマ達成の為に強制労働に駆り立てられるだけの存在になる。

□労働者には自分の職場や企業や地域や国家の経済を自分たちで相談して運営する権限は少しも与えられていなかったのである。

□このエセ社会主義では一応労働者が所有者だということになっていたものの、所有者としての権限はすべて共産党に委譲していた。大衆は自らの前衛性をすべて外化し、「前衛政党」ひいては指導者個人に対象化=疎外することによって、前衛党あるいは指導者個人の専制支配に無条件に屈せざる得なかったのである。

□この「労働からの疎外」のせいで大衆は勤労意欲を喪失し、創造的な自己実現としての人間の類的本質からも疎外されたのである。

 それ故、市場原理を重視して、市場の需要供給に合わせてそれぞれの企業が自らのフォンドが大きくなるように生産を調整し、利潤によって報償金を企業に支給するなどの一九六〇年代に始められた改革は、疎外を緩和させる方向性を持っている。

□その方向を徹底すれば市場経済の下で、各企業が全く貿易も含めて経済主体として自由に生産活動ができる状態になる。

□ユーゴスラビアの自主管理社会主義では、労働者の自主管理企業と資本主義企業との違いは、株主総会の代わりに企業の所有者である労働者の協議会が経営者を指名し、経営を任せるということだけである。

□中国の国営企業でも最近は資金集めに株式を発行しているようである。ともかく実際の企業の運営は経営者にまかせきりで、経営者支配になりつつある。その意味で資本主義的な疎外が力強く復活しつつあるのだ。

 しかしその御陰で健全な企業間の市場競争が成立し、多様な欲求と個性に対応する生産物の多様化が発展し、資源の最適分配が実現する。これらは明らかに私有、交換、市場経済がそれ自身は疎外を内包しながら、統制的経済に対しては疎外を緩和する解放的働きを持っている事を示している。
------------------八、社会主義の可能性-----------------

最近の「社会主義」経済体制の崩壊は、社会主義を詐称した体制の崩壊であって、真の 社会主義の崩壊ではない。それでは果たして真の社会主義経済は可能だったかと言えば、仮定の問題には答えられないが、端緒から国有企業による中央集権的な一元的社会主義計画経済という形ではかなり難しかったというのが、ロシア革命の総括だ。

 国家権力の中枢を掌握することによって、国民の政治経済的生活の全体を掌握することになる体制では、権力はオール・オア・ナッシングになってしまう。

□どうしても他党派を排除して全権を掌握しようとせざるを得ない。これは職場から会議を積み上げて労働者のヘゲモニーを確立するという社会主義とは容易には両立しないのだ。

 そこで、社会主義革命で資本主義的搾取を禁止する法律を作成して、家族労働力のみで構成する個人企業と協同組合企業と基幹産業の幾つかの国有企業からなる社会主義経済体制を作り、市場原理が全面的に支配する形にする。

□政治的には徹底したリベラル・デモクラシーの議会政治を行い、民主的に作成された経済計画に基づいて調整を行う。リベラル ・デモクラシーが確立していた国家なら、こうした形の社会主義国家が成立していた可能性なら考えられる。

 しかしこのような市場社会主義は自由競争市場の下で各企業が資本蓄積競争に狂奔せざるを得ないから、資本主義的疎外のかなりの部分を残存せざるを得ないことになる。

 さて今日では資本主義的搾取も資本蓄積の為であり、個人的な致富の為ではない。株式の配当もそれ自体が目的ではなく、資本を得る為の費用として扱われている。

□その意味では協同組合企業が資本蓄積の為に労賃を節約するのと変わりがない。完全自由競争市場では私企業でも公企業でも労賃は平準化するから、それは必要最小限度の生活費に決まってしまう。

□それ故、資本主義的搾取を非人道的で不法だと頭から決めつけ、非合法化することはもはや無理である。社会主義は政治権力を掌握して、上から強制力で資本家を排除して、社会主義経営体制を各企業に確立する形では実現しない。

 したがって今後は、資本主義的疎外を軽減する方法は、社会主義的な組合企業が資本主義企業以上に経済的な合理性を発揮してシェアを拡大するか、短期の操業で閉鎖されてしまったけれど、ボルボ自動車のウッデバラ工場のように資本主義企業自体が民主的に運営されるように変革されるかである。

□いずれにしても労働者がイニシアティブを持って、職場や企業を管理・運営できるようにすることが、今後の社会主義の実質的な内容である。

□つまり資本主義企業内にリベラル・デモクラシーの原理を貫徹していくことも、協同組合企業を成功させることと並んで重要な社会主義的変革なのである。

□その場合、経済合理性において既成の資本主義企業よりも優れていないと、普及させることは出来ない。

□逆に言えば、労働者が自ら主体的に職場や企業での自己の役割を自覚し、職場や企業の抱えている課題を引き受けて、その上で、自己の可能性を最大限に実現するために労働におけるイニシアティブを取ろうと努力し、仲間と連帯する事が必要である。

 労働者が互いに学び合い、高め合おうとする職場や企業こそが最も経済合理性においても優れた業績を生み出し得るのである。

□民主的なネットワーキングのシステムを採用させる為には、それが企業の業績を最大限に伸長させる最良の方法である必要がある。

□これは政治権力によって企業に上から押しつけて成功する筈はない。政治権力が経済的な意味での社会主義化を推進する主体になる必要はないのだ。

---------------九、漸進的な疎外の軽減 ------------------

 マルクスは、私有財産の運動によって疎外が生じ、発展して、資本主義的搾取体制のよ うな究極的な疎外の極致に達したと捉えた。

□そこで私有財産を揚棄するプロレタリアートの革命によって、私有財産による全ての疎外が一挙に解消するかに構想した。

□一九六〇年代の高度経済成長に多感な青春時代を体験した我々にとっては、科学技術革命の無限進行 と共に歴史は進歩し続けるものと感じられた。

□資本主義の矛盾は遠からず極点に達し、社会主義に移行せざるを得ないだろうし、そこではかなり急速に抜本的な改革が行われ、疎外がみるみる軽減するかの幻想を抱いていたようだ。

 しかし資本主義的生産様式を国家的な社会主義革命で一挙に国有化しても、ロシア型で考えると、職場や各企業、地域や各共和国でそれぞれに労働者の民主的な会議で運営できるソビエト型社会主義が軌道に乗るようになるまでは、国家資本主義の専制権力が出来上がることになる。それは以前にも増して強制労働に追い込まれる恐れがある。

 これが真の社会主義へ移行する暫定的な過程なら、ソビエトの充実に伴い疎外は漸進的に軽減されて いく。だが社会主義建設を巡る路線対立や、指導者間の権力闘争が激化して、恐怖政治や指導者の個人崇拝による専制支配に堕落していくと、大量粛清や収容所列島化が現れ、最悪の疎外状態になる。

 またたとえリベラル・デモクラシーに基づく議会政治と市場社会主義が併存する体制ができても、市場経済による疎外だけでなく、先述したように最大限の資本蓄積を目指さざるを得ないことからくる、資本主義的な疎外を免れることはできない。

□これに対しては「市場の失敗」を補う公共財・公共サービスを提供したり、所得再配分や景気調整を行う財政の役割で調整してなんとか和らげたり、企業内のリベラル・デモクラシーに基づく協同を徹底して疎外を克服したり、企業の社会的責任や人類的課題への自覚に基づく協同を組織して、市場経済による人間相互や自然との分裂、敵対を解消するように努めなければならない。

 もちろん資本主義世界体制の下でも疎外の軽減を目指すさまざまな改良の試みが行われ ているのであり、たとえ根本的な変革を回避する為の苦肉の策であっても、それなりの意義を持っている。

□そして企業が労働力の確保とその効率的利用と気概を高める為のさまざまな試みが、労働疎外を軽減しつつ、資本主義的枠内で労働者の地位の向上と労働におけるイニシアチブの回復へ向かう萌芽を育てつつある。

□これを労働強化や人減らしの梃子に使われる事に抵抗しつつ、健全な方向に育てていくことが、長いレインジで捉えれば、資本主義を内部から漸進的に社会主義に変質させていくことになる。

 疎外革命的発想で一気に疎外を解消しようという発想は、もう受けない。むしろ身近な事、些細な事からでいいから、地道に疎外感を払拭していく努力が大切なのである。

□たとえばデスクや工場に花を飾ろうという運動をするのもいい。花は仕事場の持つ殺伐とした緊張感をほぐし、気分よく仕事ができるようになるだけでなく、花を置ける空間を作るた めに整理整頓が必要になる。

□また汚れた空間には似合わないから清掃が徹底して、清潔感のある仕事場になる。これがハイ・クオリティを創造する環境作りである。

 また花一杯運動は、米自由化後の日本農業を支え、農地が荒廃して宅地化するのを防ぐ。美しい日本の 自然を守り、環境悪化を防止することになる。


-------------十、グローバル・デモクラシー -------------

 疎外論は、人間には本来の姿があり、現実はこれが全く喪失させられているが、いつか はこの喪失に耐えられなくなって、一挙に疎外情況を打破する行動が起こり、人間本来の姿が取り戻されるという願望にフィットする論理である。

□この人間本来の姿は過去に求めなくてもよい、自分が人間はかくありたいと願う理想の中に求めてもよいのだ。

□ともかく 理想主義的人間観が疎外論受容の心情的な基盤になった。だから理想主義的人間観が喪失すると疎外論も衰退する。

□黄金の六〇年代が終焉すると、進歩への観念も衰退し、理想主義的人間観も衰退した。実存主義やマルクス主義ヒューマニズムが急速に衰え、疎外論は 下火になってしまったのである。

 ところで一九八五年以降、世界は新世界秩序形成への模索段階に入った。米ソ二大超大国のヘゲモニーによる世界分割統治の時代ではなくなったのだ。

□今後民族紛争や宗教紛争が各地で頻発し、文明間闘争時代の様相を呈するとしても、紆余曲折を経て遠からず改革された国連中心の集団安全保障体制や地球環境保全体制が形成されていくだろう。

□これは 楽観的な見地からではなく、そうしなければ人類のサバイバルだって覚束ないという意味での必然性から考えてである。

 ゴルバチョフは実にタイムリーに「人類的価値の優先」を唱えた。ソ連経済は西側先進資本主義国から先端技術を導入し、経済建て直しの資金援助を仰がなければ立ちいかないところまで追い詰められていた。

□帝国主義に対する世界人民の闘争の先頭に立つというこれまでの階級的見地は棚上げにして、経済発展・公害対策等の人類共同の課題解決を西側諸国と協力し合って進めようというのは背に腹は変えられない事情があったからである。

 もちろん先進資本主義諸国の様々な横暴や新植民地主義的支配に抵抗しない方がよいというわけではない。もう超大国はアメリカ合衆国だけだというわけで、アメリカ合衆国の御機嫌取りばかりしているようでは駄目である。

 事情はどうであれ、グローバルに政治・経済・環境を考えざるを得ない時代に突入しているのだ。

□ヤスパースが『歴史の起源と目標』で予言したように、世界新秩序形成という形での人類統合の時代に向かいつつあるのである。その際の最も重要なキーワードは「グローバル・デモクラシー」である。

 世界新秩序形成によって相変わらず超大国の覇権が幅を効かせたり、世界企業の展開が途上国への先進国の帝国主義的な植民地支配の再編に終わるようでは、世界貿易ビル爆破に象徴されるようなテロやゲリラの恐怖から逃れることは出来ない。途上国の政治的自立と経済的発展に貢献しうる形でしか、企業の進出は行えないように国際的に規制されていくだろう。

 こうした楽観的見通しは、歴史にいつも裏切られてきたではないかと反論される事だろう。

□たしかにフランス革命、ロシア革命、第二次世界大戦、フルシチョフ平和共存時代、冷戦終結宣言等、歴史が大きく転換した時期には、人々は古い専制的で非合理な暗い争いの時代はみるみるうちに終わりを告げ、新しい民主的で理性的な明るい協調の時代になっていくかの幻想を持ったものである。

□歴史の歩みはジグザクだから、楽観的見通しは常に裏切られてきたという事も事実だが、時間の物差しの調節次第では、自由・平等・博愛の理念はより大きなスケールで実現しつつあるとも言えるのだ。

 世界が政治的・経済的に統合され、国際交流が活発になり、グローバルな自然環境の再生への協力が出来上がっていき、食糧やエネルギー問題の解決や宇宙開発等の「人類的課題」への共同の機運が盛り上がっていけば、再び一九六〇年代のような進歩的・理想主義的人間観が有力になる。それと共に疎外論が不死鳥のように甦ってくると思われる。

 ただし今後の疎外論は、理想的な人間の姿と現実の擦れを、理想から高踏的に裁断するのではなく、あくまで現実を踏まえ、現実の否定面によって覆われている肯定的な面を発展させる方向に理想を見定め、現実変革を方向づける構えで論じられるべきである。


-------------------十一、南北問題の解決-----------------

 一九九二年のリオ・サミットは世界首脳が一堂に会して「文明の疎外」の典型である環境問題を語り合った。その時のキーワードは「持続可能な開発」だった。

□これは先進諸国が先進国並みの環境保護規制を途上国に求めているのに対して、途上国は開発による経済発展ができなければ、環境保護する経済力・技術力を獲得できないと反発した結果、打ち出された原則である。

□開発を続けることを前提にしてその為に環境を保護しようというもので、途上国は先進国よりも緩和された基準で規制していこうというものである。

 たしかに環境問題は近代資本主義が産業革命という急激な工業化によって招いた疎外であり、これまで地球をさんざん破壊し、汚してきたのは先進諸国だった。そのつけを途上国に回されるのは不当だというのが途上国の立場である。

□しかし現在急速な工業国化が進展し、今後凄まじい勢いで自然環境を破壊して、地球的規模での汚染をもたらすのは途上国である。

□それが先進国並みの環境基準を守れないとなると、カタストロフィ(大崩壊)は避けられない。既に危機的状況にあるオゾン層破壊の元凶フロンガスを先進諸国は一九九五年までに完全に製造・使用を禁止することに決まったが、途上国はこれを認めていない。

 先進国も汚したのだから、途上国にも汚す権利があるというのは、他人が泥棒しているのを見て、自分にも泥棒させろと要求しているのと同じで到底承認できない。一刻も早く世界的な環境規制ができるような国際機関が設置されなければならない。

 しかし途上国に対して環境問題を理由に経済発展を無理やり停止させるとなると、途上国は納得できない。少なくとも環境規制を行えるだけの経済力や技術水準を先進国から早急に移転する必要がある。

□好都合にも先進国の企業は国内ではコストが高く付く上、低成長なので先行きの需要の拡大が見込めない。途上国は労賃が格安なのでコストも安くつく上、今後の高度経済成長が見込めるので、大いに投資収益も期待できる。

□そこで先進諸国の多国籍企業が途上国に直接投資を活発化している。この御陰で先進国から途上国への技術移転が急速に進みつつある。

 先進国経済と途上国経済はもはやそれぞれ別の経済圏を成しているのではなくて、グローバルな経済圏の中で有機的な部分を構成している。だから途上国の公害・環境問題も経済圏全体の問題として一緒に解決すべきなのである。

 多国籍企業の途上国への展開を帝国主義的経済進出と警戒する向きもある。実際公害規制の厳しい日本の企業が規制の緩い途上国に工場を移し、公害を輸出する場合がある。

□このような破廉恥なやりかたは厳しく自己規制を促す必要がある。また途上国は途上国同士でUNCTAD(国連貿易開発会議)などを通して協定を結び、先進国の企業を誘致するために環境規制の引き下げ競争をしないようにすべきであり、OECD(経済協力開発会議)でも世界企業の途上国への進出に当たっては、厳しい環境基準を設定して守らせるようにすべきである。

 ともかく進出した企業ができるだけ企業の現地化に務め、進出先の国民経済の発展に寄与し、そこで得た利益の大部分を進出先に再投資したり、地域文化の振興に使ったり、地域の環境改善に貢献するようにすればいい。

□このような行為は進出先でのその企業の信用を高め、需要を拡大する。途上国の経済発展によって先進国の経済も活気付けられ、発展する。

□つまり世界的な規模での地方開発、所得再分配である。そのことで先進国の経済はより高度化し、繁栄することになる。何故なら途上国からの挑戦に晒されれば、イノベーションの努力を常に怠らないようにしなければならなくなるからだ。

 これまでの南北関係は、北・先進工業国が、南・後進農業・資源供給国の農産物や資源を安く買いたたき、そのことで到底工業化できない状態に止めておいて、農産物や資源を収奪し続ける関係であった。

□今後は資本や技術を南に移転して途上国の経済発展を原動力に、先進諸国が更なる発展を目指す関係になる。これはグローバルな政治・経済における 民主化の方向を持ち得ると言えよう。南北間の経済格差は縮小し、先進国も途上国を政治的に従属させることはできないからである。

 南北問題の解消、世界資本主義のグローバル化、ボーダーレス化によって、地球市民的自覚が生まれ、宇宙船地球号の問題として環境・資源・開発の問題が自覚される。

□まさしく奇跡の天体としての生命の惑星の美しい輝きを保つことが最大の価値観となったとき、それが未曾有の危機にあるという現実に対して、疎外論的な問題提起が有効になろう。


-----------十二、ミラクル景気とカタストロフィ-------------

 黄金の六〇年代は世界資本主義は未曾有の繁栄を体験した。七〇年代は世界同時不況と 呼ばれた。八〇年代はまずまずの好調を保った。日本の場合、八〇年代の後半にバブル好況を体験した。この反動が大きくて九〇年代はバブル崩壊による平成大不況に突入した。

□この調子でいくと、九〇年代の末から二千年代の〇〇年代初頭にはブームになりそうである。しかも次のブームはコンドラチェフの波と重なって、ミラクル景気に成る可能性がある。

(実際にはバブル崩壊後の停滞は15年間も続き、グローバルな規模では空前の成長を遂げているものの、コストの高い日本の成長率は3%ほどにとどまり、欧米諸国よりも低い。おかげで円安局面が続いている。)

 コンドラチェフの波は五〇年周期だが、この前の一九六〇年代は四〇年間しかたたずにコンドラチェフの波になったのだ。次も四〇年間だとすると二〇〇〇年前後ということになる。しかもコンドラチェフの波の最大の原因とされるのは、巨大なイノベーションである。

□マイコンを利用したオートメーションの進化、バイオ・テクノロジーの実用化、通信 革命などが次第に本格化し始めている。

□これが世界市場の統合と結合すればミラクル景気は間違いないが、ロシア・東欧圏の政治・経済の安定、中国の改革・開放政策の持続がこの条件になる。

□ロシア・東欧圏の政治・経済の安定は先がなかなか読めないが、中国との格差が開くにつれ経済改革の進め方について、次第に現実的な混乱の少ない形での変革が 定着すると予想される。潜在的な技術力は大きいだけに軌道に乗れば、次第に順調に経済力を回復していくだろう。

 最大の問題は、中央集権的な計画経済の下での国有企業体制から、完全自由競争下の民営企業体制への一足飛び飛躍を目指すと、改革が急激すぎて対応できないことである。

□やはり既成の国有企業があり計画経済があったのだから、それをいきなり止めてしまうのではなく、大枠で計画経済を機能させながら、企業に権限を漸進的に委譲しつつ、市場経済化を漸進的に進めていくしかない。

□国有企業も何も急速にトラブルの元になる民営化を強行せず、先に部分的な価格自由化で市場経済に慣らしてから、次第に範囲を広げるとか、経済全体が大混乱に陥らない範囲で改革を積み重ねる位の慎重さが必要だったのである。

 「共産主義」の呪縛から逃れる為に一足飛びに超自由主義の呪縛にとりつかれていては、 現実的な改革などできない。ロシア・東欧の政治・経済的安定がクリアできたすれば、そこに巨大な国際的な有効需要が生まれるのは確実である。

□老朽化した設備を最新鋭の設備に入れ替えるには、先進資本主義諸国からの直接・間接の巨大な投資が必要であり、プラント輸入が必要になってくるからである。

□かくしてミラクル景気と既に名付けられている未曾有のブームが出現するのだ。ところがこれは一概に歓迎すべきことではないのだ。ミラクル景気によってロシア・東欧圏はもとより中国・東南アジアの工業化も一段と進展することは疑えない。

□おそらく地球全体が工業化へ向かうのである。果たして甘い環境基準で生産を行っている途上国が、膨大な規模で工業を発展させたら、地球環境はどうなるだろうか。もうすでにフロンガス規制は手遅れ説があるくらいなのに。身の毛もよだつぐらいのカタストロフィが襲来して、突然世界人口が数十分の一に落ち込むことにならないともかぎらないのである。

 もちろんそうなる前に、危険を察知して国際的な協力で工業化を押し止めてもカタストロフィを防ぐだろうと信じたい。

□しかし事前の察知というのは実はそれ程容易ではないのだ。たとえば原子炉の耐用年数は前もって予測できるだろうか。敦賀の原発で起こった細管破断事故は金属疲労が原因だが、何年で金属疲労が起こるのかは事後統計によって始めて予測できるようになるので、前もってはとても無理である。

□奇跡の均衡によって保たれているといわれる地球環境も、どれだけの量の物質でどれだけの破壊が起こり、そしてどれだけ汚染し続ければ、奇跡の均衡がカタストロフィで一挙に崩壊するのか分からないのである。

□つまりまだ壊れてしまっていないから、いつ壊れるかもしれないのである。

 これは実験的にどれだけで壊れるか試してみるわけにいかないだけに厄介である。だから現に自然環境を破壊しつつあると分かっていながら、それを経済的利益の為だということで続行すること自体が、どれだけ飲めば致死量かわからない毒薬をまだ死なないから飲み続けるのと同様の愚行なのである。

□つまり人間は単に個人としてだけで生きているのではなく て、同時に人類としても生きている。個人的利益に囚われると人類としての死活的問題ですら見失われてしまう疎外に陥るのである。

 次のミラクル景気でカタストロフィになるかもしれないし、ならないかもしれない。としたら、危ないから工業化を停止してでも環境基準を厳しくすべきである。

□だが工業化で経済的利益を得る国家や企業の多くは、まだまだ大丈夫だと環境基準を厳しくするのを拒否する場合もでるだろう。問題はそうした場合に、世界的規制を行える強制力をもった国際機関が存在しないことである。

 やっと工業化が軌道に乗るような途上国が、簡単に国際的な世論に屈するとは思えない。だからこのまま手を拱いて見ているばかりではかなり次のミラクル景気が危ないのだ。

 疎外論は、理想から見て現実が掛け離れている場合に現実否定の論理として働くが、現実が理性的に反省して変更が可能なら、それ程疎外現象として注目されない。自然を支配すればするほど、自然がコントロールできなくなって、人間がその中でサバイバルできる生態系としての自然を喪失してしまう。

□生態系の全体としての自然こそが本来の人間なのだが、そこから疎外されて単に自己の生理的身体だけを自分だと思い込み、生態系の崩壊を自分自身の痛みとして体感できないのだ。

□このようなある程度不可避な悪循環に陥り、自分で自分の首を締めてしまうような事態こそが、自己疎外として疎外論で捉えられ易い のである。



---------------後編 疎外論の再構築--------------------

----------------一私有財産の止揚-----------------------

 先に述べたようにマルクスは私有財産一般の止揚として共産主義を構想していた。従って新しい共同体では私有財産が存在しないのである。

□マルクス主義者の中でもマルクスが止揚しようとしたのは生産手段の私有のみで生活手段の私有までも止揚しようとしたわけではないと解釈する者もいる。

□しかしそれでは私有財産を蓄積する者と負債を抱え込む者が出て貧富の差が生じ、やがては階級の復活に向かうことになる。

□また生活手段が私有ならその取得は労働に応じてということに成らざるを得ないから、これは社会主義の原理であって、共産主義の原理ではない。

 それにマルクスは『哲学の貧困』や『経済学批判要綱』で、新しい共同体で労働貨幣を発行することに反対している。労働時間を表す証書を労働後受け取って、同じ労働時間の生産物と引き換える制度だが、それでは同じ労働時間を怠けたものが得をするからである。

□つまり労働の質や密度を考慮に入れないとどれだけの労働時間か測定できないのである。

 マルクスにとっては労働時間表と交換に手に入れた生産物は交換物として私有財産になるから、社会は私的所有者の関係になってしまう。そんな社会は市民社会であって共同体ではないのだ。

□しかしそれでは私有財産なしに将来の共同社会が果たして成立するのだろうか。

 未開社会に原始的な共産社会が存在することをアメリカ・インディアンについてのモルガンの報告が伝えている。文化人類学者の中には未開社会ほど私有観念が堅固だと報告する者もいるが、マルクスに言わせればそれは本源的な所有である。

□つまり自分の身体の一部のように見なしている、住居や衣服それに狩猟用具等々との関係である。融即の論理に支配された未開共同社会では、生産物や獲物を身内としか分け合うこと
はできない。

 それは頑固な私有だからではなく、逆にそれを手離して他人と交換し合うことができないからなのだ。つまりまだ固有であって私有ではないのだ。だから私有は、生産者が生産物を自己の非有機的な身体の一部ではなく、自己の他者として外化し、対象化してそれを自己に疎ましい他者と認定して、言い換えれば疎外して放棄することを含んでいる。

 この時一方的に放棄ばかりしていれば、死滅せざるを得ないので、同時に他者が放棄した生産物を自己の支配の許におくのだ。これが交換である。

□この交換を通して生産物は相互の効用を抽象され、価値存在として認定される。

 そして人間労働も価値を生み出した点で同等だと見なされる。私有はしたがって放棄し他者化し得ることを含んでいるのであって、未開社会の堅固な所有は私有ではないのである。

 ところがマルクスは、『資本論』で資本主義的所有が止揚されて、社会的所有になると「個人的所有」が再建されるとしているから、将来の共同体でも私有は認められているのではないか、少なくとも生活手段に関しては私有は認められているのではないかという解釈がある。

□しかしこの文脈でマルクスはdas individuelle Eigentumを原義的に「不可分離な所有」の意味で使っており、資本主義生産によって生産手段と直接生産者が「不可分離な所有」の関係を切断され、互いに疎遠な他者として外的に資本の力で結
合されていたのが、資本主義が止揚されて共同所有になると、疎外が克服され、再び生産手段と直接生産者の「不可分離な所有」の関係が再建されると主張したのである。
(拙稿「『das individuelle Eigentum』の翻訳問題」『立命館文学』第三七三・三七四号参照
ーーーーーー二、私有財産の止揚の可能性ーーーーーーーーー

 私有財産を止揚した共同体経済は、構成員の需要を賄うだけの生産を共同で計画的に行い、それを無駄なく分配すればよい。これは閉鎖的な自給自足の村落でなら、ある程度可能である。

□この体制を民族規模地球規模で行うとするとその調整がかなり難しい。そこでミニ共同体がより大きい地域共同体の成員になり、地域共同体が地方共同体の成員になりして協同組合的国家を構成することも考えられる。

□マルクスは具体的な自由人の連合のスケッチを描くことを、無責任に未来を制約することとして嫌った。その為にかえってロシア革命後の「社会主義」建設は、とんでもない方向に行ってしまったし、いかなる反革命も革命の名のもとに可能になった。

 マルクスが未来社会のスケッチを描かなかったのは、私有財産の止揚が大変な困難を伴うと考えたからではない。むしろ逆である。革命権力が安定するまでは大変な困難を伴うことは承知していたが、いったん新しい共同体が軌道に乗れば、彼は私有財産という疎外から解放された人間は、類的な共同精神に溢れ、労働による自己実現を第一の欲求にする人間に生まれ変わると信じていたのだ。

 唯物史観を説き、ヘーゲルの弁証法的な考え方を現実分析に適用したリアリストのマルクスが、そんな甘ちゃんの筈はないと怒るなかれ。

□矛盾が徐々に募っていって盛り上がり、究極で爆発して革命が起こるような、「量から質への転化」の図式では、革命によって全てが解決するような気分に囚われるものである。

 彼にすれば共同社会ができて皆が仲良く、力を出し合って生産し、分け合える世界にいるのに、私的利害に固執し、姑息に振る舞うような人間は、社会的に適応できなくなる。皆が身内のような関係にある共同社会では、皆のために役立ち、働くことがなによりの生きがいになると考えたのだ。

 まさか私有財産に疎外された意識を代表してアダム・スミスが説いたような、労働を自己犠牲と考えて、できるだけ他人より楽をして、他人より沢山の快楽と利益を手にしようと最大限の努力をするようなあさましいホモ・エコノミストは存在しないはずなのである。

 だが現実には楽観的な性善説は通用しない。私利私欲の為なら人間は過労死してでも働くが、社会のため皆のために喜んで働くというようには、なかなか人間革命は進まないのである。

□その為には非常に強力な強制力が働かなければならないのだ。市場経済なら怠ければ富は一切手に入らないで死ぬしかないが、共同体では全員の生活を無条件に保障してくれるからである。少しでも怠けた方が得をすると受け止められるのである。

□そこで一足飛びに共産主義を実現するのは無理だから、労働時間に応じて富を分配する社会主義が歴史段階として必要になる。

 社会主義では商品経済が残存してしまう。労働時間が質と量で計測されて労賃が支払われると、労賃によって生産物が購入されることになるので、当然生産物は商品である。労働力も労賃を代価にした商品になるから、現実には、労働力の再生産費が労賃になる。

□そうすると労賃によってできるだけ多くの消費財を手に入れようとするから、労働者はますます私利私欲の為のホモ・エコノミストになり、共産主義への移行は困難になる。

 私有財産を無くす為には労賃を引き下げていかなければならない。つまり消費財の価格を引き下げていくか、配給制や無料に切り換えていくことである。

□もちろんそれがなかなかできないから共産主義になるのは
困難なのである。需要・供給の均衡が取れないから難しいのではない。需要の調査や在庫管理がしっかり行き届けば、それに見合った生産体制を取るのは決して不可能ではない。問題はあくまで勤労意欲にある。

 
 「一人が皆の為に、皆が一人の為に」をスローガンに、自分個人や家族の為でなく、果たして労賃という評価制度無しに自己の類的本質の実現として第一の欲求として働けるだろうか。

□その為には労働疎外が起こる原因を除去していく事が大切である。

 上意下達の官僚主義的な職場では勤労意欲は起こらない。自由で民主的で集団的に知恵を出し合って、互いに学び合いながら、職場の運営を行う事だ。

□職業や職場の選択が本人の意思をできるだけ尊重して決定されること。

□能力を高めたり、より希望に近い職業に移るための学習環境が整備されていること。

□労働時間が長すぎないで、リフレッシュできる余暇やスポーツの為の環境があること。

□目的意識や問題意識を育てる為の市民運動やボランティア運動に参加して、地球市民としての自覚を養える事。

□一つ一つ疎外を軽減する工夫を皆で挙げて、その解決に共同で取り組める体制を作る必要がある。

 しかし人間は血の繋がった家族の為なら身を粉にして働くのも厭わないが、社会の為なら自発的には働けないという見解も有力だ。

□実際、家族が私有と消費の単位であり、家族生活によって働きがいや生きがいが与えられているのだから、家族が無くならない限り、共産主義は実現不可能という説には説得力がある。

□しかしこれも共同体が家族的になり、仲間意識が強くなるに従って、家族中心の価値観は薄れていく事も考えられる。
ーーーーーーーー三、自己疎外の主体ーーーーーーーーーーー

 労働の自己疎外の主体は、もちろん労働者である。労働者は労働を通して労働生産物を生み出すが、労働生産物は労働者にとっては疎遠なものとして、労働者から独立した力として敵対的に労働者に立ち向かってくる。

□労働者は労働を一つの対象の内に固定し、物的な定在にする。これが生産物に労働を対象化するということである。

 だから家屋は大工の労働の対象化であり、豆腐は豆腐屋の労働の対象化である。

□ところがこれが商品関係では労働は商品として対象化され、生産者から独立して他人に売り渡される。資本制生産では労働は資本として、つまり自分を敵対的に支配する外的な力として対象化されることになる。

 本来主体の自己実現活動として労働の成果は自己自身の力を示す筈である。大工は家屋に自分が大工であることを実現し、豆腐屋は豆腐に自分が豆腐屋であることを実現するように。ところが労働の生産物が商品や資本になると、それは自分にとって他者として対立してくるので、疎外を感じるというわけである。

 ところで商品生産者が労働で商品を生産したり、可変資本としての労働力が資本を生み出しても、対象に自己を実現していることには変わりがない。だからマルクスの疎外論では、主体が商品生産者であったり、労働力商品であったりすること自体、本来の姿ではなく疎外された姿なのである。

 しかし実際に資本主義社会にあっては、人間は商品生産者や労働力商品としてのみ存在資格を得られるのだから、その意味では商品生産者や労働力商品であるのが第一義的に重要になる。

□むしろ商品生産者や労働力商品として認められなければ、社会からドロップ・アウトして疎外された存在に成らざるを得ない。そして労働の成果が商品になり、資本になるから、自己を商品生産者や労働力商品として再生産できるのである。

 一八四四年の『経済学・哲学手稿』の疎外論では疎外されていない本来の人間が先ずあって、それが特定の社会関係の中では疎外された労働を通して、自分の本来の姿を疎外して、非本来的な姿で存在せざるを得ないことになる。

 それが翌年春に執筆されたとされている『フォイエルバッハ・テーゼ六』で「フォイエルバッハは、宗教的な在り方(ヴェーゼン=本質)を人間的な在り方(本質)へ解消する。しかし人間的な在り方(人間の本質)は個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総和(アンサンブル)である。」と宣言されているから、具体的な社会諸関係から抽象して人間の類的本質を理念的に概念把握しておいて、その理念との擦れを本来的な自己の喪失と説くような、イデア論的な発想は退けられたのである。

□この「哲学的良心の清算」によって疎外論自体が退けられたという解釈も生じている。

 それでは『経済学批判要綱(グルントリッセ)』『剰余価値学説史(メアヴェルト)』『資本論(ダス・キャピタル)』の経済学批判期になって疎外論が復活するのは何故だろう。

□それはおそらく物事をデュアルに(二重性で)捉える経済学の方法と関連があると思われる。

 『資本論』では、商品も使用価値と交換価値の二重性から説き起こす。労働力商品も使用価値を形成する具体的有用労働の主体という面と価値を形成する抽象的人間労働の主体という面で二重的存在である。

□具体的有用労働の対象化として具体的な生産物を作り出すが、それが商品関係を投映して、抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)である価値として受け止められるために、商品として流通し、他者化してしまう。

□この面が労働者の生産物からの疎外、労働からの疎外として現れる。

 逆に抽象的人間労働それ自体の固まりである、抽象的人間労働のガレルテとしての価値は、生産物である使用価値(マルクスは生産物と使用価値を混同している。『転換』参照)に膠着して生産物自体の属性と倒錯視されると、価値関係が労働量間の関係ではなくて生産物の物的関係に置き換えられるので、労働時間量と価値量が乖離し、商品価値の本質が隠蔽されてしまう「労働からの疎外」が生じることになる。

□これが商品所持者および資本家およびブルジョワ経済学者の疎外された意識である。
ーーーーーーーー四、関係としての主体ーーーーーーーーーー

 マルクスが社会的諸関係の総和として現実的な諸個人を捉え、これを主体に置いたとすると、主体は社会的諸関係に還元されてしまうのではないかという疑問が生じる。

□つまり常識的には、各個人の人格主体を想定して、人格主体の活動として労働や社会的実践を解釈してきたが、人格主体なるものが実体としてそれ自体で存在しているわけではなく、人格は社会的諸関係の結節として、便宜的、機能的にのみ主体として置かれているだけではないかという解釈が生じる。

□関係は実体ではなく、従って主体でも有り得ないからという
理由で、主体の自己疎外論が葬られるのである。

 主体の実体性を否定する議論に反発して、主体=ライオンが客体=縞馬を追い掛けて倒す場面を持ち出して、主体・客体関係の自明性を擁護するのは有効だろうか。

□実は、それは第三者の観察者の意識にとって自明に写るに過ぎないのである。

□ライオンは縞馬を見ても、空腹でない限り、何の関心も示さない。つまり普段は縞馬はライオンにとって単なる背景であって、絵画的には地に過ぎないのだ。

□ところが空腹になると縞馬は獲物として絵画的には絵として登場する。そうすると筋肉が緊張して激しく運動し、縞馬が大きくなっていって牙に捕らえられることになる。

□この過程で縞馬は地の場合も、絵の場合もライオン自身の生理状態を構成しており、ライオンの外部の客体としてはライオン自身には意識されていない。

□ライオンの意識は、対他的な主体・客体(=対象)関係を自己の生理に止揚してしまうのである。

 それにしてもライオンという主体が縞馬という客体的対象を捕まえたという事実には、カメレオンが蝶を捕らえるのと同様に、もっとはっきりさせれば、食虫植物が虫を捕らえて食べてしまうのや磁石が砂鉄を吸い寄せるのと同様に、意識内容の如何に係わらず変わりがないのだ。

□ライオンと縞馬という互いに身体間に距離を置いた対立物が、食物連鎖の関係の中で相互に働きかけあっているのである。

 縞馬はライオンの視角の中に入って食欲を刺激し、自分を食べるように働きかけてしまう。もちろん縞馬自身意識的にそうするわけではない。縞馬・ライオン関係にあっては自ら獲物を演じざるを得ないのである。

□意識的には自己保存本能に従ってライオンという危険な生理状態を脱出すべく、筋肉が緊張して運動しているが、何頭かは餌食になってしまうのだ。

 磁石が砂鉄を吸い寄せる事態は、砂鉄が磁石を吸い寄せているとも言い換えられるのだから、吸引という事態の以前に、吸引力を持った磁石や砂鉄が先ずあって吸引現象が起こるのではない。

□すべての事物は事態の契機として捉えられるのである。しかしこれを根拠に事物の実体性や主体性を幻想視するのは、やり過ぎである。

□むしろ事物にとっては何らかの事態の契機となることによって、対立物に働き掛け、対立物を規定し、その事によって逆に対立物から規定し返されて存立できるからである。そして事態もその契機として事物が相互に措定し合うことによって始めて成り立つのである。

 たしかに事物はそれ自体総体的な関係である。水は酸素と水素の関係の一種だし、身体は細胞間、器官間の関係である。また機械は部品相互の総体的な関係である。それでも関係であることは少しもそれが主体であることの妨げにならない。

□水は物理的、化学的に様々な働きをして、万物を創造し、育成し、破壊し、流転させる。身体は自己保存の為に異物を体内に取り込んで同化し、異化し、その事を通して生態系を保存す
る。

□機械は、予定された原材料、燃料を投入されれば、予めプログラムされた過程でそれを加工したり、化学変化させたりして上で、特定の予定された品質の製品を、繰り返し作り出すのである。

 存在の第一義性を事物か事態(あるいは関係)の二者択一にしてしまうから、実体や主体概念が排却されてしまうことになる。事態はそれを対立物の闘争と統一としてしか把握できないのであって、それは対立物が事態の契機としてしか在りえないように、事物の事態に対する第一義性は、事態の事物に対する第一義性と互角に張り合っているのである。

□だから事態を第一義的に捉えて、事態関数の項を倒錯的に実体化して捉えたのが事物であるという見方は、事物を第一義的に捉えて、事態を倒錯とすると同様に不当なのである。
---------五、「事物の主体性」と「事物の疎外」----------

 ところで事物という諸関係の統合が倒錯でないとすると、各事物はある一定の環境条件の中では自己の同一性を保持し、各対象に特有の関係を維持し続けようとする。つまり各対象はその事物によって本質的な関係規定を与えられると同時に、その事によってその事物の本質を措定し返しているのだ。

 では各事物はいかなる場合に主体性を持っており、またいかなる場合に疎外に陥ると言えるのか。「主体性」というような実存主義的なカテゴリーは、人間以外の動植物や無生物には適用できないと思われているが、事物一般が主体だということになれば、事物一般が広義の主体性を持たないのも筋が通らない。

□広義には「主体性」は、あらゆる事物が自己の本質を維持しようと対象的な諸事物に働き掛ける傾向性を意味している。

 それに対応して一般的な事物の「疎外」も規定できる。「疎外」とは、各事物がそれぞれの本質を維持しようと対象的な諸事物に働き掛けても、諸対象が主体の事物にうまく反応しないので、「孵化しない卵」や「読まれない本」のように主体が自己の本質を充分発現する事ができなかったり、「水をやらない花瓶の薔薇」や「変質しつつある古米」のように規定を維持しにくくなって、不安定に陥っている状態と定義してよい。

 「事物の主体性」および「事物の疎外」は自然保護や地球環境全体の保全という観点からは、大変有効な視点に成り得る。ヘドロの海、酸性雨で枯れた森、森林伐採による砂漠化、オゾン層破壊、奇跡の水と大気の惑星地球の状態を考えるとき、それぞれの事物の主体性がスポイルされ、深刻な「事物の疎外」に陥っている現実が浮き彫りになる。

 疎外論の復権に当たってエコロジー的観点を導入し、単なる身体的個人の人間疎外論から「事物の疎外」を含むグローバルな疎外論へと発展させる必要がある。

 疎外は「疎ましさ」という感情を核にしているから「事物の疎外」は比喩に過ぎないとか、「事物の疎外」を説くのは擬人的倒錯だとかの批判が予想される。

□だが事物には、自覚的な意識は無くても、それぞれ本質的な傾向性があり、それを最大限に実現しようとする能動的作用がある。それが対象や環境条件次第で、本質を発現させられる程度にかなりの格差が生じている。この擦れをその事物の心になって感情的に捉えたのが「事物の疎外」である。

 たしかに薔薇はその年の気象や栄養状態次第で見事に咲いたり、貧相に咲いたりしても、薔薇自身に心が無いのだから、それを疎外とは感じない。

□しかし艶やかに咲き匂う薔薇を見て、心燃ゆる思いにかられたり、貧相な薔薇に意気消沈したりする人の心は薔薇が人に対象化した薔薇の心なのである。これが本居宣長の『あしわけおぶね』『紫文要領』の「もののあはれ」論で展開されている、「物の心になる」ということである。

 薔薇が見事か貧相かは薔薇自身のことではあるが、見事とか貧相とかの評価は薔薇を鑑賞する側の評価である。この評価抜きに薔薇の見事さは成り立たない。薔薇は薔薇らしく美しく咲き誇ってこそ、薔薇としての存在価値がある。だから人間の評価抜きで薔薇の本質発現もないのだ。

□菜の花は蝶たちの仲立ちで交配が行われ、種を保存できるので、蝶たちを魅惑する匂いや色や蜜をサービスしている。そしてそのサービスの内容が花の本質を構成している。だから花に対する人や蝶の評価や反応が、花自身の再生産の不可欠な契機
となっていて、そこに人の心や蝶の感覚を巻き込んではじめて花足り得るのである。

 つまり本質というのは対象的なものであり、関係規定でしかあり得ない。けっしてその事物に関係抜きに先ず備わっているというような、形而上学的な本質ではあり得ない。その意味で「人の心」や「蝶の感覚」を捕捉して、自己の本質を発現する薔薇や菜の花は心や感覚を自己の補完物にしていると言える。

□元々感情や感覚は身体が勝手に作り出せるものではない。対象の刺激が身体内に引き起こした事態あるいは刻印した信号である。だから情感や感覚は対象の述語になれるのである。その意味で「人の心」は「物の心」に他ならない。人は自分たちの心の内容を私有観念に囚われて、排他的に独占しようとする。それで「物の心」を理解しがたいのである。
-------------六、社会的事物の主体性と疎外--------------

 人間の社会関係を構成している事物を社会的事物と定義することにする。最も広い意味では天文学的に捉えられている星雲宇宙も、科学体系を構成し、世界観的にも文明論的にも人間社会に少なからず影響を与えているのだから、社会的事物に含めてもよい。

 ここで重要なのはいかなる事物が社会的事物に含まれるかではなくて、人間社会の構成物として捉えられた限りでの事物の存在性格である。

□そこで狭義には社会的事物は、その本質が人間社会の関係に依存している事物を指すと定義することになる。

□例えば石油、天然ガス、石炭、炭、薪、水素ガスなどは「燃料」として社会的事物を構成している。自然的事物としてはあまり共通性がなくても、社会的事物としては共名を持つ同一事物のカテゴリーに含まれるのだ。

 唯名論(ノミナリズム)によれば、人間が付けた名前は存在を正しく名付けているとは言えない。正しい名付けは正しい認識に基づいている筈だが、人間の有限な認識能力ではとても真理を把握できない。

□人間の生活上の便宜に基づいて名付けを行うことで分類しているに過ぎないのだ。神のみが存在に対応した正しい名付けができるのである。しかしこれは社会的事物に関しては全く的外れな議論である。

 例えば共名が机(デスク)である社会的事物が存在する。机は一応脚付の台でその上に書物を置いたり、文具を置いて読書や事務を行うよう製作された物と定義してよい。ところが類似品に卓(テーブル)がある。

□卓も脚付台でその上に食器や飲食物を置いて食事をしたり、お茶を飲んだりする。また手や肘をかけて寛ぐのにも使用される。卓を机の代用に使用しても差し支えないし、逆に机を卓の代用にする場合もある。机が無いので果物を入れていた木箱を机の代用にしたり、段ボール箱が机としての役目をすることすらある。

□そこで机は単に効用を意味するだけで、便宜的な名前に過ぎない。存在としては脚付台や木箱、段ボール箱があるだけだというノミナリズムが幅を効かすことになる。

 しかし脚・台・段ボール・箱等もまた効用に過ぎないから、存在としては木質や段ボール加工紙等に還元されてしまう。

□しかし素材(マテリー)は社会的事物の本質を構成しない。机は木製であるかスチール製であるか、プラスチック製かはたまた大理石でできていようが、机として効用に合わせて作られて通用していれば机なのである。

□社会的事物としての机の存在は、社会に机と呼ばれる事物の定義に叶う事物が存在し、一定の社会的役割を実際に担えているかどうかでしか実証され得ないのだ。広義の机、手製の机、代用品としての机、家具工場で作られた製品としての机(狭義の机)等で、それぞれに含まれる事物は違ってくる。

□その社会的役割も当然異なるのである。いずれにしてもそういう机が過去あるいは現在に存在することは確かである。

 使用価値を本質にする事物は、その本質において人間の効用に依存していることになるので、人間から独立した存在とは言えない。

□これは事物の定義に反しているのではないかという誤解がある。だが効用を本質にしたら、事物ではなくなることは全くないのだ。社会的事物は人間との関係にその存立自体が依存している事物だから、使用価値を本質にしても少しも事物の定義に抵触しないのである。

 ノミナリズム的誤解の原因は、事物と物質(マテリー)の混同にある。唯物論者の一部はマテリアリスムス(唯物論)を質料主義(マテリアリスムス)と受け止めているので、こうした混同に陥っている。

□しかし質料主義の立場は結局「根源的物質」や「質料そのもの」というカオスを存在の基底に置くことになる。その結果、ニーチェ的な非合理主義に道を拓くか、存在自体を弁証法的に捉えない、主観主義的な実践的唯物論に陥るのだ。

 書物、ノート、新聞、チラシ、画用紙、便箋、ティッシュペーパー、トイレットペーパー等々紙でできた製品はたくさん有る。紙製品のコップや衣服まである。それらを同じ事物だと考えるのはマテリー的には正しいとしても、実際に代用できない場合も多く、同じ社会的事物だと捉えるのはあまり重要ではない。

□異なる社会的事物として生産され、使用されていて、そのことで人間社会を構成しているという事実に注目すべきである。そしてそれぞれの本質が実現されず「読まれない書物・新聞」「書き込まれないノート・画用紙・便箋」「山積みのティッシュペーパー・トイレットペーパー」のままだと事物の疎外である。

□父の死後、形見分けで五十年振りにチャップリンが愛用したような燕尾服がほとんど新品のまま姿を現したが、とても型が古くて今頃使いものにならないから捨ててしまった。事物の疎外である。

 大量生産・大量消費の現代では、新しい機能を付けた新製品を売り出して、まだ充分耐用年数の残っている耐久消費財を中古市場や古鉄市場に吐き出させる。こうして経済の停滞を防止しているのである。

□その結果、資源の枯渇が進み、環境の破壊が進行する。これは生産物からの疎外であるが同時に自然や人間環境の疎外でもある。

 社会的事物の主体性についても否定的な見解が有力である。例えば書物を読むという行為の主体は人であって、書物ではない。字を書いているのは鉛筆ではなくて、人である。服を着るのは人であって、服ではない。あくまで意志をもって主体的に行動しているのは人であって物ではない、と行為における身体の側の能動性に固執するのである。

 しかしそもそも身体に生じる意識や意志はどのように形成されているのか?書物が読むように働き掛け、服が着るように働き掛けているから、読んだり、着たりするのである。社会的諸事物が人に様々に働き掛けて、その人の欲望や意志を形成しているのである。

□もし社会的事物が人に欲望や意志を生み出すことに成功しなければ、その種類の社会的事物は再生産されなくなるので、減少していく事になる。

□だから現にある社会的事物が社会的に同じ量だけ再生産され、需要されているとすれば、消費者の欲望と意志の形成に社会的事物が成功していることを意味している。

□ところが人は自分の意識を全く自分のものと考えており、あたかも自分自身で生み出しているつもりでいるだ。私有観念に囚われずに意識形成を反省すれば、人の意識は同時に物の意識であり、身体側の主体性だけでなく事物側の主体性も認められるのである。
-----------------七、貨幣存在と疎外-----------------------

 社会的事物は商品交換を通して貨幣で価値評価される。そして貨幣はすべての商品と交換可能な商品として流通している。

□したがって商品所持者は先ず自己の保有する商品を貨幣に換えて置けば、任意の種類の商品を入手できることになる。逆に言えば貨幣は持っていなくても、市場に任意の商品を提供することで貨幣を入手でき、その貨幣で任意の商品を入手できることになる。

□かくして多種類の商品が取り引きされる市場が成立する。それに伴い、社会的分業が発展することになり、それぞれが自分の個性を最大限に発達させる条件が生じるのだ。

 しかし分業は諸個人を一つの職業に固定して、各人の能力を極端に一面的なものにしてしまう。人間性の全面的な発展はただ類としてのみ、社会全体で実現する。

□各人は貨幣によって媒介されて、衣食住や教養娯楽に必要な物資を手に入れることが出来る。したがって貨幣は人間の全面性の疎外された姿であり、貨幣と引換えに自己の全面性の可能性を放棄しているのである。

□こうして人間は貨幣によって手に入れた全面的な富を消費する形でしか自己の全面性を享受できない存在になる。

 本当は貨幣は人間自身の特殊性と全面性が、特定の商品に効用と価値という形で対象化されたものである。

ある特定の商品が全ての商品と交換可能だということは、実は各個人の作った商品がすべての種類の商品と交換の可能性を持っているからに他ならない。つまり全ての商品も潜在的に貨幣性として全面的な交換可能性を持っているのだ。

 ところが全ての商品が全面的な交換可能性を実現しては困るのだ。自己の所持する商品が全ての商品と交換できるということは、逆に全ての他の商品からの交換請求に応じなければならなくなってしまう。そうすると本当に手に入れたい商品との交換になかなか行き着かないことになる。そこでこの全面的な交換可能性を唯一の商品に外化・譲渡(エントオイセルンク)するのである。

 各商品はある特定の商品を貨幣とすることによって、全面的な交換可能性を失ったように見える。しかし今度は貨幣を媒介にして、二回の交換で任意の商品に辿り着くことができ、結局全面的な交換可能性を実現できるのである。

□こうして貨幣は私有によってばらばらになった諸個人を社会的分業に再編し、市民社会の中での協働聨関を構築する。だがそれはもはや共同体的なものではなく、貨幣を通して互いの提供する商品を支配し合う関係である。この貨幣の疎外のアンビバラントな性格に注目しなければならない。

 マルクスの貨幣の疎外に対処する姿勢は、共同体による貨幣経済の止揚にあった。そうすれば人々は仲間の為に必要な物を作り、仲間から必要なものを供給される。貨幣を介すればどれだけ沢山の商品を手に入れられるかが唯一最大の目的になり、労働はその為の商品を作る犠牲として受け止められる。そして労働においてどれだけ自己の類的本質能力を発揮できるかは目的ではなくなってしまう。

 逆に他人の労働の成果を支配する為の手段として強制された労働になってしまう。つまり貨幣の支配の下では自分の労働生産物は自分の物とはならず、他者化してそれを生み出した労働者にかえって敵対的に対立するようになるのだ。だから『経済学・哲学手稿』の「四つの疎外」は貨幣経済の続くかぎりなくなりはしないのだ。

 ところがマルクスは資本主義的生産様式を転覆させて新しい共同体をつくれば、貨幣経済は止揚されると考えたが、実際には貨幣が止揚されるのは、貨幣の支配によって成立した社会的分業関係がより発展できるような代替システムが出来ない限り、とても無理である。

□そこでたとえ資本主義が市場社会主義に変わっても、当分は四つの疎外は続くから、それをどのように緩和すべきか対症療法的な措置をとってゆくしかないのだ。

□それを市場経済は止むを得ないということになったので、そこから生じる疎外は問題にすべきでないという態度では、共同的関係を発展させることはできない。

 だから市場社会主義が実現している社会こそ疎外論が必要である。そうでないと市場は必要だという前提で、市場に最適な経済体制を早急に作ろうとすれば、社会主義的要素をミニマムにし、資本主義的要素を最大限に導入した方が良いことになりかねないからだ。実際そういう発想で中国経済は激しい格差社会を実現してしまっている。

 市場は現在のところ必要で価値法則が充分に作用するよう、運営されなければならないが、それは四つの疎外などさまざまな弊害を伴うから、共同体の原理を有効に作用させて疎外を緩和し、将来的には、共同体原理をマキシム化する方向を示しておかなければならないからである。
---------------八、貨幣の疎外と倫理---------------------

 貨幣の支配の下で市場経済が展開している限り、価値貯蔵機能を持つ貨幣を蓄財することが、社会的な力を強くすることになる。そこで人々はできるだけ貨幣を稼ごうとし、貧富の差が生じることになる。

□市場経済の下では何らかの目的を達成する為には、貨幣の力を借りなければならないから、蓄財そのものを一概に非難すべきではない。

□しかし貨幣の万能に惹かれて、魂を貨幣の悪魔に売渡し、蓄財それ自体が自己目的化し、その為にはあらゆる手段を講じ、他人を騙したり、あくどい収奪や搾取を行ったりするようになれば、社会的に害悪となる。

 むしろ貨幣が作り出す市場を通して社会的分業が形成され、そこに相互依存の経済関係が成り立っているのだから、そこでの自己の社会的役割を見直し、自覚して、自己の役割を発展させ、市場の弊害を除去する共同の努力を行うようにすべきである。

□その際、貨幣は交換する商品の効用ではなく、価値にだけ関心があるのだから、労働の具体性にはどうしても無関心になりがちである。

□別に金になりさえすれば何を作るか、どんなサービスをするのかはどうでもよいことになる。そこで具体的な自己の社会における役割を自覚するのが難しいのである。

 また貨幣の支配は事物の良さや効用を経済的な価値に還元する傾向を生じる。美術品の良さはその値段とは全く比例しない。しかし高く売買された絵画は、どうしても美術的価値が高いと見られてしまう。

□金さえ有れば、どんなことでもできる世の中だから、値段が高いものが良いものだというように誤解されるのも尤もである。

 こうして値段を意味する「価値」が物事の良さや効用一般を代表する言葉になった。その上、真善美やかけがえのなさそれに崇高性などおよそ値が付けられないものも、かえって真の「価値」があるとされた。

□これは経済的価値でないものこそ、本当に良いものだといわんとしてのことだが、貨幣の支配によって良さを「価値」で代用してしまったのである。

□かくしてなんらの共通性がみられないものが「価値」カテゴリーに統合されたのである。いかに精神が深く貨幣に侵食されているか分かる。

 物の値打ちが交換価値で計られるのは、経済的判断としては止むを得ないが、効用・真・善・美の判断、崇高さやかけがえなさの判断は、それに影響されてはならない。

□人間の値打ちも同じで、ややもすれば労働力の価値や、財産、社会的支配力で、人間そのものが評価されてしまいがちである。

□人格の尊厳における平等を基礎にすべての個性が最大限に尊重されるべきである。

 この人格の平等と貨幣がもたらす経済的不平等は深く関連しているので、人格の平等だけを維持して、貨幣による不平等を除去するのは並み大抵ではない。

□自由・平等・博愛は自由主義経済の原理であり、競争と競争による格差と表裏一体である。

□資本主義的な搾取の自由は労働力売買の自由であり、対等な雇用契約の結果である。そこでリベラル・デモクラシーの社会を維持しようとすれば、資本主義的搾取ぐらいは必要悪と考えて我慢すべきだという主張になる。

 自由な経済活動を認め、それを活発にするためには、事業を大いに発展させ、巨万の富を得ることが可能にしておかなければ、経済は停滞し、国際的な競争に負けてしまう。

□もし私的な企業活動を禁止し、それを国家的事業で行うとなると、権力が国家に集中しすぎて、上意下達の官僚主義になり、それこそ自由や平等は圧殺されてしまう。

□実際ロシア革命の辿った経過を見ればあながち否定はできない。でも一党独裁体制の下での国有企業体制は、労働者の所有管理する社会主義とは程遠いものであったことは確認しておかなければならない。

 貨幣のもたらす市場経済の積極的役割を一旦認めてしまえば、それがもたらす弊害もすべて許容すべきだというのは乱暴な議論だ。

□市場経済の上に活動すべき事業の経営形態についても、弊害の大きい形態については禁止したり、弊害を軽減する為に法的に規制をするのは、かえって市場経済を維持発展させる適切な措置であるとも言えよう。

□資本主義的搾取が不当だと考える世論が大きければ、資本主義的企業形態を禁止するのも貨幣の疎外を軽減する措置の一つである。

□ただしそれに取って代わる新たな企業形態が経済合理性の
上で、資本主義的企業よりも優れたものでなければ、経済の停滞、国際競争での敗北に繋がり、結局は資本主義の復活を招くことになる。

 現在の世界では資本主義的企業形態が最も市場に適合しており、当分の間は資本主義経済を継続せざるを得ない。

□したがって資本主義的疎外も甘受せざるを得ないが、もちろん手を拱いて見ていれば良いのではなくて、不断にそれを軽減する努力や工夫を試みるべきである。そうでないと疎外の為に働く気概を喪失してしまうからである。

 また疎外論の立場は、疎外の直中で疎外を克服した生き方を追求するものである。それはカント的に言うならば「手段の王国」にあって常に「目的の王国」に生きるようにすることだ。

□実際には市民社会では貨幣が支配しているから、市民たちは利己心に従って行動し、互いを手段にし合っている。しかし同時に社会的分業の中で相互に補完し合い、依存し合って生きているのであって、互いの人格の尊厳を認め合い、互いを目的にし合って生きることも必要である。

□そうでなければ貧富の差が激しくなったり、戦争や災害や様々な苦役や悲惨が起こっても、全くの自己関心に閉じ籠もったままで、放置するようになり、やがて激しい抗争や悲惨に巻き込まれるになる。だから私的利害を追求せざるを得ない社会にいる以上、私的利害を追求してもよいが、同時にそれが公共の福祉にいかに係わっているかに常に責任と関心を持ち、公共的自覚の持って行うべきなのだ。
----------------九、商品生産と疎外----------------------

 疎外論が行き詰まった最大の原因は、商品生産の普遍性が次第に「社会主義」経済の停滞と共に説得力を持ち、私有財産によってもたらされた疎外を止揚するというマルクス疎外論が、全く非現実的だと見なされるに到ったことにある。

□私有財産を止揚して共同体経済にすることが不可能だとしたら、商品生産や私有財産を人間の疎外された姿として批判し、疎外を克服しようとする発想そのものを却下した方が良いと思われたのである。

 マルクスの場合、商品生産や私有財産制度は歴史的形成物であるから、その矛盾が激しくなれば、歴史的に止揚されることになると考えていた。疎外もそれに伴って解消する筈だったのだ。

□マルクス疎外論の前提にはゾレン(当為・あるべき姿)からザイン(現実)を間違ったものとして否定する構えがある。類的共同的本質が人間のゾレンであり、これが私有財産・商品生産によって疎外させられている。

□しかしそれは人間の本来の姿に相応しくないから、人間はやがて耐えられなくなって、新しい共同体・自由人の連合を形成して、類的共同的本質を取り戻すのであるという図式だ。

 ザインをゾレンから批判できるのは、実はザインがゾレンの疎外された姿であるからである。敵対的な社会の基底には社会的分業や交わり形成されており、ただ疎外された形態を脱ぎ捨てれば、ゾレンが表面化するのである。

□マルクスは、経営まで労働者を雇用してやらせることができる株式会社を、最も社会化の進んだ企業形態として捉え、資本家無用を実証するものと評価していた。

□無論、株式会社は資本が最大限利潤を追求することによって進化した企業形態であり、資本主義的疎外の面でも官僚主義的管理が徹底して極端化する恐れがある。

□とはいえ株式の大衆化を通して、巨大な資本を元手に労働力や機械力を集積して巨大な規模で生産を行うようになる。それ故、資本主義的商品生産に携わっていても、単に賃金の為にだけ働くのではなく、自己の労働の社会的役割や責任を見据えて、誇りを持って働くことが大切である。

 しかし現実には過労死の危険に直面させられたり、様々な厳しい労働条件や生活環境の悪化に悩まされている労働者にとっては、それでもなお社会的分業を積極的に担おうとする気概を持続できるだろうか?

□そのような疎外状況の深刻化に対しては労働者が連帯して生活と権利を守り、労働条件の改善の為に共同で努力し、労働運動を発展させる必要がある。労働運動を通して、自らの社会的分業を担う直接生産者としての自覚と使命が成長するのである。

 ゾレンが形而上学的に頭の中で勝手にでっち上げられた理想でしかなければ、その理想からザイン(現実)を批判しても、それは批判の為の批判、ひとりよがりの批判に過ぎない。

□マルクス・エンゲルスが『ドイチェ・イデオロギー』でヘーゲル左派を批判したのもこの視点からである。ザインを疎外されたゾレンと見なすのは、商品生産の場合、それは商品生産が価値を本質とする商品を生産していると同時に、使用価値(効
用)を生産しているからでもある。単に効用生産の分業体系であれば、疎外が生じないのに、それを価値生産として行わなければならないことによって疎外が生じるのである。

 商品生産を伴わない共同体的分業は部族内あるいはフラトリア(母氏族)内に限定されたものであった。それが血縁を越えて無制限に広がるには商品交換が必要で、それと共に人間固有の疎外が発生したのである。

□商品生産の発展が文明の発生や発展を支えてきたのだから、商品生産に伴う疎外を止揚しようとして、原始帰りをするわけにもいかない。

□商品生産を克服した方が生産性の向上が計れるような、疎外のない生産様式に辿り着くまでは、商品生産は継続せざるを得ないのである。

□商品関係によって覆われている社会的分業の共同性や、生産者と生産物、生産者と消費者の有機的な繋がりに注目して、疎外の中で疎外を克服するような生き方を追求すべきなのである。

 首飾りと筵の交換を例に取ろう。交換発生以前には首飾りを作るのは筵を手に入れる為ではなかった。あくまでもその首飾りが自分自身か自分の身内(フラトリア内の全構成員に対して身内意識がある。)の首を勇壮に飾る為である。自分が作った首飾りが身内の首を引き立てることに成功すれば、彼は相手の満足に自己実現を感じ満足する。

 そして首飾りによって自分と首飾りを送られた相手が一つの身体的に結合するのを感じるのである。何故なら首飾りは自分の生命発現として、自分自身の非有機的身体である。

□つまり細胞や器官的には繋がっていないけれども、自分自身の定在として首飾りは在るのだ。それが相手の首に在る限り、二人は一つの身内なのだ。そして全く駆け引き無しに、相手は筵を送ってくれるのだ。この送り合いは互いに無償の奉仕なのだから。

□筵は尻に温かく優しい。それは相手の私への思いやりであり、厚意である。まるで肌を温め合っているような一体感を感じて満足する。その満足が相手を無上に喜ばせるのだ。そして互いに相手の満足をもっと得て、自分ももっと満足しようと労働に精を出すのである。

 ところが商品交換だとそうはいかない。首飾りを作るのは筵を手に入れる為の手段に過ぎない。彼は首飾りが相手の首を勇壮に飾ることそれ自体が目的ではなくて、そのことで相手がそれと引換えに筵をくれる事が目的なのである。だから彼の喜びは筵の暖かさの感触のみであり、首飾りの装飾性にはない。

□彼は筵に化ける首飾りを作っているのであり、筵よりはむしろ首飾りを作っているつもりなのだ。したがって彼は首飾
り作りに自分の生命発現、自己実現の喜びを感じることはできない。

□むしろ首飾りという自己実現行為によって自己喪失を感じるのである。つまり筵を手に入れる為に払わなければならない犠牲として首飾り作りを捉えているのである。

□だから出来るだけ少ない時間に、出来るだけ沢山の筵と引き換えられる首飾りを作ろうと努力する事になる。その意味で交換による疎外の中でこそ、単なる厚意や誠意、愛情による工夫だけにまかせていてはとても出てこない経済合理性が成立したのだ。

 彼の首飾り作りと相手の筵作りの差異は捨象され、同じ抽象的な人間労働としてどれだけの手間暇を要したかだけで、どちらが得か損かを考えて駆け引きするのである。つまり両者の関係は相互支配である。

□彼は首飾り作りを筵を作る人に対する従属的奉仕と捉えており、相手の筵作りを首飾りによって支配しているつもりなのである。首飾りや筵は互いに支配し合う為のくびきに過ぎない。

□それは両者を一体の身内として融合させるのではなく、反対に外的に全くの他者(よそもの)として対立的に束縛し合うのである。

--------------十、「商品生産の疎外」克服の論理----------

 しかし実際、敵意を持っている者同士が相手を信用して商品交換ができるだろうか?商品交換は平和的友好的な関係であって、互恵の精神の上に成り立っているのではないかという反論も想定できる。

□別に商品として生産しても、やはり消費者に満足を与えることが生産者の喜びになり得るのだ。それ程極端に商品生産の疎外を捉えるのは不自然だという批判も想定できる。

□だが融即の世界から物と物の対峙する交換の世界への転回、ホモ・エコノミクスを交換主体、労働主体として始めて成り立つ価値法則の支配は、商品交換に内在する論理から由来したものである。純粋に交換の論理を抽出すれば、他者は全く手段化して捉えられることに成らざるを得ない。

 とはいえ、効用を生産するには社会的分業に組み込まれなければならないし、たとえ交換に媒介されての事であっても、相互依存関係を疎外の基底に見出すことは可能である。

□一方で互いに経済合理性に徹する価値の論理を踏まえながらも、社会的な共同、公共の福祉を反省することができるのである。

□そして商品生産の疎外からくる抽象化された味気ない労働を少しでもやり甲斐のあるものにするためには、共同体的な論理
を反省して、消費者の喜びを喜びにする生産者であろうと努力するのである。

 倫理的な努力は、現実の商品経済的効果が無ければ継続できない。もしこうした共同精神に基づく労働が、労働意欲を高め、仕事に打ち込む中で生産性の向上をもたらし、より多くの価値獲得に成るのでなければ、お人好しの無駄な努力として一時的に終わってしまうのだ。

□文明の疎外を問題にし、生産性の向上を目指すことに反省を迫るポスト・モダンの思潮は、大工業を解体し、小規模で自然の循環の許容範囲の生産力に戻すことを主張している。

□しかしポスト・モダンの考え通りにしてしまうと、競争力が落ちるので、みるみる他国と技術格差が大きくなり、経済的・政治的・軍事的に他国の脅威に晒されることになる。

□要するに生産性において商品経済を凌駕できる生産システムに到達するまでは、商品経済を継続しなければならず、商品
経済の内部にあってこそ、商品経済の疎外を克服する様々な工夫を積み重ねる事ができるのである。

 交換発生以前は、融即の論理が貫徹していた。フラトリアや部族等の共同体は一つの身内として共同の身体を成していた。人々はその器官や細胞として存在していたのである。身体と土地や自然環境、道具と生産物は共同身体を構成する要素を成していた。互いに不可分離な関係にあったのである。

□ところが交換によって他者間の取り引きになると、融即は崩れ、人々は互いに他者として疎遠に対峙するようになり、生産物が商品となって生産者と切断された。

□そして生産物どうしも互いに疎遠な外的な事物として対峙し合うようになった。かくして有機的な全体的自然は、ばらばらで疎遠な事物の集合として捉えられるようになったのだ。

 こうして人と人、人と道具、人と生産物、生産物と生産物、物と物の疎外関係が成立した。これが世界を事物の集合として認識し、主観・客観認識図式に基づいて、事物とその属性の関係を主語・述語によって表現する正式な言語の成立を促したのである。

□人はそれまで動物的な融即の論理にあったのだが、そこから脱却して正式に人間的段階になり、文明を開く基ができたのである。

□ということは商品的疎外は人間が人間固有の論理に到達してからずっと続いているのである。だからこれを脱却するのは人間が次の段階に行くぐらいの飛躍を伴っているのである。

 だから商品的疎外の克服は無理で、マルクスの目指した新しい共同体は単なる夢想に過ぎないと考えるか、人間が疎外克服の努力を諦めないで積み重ねていけば、いずれはヘラクレスのような力が身について、疎外を克服して自由人の連合を形成できるかもしれないと考えるかが問題である。

□ただ言えることは、ホモ・エコノミクスに徹してもそう簡単に貨幣を獲得できるわけではないし、そのことで疎外がますます深刻に成るばかりである。

 労働そのものに自己実現の喜びを見出し、市場で結ばれた人々と連帯しようとする姿勢を持つことが、疎外を軽減し、しかも価値獲得にも成り得るかもしれない。

□そのような解放的で現実的な思想に疎外論を発展させれば、新たな共同体が疎外された社会の中で着実に精神的優位を取り戻すことができるかもしれない。

 そこで思い出されるのは「共産主義は未来ではなくて、共産主義を目指す現在の運動である。」というマルクスの言葉である。これはバイブルの「神の国は心の中にある。」という言葉と似ている。

□たしかに未来に理想社会が実現して、現在が理想実現の過程であるとすれば、歴史の進歩に貢献するために努力するのは
やり甲斐のあることである。

□ところが現在は歴史の曲がり角であり、社会主義、共産主義への発展方向は大きく挫折してしまっている。おそらく新しい共同体の形成は、数百年単位、下手をすると千年単位で数える
程手間取るかもしれない。

 元々未来は現在における可能性に過ぎず、過去は現在の記憶に過ぎない。常に今あるのは現在のみである。

□現在において何らかの意味で納得できる生き方、解放された生き方ができていなければ、その延長線上の未来も決して解放されないだろう。現在の疎外の直中での解放をこそ目指さなければならないのである。家族・友人・職場・町内からでもでもよい人間関係を改善し、社会を明るく、自然を美しくするような協同の営みを積み重ねることが大切なのだ。それが今日的には「協同主義(コミニュズム)」なのである。
 

---------------付編.『資本論』と疎外論 ------------------

------一、『資本論』における疎外論の役割 ---------------

 後期マルクスとも呼ばれる経済学批判期に「疎外」概念はほとんど使われなくなり、キーワードとしての重要性が無くなったという疎外論払拭説は、『資本論』に対する決定的な誤解に基づいている。もちろん『資本論』自身は資本制生産様式の法則的な認識を目指すものであって、労働者の疎外状態を告発することを目的としたものではない。

□したがって生々しい労働日をめぐる闘争を論じた箇所でも、「疎外」という用語を使わずに済ませている。では一体どのような意味で使用されたのか。

 経済学批判期には計49回使用されている。
『グルントリッセ』11回、
『メア・ヴェルト』25回、
『ダス・キャピタル』13回である。その内訳は次のとおりである。Gは『グルントリッセ』、Mは『メア・ヴェルト』、Kは『ダス・キャピタル』を示す。

(1)労働から疎外された客観的実在(としての資本)
G1、M10、K2 計13回

(2)同一性(統一性)の破壊・分裂・対立としての疎外
G1、M6、K5 計12回

(3)本質からの乖離としての疎外
G2、M4、K2 計8回

(4)疎外としての対象化
G2、M1、K1 計4回

(5)生産物からの疎外
G2、M1、K1 計4回

(6)労働における疎外(疎外された労働)
G0、M1、K2 計3回

(7)自己の本質or社会的関連の物象化としての疎外
G1、M2、K0 計3回

(8)人間間相互の疎外
G2、M0、K0 計2回

 (1)(2)(3)(4)は物神性の原因で、この用法が経済学批判期における疎外論の特色となっている。これはマルクスが疎外論を脱却して物象化論・物神性論に移ったのではなく、物象化論・物神性論が疎外論の新展開であることを示している。

□(5)(6)(7)(8)は『経済学・哲学手稿』の四つの疎外と同じ用法で、疎外論の新展開が若きマルクスとの思想的断 絶を意味しないことを示している。

------------二、商品の物神 性論と疎外論 ---------------

□物神性については既に『経済学・哲学手稿』「第三手稿」の「私有財産と労働」および 「貨幣」で論じられている。

□商品物神性論の原型としては「私有財産と労働」の物神性論に注目すべきである。マルクスはそこでアダム・スミスを国民経済学の偶像破壊者ルターとして評価している。

□それは重金主義者や重商主義者が富を物財として理解していたのに 対して、富の主体的本質を労働として捉え人間に還元したからである。

□つまり富の大きさは物の効用によってでなく、物に蓄積された労働量によって決まる。富は蓄積された労働量に他ならないから、物の属性ではないと考えたのである。

□ところが富は人間の労働を主体的本質にするにも係わらず、あたかも外的な事物の属性であるかに疎外された姿で現れている。スミスはそれが実は人間労働である事を示して、人間の許に取り戻したのだ。

 だがマルクスはスミスはかえって人間の否定を徹底したと指摘している。スミスは、富の本質を人間労働である事を示すことで、人間が疎外された労働の蓄積として、人間性を否定して、非人間的な人間の外にある事物として立ち現れざるを得ないことを示したからである。

□スミスはそれを前提に当然のごとく、その上に労働価値説に基づく経済学を構築したのである。マルクスは、それが人間の疎外された労働の対象化された姿であり、否定され克服されるべき現実として認識されなければならないことを指摘したのである。

 そこでは労働生産物は富ではない、富は疎外された労働の蓄積だという認識がある。マルクスにいわせれば、労働生産物を富として捉えるのが物神崇拝なのである。

□『資本論』で商品の物神性を説く論理もこれに発展させたものである。富を価値と置き換えればよい。ただし物事をデュアル(二重)に捉える点が新展開になっている。

□商品は使用価値(効用)と価値の二重性で捉えられる。それぞれを作り出す労働もデュアルに、使用価値を生む具体的有用労働と価値に凝固する抽象的人間労働に分けて捉えられる。

□マルクスは使用価値と労働生産物を混同して捉えているから、労働生産物を作るのは具体的有用労働である。そして労働生産物には価値がない。何故なら抽象的人間労働は価値に凝固するだけで、労働生産物を作るのではないからだ。ところが商品論においては労働生産物が価値を持つ商品として扱われる。これがマルクスのいう商品の物神性なのである。

 では何故、抽象的人間労働が凝固した価値が労働生産物の属性であるかのように見なされ、商品として労働生産物が扱われるのか。

□それは価値が抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)であるからだ。ガレルテは有機物が熱でどろどろになった状態およびそれが冷えてそのまま固まった状態である。

□膠だからそれは生きた労働の熱で溶かされて、労働生産物に膠着するのである。これは抽象的人間労働なので具体性がなく透明で見えない。だから価値は労働それ自体の固まりではなく、労働生産物の属性であるかに思われるのである。

 マルクスは商品経済の関係においては事物と価値、事物と労働の抽象的区別が止揚されていることを冷静に認識できていないのである。

□富の主体的本質が労働であるということは、労働の成果が生産物として評価されることを意味している。ただし価値は労働がただ時間的に労働量として捉えられるものだから、事物の具体的効用とは係わらない。あくまで事物の市場における抽象的な社会的支配力即ち交換力として捉えられるのである。

□労働のままあるいは労働の固まりのままでは価値ではない、それは物の属性とならなければ対象的に捉えられないのだ。そこには労働と事物の抽象的区別の止揚が価値であることが現れているのだ。

 マルクスは事物が抽象的人間労働の凝固として価値だと認めることは断じてできなかった。それは人間の現存が事物であるというに等しく、人間を事物と見なすとんでもない倒錯だと考えたからである。

□ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの超越神論では、神と人や物は絶対的に断絶しており、神を人や物で表現する偶像崇拝は最大の涜神として排斥されている。人と物も同様の断絶関係で捉えると、人を物として捉えたり、物を人間関係を示す物として捉えたり、物に社会的力を認める等はとんでもない、人と物の混同、擬人化的倒錯とみなされがちである。

□マルクスの思想はこうした超越神論の文化的背景を押さえて理解しなければならないのだ。これは宗教的確信に属するので論証抜きで人と物の抽象的区別に固執している。だから両者の区別の止揚として価値を見るのは、無条件に物神崇拝と見なされるのである。

 物神性論も疎外論の一種である。それは抽象的人間労働のガレルテであり、人間の現存である筈の価値が物の属性として人間にあらざる物の姿で誤って捉えられるからである。

□かくしてマルクスは『資本論』で、人にあらざる事物が価値であるかに展開することによって、本来の人間労働としての価値から乖離し、さまざまな形態の資本としていかに倒錯劇を繰り広げるかを開示するのである。だから『資本論』全体が疎外論的体系になっているのだ。


--------------三、事物と価値の二元性 -----------------

 マルクスによると、価値は抽象的人間労働のガレルテである。この「ガレルテ」という 表現は一見比喩のように思われ、抽象的人間労働の固まりとしての価値が生産物に膠着して、生産物を商品にしているというのも比喩的に了解すべきで、本気でマルクスの主張と見なすのは大人気ないという批判も寄せられている。

□しかし価値と事物を二元的に捉え、 ガレルテとしての価値が生産物に膠着していることを前提に『資本論』が展開されていることが、『資本論』をじっくり読めば分かるのである。

 価値形態論のところで、使用価値が価値の表現形態であり、「外皮」であるという表現がある。これは価値は見えないガレルテだから使用価値が外皮のように見えるというわけだ。

□これに似ているのが「蛹化」という表現である。金・銀等の金属貨幣の場合、金属が外からは見えるだけでこれが価値だという外見になる。しかしマルクスにすれば、金属自体は価値ではない。価値は金属繭の中の蛹に成っている抽象的人間労働のガレルテなのである。

□第三巻で生産価格を取り上げると「骨化」が問題になる。資本も価値の発展形態として抽象的人間労働の疎外された姿なのだが、それが有機分としての労働の集積であるということは殆ど窺えないのだ。ほとんどは機械や原材料あるいは有価証券や紙幣として無機的な要素から構成されているように見える。これを殆どがカルシウム分で生体である蛋白質が少ない骨に譬えて「骨化」と表現したのだ。

□資本も本当は労働の凝固なのだが、労働量とは乖離してしまって事物のように思われるのである。これらも全て抽象的人間労働の疎外さ れた対象化の結果なのである。

 ガレルテが比喩ではないと分かる決定的な箇所は「価値移転論」である。マルクスは生産手段の価値は、具体的有用労働によって生産物に移転させられると説いた。機械や原材料・燃料等の生産手段を生産物に変化させるのは、具体的有用労働である。その際に生産手段の価値は生産物に移転させられるというのである。

□この論理は生産手段とその価値を二元的に別物と考えた上で、生産手段に価値が膠着していたのが、具体的有用労働の火で炙られるとガレルテとしての価値が融解し、両者が一旦離れた上で、今度は出来上がった生産物に移転してまた膠着したのである。そう解釈しないと、どうして価値が移転するのか説明がつかないのだ。

 『資本論』の物象化論も労働の社会関係が生産物の関係に「投映」「刻印」されることを意味する。生産物が労働の社会関係を「受け取る」のである。つまり労働の関係と生産物の関係は二元的に捉えられた上で、「投映」「刻印」「受け取り」によって人間関係が物的関係に倒錯的に置き換えられているという図式である。このような人間関係が物的関係と見誤られざるを得ないことは、マルクスにとっては人間疎外に他ならないのである。

 ただし『人間観の転換ーマルクス物神性論批判ー』(青弓社刊)で大上段から批判しておいたように、価値は事物と労働の抽象的区別の止揚であり、まさしく物となった人間の定在である。元来、経済関係は労働関係を物と物の関係として扱う関係である。マルクスは超越神論的に人と物の抽象的区別に固執して、その区別の止揚の上に社会関係が成り立つことを認めらない限界を持っていた。

□マルクスは、価値と事物の抽象的区別に固執せざるを得なかったので、事物が価値関係を示す現象をガレルテが膠着するように捉えざるを得なかったのである。ところがこれこそまさしく超越神論から偶像崇拝を弁護する論理である「憑もの信仰」に陥っているのである。

 したがって商品の物神性論は、価値の根拠を投下された労働量に求めずに、その効用で価値が決まるように倒錯することを批判するのに止めるべきである。

□実際、効用と価値の混同が様々な経済学的な誤解を生むのであり、それを批判する論理として物神性論を展開し直す必要がある。しかしそうするとだいぶ地味で分かり易くなり過ぎて、物神性論の解読の面白味には欠けることになるかもしれない。
ーーーーーーーーー四、労働過程論のからくりーーーーーーーーー

 マルクスは『資本論』で価値を抽象的人間労働のガレルテと規定したが、それはいわば 吟味不要な公理のようなもので、この前提がなければ物神性的倒錯に陥り、労働価値説が貫徹できないと考えていたのだ。

□労働が物になったのが価値だと捉えれば、価値は社会的事物の他の社会的事物に対する支配力としてひとまず定義できる。そしてその大きさが、交換関係では法則的には事物に投下され蓄積された労働量に決まるのである。

 マルクスは人間の身体的な労働力のみを労働主体と見なしている。従って労働力商品として働く労働者のみが労働し、全ての価値を生産することになる。

□マルクスはこれを「労働過程論」で労働の三項図式によって説明している。労働主体と労働手段と労働対象の三項からなる図式で、労働力主体は労働者の労働力であり、労働手段は土地や機械などの労働用具である。これを使って労働対象である原材料・燃料に目的意識的に働きかけ、予め想定していた労働生産物に労働対象を変革するのである。

□このように整理しておくと、労働手段や労働対象が労働し、価値を産出したと考える主張を前もって幼稚な倒錯として封 じ込めることができるからくりになっていたのだ。

 実際価値形成に果たす生産手段の役割や、利潤配分の正当性をめぐって古典派経済学や 俗流経済学でさまざまな議論があり、『資本論』はこれらに対抗し、労働力のみが価値を生むという立場を確立して、その上に剰余価値説を打ち立てようとしていたのである。

□最大の難点は労働価値説が前提する価値と価格の一致が説得力が無かったことである。そこで価値形成に機械の役割を認める必要はないかなどが当然問題になる。

□マルクスはそれを労働価値説の蹂躪と考え、剰余価値説が破綻する恐れを感じて、機械が価値を生産することは有り得ないことを労働過程論の三項図式で示したのである。しかしこれはいわばトートロジーであって、少しも論証にはなっていない。

 経済関係を含め、全ての社会関係を現実的諸個人の関係と見なすマルクスにあっては、機械が価値を生むというのは擬人化的倒錯に過ぎない。

□機械が価値を生むとすれば価値は事物の働きの成果になってしまい、人間的概念でなくなる。もしそれによって経済関係が成り立つのなら経済関係は現実的諸個人の関係ではなくなってしまう。

□機械はあくまで労働の手段に過ぎないのだから、たとえどんなに価値生産に大きな役割を果たしても、あくまで労働力が労働する為の手段としての役割に過ぎないというのである。

 しかし現実には産業革命は、生産に於ける主役の座を人力から機械に譲り渡したのである。

□生産現場では予め出来上がる生産物に関する情報は、機械の中にインプットされており、目的意識を持っているのはその意味では個々の労働者でなくて機械システムである。

□そして具体的な生産はほとんど機械が自動的にこなしていき、労働力はそれを補助し、正常に機械が生産できるように機械を管理しているに過ぎない。にもかかわらず労働力だけが価値を産出するという議論は一面的ではないかと思われる。

 マン・マシンシステム全体が生産の主体とすれば、価値産出の主体を労働力に限定する必要はない。社会的事物の中に労働力も包摂して、社会的諸事物の相互関係として経済関係を捉え返せば、各事物社会的支配力として定義される価値は、それぞれの事物を再生産するに必要な社会的諸事物の量に当たる。

□つまり各商品の価値はその再生産に必要な労働量である。この労働量の中には単に労働力商品の労働量だけでなく、その商品の生産に際して各生産手段が対象化した価値の総量も含まれているのだ。だから労働力だけが価値生産の主体ではないというのはむしろ当然のことなのである。

 ところがマルクスは、これを価値移転論で言いくるめようとする。不変資本である生産手段に含まれている価値は、確かに生産物の中に入る。

□だが生産物は自分で働くわけではないから、自分に含まれている価値を生産的消費によって生産物に対象化することはできない。

□つまり自分で自分を生産物に変えるのではなく、労働主体である労働力に変えてもらうのである。その際に自分に含まれていた価値も生産物に移転してもらうということになる。

□この移転させるのはあくまで労働力の具体的有用労働の役割であるというわけだ。しかし先述したように労働力の具体的有用労働だけが特に目的意識的でもなければ、主体的でもないのだ。生産手段のそれぞれが互いの相互作用によって生産物を作り出し、各自の価値減耗分だけの価値を生産物に対象化しているのである。

 定義的に労働力だけが主体であるから,価値を生むのも労働力だけで,生産手段の分も価値移転論で言いくるめておけば、それで計算上は合うことになる。

□しかしどうしても合わないのが、例外的に飛び抜けた生産力のある機械やシステムを使用することによる「特別剰余価値」の生産である。

□これは明らかに飛び抜けた生産性を持つ機械やシステムが、 特別剰余価値を生み出したと受け止めて当然のところを、マルクスは、飛び抜けた生産性を持つ機械やシステムによって「強められた労働」が特別剰余価値を生んだと強弁するのである。

□つまり労働するのはあくまで労働力だけだというのは定義だから、これは動かせない。だから特別剰余価値も労働者の労働力が生み出したに違いない。

□ただ労働力の労働の強度や複雑度は同じ生産条件では同じであっても,生産条件に格差があれば労働力の労働の価値生産力にも大きく影響するのだ。

 このように論じれば、最新鋭の機械導入でたとえ労働力の複雑性は変化がなくても、特別剰余価値は、その機械ではなく、機械によって強められた労働力が生み出したことになる。

□この議論も機械が価値を生むと考えることが、事物を人間として捉える擬人化的倒錯に当たると思い込んでいるからに他ならない。

□機械も目的意識をインプットされていて、 それに従って対象を加工するのだから、その意味で労働しているのである。

----------------五、剰余価値論の再構築------------------

 剰余価値論も疎外論に含まれる。労働した成果が労働者のものとはならず、剰余価値となって資本家に搾取されるというのだから、生産物の疎外の理論的表現と考えてよい。

□ところで剰余価値説では「資本・賃労働」関係の帰結として剰余価値が生み出されるから、当然労働は賃金労働者のみが行い、剰余価値も可変資本に当たる労働力だけが生み出す筈 である。

□ところが機械等の生産手段も価値を生むということになると、剰余価値説自体が崩壊するのではないかと危惧されるだろう。

 労働力が可変資本であり、その他の生産手段が不変資本であるのは何故か?それは労働力の場合、自己の価値である労働力の再生産費以上に価値を産出するからである。

□ところがその他の生産手段は再生産費以上に価値を産出すれば、市場でその分高く売れることになる。

□再生産費以下しか産出できなければ、それを使うと損失なので、価格となる再生産 費を引き下げざるを得ない。結局市場では法則的に生産手段は価値通りに売られるのである。

□だから生産手段が不変資本なのは法則的に不変資本だということで、実際には生産手段の価値以上に価値を産出する機械もあるし、その逆の場合もあり得るのだ。

□特別剰余価 値を生む機械などは大量の剰余価値を生む可変資本の役割を、その機械が普及するまでの間は果たすことになる。だから剰余価値は労働者の労働からの搾取からのみ成り立っているという議論は厳密ではないのだ。

 生産手段の価値生産や不変資本の一時的可変資本化を認めると、資本家の弁護をしているように労働運動家から反撥されるかもしれないが、資本家が価値を生むという議論ではなくて、資本家が独り占めしている生産手段が価値を生むと指摘しているだけだから、資本家の独り占めを弁護しない限り、資本家の弁護にはならない筈である。

□労働者は生産手 段と共に相互に働きかけ合って価値を生産しているのだから、生産手段にもそれ相応の働きを認めて当然なのだ。生産手段や生産物も含めて人間社会を構成する主体的要素である「人間体」として認知すれば、すっきりと理解できる筈である。

 剰余価値の生産は、二つの必要から来る。一つは有閑階級による搾取である。生産者階級は自分たちの生活に必要な物資だけではなく、有閑階級の生活に必要な分まで生産しなければならない。

□だからその分を控除されて勤労所得を受け取ることになる。有閑階級へは財産所得の形で、利子・配当・地代・家賃等の形で配分される。□もう一つの必要は拡大再生産の為である。これは内部留保の形で企業内に蓄積される。このような剰余価値を生む為に労働時間の延長、労働強化等絶対的な剰余価値の生産が行われるが、あまり労働者をこき使うと生産性が低下したり、労働意欲が喪失してかえって不能率になる。また労働者の抵抗や労働市場との関係でこれには限界がある。

 そこで生活手段に当たる消費物資の生産の生産性を向上させて、労働力の再生産費を切 下げる。つまり労働力の価値を引き下げ、労働コストを低く抑えて相対的に剰余価値を大きくするのである。その方法としてマルクスは協業の発達、機械の改良等を挙げている。そして先述した「特別剰余価値」の生産が問題になる。(未完)



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