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武田二十四将コミュの駒井高白斎政武

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駒井高白斎政武について語り合いましょう。
駒井高白斎政武についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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駒井高白斎政武 1481〜1561年

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岩崎政武、駒井昌頼、駒井政頼、駒井昌頼ともいう。
岩崎政時の次男。武田信虎の重臣。
武田信虎の軍師、側近、右筆。要害山城(積水寺城)主。 武田信虎、武田晴信の参謀として代代仕える。
駒井高白斎は明応7年(1498年)から天文22年(1553年)までの55年間の武田氏を中心とした記録を『高白斎記』という日記により記す。『甲陽日記』ともいい、諏訪頼重、高遠頼継、小笠原長時、村上義清らに対する武田晴信の軍事行動が、微細なところまで記されている信頼度の高い史料である。『妙法寺記』とともに、武田晴信研究の根本史料となっている。
駒井高白斎は『高白斎記』において「駒井昌頼」の名で記され、大永元年(1521年)8月10日、駒井昌頼(駒井高白斎政武)が積翠寺要害山城の城代を命じられたとある。このことからも、駒井高白斎は武田信虎に重く用いられ、積翠寺(積水寺もしくは石水寺とも)郷を領していた。さらに武田晴信の代になり、天文16年(1547年)には、甲州法度次第の起草を行い武田晴信に提出。天文19年(1550年)には深志城の鍬立て(築城工事)を着工するなど、政治に長けた家臣として武田家を支えた。
また外交の多くを担い、天文19年(1550年)には今川義元との同盟協議の使者として駿河へ派遣されている。 内政や外交だけにとどまらず、気象予報などにも精通していたという。信濃進攻戦においても、諏訪方面への進軍では大将を務め、伊那福与城、藤沢城攻めなどでは 駒井高白斎の寄騎(与力)秋山信友に一番乗りの戦功を挙げさせるなど、活躍をみせる。 秋山信友に敵将藤沢頼親を捕縛させることで大手柄を立てさせ、秋山信友が騎馬50騎の侍大将へ任じられるきっかけをつくった。 秋山信友はさらに木曽福島城攻めで戦功を挙げ、伊那郡代に抜擢され、相備えと合わせ250騎もちの大将となる。
天文17年(1548年)、諏訪上原城代(留守居役)を務めていた駒井高白斎のもとへ、上田原合戦の敗報が届き、負傷した武田晴信が戦場に20日間あまり留まっていることを心配し、今井相模守と相談のうえ、武田晴信の母(大井夫人)に事情を話し、戦場を去るよう説得してもらったという。 駒井高白斎の妻は石和に恵法寺を開山した恵月院日真尼。 駒井高白斎の娘は原昌俊の妻という。駒井氏は岩崎氏からわかれた氏族であり、巨摩郡駒井郷(山梨県韮崎市)を本拠とする。 駒井高白斎には長男駒井右京亮昌直(駒井右京進政直)がおり、駒井昌直には長男駒井親直、次男駒井昌時がいる。 駒井親直には長男駒井親昌、駒井昌時には長男駒井丹後守昌利がいる。 駒井昌直は伊豆深沢城将をつとめていたが、武田勝頼死後は徳川家康配下の榊原康政に出仕。
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