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史跡コミュの水口城跡

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 滋賀県甲賀市水口町本丸4103

 1972年02月23日、滋賀県が史跡に指定。

 寛永11(1634)年、3代将軍徳川家光が上洛の際の宿館として、東海道50番目の宿場町水口に築かせた梯郭式平城。作事奉行は小堀遠州が務め、幕府の城番の管理下に置かれた。
 城の建物の構成は、水堀に囲まれた本丸と管理施設のある二の丸による二郭で、二の丸に堀はなく、土壁のような柵で城域を囲い、城内と城外を別けていた。本丸部分は東に凸型で、御門が二つあり、出丸部に大手御門があり、同先に北へ向く橋が堀に架けられていた。この橋は、将軍の登城の際に使用されるもので“御なり橋”と呼ばれた。他方は本丸部、正方形の北に北御門があり、二の丸主要部に直ぐに通じていた。また、造成当時に二の丸部分を貫いていた旧東街道は北に迂回するルートに遷された。これにより二の丸部分は街道をさえぎる形になった。
 本丸は、先述の如く凸型をしており、石垣上部の土壁が囲い正方形部の四隅には御矢倉が建てられた。ほぼ東西南北の正方形構造なので、その矢倉には方角にちなみ艮矢倉・巽矢倉・坤矢倉・乾矢倉の名である。正方形部の北東側の部分は北御門より大手御門までの間に御長屋になっていた。また北御門の西端、大手御門の南端には御門矢倉があり、出丸部の門番所もあわせ、城の警備とした。
 本丸周辺は石垣をめぐらし、土壁・門・矢倉で固められていたが、本丸御殿は将軍家宿館としての性格を色濃く示している。この御殿は柿葺(コケラブキ)の規模の大きい建物で構成され、公的空間の「表向き」と私的空間の「奥向き」に大別できる。奥向は将軍が宿泊の際の御座所であり、御殿や御風呂屋・御亭などの建物があった。特に御亭は御座所に面する庭園にあり、二階建望楼風の建物であった。全体として建物は数寄を凝らしており、京都二条城を模したものである。
 二の丸にも御殿があり、政庁・武家屋敷などがあり、先述のように城域を分かつ柵があった。柵には小門がいくつもあり、城外との道を繋いでいた。また、門は夜の間厳重に閉じられ、城内外の行き来を制限された。
 天和2(1682)年に水口藩が成立してからも、藩主は本丸御殿を使用せず、二の丸で政務を行った。
 廃藩置県後の明治8(1875)年、建材は一部を残し大半が公売に付された。石垣は出丸部分と乾御矢倉部分を残し殆どが、近江鉄道の線路敷設に使用された。本丸御殿は一部を残して撤去された。旧本丸は学校敷地となり、現水口高校の運動場として利用されている。
 大東亜戦争後、水堀埋め立てなどの意見も出されたが、将軍家宿館遺跡としての価値が評価され、保存整備への関心が高まった。そして、石垣の遺構が残る出丸部分を整備修復し、水口城資料館が平成3(1991)年11月に開館した。この資料館は、同城御矢倉の往時の姿を模したもので、木造二層二階建ての破風を凝らしたものである。

*城下町近江水口
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46484485&comm_id=194642

コメント(5)

22日火曜日に行って来ました。

左;乾櫓台
中;北側水堀
右;西側水堀
左;史跡碑
中;復元出丸門
右;復元出丸石垣
左;復元出丸二重櫓(水口城資料館)
中;復元大手御門 実は公衆トイレあせあせ(飛び散る汗)
右;出丸橋
水口城資料館内部にある水口城模型です。

左;大手御門
中;本丸御殿
右;坤櫓

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