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史跡コミュの伝王仁の墓

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 大阪府枚方市藤阪東町2丁目

 1938年09月11日、大阪府が史跡に指定。

 王仁(ワニ)は『日本書紀』によれば、応神天皇16(285)年2月に百済から渡来して、『論語』と『千字文』を伝え、菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)皇子の師となったとされる人物。
 古今和歌集の仮名序には王仁の作とされる歌が収録されている。
“ なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな ”
 王仁の子孫は西文(カワチノフミウジ)氏と称して朝廷に仕えたが、その一族の文忌寸最弟(フミノイミキモオト)は桓武天皇に対して、王仁は漢帝国の皇族の末裔だと上申している。
 漢の皇帝の子孫と言うのは論外としても、王仁が漢人であった事は確実である。朝鮮半島の人間が中国風の一字姓を名乗り始めるのは7世紀以後の事であり、当時の百済には313年に高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人が多数亡命していたため、王仁はその一人だったと推定される。楽浪郡では、紀元前170年代に現山東省にあった斉の内乱を逃れて朝鮮半島に入植した王氏が有力氏族とし活躍していた事が知られており、王仁はその一族である可能性が高い。
 江戸時代初頭、河内国交野郡藤坂村の山中にオニ墓と呼ばれる二個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があるとされていた。そして、元和2(1616)年、王仁の子孫と自称していた禁野村和田寺の道俊なる人物が『王仁墳廟来朝記』を著し、藤坂村字御墓谷のオニ墓は王仁墓の訛ったものとの説を唱えた。
 その後、享保16年(1731)に至り、『王仁墳廟来朝記』を入手した京都の儒学者並川五一郎が現地調査を行い、オニ墓の自然石を王仁の墓と認定して、領主の旗本久貝(クガイ)因幡守に進言し「博士王仁之墓」の碑を建立した。
 一方、王仁に関する史料や伝承は朝鮮半島側には全く存在していませんでしたが 、大東亜戦争後、大阪の在日韓国人を通じて韓国にも王仁の話が伝えられ、次第に有名になり、全羅南道霊岩郡鳩林が王仁の出身地だと決定された。
 こうして、韓国からの観光旅行客や修学旅行生が立ち寄る事が増え、平成10(1998)年の史跡指定60周年記念式典には金大中(キムデジュン)大統領から祝賀の親書が寄せられ、翌年には訪日した金鍾泌(キムジョンピル)国務総理が墓に参拝している。
 平成18(2006)年には、日韓合同百済門建立実行委員会によって百済時代の建築を模した百済門が墓の入り口に建立され、史跡指定70周年記念の平成20(2008)年4月には、霊巌郡と枚方市が友好都市提携をするに至った。

コメント(2)

『論語』と『千字文』のレリーフもありました。

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