ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの摂津県改称豊崎県庁跡

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 大阪府大阪市東淀川区東中島5−27−44

 1970年02月20日、大阪府が史跡に指定。

 摂津県は、明治2(1869)年1月に大阪府から分立して設けられ、5月10日に豊崎県と改称された。同年3月4日、曹洞宗凌雲山崇禅寺に県庁が設置されたが、豊崎県は8月2日に兵庫県に編入されて消滅した。
 崇禅寺は、寺伝によれば聖徳太子の創建とされ、天平年間(729〜749)に行基菩薩が中興して法相宗寺院としたとされる。当寺西方の崇禅寺松原は松の名所として知られ、菅原道真も絶賛したと言われている。
 中世に入ってからは衰微したが、嘉吉元(1446)年6月、嘉吉の乱で室町幕府第6代将軍足利義教を殺害した播磨・美作・備前守護赤松満祐が京都から播磨に向かう途中、義教の首をこの地に遺棄したため、乱を鎮圧した管領細川持賢が義教の菩提寺として伽藍と所領を寄付し、この時曹洞宗に転向した。また、同時に細川家菩提寺ともされた。
 文明15(1483)年に戦火によって壮大な伽藍は焼失してたが、細川家菩提寺としての役割は果たし続け、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦の際、石田三成の人質になる事を潔しとせずして自決した細川ガラシャ夫人の墓もここに設けられた。宣教師オルガンチノが焼失した細川屋敷より遺骨らしき物を掘り起こして当寺に納めたとされている。
 慶安年間(1648〜52)になって立派な伽藍が再建された。
 正徳5(1715)年11月4日、崇禅寺松原の跡地である崇禅寺馬場で果し合いが行われた。大和郡山藩士遠城宗左衛門に剣術の試合で敗れた生田伝八郎なる者が逆恨みして宗左衛門を闇討ちして殺害、これに対し宗左衛門の兄である安藤喜八郎と遠城治左衛門が弟の敵討ちのため伝八郎を崇禅寺馬場に呼び出すが、密かに多数の加勢を呼んでいた伝八郎によって返り討ちにされてしまった。崇禅寺住職の門啓天岑と元江戸町方与力勝見宗春が兄弟の哀れを思い、墓を当寺に築き、菩提を弔った。一方、勝った伝八郎も、卑怯だとの世間の批判に耐えかね、同月24日に切腹している。
 昭和20(1945)年6月7日のアメリカ軍による大阪大空襲で伽藍は悉く焼失したが、平成元(1989)年になって漸く鉄筋コンクリート造の本堂が再建された。

コメント(1)

昨日、行って来ました。

左;足利義教首塚
中;安藤喜八郎・遠城治左衛門兄弟の墓
右;細川ガラシャ墓

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング