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史跡コミュの田崎草雲旧宅

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 栃木県足利市緑町2丁目3768
https://www.google.com/maps/place/%E8%8D%89%E9%9B%B2%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8/@36.3368862,139.4316983,17z/data=!4m6!3m5!1s0x601f2193474bdc41:0x5cc52d1bcc01b2f8!8m2!3d36.3355683!4d139.4326149!16s%2Fg%2F12170_6p
 1969年03月31日、足利市が庭園を含めて史跡に指定。

 田崎草雲(タザキソウウン;1818〜98)は足利藩足軽の子として生まれ、幼少から画才を発揮して谷文晁(タニブンチョウ;1763〜1841)等に学びました。天保6(1835)年に家督を継母の連れ子に譲るため脱藩し、各地を放浪、この時に上野国の国定忠治(1810〜51)の知遇も得ています。
 その後、江戸の南宗画家加藤梅翁の門下となり号を梅渓としました。更に尊攘派漢詩人の梁川星巌(ヤナガワセイガン;1789〜1858)に謁して感化され、尊王思想に傾倒する事になります。安政元(1854)年に武蔵国横浜に遊んだ際、ボクサーのアメリカ軍水兵と喧嘩になり、柔道の体落としで相手を倒した事もあります。
 安政3(1856)年に足利へ帰郷して藩へ絵師として復帰しますが、安政5(1858)年に安政の大獄が始まると、尊攘派メンバーとして幕府の嫌疑を受けますが、諸国を遊歴する事で難を逃れました。
 文久元(1861)年からは、足利藩士川上広樹と共に農民兵の育成に尽力し、広樹が家老に抜擢されると、郷士教育の改革にも参画しています。
 慶応4(1868)年に戊辰戦争が勃発すると、藩内の農民を徴兵した「誠心隊」差図役となり、その武力を背景として、去就に迷っていた藩主戸田忠行や重臣達を説得、反論を新政府支持に統一する事に成功しています。
 明治9(1876)年、第一回内国勧業博覧会へ画を出品して高評を獲得、明治11(1878)年に蓮岱寺山に草庵の白石山房を建てます。茅葺(カヤブキ)二階建の家が居宅で、後に東側に平屋建ての画室を作り、多くの作品を描きました。弟子を大量に取って絵画を教えましたが、単に絵を欲しがるだけの人物は軽くあしらう事が多かったとされています。足利の酒屋は草雲から金を取らず、代わりに絵を描いて貰う事が多かったそうです。
 明治23(1890)年に皇居の杉戸(スギド)図を描いたのを機に帝室技芸員を拝命しましたが、明治31(1898)年に84歳で死去しました。大正(1915)年に従五位を追贈されています。
 昭和46(1868)年に地元の医師の鈴木栄太郎(1894〜1977)が、草雲旧宅隣接地に私費で草雲美術館を建設し、足利市に寄付しています。

・田崎草雲墓
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=9990395

コメント(1)

 1月6日金曜日に訪れましたが、美術館は休館でした。

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