情報提供有難うございました。「アンチミステリー」という言葉は最近ミクシィを覗くようになってから、目にするようになりました。機会があれば関連等を探ってみたいと思います。
"anti-fantasy"も、3・4年前までは「ファンタシー嫌い」という意味でしか用いられていなくて、Ursula le guinの「アメリカ人にはファンタシーは分からない」という文脈の用例くらいしか無かったのですが、この1年ほどで、かなり検索にかかるようになってきました。赤い彗星の用いる意味では、「メタ・ファンタシー」と呼んでも変りはないようなものなのですが、井筒俊彦氏の「アンチコスモス」から頂いて、「アンチ・ファンタシー」という語を捏造しておりました。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。
僕自身は「ピーターとウェンディ」の既存の翻訳というのを全く確認していないので、責任あることを語れる立場ではないのですが、僕の知る限り、日本の翻訳はあまり信頼できるものでないことが多いようです。翻訳にケチをつけながらより深い解釈の可能性を示唆するというのは、実はかなり妥当な、実際に実り多い作業でもありそうだと思います。ただの誤訳の指摘に終わらせないで、単語一つ一つの翻訳の是非、あるいは可否というようなところまで突っ込むことができれば、十分に自立的な高度な議論となり得るでしょう。例えば「god」を「神」と訳すことがどこまで妥当か、そうでないか、というような、言語の背景にある根本的な世界観の相違みたいなものに指摘を帰着させる工夫ですね。Peter and Wendyという作品自身に愛着があるのなら、様々な角度からの議論の余地がまだありそうに思います。もしも翻訳そのものに興味がおありなら、例えばアンデルセンの「影法師」の訳などを、信頼できる英語訳と比較してみると、いかに原作の趣旨が理解されないままに翻訳作業を行われてしまっているか、よく分かります。そういう点ではPeter and Wendyも、そして「ロマン主義」という思潮そのものも正しい理解をされることなく翻訳されてしまった例だと言えそうです。ランボーの「言葉の錬金術」などがその典型ですが。
宿題の提案を頂き、有り難うございました。送付頂いた宿題を別の言葉で言い直すと、「ファンタシーは一つのあり得ない仮構世界を語ると同時に、我々の生きる現実世界を裏返しに反映している部分もある」とも語ることができるでしょう。The Last Unicornの作者ビーグルがこのお話の主人公のユニコーンを女性として描いたのは、明らかに上記の主題を念頭に置いた、意図的な計算の結果であったと看做すことができます。そうした哲学的な側面に焦点を当ててファンタシーを見つめ直してみると、かなり意外な発見も見出されることでしょう。そしてある程度理解が深まってみれば、それらの発見は決して意外なものではなかったことにも納得がいく筈です。「これがそれだな、」と思われる理解をその都度自分なりの言葉で語って頂きたい、というのがこの講座の今後の課題となります。
Peter and Wendyの訳としては、赤い彗星も"Daily Lecture"(http://antifantasy2.blog01.linkclub.jp )に全訳を付加してありますので、芹生一氏や石井桃子氏の訳との相違や、解釈上の問題点等を指摘して頂けると有り難いです。実際に翻訳という作業をしてみると、日本語と外国語との根本的な相違や、訳出するにあたっての意味のリズムの変化など、色々と困難な状況も出てきますが、やはり明らかな誤訳と言わざるを得ない例も多々あります。ついつい悪乗りして、行き過ぎの意訳をしてしまう心理なども良く理解できます。訳は訳で別種の新たな創作行為として理解して、原作はやはり原文を参照したいと思うのは、そのためです。翻訳の疑問点を指摘するのは、決して訳者に対する揚げ足取りではなく、理解の共同作業としての真摯な鑑賞行為の一つであり得ると考えたいのです。
はじめまして。
J.m.Barrieの研究をしています。Peter and Wendyの色々な解釈が実におもしろく、読みながら色々と考えをめぐらし、楽しく読ませていただいております。Peter and Wendyは実に奥の深い作品だと私も思います。ゆえに、こうして、しっかり考えようとされる方々が日本にもたくさんおられることを嬉しく思います。
「PETER PAN OR THE BOY WHO WHOULD NOT GROW UP」より
A man of indomitable courage, the only thing at which is thick and of an unusual colour. At his public school they said of him that he "bled yellow".
興味深い指摘を有り難うございました。1928年発行の脚本"Peter Pan"は、全集版のものを読んだのですが、このような記載はなかったように思います。シェイクスピアの場合などのように、脚本は上演時のバージョンで様々の変化形があり得ることが知られていますが、1904年の初演時には、 At his public school they said of him that he "bled yellow". という部分は無かったのではないでしょうか。しかし台詞部分ではなくト書き部分に加筆らしきものがあるバージョンというのも、文献的に興味深いものがあります。「世界児童劇集31」が底本としていたのは、何だったのでしょうか?小説版もネットに公開されているものを比べてみると、細かい部分で加筆らしきものがあるバージョンがあります。赤い彗星は文献研究は専門に行っていないので、正直言ってこのあたりは謎だらけです。今度暇があったら調べてみたいところです。
黄色は"jaundice"(妬み、偏見)を指す色なので、フックの青年時代を推し量る解釈としては、とても面白いと思います。僕自身はフックに対する共感の気持ちがとても強いので、彼の血の色は高貴な古代紫(Tyrian purple)を思い浮かべておりました。
大変貴重な情報を有り難うございました。あれだけの演出コンセプトを備えた優れたアニメが、あの時期にアメリカで製作・上演されていたということだけでも驚くべきことですが、日本の市場でほとんどノータッチだったというのも、大変皮肉なことです。それにしてもランキン監督とトップ・クラフト社のそもそもの接点はどこにあったのでしょうか?実に興味深いところです。
平成19年度は、「表象文化」として映像表現について論じる講座でアニメ版The Last Unicornを取り上げることになっているのですが、また色々とお知恵を拝借させて頂ければ、と期待しております。出来ましたら、お持ちのセルも是非拝見したいですね。
人形映画制作所はその受注をこなすために再編され、MOMプロダクションとなったとのこと。
第一回の合作作品は「The New Adventures of Pinocchio(ピノキオの新冒険)」で、TV向けの、5分もの130本のシリーズだったそうです。
その後MOMプロは社内体制を変えつつも、62年に一時間半の劇場用長編「ウィリーと魔法の魔法の機械(ウィリー・マックビーンの冒険)」、64年に50分のTV用「ルドルフ物語(赤鼻のトナカイルドルフ)」、66年に1時間半の劇場用長編「アンデルセン物語」、67年に「Mad Monster Party(おかしなおかしなモンスター・パーティー)」、同じく67年に50分のTV用「Ballad of Smokey Bear(スモーキー・ベアの歌)を製作。
その後持永只仁氏はMOMプロを退社。会社は「ビデオ東京」となり作品製作を継続。
68年には60分のTV用クリスマス番組「Little Drummer Boy」、70年に50分のTV用クリスマス番組「Santa Claus is Comin' to Town」、71年に50分のTV用復活祭番組「Here Comes Peter Cottontail(ピーター・コットンテイルがやってきた)」、73年に50分の「ダニー・ケイの不思議な世界」を製作。
その後ビデオ東京社は解散、「ビデオ東京プロダクション」として再発足します。同社はビデオ東京時代から自主作を作り始めていましたが、再編以降国内向けが主流となり、合作は75年の「サンタのいないクリスマス」「ルドルフの輝け新年」の2作品にとどまる様です。
20世紀初めの頃までの脚本には、読むための台本として、上演しようのない煩瑣なト書きが付いているのも、良くあることでした。ただ、バリの場合は実際に上演した劇が大きな成功を収めていた人気劇作家だっただけに、ト書きの挿入が興味深かった訳ですね。
フロイト心理学の影響と並んで興味深いのは、Peter Pan初演の翌年の1905年にアインシュタインの相対性理論が発表されている点です。ボーア達によってなされた量子論的解釈の発端にあたる実在記述に関する議論が当時の社交界でどの程度理解されていたのか、バリ自身が線的な論理展開ではない波動論的世界解釈をどの程度まで理解していたのかが、1911年発表のPeter and Wendyに顕著な重ね合わせ的多重ストーリーの採用を考える時に、僕にはとても興味深く思えます。