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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの日蓮正宗大石寺の「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」は真っ赤なニセもの

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日蓮正宗総本山大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」「最初仏」「御肉付きの歯」(御肉牙)「日蓮の遺骨」と言われている重宝(?)は、すべてがニセものである。
日蓮正宗は、顕正会は、法華講は、妙観講は、正信会は、創価学会は、これらの重宝?を「本物である」と言って信者を騙し、今も騙している。
日蓮正宗や創価学会、顕正会…などは、これら本門戒壇の大御本尊などの重宝?なるものを使って強引で執拗な折伏・入信勧誘活動を展開し、結果として日本はおろか世界各国で数千万人にものぼる人たちが入信してしまった。
そういう意味で、これらのものは信者騙しの七つ道具として機能し、今も機能している。
日蓮正宗総本山大石寺には、開祖日興、三祖日目、四世日道、五世日行、六世日時等の時代には、伝承すべき重宝?なるものは何一つ存在しなかった。
ここの「アンチ日蓮正宗」における史料は、全て正史に基づくものである。日蓮正宗の信仰の外にいる人も、また中にいる人も、一度はゆっくりと史料を読んでいただきたい。日蓮正宗や創価学会・顕正会…といった宗教団体の悪辣なカラクリというものが、目の前に見えてくるはずである。
ここでは日蓮正宗が「日蓮の遺骨は池上邸で荼毘に付された後、身延山に葬られたが、日興の身延離山の時、大石寺に移された」と信者に教えていることが真っ赤なウソであり、日蓮の遺骨は大石寺にはなく、したがって大石寺の日蓮の遺骨、日蓮の墓と称しているものは、後世の誰かが偽作したもの、真っ赤なニセものであることを論証していきたい。
大石寺にあるニセ遺骨、ニセ墓は、自宗・自寺・自山を粉飾するためならなんでも言ってのける、何でもやってのける、大石寺の醜悪かつ欺瞞的な特技の産物である。

出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」

取材調査協力/
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このトピックに書かれている内容について、質問その他のコメント(絶賛?でもOK)をしたい方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『日蓮遺骨本物論者』からの反論・文句は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664




コメント(17)

「日尊実録」は大石寺に日蓮の遺骨がない証拠

日蓮正宗大石寺の三祖日目の弟子で、富士門流八本山のひとつである京都要法寺の開祖である日尊の口述を、日尊の弟子の日大が筆記して記録した文書に「日尊実録」というものがある。
日尊という人は、日目とともに、日目最後の天奏の旅に同行した僧として知られている。日大という人は、日尊の直接の弟子で、京都・住本寺の開祖で、要法寺の歴代法主に列せられている。
その「日尊実録」の中に次のような記述がある。

「身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭も持ち出ることなし」
「日興上人仰に云く
全身、砕身二種の舎利あり。彼は砕身なり、法門は大聖人の全身なり。砕身に依るべからず」
「大聖人御遺骨、身延山に納め奉るの段、誰か疑貽あらんや」
(日大筆「日尊実録」─日蓮正宗59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第5巻335ページ)

─身延山久遠寺を離山する時は、日蓮ゆかりのものは、お経から雑具にいたるまで、ことごとく御墓所に置くべきとのことだった。だから、皆がそれらを整理した時、そこにいた人たちは、紙一枚、半銭も、身延山から持ち出すことはなかった。
─かつて日興上人は次のようにおっしゃっていた
舎利、つまり故人の遺骨には二種類ある。ひとつは全身の遺骨、もうひとつは荼毘に付されて骨となった遺骨である。(身延山に)あるのは骨となった遺骨である。しかし日蓮が説いた法門こそが、日蓮の全身の遺骨なのである。骨となった遺骨に依ってはいけない。
─日蓮の遺骨が身延山に納められていることについて、誰がそれを疑うことがあろうか

この日大が筆記した「日尊実録」を読むと、1289(正応2)年春の日興の身延離山以降も、日蓮の遺骨は、身延山久遠寺にあることになる。もし日興が身延離山の時に、日蓮の遺骨を身延山から持ち出して大石寺に移したとするならば、日目がそれを知らないはずがない。
日目は日興の本六上足僧では最上位の僧であった。日尊は日目とともに、日目最後の天奏の旅に同行した。したがって、日尊もそれを知らないはずがない。
もし日蓮の遺骨が大石寺にあったとしたら、日尊は弟子の日大に、この文書に書いてあるようなことを言うはずがない。「日蓮の遺骨は大石寺にある」と日大に言ったはずである。
したがって、この「日尊実録」に書いてある内容は、大石寺に日蓮の遺骨がない証拠のひとつとなる。
それにしても、この「日尊実録」という文書は、日蓮正宗59世法主堀日亨が生涯をかけて編纂した、「富士宗学要集」にしっかり収録されているものだ。「富士宗学要集」とは、日蓮正宗の正式文献である。日蓮正宗の僧侶も信者も、本気で大石寺に日蓮の遺骨があるとでも思っているのだろうか?ならば、この「日尊実録」の内容との矛盾をどう説明するのか?
「日尊や日大は、大石寺から離反した京都要法寺の開祖だから信用できない」とでも言うのだろうか?。しかし、この矛盾を説明した僧侶・信者はだれもいない。
「五人所破抄」は大石寺に日蓮の遺骨がない証拠

日蓮正宗の信者の中には、「日尊実録」に書いてある内容は信用できないなどと言う人々もいるであろう。ならば、日蓮正宗法主が編纂し、日蓮正宗大石寺が発行している「御書全集」に収録さけている「五人所破抄」の内容はどうか。
この「五人所破抄」とは、重須談所(今の北山本門寺)の二代学頭・三位日順の草稿を「日興上人閲、日順上人記」とした、富士門流、日蓮正宗の重書である。
御書全集の中には次のような一節がある。堀日亨編纂の御書全集の1615ページ、阿部日顕編纂の御書全集の1880ページである。そこにはこう書いてある。

「身延の郡徒、みだりに疑難していわく。富士の重科はもっぱら、当所の離散にあり。たとい、地頭非例を致すとも、先師の遺跡を忍ぶべし。既に御墓に参詣せず、いかでか向背の過罪をのがれんや、云々。
日興が云く……抑も、身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず。強いて御廟の賛否を論ぜば、汝等、将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや。」
(日興閲・三位日順著「五人所破抄」--御書全集1615ページ・平成新編御書全集1880ページ)

─身延の連中が、日興をみだりに非難して、次のように言っている。富士門徒の罪深いことは、身延山を離山したところにある。たとえ身延山の地頭がまちがったことをしたとしても、日蓮の遺跡を忍ぶことを優先すべきである。今も富士門徒は身延山の日蓮の御墓にぜんぜん参詣していない。こういうことをしていて、どうして先師日蓮に対して背任の罪を逃れることができるだろうか。
これに答えて、日興は次のように言っている。……そもそも、身延山の連中たちは、今も日蓮の法門の清濁を分別して判断することをしていないではないか。しかしあえて、日蓮の御廟についての議論について答えるならば、君たち身延の連中たちは、日蓮の遺骨そのものを信仰しようとしているようだが、どうしてそれで法華の弟子といえるだろうか。

すなわち、身延山の僧俗では「富士門徒は日蓮の墓(日蓮の遺骨)を捨てて離山した師敵対の徒ではないか」と富士門徒を非難しているが、これに対して日興は
「身延の連中たちは、日蓮の遺骨よりも法門を以て第一義とすべきである」
と反論しているのである。
もし日蓮の遺骨が、日興の身延離山によって大石寺にあるのだったら、日興はこんなことは絶対に言わなかったはずである。もっと別の言い方をしたはずである。あるいはこんな書き方をしなかったはずである。
日興は、身延山に日蓮の遺骨があることを前提とした上で、反論している。結論から言うならば、大石寺に日蓮の遺骨があるわけがない。あること自体、絶対にあり得ない。日興は身延離山のときに、日蓮の遺骨を身延山から持ち出してきていないのである。
では現在、日蓮正宗が大石寺にあると言っている「日蓮の遺骨」なるものは、一体、何なのか?。
少なくとも、本物の「日蓮の遺骨」ではないことだけは確かだといえる。つまり後世の誰かが偽作したものということになる。
ここに書いてあることが信用できないということであれば、自らの目で、自らの耳で、自らの足で調べてみたらいいだろう。必ず、ここに書いてある結論に行き着くはずだ。
日蓮は「墓を身延にたてよ」と弟子たちに遺言

日蓮が弟子たちに、身延山に墓をたてよと遺言した手紙が残っている。これも日蓮正宗法主が編纂し、日蓮正宗大石寺が発行している御書全集に収録されている「波木井殿御報」で、日蓮が入滅する、約一カ月前くらいの手紙である。堀日亨編纂の御書全集の1376ページ、阿部日顕編纂の御書全集の1596ページに載っている。日蓮は無事に池上邸に到着したことを喜びながら、次のようなことを述べている。

「さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まできえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はかをばみのぶのさわにせさせ候べく候」
(日蓮談・日興代筆「波木井殿御報」--御書全集1376ページ・平成新編御書全集1596ページ)

─そうでありますが、日本ではいささか、もてあました身ではありますが、そんな私を九年もの長い間、仕えてくださった御心ざしに感謝の言葉もありません。そんなわけで、私がどこで死んでも、どうか墓は、身延の沢に立ててください。

「いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」─こういう日蓮の遺志・遺言を日興は百も承知している。この手紙自体は、日蓮が口述したものを日興が代筆したものである。日蓮の体は、この時すでに筆ももてないほど、衰弱していた。
日蓮の遺言を充分に知悉していた日興が、日蓮の遺志に反して、身延の日蓮の墓から、日蓮の遺骨を大石寺に持ち出すはずがないと思うがどうか。もし仮に日興が持ち出していたとしたら、それこそ日興は、日蓮の六老僧失格ということではないか。
日興は、日蓮の遺志を忠実に守ったからこそ、
「日興が云く……抑も、身延一沢の余流未だ法水の清濁を分たず。強いて御廟の賛否を論ぜば、汝等、将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや。」(五人所破抄)
「全身、砕身二種の舎利あり。彼は砕身なり、法門は大聖人の全身なり。砕身に依るべからず」(日尊実録)
と述べているのではないか。だから大石寺には日蓮の遺骨はない。大石寺には日蓮の墓というものは存在しない。日蓮正宗が大石寺にあるとしている「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」なるものは、真っ赤なニセものである。

これほど歴史的事実が明らかであるにもかかわらず、日蓮正宗は信者に「日興は身延離山のときに、日蓮の遺骨を大石寺に持ってきた」と教えている。いくら自宗を正統化するためとはいえ、これでは日興を「盗人」と言っているようなものだ。日興の徳を傷つけること甚だしいのではないのか。
あきれてものが言えない。自宗の二祖・自寺の開祖を「盗人」にしてまで、自宗を正統化しようとする日蓮正宗とは、いったいどんな宗教なのか。
「富士一跡門徒存知の事」は大石寺に日蓮の遺骨がない証拠

日蓮正宗大石寺には日蓮の遺骨は存在していない証拠文書はさらにある。日蓮正宗が真書として御書全集の中に載せている文書であり、しかも日蓮正宗が重要文書として位置づけている「富士一跡門徒存知の事」である。
この「富士一跡門徒存知の事」は、重須談所の初代学頭・日澄の草稿を「日興上人記」とした富士門流・日蓮正宗の重要文書のひとつで、堀日亨編纂の御書全集の1602ページ、阿部日顕編纂の御書全集の1868ページに載っている。。
御書全集の収録されている「富士一跡門徒存知の事」には、次のようにある。

「一.甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり。而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細条々の事
彼の御廟の地頭・南部六郎入道・法名日円・は、日興最初発心の弟子なり。此の因縁に依って、聖人御在所九箇年の間帰依し奉る…(中略)…
已上四箇条の謗法を教訓する義に云く、日向之を許すと云々。此の義に依って去ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟を義絶しおわんぬ。仍って御廟に相通ぜざるなり」
(「富士一跡門徒存知の事」御書全集1602ページ・平成新編御書全集1868ページ)

─甲斐の国、波木井郷の身延山の麓に日蓮の御廟はあるが、その御廟に日興が通わない理由は、あの日蓮の御廟の地頭である南部六郎入道はもとはといえば、日興の教化によって入門した弟子であったのだが…
波木井入道が犯したこれら四つの謗法を日興が教訓したのだったが、波木井入道は日向がこれを許したのだといって、聞き入れなかった。それでその年に、波木井実長とその子孫とは師弟の関係を断絶してしまった。したがって、日蓮の御廟には通わなくなったのだ。

ここに出てくる「御廟」という単語だが、インターネット・ヤフー辞書によると
「御廟」とは「霊廟を敬っていう語。おたまや。みたまや。」
「廟」とは「1 祖先・先人の霊を祭る建物。おたまや。『香椎(かしい)―』『レーニン―』2 神社。社(やしろ)。祠(ほこら)。3 王宮の正殿。東西に庇(ひさし)のある建物で、政治を行う所。」とある。
ここで言う「御廟」とは「お墓」を意味していること明らかだ。つまり日蓮の遺骨を中に安置したお墓に他ならない。現在でも身延山久遠寺では、日蓮の遺骨を安置した墓を「祖廟」と呼んでいる。
その「御廟に日興は通わなくなったのだ」と日興自身が認めているのである。要するに、日興は「波木井実長が謗法を犯したから、身延山の日蓮の墓には参詣しなくなった」と言っている。つまり日興の元、大石寺には日蓮の遺骨はなかったということになる。つまり日興は身延離山の時、日蓮の遺骨を持ち出していない。「富士一跡門徒存知の事」は、日興が日蓮の遺骨を持たずに身延山を離山したということの正史料である。
「波木井書」は大石寺に日蓮の遺骨がない証拠

いろいろ証拠史料・正史料を以て、日蓮正宗大石寺にあるとされる「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」なるものが、真っ赤なニセものであることを論証しても、日蓮正宗の偏狭なカルト信仰に凝り固まっている人たちは、その偏狭で閉鎖的な宗教の世界に閉じこもって、史料を偏向的に解釈しようとし、「御廟というのは御廟であって、墓ではない」などと反論してくるかもしれない。
しかし常識と良識のある人なら、誰も疑いようのない、正史料は他にもある。そのひとつは「波木井書」と呼ばれている文書で、身延山の地頭・波木井実長が日興の身延離山の直後に、日興に宛てて書いた手紙である。
この手紙は、現在、富士門流八本山のひとつである西山本門寺に現存しており、日蓮正宗59世法主堀日亨が編纂した「富士宗学要集」第8巻14ページにも収録されているものだ。

「日円は故聖人の御弟子にて候なり。申せば老僧達も同じ同胞にてわたらせ給い候に、無道に師匠の御墓をすてまいらせて、咎なき日円を御不審候はんは何で仏意にも相叶わせ給い候べき。御経に功を入れまいらせ候、師匠の御あはれみをかぶり候事、恐らくばおとりまいらせず候」
(波木井実長筆「波木井書」─日蓮正宗59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第8巻14ページ)

─私、波木井実長(日円)は、日蓮大聖人の弟子です。敢えていうなら、老僧たちも、みな同じ同胞ではないですか。人の道にはずれて、日蓮大聖人のお墓をお捨てになられて、その上、罪ないこの私を、ご不審にお思いになるとは、どうしてそれが仏の意思にかなうことになるのでしょうか。
お経に功労したこと、日蓮大聖人の慈愛を受けたこと、恐らくは皆さんに劣らないと思います。

この手紙で注目すべきことがいくつもあるが、まず波木井実長が日興を「老僧達も同じ同胞」と呼んでいること。これをそのまま解釈すると、波木井実長は日興を身延山久遠寺の別当と認めていないばかりか、本門弘通の大導師とも認めていないことがわかる。
そして波木井実長が日興を「師匠の御墓をすてまいらせて」と非難していること。日興がもし日蓮の遺骨を身延離山の時に、身延から持ち出したのなら、波木井実長は「師匠の御墓をすてまいらせて」と言うはずがない。日興が身延離山の時に、日蓮の遺骨を持ち出していないからこそ、波木井実長はこのように言ったといえる。
「富士一跡門徒存知の事」の中にある「御廟」とは、「お墓」のことであることは明らかである。
したがって、大石寺には「日蓮の遺骨」も「日蓮の墓」もない。「ある」と称しているものは、それは真っ赤なニセもの。後世の誰かが偽作したものだ。
「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」に関する日蓮正宗の悪辣なカラクリを斬る

日蓮正宗総本山大石寺の大石寺墓苑にあるという「日蓮の墓」について、今日の日蓮正宗の正式見解は、実に微妙な言い方をしている。日蓮正宗大石寺が発行し、大石寺売店でも販売している「大石寺案内」と題する小冊子を開くと、次のように記している。

「大石寺墓苑
…この墓苑は、正本堂建立に際し、総本山総合計画にもとづいて移転されたもので、三師塔、歴代上人墓地をはじめ、旧来の一切の墓地がここに移転された。…」

この文を一見すると、日蓮正宗大石寺墓苑に日蓮の墓があるかのように思える文に見えるのだが、しかしよく読んでみると、日蓮正宗は大石寺墓苑に日蓮の墓があると直接的に断定していない。この文を読むかぎりにおいては、大石寺墓苑に日蓮の墓があるようにも解釈できるし、大石寺墓苑にあるのは日蓮の墓ではなく、あくまでも三師塔なのだ、という意味にも解釈できる、問題の核心から実に巧みにすりぬけている文なのである。
しかしこの文に「日蓮の遺骨」「日蓮の墓」ニセもの説を重ね合わせてみよう。すると、日蓮正宗は見事なまでに「大石寺・日蓮正墓説」から巧みに逃げているのがわかる。
つまり大石寺墓苑にあるのは、あくまでも日蓮・日興・日目の「三師塔」なのであり、「正墓」そのものではないと。…
日蓮・日興・日目の「三師塔」とは、日蓮正宗寺院が経営ないしは母体の墓苑に行けばどこにでもある、遺骨が入っていない日蓮・日興・日目の「廟」のようなもの、いわゆる一種のメモリアルタワーに匹敵するものだ。
なぜ日蓮正宗は、正式文献にこのような「あいまい」で、問題の核心から巧みにすりぬけている文を掲載しているのだろうか?
実はこれには裏があるのだ。

1931(昭和6)年10月1日、日蓮650遠忌の年に、昭和天皇から日蓮宗総本山身延山久遠寺に「立正」と書かれた「勅額」が降賜されたということがあった。
これは日蓮650遠忌を前にして、日蓮宗管長酒井日慎が勅額を天皇から降賜してもらうために、各方面に活発に運動した結果によるものだった。
勅額降賜の請願は1931(昭和6)年4月3日、身延山久遠寺住職岡田日帰より文部大臣・田中隆三宛てに行われ、この請願書上奏よりほどなくして、文部省より日蓮宗に対して通達が届いた。
それには、日蓮宗各派管長から身延山久遠寺に勅額を降賜することについて承諾をもらうように、と書かれてあったのである。
日蓮宗宗務院庶務部長・妙立英寿はすぐさま日蓮宗各派を訪ね歩き、各派管長から身延山久遠寺に勅額が降賜されることに異義がないとの念書に署名させることに成功している。
念書には以下の文が書かれてあった。

「 念書
宗祖立正大師六百五十年遠忌に際し、御廟所在地、山梨県身延山久遠寺住職岡田日帰より請願に及び候。立正大師勅額御下賜の件は本宗(派)に於いても異議無し…」

立正大師というのは日蓮のことで、1922(大正11)年10月13日、大正天皇より「立正大師」号が宣下されたことからこう呼んでいる。つまり日蓮の「御廟」(正墓)のある身延山久遠寺に「勅額」が下賜されることについて、本宗としては異議がないという内容の念書である。
この念書には、当時の日蓮正宗60世法主阿部日開も署名している。「念書」は日蓮宗各派管長から文部大臣・田中隆三宛てに提出されている。
つまり日蓮正宗としては公式には、1931(昭和6)年に勅額下賜の「念書」に署名した時点において、日蓮の「御廟」つまり「正墓」は身延山久遠寺にあるということを認めているのである。
したがって今さら、日蓮正宗としては「大石寺に日蓮の正墓がある」などとは書けないのである。

しかし「日蓮の遺骨や日蓮の正墓は身延にあり、大石寺にはない」ということでは、日蓮正宗としては、信者の手前、都合が悪いということなのだろう。
日蓮正宗が発行する正式文献には、このように巧みにすりぬけている文を掲載しておいて、日蓮正宗の僧侶や信徒指導者たちは、御講・御会式・法会の説法、登山会・座談会・大会などの指導の席などで、大石寺墓苑の日蓮・日興・日目の「三師塔」を、「正墓」であると、信者に教えている。
私の周辺にいる、日蓮正宗の信者も「大石寺墓苑に日蓮・日興・日目の御墓がある」と言っているし、今は日蓮正宗から脱退し日蓮正宗の信仰そのものを辞めてしまった元信者の人たちも「日蓮正宗の信仰をしていた時は、大石寺墓苑に日蓮の墓があると教わっていた」と証言する。
私と過去に対論した日蓮正宗の僧侶・信者も、「大石寺墓苑に日蓮大聖人さまのお墓がある」と言い張っていた。
日蓮正宗の大半の信者は、大石寺墓苑の「三師塔」を「正墓」だと信じ込んでいるのではないか。
しかし歴史的事実や正史料から判断すれば、日蓮正宗大石寺に「日蓮の遺骨」も「日蓮の墓」もないことは明らかである。日蓮正宗も公式には1931(昭和6)年に、日蓮の正墓は身延山久遠寺にあることは認めているのである。
1931(昭和6)年の「念書」署名の件は、日蓮正宗としてはよほど都合が悪いようで、日蓮正宗が正式に発行している「日蓮正宗富士年表」には、「勅額下賜」のことからして全く記載していない。
日蓮正宗の正式文献には、問題の核心から巧みにすりぬけている文を掲載して、口頭では平然と「日蓮正宗大石寺墓苑に日蓮の正墓がある」と言い続けるという、日蓮正宗の悪辣なカラクリと欺瞞は、人を教化育成していくべき、まともな宗教法人のすることではない。。

なおこの「念書」署名の一件をめぐって、創価学会が「日蓮正宗大石寺は身延山久遠寺に日蓮の遺骨・日蓮の墓があることを認めた」などと言って、日蓮正宗大石寺を非難している。
これに対して妙観講などの日蓮正宗側は「念書はあくまで『勅額』下賜についての念書であって、身延山久遠寺に御聖骨の存在は認めていない。したがって身延山久遠寺の祖廟は正墓ではない」などと言って反論している。
つまり日蓮正宗としては、身延山久遠寺に日蓮の遺骨や日蓮の墓があることは認められないというのが本義だということなのだろう。
つまりこの「目くそ鼻くそ」のケンカも、日蓮正宗・創価学会が今でも日蓮の遺骨や日蓮の墓が日蓮正宗大石寺にあると信者を騙している証拠と言える。
日蓮正宗や創価学会の言い分だけを鵜呑みにして、真実を知らないのは、信者だけ。冷静になって正史料をよく読み、歴史的事実を冷静になって判断すれば、日蓮正宗・創価学会のようなインチキ宗教の洗脳されただの傀儡になることはないと思うのだが、どうだろうか。
hideさま

>2
hideさまの「日興は、身延山に日蓮の遺骨があることを前提とした上で、反論している。結論から言うならば、大石寺に日蓮の遺骨があるわけがない。あること自体、絶対にあり得ない。日興は身延離山のときに、日蓮の遺骨を身延山から持ち出してきていないのである。」
という解釈はここでは証明できていません。

・日興は、身延山に日蓮の遺骨があることを前提とした上で、反論している。→五人所破抄でそのような部分は見当たりません。hideさまが「身延の連中たちは、日蓮の遺骨よりも法門を以て第一義とすべきである」と解釈している部分なのかもしれませんが、それは信仰の対象の優先順位のことを仰っていて、遺骨に執着してはならないということであり、身延に遺骨があるとは仰っていません。

・結論から言うならば、大石寺に日蓮の遺骨があるわけがない。あること自体、絶対にあり得ない。日興は身延離山のときに、日蓮の遺骨を身延山から持ち出してきていないのである。→ここは何の文献もないので証明できていません。
hideさま

>6
「大石寺墓苑
…この墓苑は、正本堂建立に際し、総本山総合計画にもとづいて移転されたもので、三師塔、歴代上人墓地をはじめ、旧来の一切の墓地がここに移転された。…」

この文を一見すると、日蓮正宗大石寺墓苑に日蓮の墓があるかのように思える文に見えるのだが、しかしよく読んでみると、日蓮正宗は大石寺墓苑に日蓮の墓があると直接的に断定していない。この文を読むかぎりにおいては、大石寺墓苑に日蓮の墓があるようにも解釈できるし、大石寺墓苑にあるのは日蓮の墓ではなく、あくまでも三師塔なのだ、という意味にも解釈できる、問題の核心から実に巧みにすりぬけている文なのである。


とありますが、すり抜けているのではなく大石寺には日蓮大聖人のお墓はないです。ご遺骨は奉安堂の戒壇の大御本尊様の脇に御安置されています。また御肉牙も同様です。

hideさま

>3
日蓮は「墓を身延にたてよ」と弟子たちに遺言
「いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候」─


とありますが、日蓮大聖人様はこうも仰せであります。
「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)

当時の身延の地頭、波木井実長は、釈迦一体仏造立・神社参詣・福士の塔供養・九品念仏の道場建立という「四箇の謗法」と犯し、日興上人のたびたびの訓戒も聞き入れませんでした。その上から、日興上人は
「身延沢を罷り出て候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」と、身延を離れる事は大聖人様に面目なく不本意であるが大聖人の正義を守るために身延を離山されたのです。

また、hideさまは「いくら自宗を正統化するためとはいえ、これでは日興を「盗人」と言っているようなものだ。」と言われますが、大聖人様は身延山久遠寺の貫主を日興上人に付嘱されているので、寺の物を持ってきたところで盗人にはなりません。全て日興上人の御所有のものであります。
hideさま

>4
日興は「波木井実長が謗法を犯したから、身延山の日蓮の墓には参詣しなくなった」と言っている。つまり日興の元、大石寺には日蓮の遺骨はなかったということになる。つまり日興は身延離山の時、日蓮の遺骨を持ち出していない。「富士一跡門徒存知の事」は、日興が日蓮の遺骨を持たずに身延山を離山したということの正史料である。

とありますが、確かに日蓮大聖人のお墓は身延に建てられ、今も存在しています。が、御遺骨は日興上人がお持ちになったので、お墓はあるが抜け殻という状態であります。抜け殻であってもそれが、お墓という形であるためそのような表現をしておられるのだと思います。(また他に表現する言葉がありますでしょうか?)「富士一跡門徒存知の事」は大石寺に日蓮大聖人の遺骨がない証拠にはなりません。
hideさま

>2
この日大が筆記した「日尊実録」を読むと、1289(正応2)年春の日興の身延離山以降も、日蓮の遺骨は、身延山久遠寺にあることになる。もし日興が身延離山の時に、日蓮の遺骨を身延山から持ち出して大石寺に移したとするならば、日目がそれを知らないはずがない。
日目は日興の本六上足僧では最上位の僧であった。日尊は日目とともに、日目最後の天奏の旅に同行した。したがって、日尊もそれを知らないはずがない。


とありますが、
そもそも日尊師は日興上人に破門されてから全国各地を巡り折伏してまわり、お寺を建てていきました。日目上人の天奏の際に同行したということですが、破門がとかれるまでの長い時間を共に過ごしていないとなると、日目上人が知っていて日尊師が知らない事があることも不自然ではないと思います。むしろ知らないはずがないなどと強く言い切るには証拠が不十分であります。
>やよい氏

何か私に対して、反論らしきものを書き込んで、議論を吹っ掛けてきているようですが、見ていて思ったのは、あなたに限りませんが、相変わらず日蓮正宗の信者という人たちは、議論やバトルトークの常識というか、ルールを全く知らないな!!ということです。

「アンチ日蓮正宗」のコミュニティにおいて、戒壇板本尊、二箇相承、日蓮遺骨、御肉牙などの偽作論をはじめ、さまざまな問題提起をしていますが、それらのひとつひとつについて、「偽作である」証拠を示し、「日蓮正宗の公式見解」が虚偽であり、欺瞞であることを立証しています。
それに対する反論をしたいのであれば、あなたが「偽作ではない」「本物である」証拠を示さなければ、反論にはなりません。

それからあなたは、ところどころに「…と思います」と書いていますが、私が問題にしているのは、あくまでも証拠であり、日蓮正宗の公式見解なのであって、一人の末端の洗脳信者の考えではありません。
こういう議論の場において、末端信者の考えなど求めてはいませんし、聞きたくもありません。反論したいのであれば、本物である証拠を示すなり、本物であることを証明して見せることです。
したがって、「…と思います」などという類のものは、反論としても認められないものです。

それから文献なり書物なりを解釈し、判断したいのならば、その判断基準は、あくまでも世間の常識であり、日蓮正宗だけの世界の物差しではありません。

そういうふうに冷静に見てみますと、やよい氏は、大石寺の「日蓮の遺骨」なるものが本物である証拠を何ひとつ示していないばかりか、こちらの論点について、終始、揚げ足取りに奔走しているようです。
それどころか、今回、やよい氏は「大石寺には日蓮大聖人のお墓はないです」と、日蓮正宗大石寺には日蓮の正墓はないことを認めています。しかも、日興は身延離山の時に身延山久遠寺から日蓮の遺骨を持ち出しておらず、大石寺には日蓮の遺骨は存在しないという明確な証拠である「日尊実録」の内容については、一言も反論できませんでした。

であれば、ここで議論は決したも同然なのですが、「日蓮遺骨問題」「日蓮正墓問題」については、聞き慣れない人もいると思われますし、ここの書き込みをさまざまな人が見ているということもありますので、私のほうからも、少々、書き込んでみたいと思います。

「日尊実録」について

日尊の口述を、弟子の日大が筆記して記録した文書「日尊実録」の文は、1289(正応2)年春の日興の身延離山以降も、日蓮の遺骨は、身延山久遠寺にあるという明確な証拠である。

「大聖人御遺骨、身延山に納め奉るの段、誰か疑貽あらんや」
(日大筆「日尊実録」─日蓮正宗59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第5巻335ページ)
─日蓮の遺骨が身延山に納められていることについて、誰がそれを疑うことがあろうか

まさか疑ってはいませんよね。
「美作房御返事」について

>日蓮大聖人様はこうも仰せであります。
>「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(美作房御返事)

残念ながら、この「美作房御返事」という文書は、後世の何者かがでっち上げた偽作文書です。したがって、この「美作房御返事」の文の引用は、反論として成立しません。
「二箇相承」について

>大聖人様は身延山久遠寺の貫主を日興上人に付嘱されているので、寺の物を持ってきたところ>で盗人にはなりません。全て日興上人の御所有のものであります

「二箇相承」は後世の偽作文書であり、日蓮は日興に身延山久遠寺を附嘱していない。したがって、日蓮の遺骨をふくめ身延山久遠寺の寺のものは、日興の所有物ではない。
尚、「二箇相承」が本物であることを証明したいということであれば、ここではなく
「『二箇相承』について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37216818&comm_id=406970

上記のトピックに書き込んでください。

「五人所破抄」「「富士一跡門徒存知の事」の文の解釈について

どうも、やよい氏は、日蓮の遺骨は身延山久遠寺ではなく大石寺にあると言いたいがために、「五人所破抄」「「富士一跡門徒存知の事」の文意を、無理矢理にでも、ねじ曲げて解釈したいようですが、実は、日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していないのである。
こんな日興真筆の文書が残っている。それは「原殿御返事」という書物の追伸なのだが、日付は1288年(正応元年)12月16日になっているから、身延離山直後の手紙である。

「追って申し候、涅槃経第三、第九、二巻、 御所にて談じて候ひしを、愚書に取具して持ち来て候、聖人の御経にて渡らせ給い候間、慥かに送り進せ候」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」241〜242ページに収録)
---追伸です。涅槃経の第三と第九の二巻を、御所であれこれ話している間に、自分の愚書の中に、まちがって持ってきてしまいました。日蓮のお経ですので、ただちに送り返し申し上げます。---

原殿という人は、波木井実長の一族の人で、身延山久遠寺周辺に住んでいたと言われている人である。日興はこの原殿に宛てた手紙の中で、日興は「日蓮のお経だから」という理由で、涅槃経を二巻、波木井実長の一族である原殿に「返す」と言っているのである。
もし日興が日蓮から相承された本門弘通の大導師であり、身延山久遠寺の別当ならば、返す必要は全くない。
あるいは、日蓮正宗や創価学会が言うように、日興が身延離山のときに、身延山久遠寺から「すべての重宝」を持ち出したというならば、たかが涅槃経ぐらいのことで、日興が「返す」という手紙を書くはずがない。
日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していないのである。このことは、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が、明確に認めているのである。

であれば、「五人所破抄」で日興は、身延山に日蓮の遺骨があることを前提とした上で、反論していることは明らか。「富士一跡門徒存知の事」の文は、大石寺に日蓮の遺骨がない証拠になること明白である。
「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と断言している日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、次のようなことを書いている。

「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」(「富士日興上人詳伝」280〜281ページより)

つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。
そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っているのである。
にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会は、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、日興が日蓮の遺骨やら「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。
しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、なにもかもニセモノということになる。

よって、「原殿御返事」という手紙は、堀日亨はよほど都合の悪い文書だと思ったのか、堀日亨が自ら編纂した「富士宗学要集」には収録せず、後に「富士日興上人詳伝」の中で、こっそり載せている。





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