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トンデモ・疑似・エセ科学(w)コミュの9.11陰謀

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コメント(1000)

http://blog.goo.ne.jp/1234toda3/e/7a9a0c32f3ebf4c77b97abbcc286e2aa
>蘇我馬子の権力の象徴として建てられた飛鳥寺の塔は、日本書紀では刹(せつ)の柱と呼ばれていました。刹とは棒状の竿や柱を意味しますが、初期仏教の中で寺院の入口に火炎の形をした宝珠をつけた竿(刹)を立てて目印としたことから、刹は仏教寺院の標幟(ひょうじ)−仏とその教えの存在を示すシンボル−として捉えられてきました。そこから刹柱(さっちゅう)とは、仏塔の中心にあって塔を垂直に貫き、頂上にある相輪−仏舎利を納めたインドのストゥーパの形を象徴化したものといわれています−を支える心柱(しんばしら)を指す言葉となっていきます。仏舎利の安置場所も心柱の基礎(心礎)であったり、その頂部の相輪の中であったり、中間部に穴を開けて納められた例もあるなど、塔の諸要素の中で心柱は最も重要で、神聖な地位を占めるものでした。
 美術史家の松浦正昭さん*01は、飛鳥初期のこの伽藍建設は、日本書紀の記述通り、まず最初に文字通りの「刹柱」が立てられたのではないか、といいます。それは「層塔の屋根と軸部を取り去った刹柱の頂上に蓮弁形の水煙を載せ、五輪と五蓋の垂飾を上から段々に重ねた独立柱を、四方の支柱が維持する構造」の「相輪刹柱塔」で、その後五重の軸部を備えた姿に改造されていったのではないか、というのです。
 たしかに「刹柱」=「心柱」は、川口衛さんや阿部優さんも述べているように、精神的には心柱が塔の全てである*02と考えていいでしょう。そして相輪を含めて塔の心柱以外のすべての部分は「心柱の直立を保証し、これを風雨から保護し、これが仏舎利安置場所であることを世に宣言し、それにふさわしい装いを与えるために必要な要素」として位置づけられてきた、といいます。日本最初の本格的な寺院建築である飛鳥寺も、最初に建てられた刹柱(心柱)を囲うように、次第に多重塔の壮麗な装いを備えていったのかもしれません。

都に建てられた柱
*01:年輪に秘められた法隆寺創建−法隆寺論の美術/松浦正昭/古代大和の謎 大和文化会編 学生社 2010.03.20
*02:木造古塔の心意気/川口 衛・阿部 優/五重塔はなぜ倒れないか 上田 篤編 1996.02.20 新潮社
*03:塔/梅原猛/1976.09 集英社


柳田国男なども刹柱の歴史の深さを考察していますよね?

http://www.the-journal.jp/contents/insider/2004/06/insider_no202double-cropping11.html

阿部寺塔刹柱(とうさつちゅう)礎石
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009320.html


・中国の楼閣との共通点など
http://avantdoublier.blogspot.jp/2007/09/blog-post_28.html
http://avantdoublier.blogspot.jp/2008_03_01_archive.html
誤解無いように。


960について
[ただ、心柱が日本で生まれたものでないことは百済の寺址から明らかなので、仮にこの仮説が正しいとしても、そうした柱を神聖視する文化もまた朝鮮半島から伝わったものということになるでしょう。 事実、韓国の寺院には「刹柱(チャルジュ)」或いは「幢竿(タンガン)」という長い柱を、聖域を示す象徴として立てる例が見られ、こうした柱信仰の源流はアルタイやタタールと言った北方民族の習俗に遡ることができると言います。 こうした仮説を総合して、シベリア・満州から朝鮮半島を経て日本に至る柱信仰伝播のルートを描くこともできるかも知れません。 ]

この部分についてはブログ著者の論であり、私説とも建築史一般とも必ずしも同じとは限りません。


あくまで、仏塔〜五重塔への共通の設計思想という事で、お話をしています。分かりやすいまとめが他にあれば、また。
私は「盛塩の起源がインドの仏塔にある」を否定しただけで、「インドの仏教建築の様式が日本にまで伝わったであろうこと」については同意します。
以上です。
>>[963]
>「盛塩の起源がインドの仏塔にある」を否定しただけ

私は盛り塩の起源をインド仏塔にあるとは言っていません。
盛り塩を塔建築の流れと見るか、塚・ドームと見るか、でその役割の意味合いが180ど変わるのではないか?という点です。
その辺は最初にあげたご本の中、「五重塔入門」にて日本建築史界では1,2位の大家、藤森照信さんの書かれた部分についてお読みいただけたらご理解いただけるのではないかと思っています。
http://www.shinchosha.co.jp/book/602229/

仏塔も本来は釈迦の仏舎利を祀る塚から発生しています。
それが長い宗教建築の歴史の中で、塔状建築へと昇華されていきました。

そういった流れを見ていくと、
盛り塩の起源は日本だろうと、
そして、そこから天孫降臨のような依代としての機能を見るならば、
その起源は日本の塔建築=五重塔にあるであろうという事は推論の建て方として間違っていないと思います。(元来の楼閣や仏塔に依代としての機能が無かったことなどからも。)

しかし、民俗学と解釈が私見で違うのは、その依代としての盛り塩でさえも、日本に渡ってきてから海人族の風俗などと習合されて行き、現在伝わるような伝統、伝承になってしまったのではないか?
ということです。

民俗学的証左があるとすれば、この場合文献記録では万葉集の塩尻を山の例えとしているような記述方法くらいでしょうか?
その辺の見方も、民俗学的にご覧になられた場合、噴飯物となってしまうでしょうか?
その辺についてお聞きできればと思いました。
流れとしてオカシイ点があれば、又改善をさせていただきたいと思います。
お時間お許しいただければご教示賜りたく存じます。



やはり「盛塩を塔建築の流れで解釈してみるべき必然性」がわかりかねます。
「仏塔も元は塚から〜」だと、塚=築山のほうが先に存在することは確実です。

>そういった流れを見ていくと、
>盛り塩の起源は日本だろうと、
>そして、そこから天孫降臨のような依代としての機能を見るならば、
>その起源は日本の塔建築=五重塔にあるであろうという事は推論の建て方として間違っていないと思
>います。(元来の楼閣や仏塔に依代としての機能が無かったことなどからも。)

という御説を現実に当てはめてみると、
「場所を神の依代として聖別するために土を盛る」程度のことを、古代日本人はインドの仏塔を教えられるまで気づかず、荘厳な塔を見せられてびっくりして、砂や塩でまねをするようになった、それから近世まで文献上には表れてこないけどおそらく口伝などで伝わり、商家の前の盛塩として現在ある、ということになります。

「盛塩の現在取っている形状のイメージ的な起源」と、「盛塩の現在行われている習俗としての起源」を分けて考える必要があります。
私は後者についてしか発言していないつもりですが、cadさんはむしろ前者を志向していろいろ述べられているようです。
その上でですが、似ているものだからといって起源が同じとは限りません。動物だって収斂進化します。ましてや人間の文化においては、似たようなモノやコトや思想や技術が、各地で個別に発生することも多くあります。自刊と場所を遠く隔たった二者の比較は危ういものです。

その危うさをあえて引き受けまでて「盛塩の起源はインドの仏塔」であると仮定することで、どのような「現在はわかっていないが、この仮説を導入すると府に落ちること」があるのかもよくわかりません。
むしろ謎が増えるばかりに思えます。だから賛成しかねるのです。
>>[964]
あの、ちょっとした疑問なんですが、cadさん、民俗学の専門教育を受けてられますか? あるいは歴史、文化史、自然科学等他のどんな分野でも専門教育を。
独学の場合、学会に入会してプロの研究者と意見交換されていますか? あるいは学会に論文を発表して、掲載されていますか?
>>[965]
お返事ありがとうございます。

>「場所を神の依代として聖別するためにを盛る」程度のことを、古代日本人はインドの仏塔を教えられるまで気づかず、荘厳な塔を見せられてびっくりして、砂や塩でまねをするようになった、それから近世まで文献上は表れてこないけどおそらく口伝などで伝わり、商家の前の盛塩として現在ある、ということになります。

そういう流れではなくてですね。
国外から入ってきた五重塔という、御柱信仰の象徴的な建築と塩尻のような日本に既にあった文化とが融合して言ったのではないかということです。(それを習合という形で使わせていただいてます。)

確か、御柱信仰と高御産巣日神との関連が言われていたと思います。
天照以前は真の皇祖神は高御産巣日神だったとも。

その変遷は、記紀編さんの時期と伺いました。
天武・持統朝による神道改革ですね。

依代信仰はこうした、天孫族の思惑が強いのではないでしょうか?
ですので、天孫族以後の習合という流れを個人的には予想していました。

>「盛塩の現在取っている形状のイメージ的な起源」と、「盛塩の現在行われている習俗としての起源」を分けて考える必要があります。
>私は後者についてしか発言していないつもりですが、cadさんはむしろ前者を志向していろいろ述べられているようです。

形状のイメージ的な起源といいますか、盛り塩が日本にしかない文化なら、仏教伝来以前、(正式な文字文化伝来以前)には遡れないということを民俗学の射程距離としてみて良いのではないかと思っています。
五重塔は仏教伝来と同時になりますから、それ以前を遡れる根拠たりうるのではないか?という事です。
そこで、五重塔の各部意匠など、根拠としてあげられている物、それは建築史学では、証拠として、それだけで根拠たりうるのですが、民俗学ではそのように見てもらえないという点で、お聞きしているのですが…。
すいません、うまく伝わらずに申し訳ありません。

>その上でですが、似ているものだからといって起源が同じとは限りません。

はい、収斂進化などの点は存じております。全くそのように思います。
盛り塩については、現代に残り、日本発祥ということまでは同意ですから、
その盛り塩の中に習合された古い思想などがあると考えてはいけないということでしょうか?

また、盛り塩と盛土・盛砂については、形状が似ているという点でトピの流れででましたが、私は起源が違うのではないか?ということを、地鎮祭の式順の齟齬を根拠として、だしていますし、似ているから同じという意見を出しているつもりがありません。
むしろ、現在の通説自体が俗説なのではないかという点を人文学的に筋が通るような話になっているのではないかと思います。

>その危うさをあえて引き受けまでて「盛塩の起源はインドの仏塔」であると仮定することで、どのような

盛り塩の起源がインドだと言っているのではなくてですね。
盛り塩の中に依代信仰としての御柱信仰(=五重塔の心御柱)といった設計思想が含まれているのではないか?という点です。(塩尻に依代としての意味合いがないため。)

>「現在はわかっていないが、この仮説を導入すると府に落ちること」があるのかもよくわかりません。

府に落ちるといいますか、現在分かっている点で腑に落ちない店なら過去にも書いていますが、
神山を模して盛り塩が作られているという伝承が残っていますが、神山は一つです。
対して盛り塩は2山存在しています。

これは、元来の依代としての役割が、境界を作る陰陽などとも融合しているのではないかという点です。陰陽よりも、仏教伝来時に五重塔の境界を分けるという性質と、四方を守るという方位信仰的な性質が混じったとすれば、それらは納得が行くのではないかということです。

>むしろ謎が増えるばかりに思えます。だから賛成しかねるのです。

盛土などは幾つかの意見で書いているとおり、各地の神主さん、宮大工さん、他、寺社仏閣関係者の方、建築関係者、地域の民俗学に詳しい方、などにもお話を伺っており、現代に伝わる伝承が人文学的に齟齬が起きているのではないかという、謎といいますか、不整合があるという視点は、私自身の意見も含めてですが、頂いているものとなります。



>>[966]
>独学の場合、学会に入会してプロの研究者と意見交換されていますか? あるいは学会に論文を発表して、掲載されていますか?

専門教育は受けておりません。建設従事者です。(一方で建築史教育は大学レベルで受けています。)
ですから、別視点での解釈齟齬があるのではないかという疑問から発生している質問になります。

また、プロの研究者の方とも交流があります。
出身校の人文学関係の伝手から、別大学の民俗学専門の教授の方とも親交があります。
お名前を出すのは、控えさせていただきたいと思います。
私の理解が拙いだけかもしれませんが、その方の持論と違ってしまうかもしれないため。

論文などの掲載は有りません。

これが正直なところです。ご批判は甘んじて受けます。

>>[965]
収斂進化で似たものがあるというのは建築にもありますが、この場合除外してあります。
法隆寺の柱がパルテノンのエンタシスに似ているというのは、今日では否定されているものです。
ですから、全てにおいて似ているから飛びついているかのような捉えられ方をしているかといえば違います。
同祖論的なトンデモ論にも常に反対する立場ですし、むしろ、徹底して排除しています。
>>[967]訂正です
>盛り塩の中に依代信仰としての御柱信仰(=五重塔の心御柱)といった設計思想が含まれているのではないか?という点です。(塩尻に依代としての意味合いがないため。)

立砂の中に
ですね。失礼しました。
>>[968]
そうですか……。
ありがとうございます。
例えば何ですが、私の拙い話などとは比べ様もないですが、
同じように境界としての宗教建築としての鳥居の起源についてまとめた方があります。

https://1000ya.isis.ne.jp/1141.html
>萩原秀三郎
>稲と鳥と太陽の道
>大修館書店 1996

こうした本も民俗学的には余り参考にしてはいけないということでしょうか?
>>[972]
失望に耐えなかったようでしたら、申し訳ございません。

べべさんが私の何をご批判されたいのか、私の論点をご理解いただいているのか
定かではないので、ご意見出来ません。

少なくともekuraさんから頂いたご批判はお守りしているつもりですし、誤解を少しでも解けるようにと発言しているつもりです。

べべさんが、ekuraさんと私の発言に関しては割り込んでいらっしゃらない事からは、
べべさん個人からは悪意は感じておりません。

なるほど、「依代信仰としての御柱信仰は五重塔の心御柱が起源で、仏教伝来以前、(正式な文字文化伝来以前)には遡れない」ということから盛塩を説明しようというのですね。ようやく読めてきました。

しかし正直なところ、「ごく一部の天皇や貴族がまず受容するだけだったものの考え方や感じ方が、すぐに日本文化に根付いて広まるもんかなあ?」です。
建築として伝わっている、その建築には思想がある、というのはわかります。しかしその思想と似たものがそれ以前には日本になく、仏教伝来とともに入ってきて広まったのだ、といわれると、それはらんぼうすぎるなあ、と思ってしまいます。
逆に伺いたいですが、建築史のほうではこれをもって「依代信仰は仏教伝来が原因だったのか、なるほど!」となるのでしょうか。

とりあえず、証明していただかなくてはいけないのは
「仏教伝来以前に柱を立てる信仰は広まっていなかった」
「仏教伝来以後、その信仰が以急激に徹底して受容された」
ということで、それを多くの人に納得させるに足る証拠を提示することです。
仏教の日本列島での受容や伝播の状況を考えたら、無理があるのではないでしょうか。
「仏教建築ありきの思想」とした結果やはり、より混乱させているとしか思えません。

「諏訪の御柱に見るように、依代信仰としての柱を神聖視する信仰が日本にすでにあったから、大陸から伝来した芯柱建築もすみやかに受容された」とするほうが、よっぽど簡潔に矛盾なく説明できると思うのですが。
>>[975]

青森にあるストーンサークルも考慮する必要もありませんかね?
>>[975]
ありがとうございます。
誤解されていた部分は、ある程度融和していただけたかと思います(私が民俗学のブラックボックス化を図る趣旨ではなかった点など)

改て、私が行いたいのは、自説のゴリ押しでもなければ、建築史による民俗学の否定でも有りません。
ですので、一貫して、これはekuraさん以外の別畑の専門家の方々にもお聞きしていることになります。

>しかし正直なところ、「ごく一部の天皇や貴族がまず受容するだけだったものの考え方や感じ方が、すぐに日本文化に根付いて広まるもんかなあ?」です。

そうですね。私もその点は疑問に思います。
一つ言えるのは、天皇家側からは、延喜式を定式化していく中で、各地の神社を、信仰の拠り所として整えて言ったというのは部分的にいえると思います。(ちょうど聖武天皇が国分寺・国分尼寺を整えて行ったように。)

縁起が天武天皇よりもずっと古いとされているものも有りますが、
木造建築で世界最古は法隆寺ですので、残念ながらそれ以前に遡る証明は出来ません。
ですから、民俗学的射程距離が文字伝搬ということになるとすれば、
日本木造建築学的射程距離は、法隆寺(再建)となってくると思います。

そこで、神輿などの簡易神殿としての役割を考えると、
神社祠施設が整う以前の時代には、岩や山、ご神木がご神体とされていた時代があったことが伺えます。(ご神木ノットイコール依代の可能性も。)

私は、こういった古い時代の自然信仰が形を変えて、高御産巣日神などの依代信仰と習合して言ったのではないかと考えています。(各種神社から伺った話もこれを一部後押ししています)

ですから、問題はいつ習合が起こったかではないかでしょうか?
そこでヒントとしてあげられるのではないかということで、
>>[973]の鳥居の起源についてです。
海人族の文化と鳥居を持ち込んだとされる稲作民との習合の歴史的証拠になるのでは?と考えていますが、民俗学的評価としてはその辺はいかがなものでしょうか?

依代信仰は仏教伝来が原因ではなかった、となると、私の話の可能性は否定されてしまいますし、
私には、ekuraさんからご説明・ご提示いただいた難しい宿題を完遂せねばなりません。

道のりは困難ですが、私のライフワークとしても、(お教えいただいたように仮説が例え間違いだったとしても、)得るものが大きいと思います。

道筋をお示しいただいたことには、大変感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。
だいたいこういった流れです。
拙い表現のため、随分と嫌な思いと遠回りのご負担をおかけしてしまいました。

>逆に伺いたいですが、建築史のほうではこれをもって「依代信仰は仏教伝来が原因だったのか、なるほど!」となるのでしょうか。

その辺は定かではありませんが、五重塔が仏塔起源とお認めいただけたとなると、それは同時に塚と樹を起源としていたことが明白な関係性を帯びてきます。
五重塔と依代信仰の習合は明白なものとして捉えられています。心御柱は中心にありながら、構造上意味のないものです。屋根や重力を支えていないのです。
これは意匠以上に顕著に物語ると思われます。(意匠は外見だけ真似できますが、構造はそうは行きません。設計意図をしっかりと理解して伝えるものですし、簡単に形骸化はできないはずのものです。それがきちんと最古の木造建築にも残っているとのことです。)
依代信仰は伊勢神宮や諏訪大社など各地の依代信仰との共通点が上げられているのは言うまでもありません。

建築史家の藤森照信氏の言葉を借りると
>仏舎利塔の心柱とは、シャカの墓の土マンジュウの上に植えられた樹の幹の建築化ではないかと、思う時がある(藤森照信)

https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A1%94%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%AE%E6%9C%AC-%E8%97%A4%E6%A3%AE-%E7%85%A7%E4%BF%A1/dp/410602229X

すいません。アマゾンからの書評、内容説明の引用ですので、これ以上は本の中で…。とご勘弁いただけたらと思います。


>>[976]
上でも上げていますが、ストーンサークルなどとも藤森氏は関連付けてお話をされています。

https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A1%94%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%AE%E6%9C%AC-%E8%97%A4%E6%A3%AE-%E7%85%A7%E4%BF%A1/dp/410602229X

>◇建築史家・藤森照信さんのエッセイ「人類はどうして塔を立てずにはいられないのか」は、ストーンヘンジや縄文遺跡に言及しつつ、仏塔ひいては五重塔の起源と謎に迫るという壮大なもの。
>>[975]

ちなみに完全に蛇足ですが、
東大教授・建築史家の藤森氏ですが、現役の建築家でもあります。

自邸では、"まんじゅうの上の樹"を実践するかのように、
屋根にたんぽぽを植えるという奇抜さです。
(建築当時は数十年も前で、まだ環境意識が低く、屋上緑化や壁面緑化等は黎明期でした。)
おかげでお子さんは馬鹿にされたようですが。。。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%9D%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7-%E8%97%A4%E6%A3%AE-%E7%85%A7%E4%BF%A1/dp/4022572779


また、神長官守矢史料館(茅野市)1991年も設計されていて、
諏訪の歴史、宗教建築にも造詣が深い方でもあります。
http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2010/0724/

ですので、面白半分だけで書かれていることではないのも確かです。

すいません
先程の説明に幾つか付け加えますと、
五重塔の心御柱同様に
伊勢正殿の棟持柱は同様に屋根を支えていません。

また、伊勢の遷宮、常若の思想はこの柱にも生きていて、
この棟持柱の部材は、後は入り口の鳥居の柱として再利用されます。
棟持柱だったものを鳥居に流用して作るのが習わしです。
ブラタモリ等の番組でも事あるごとに説明されていることですので、ご存じの方も多いのではないかと思います。(鳥居との御柱信仰の建築的意義の関連性等、この辺からもお分かりいただければと思いました。)

http://halohalo-online.blog.jp/archives/1058184420.html
藤森照信氏のお仕事では、路上観察学会や看板建築の指摘に啓蒙していただきました。
ライフワーク頑張ってください。
それでは。
911の話題が盛り上がっているのかなと思って開いたら珍妙な話が展開されていてびっくりした。
>>[982]
ちくわ関係のトピックは両方とも趣旨が変わってます。
>>[986]

ここで「月見草」とボケてみる。
>>[988]

ああ、あの押切蓮介先生の壮絶なイジメ漫画ですね!
>>[988] 京都人なので。「月見草」はこれhttps://www.youtube.com/watch?v=ZlVeUFXfLuE

旧制第三高等学校(のちの京大)野球部が対一高(東大)対抗戦のおり、あいての真面目な寮歌をパロって曲を使用して作ったラブソングです。
>>[981]
藤森氏とはご親交お有りだったんですね。
激励ありがとうございます。

私見を述べます。
縄文環状列柱(能登 真脇遺跡)
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO88508640V20C15A6000000
http://www.543life.com/campus48.html
なども有ります。
考古学的、宗教学的には、これらはカレンダーとしても機能しており、
太陽信仰、とりわけ農耕親交としての遺跡であろうと。(四方の方位信仰がそれらに結びついていったことは想像に難く有りません。)

そして弥生時代には>>[973]にだしているように、
鳥居、鳥船信仰などが導入されていったことと考えられます。

以上二つには聖域を分ける境界の意味合いが強かったと考えられています。

法隆寺 五重塔には、方位信仰と聖域守護の思想が、意匠、各部材に盛り込まれています。
心御柱には御柱信仰が結びついています。

五重塔の起源となったと考えられる仏塔にも塚と樹というモチーフがあります。
墓の近くの樹というのは、輪廻思想、転生思想がインドでは結びついていきます。
おそらく、依代信仰はそれら輪廻転生の思想と深く繋がっていて、
日本では依代信仰として根づいていったのではないでしょうか?
御柱信仰と依代信仰を結びつけたのは、時代的には天孫族の思想ではなかったかと考えられるのではないでしょうか?(法隆寺、五重塔にあるのは、心御柱信仰が在ったというところまでであります。後に依代信仰と馴染んでいくのも事実ですが、依代信仰との交差する地点だったのではないかと思っています。)

天照が生まれた周辺に岩上祭祀遺跡があります。
http://nihonsinwa.com/page/662.html
天武・持統朝で皇祖神書き換えがあり、
それまで、4,5世紀古墳時代には鏡を奉納するという、自然信仰だったものが、
6世紀前後になると、鏡の他に、着物や食べ物、生活用具など、を奉納するようになります。
それまで自然神という曖昧な姿形の信仰だったものが、
一気に人格、性格を持ち、人の形をした神様となり習合していきます。

依代信仰にも、こうした自然神から人格神へという時代の境目に
既存の自然信仰に集合する形で加わっていったものだとも考えられます。
それまで祠の形を取ることのなかった古代のプレ神道が在った時代です。

考古学や建築史学など、文献とは違う人文学的証拠から割り出しているものですので、
民俗学の範疇ではないかもしれません。

大変長くなってしまいましたが、説明はこの辺で。
私なりに、ご指摘いただいてきた事には答えてきたつもりです。
しかし、お答えいただけなかった点も多いと感じます。

出来れば、最後に>>[973]リンクについての民俗学的な見方、ご意見、ご感想などをお聞かせいただければと思います。


>>[982]
お騒がせして申し訳ございませんでした。
長引かせるつもりもなかったのですが、誤解を与えてしまう表現も多く、
お時間とスペースをお借りしておりました。
>>[991]

>出来れば、最後に>>[973]リンクについての民俗学的な見方、ご意見、ご感想などをお聞かせいただ
>ければと思います。

もうそれはmixiで楽しく書き込む範疇を超えた、私の業務に関わる真剣な仕事になってくるので、すいませんがお断りします。
mixiは所詮息抜きなので、ここでスタミナを使いたくありません。
書評や書誌紹介という形で、どこかの学術媒体を経由して依頼していただけましたら、喜んでやります。
cadさん自身はとても関心のあることを面白がって書いているのかな、と思うのですが、わたしから見るとcadさんのコメントは全く面白くないので読み飛ばし対象です。911と関係がないから面白くない。

mixiのコミュニティは話題に応じてコミュニティそのものやトピックを使い分けることになっていて、このコミュニティでも話題に応じて適宜トピックを立ててよいことになっているので、トンデモ・疑似・エセ科学(w)に類する話題だと思うならそのネタでトピックを立てるのもアリでしょう。(話に乗ってくれる人がいるかどうかは別の話)

トンデモ・疑似・エセ科学(w)でないと思うなら他のコミュニティで開陳したほうがよいでしょう。

911の話題そのものも既に決着しているネタで次トピックが至急必要な状況でもないのですが、このトピックが終わった後で別のまた無関係なトピックを流用してこの話題を振るのはやめたほうがいいんじゃないかなあと思います。

時間が経った後、自分で議論を読み直したくなった場合、目的のものがトピック名と無関係な場所に置いてあると探しにくくて大変ですよ。
間が空いてしまってすみません

>>[854] cad様

ちょっと調べた範囲ですが

連穴土坑(または炉穴)の用途については、一般向けの媒体では燻製施設として紹介されている場合がありますが(*1、*6)、連穴土坑の話題に特化した論文などでは、用途・機能について決定的な論は存在していないという見解も見受けられるます(*2、*3)。

竪穴式住居で屋内炉が一般的に見られるようになるのは縄文前期以降とされているかと思いますが、連穴土坑(炉穴)が見られるのは、南九州で草創期から早期前葉、東海地方で早期前葉、関東地方で早期後葉となり、同時期に連穴土坑(炉穴)と屋内炉が共存している遺跡は例外的だそうです。

それと、一応、燻製施設説について実証実験による確認は行われているようです(*2、*6)
ただし、土坑がトンネルで繋がった構造を持つのが連穴土坑(炉穴)ですが、トンネルの長さや角度にはバリエーションがあり、遺構によっては吊るされた肉に煙だけではなく炎が届いてしまう可能性も考えられ、その点から燻製施設説に懐疑的な見解もあるようです。煙道から焼土が発見されている例もあるようです。(*3、*4、*5)


*1 新東 晃一 2006 南九州に栄えた縄文文化・上野原遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
 https://www.amazon.co.jp/dp/4787706373
*2 新東晃一 1997 「縄文時代早期炉穴の復元」 南九州縄文通信 No11 南九州縄文研究会
*3 安藤雅之 2010 縄文時代早期を中心とした煙道付炉穴の研究 
 http://www.book61.co.jp/book.php/E00020
*4 宮崎県教育委員会編 1996 椎屋形第1遺跡 椎屋形第2遺跡 上の原遺跡
 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/45/45/p/10/item/3352?sort=alternative%3Ar
*5 大津町教育委員会瀬田裏遺跡調査団編 1993 瀬田裏遺跡調査報告2 : ゴルフ場建設に伴う埋蔵文化財発掘調査 平成5年
*6 http://www.jomon-no-mori.jp/no3.htm 縄文の風 かごしま考古ガイダンス 第3回 実験考古学が私たちに伝えるもの
>>[994]

そもそもこんなクソトピたてるちくわが悪い。

私的にはちくわの意図に沿った911の馬鹿話よりはよほど有意義で面白かったと思いますが、面白い面白くないは絶対値の話ではなく趣味の範疇なので個人差はあると思います。
全然関係ないけど、15年ぐらい前のカーグラフィック誌で「バグダッド電池は世界最古の電池」とか紹介されてた様な。
>>[997]

僭越ながら、このトピはちくわの立てたトピではありませんよ。
>>[999]

おお、確かに!
申し訳ありません。謝罪の上訂正します。

ちくわ並みの馬鹿しか賛同しないトピを作ったdiscoderさんが悪い。


このトピ作られてから3年、未だにdiscoderさんのいう「ガチ」は証明の兆しもありません。
それどころか同時多発テロ事件があった2001年から15年近くたつのに一向に陰謀論が証明されません。
陰謀論者の理屈でいうと、関与した被害者やその家族が十万人単位で存在するはずなのに、たった一人も確たる証人として登場しません。

今後同様のトピを立てようという方は、その辺を十分に踏まえたうえでご家族やご友人に相談し、医師のカウンセリングを受けて異常なしとされた上で立ててくださいね。

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mixiユーザー
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