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武田二十四将コミュの芦田下野守信守

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芦田下野守信守について語り合いましょう。
芦田下野守信守についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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芦田下野守信守 1521〜1575年

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蘆田信守、葦田信守、依田信守、下総守、四郎左衛門、幸成ともいう。
芦田信経(芦田信常)の長男。信濃国芦田城主。 源為公の次男依田為実が信濃国依田氏に拠り依田氏を称したことにはじまり、村上氏の配下となり大井氏と対立するが敗れ、守護代大井氏の重臣として仕えた。
芦田城は、鎌倉時代に滋野一族の芦田滋野氏が築城した城。室町時代以降、滋野一族と坂城村上氏の戦いのなかで、しだいに村上氏が小県郡や佐久郡へ侵入するにともない、村上氏の配下である依田氏と高井米持氏が芦田城を急襲し、芦田滋野氏を追放する。新たに領主となった依田又三郎光徳は姓を芦田と改め、城を再建整備し、芦田川を挟んで城と相対した居館を備える。『信濃史料』には、永享8年(1436年)3月に信濃守護の小笠原政康が芦田依田氏を討つため、小県郡祢津に攻め寄せて、芝生田城や別府城を陥落させたとあり、依田芦田氏の芦田郷への南下進出をこの動きと同時期とするものも多い。しかし芦田依田氏はその直後の鎌倉での永享の乱(1439年)に関連して佐久郡岩村田の大井氏と対立し、結城合戦(1441年)でも鎌倉公方足利持氏の遺児永寿丸(足利成氏)を擁護したため、信濃守護の小笠原政康、守護代大井持光に攻められ、敗退した後は大井氏の被官になったという。因みに依田経光の次男依田光徳が芦田氏を称したとされているが、 芦田光徳(依田光徳)から芦田光玄、芦田孝玄、芦田義玄、芦田信経、芦田信守とつづくとされている。文明11年(1479年)8月、佐久郡岩村田の大井政朝が前山城伴野光信と戦って敗れ、ついで文明16年(1484年)2月には大井政則が、村上顕国に攻められて衰退すると、芦田依田氏は領主としての自立性を強めていく。同時期に依田一族であった相木氏、平尾氏、平原氏、笠原氏、内山氏らも自立し、それぞれ小領主化しており、武田氏、徳川氏時代においても、この地域の領主として、高野山蓮華定院との交渉を示す『宿坊定書』や書状に、芦田依田氏のほかに依田姓の者が複数みられることが、それを物語っている。文明末年以降、東信地域では小県郡坂城を拠点とする村上氏が急速に勢力を拡大させ、中小の領主層を圧迫しはじめる。岩村田の『法華堂大井家文書』のなかに若干関連のものがみられる。明応2年(1493年)10月には、依田伊賀守長久が「三疋三人分」を法華堂へ寄進しているが、依田滋野氏の系統であるとされる。さらに永正14年(1517年)9月には、聖護院道増が熊野二所の先達職を安堵した文書のなかに、「大井一家、依田一族、其外被官人等共」が檀那として書上げられており、同じ内容のものが同家文書中には遡って数通みられるので、これは多分に形式的なもののようにも思われるが、依然として佐久郡を代表する氏族が大井氏と依田氏であったことの反映であると思われる。文明18年(1486年)には芦田依田氏も衰退し、辛うじて大井氏と命脈を保っていたが、戦国時代、芦田信守の代となり、『神使御頭日記』によれば、天文10年(1541年)に滋野一族が、村上氏、諏訪氏、武田氏に挟撃される海野平合戦では、芦田氏が海野一族と行動をともにしていたことが明らかとなっている。滋野一族は大敗し、海野棟綱、真田幸隆らは関東へ逃れ、 望月昌盛は村上氏に与していたことで攻撃の的にはならず、矢沢頼綱らは武田氏に臣従。 祢津元直は諏訪氏のはからいにより旧領を安堵される。芦田依田氏の芦田信守のほか、丸子依田氏の依田大和守春賢(丸子春賢)もいたとされる。関東管領山内上杉憲政が信濃へ侵攻したときには一時抵抗したが、諏訪頼重を頼り城を捨てている。山内上杉氏と和睦した諏訪頼重にそのまま降るかたちとなった。 依田春賢(丸子春賢)書状案によれば、このときの上杉憲政の信濃進攻は、成果がなかったようである。天文11年(1542年)、諏訪頼重が武田晴信に自害させられると、大井氏に帰参。大井氏、望月氏らとともに武田氏には抵抗していたが、天文12年(1543年)、武田晴信が大井貞隆の長窪城を攻撃し、大井氏や望月氏の一掃をすると、それを機として武田氏への臣従を余儀なくされ 真田幸隆、相木昌朝の内応に応じる。以後は武田氏に仕えた。『高白斎記』によると、天文18年(1549年)3月、真田幸隆の働きで武田氏に臣従した 望月源三郎に700貫文の知行が与えられ、それを依田新左衛門が受けとるとある。 依田新左衛門は小諸依田氏とされ、後には武田信豊被官になったとの記録がある。 芦田信守は春日城を修復して入城。しかし直後に村上義清の攻撃によって落城したとされる。最後は武田方が勝利したというが、この時期には、小県郡をめぐって武田氏と村上義清との抗争が激化しており、天文17年(1548年)2月には、上田原の戦いで武田方が大敗北し、一時的に村上勢が攻勢にでていた。永禄8年(1565年)10月には、武田家内部で武田義信らによる謀反事件が起こり、そのため家臣団の再掌握を迫られることとなり、武田晴信は翌永禄9年(1566年)8月から永禄10年(1567年)8月にわたって全家臣団から起請文を提出させている。小県郡下郷の諏訪明神社(生島足島神社)への奉納というかたちを取っているが、そのなかに佐久郡、小県郡の将士のものがいくつか見られる。室賀氏、小泉氏、望月氏、海野氏、大井氏、祢津氏らのほか、 依田又左衛門尉信秀の単独提出ものと、依田兵部助隆総(丸子隆総)ら三名連署のものがある。さらに海野衆、北方衆、小泉被官などと同じく連名で提出したものとして、包紙に「鉄砲衆」とあるものがあり、その構成員は布下氏、楽巌寺氏、諸沢氏、篠沢氏ほか依田長門守頼房(相木頼房)、依田秀□らのいわゆる布引山衆であり、いずれも望月氏に近い地侍衆である。
川中島合戦以後は、武蔵国、駿河国などで転戦。永禄12年(1569年)には、御嶽城代を務める。元亀3年(1572年)、武田晴信が東海道へ侵攻すると、遠江国二俣城に入る。三方ヶ原合戦にも210騎を率いて従軍。しかし天正3年(1575年)、長篠の戦いで勝利した徳川家康軍に二俣城を包囲され、城中で没した。 芦田信守の長男芦田右衛門佐信蕃(芦田源十郎)は天文17年(1548年)に生まれ、武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、佐久統一の命を受けその任を果たそうと弟芦田信幸とともに岩尾城を攻める。しかし攻城の際に討死。 芦田信蕃(芦田常陸介)の戦功により、長男芦田康国は14歳にして松平姓を賜り、6万石の小諸城主となる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに芦田康国(松平康国)も出陣。名倉城攻めで計略にかかり討死。21歳であった。 芦田信蕃の次男芦田康貞が家督を継承し藤岡城主3万石に転封される。佐久の武士や領民たちが芦田依田氏を慕い、藤岡へ移住し城下町を築いたという。 芦田信守の長男芦田信蕃と次男芦田信幸は天正11年(1583年)にともに討死しているが、三男芦田重方は生き延びている。
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