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史跡コミュの池田城主池田氏の墓 / 田中桐江の墓

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 大阪府池田市綾羽2丁目5番16号大広寺

 1978年10月31日、池田市が池田城主池田氏の墓を史跡に指定。
 1992年03月18日、池田市が田中桐江の墓を史跡に指定。

 摂津国池田の地は、元来、呉服(クレハ)神社神官の土師(ハジ)氏の支配下にあったが、15世紀に土師氏の血統が絶えたため、池田氏の支配下に入った。池田氏は景行天皇の後裔と称する豪族池田首(イケダノオビト)の子孫だが、紀氏、次いで清和源氏から養子を迎え、14世紀に池田城を築いた池田教依は北朝方でありながら、南朝の忠臣楠木正行の遺児教正を養子として家督を継がせたとされる。その後、池田氏は摂津守護細川氏の代官として北摂で勢力を伸ばし、池田城を本拠として現在の箕面市や茨木市にも所領を広げて行った。
 また、15世紀後半の池田城主充政(ミツマサ)は城主菩提寺として曹洞宗塩増山大広寺を創建したが、ここは歌人牡丹花肖柏(ボタンカショウハク)が居住した地としても知られる。
 池田氏は管領細川晴元の没落後は、畿内の覇者三好長慶に服従するが、永禄11(1568)年に織田信長が上洛した際、三好方の中で唯一徹底抗戦を貫き、城主池田勝正の降伏後も、配下の荒木村重が勝正の弟池田知正を擁立して、信長方の細川藤孝軍の猛攻に耐えた。
 そして、天正元(1573)年に至って、信長と将軍足利義昭の対立が生ずると、荒木村重は信長に組したため摂津国の支配を委ねられる事となり、池田知正は逆に村重の臣下とされた。そして翌年、村重は有岡城(現兵庫県伊丹市)に本拠を移し、池田城は破却されてしまった。
 荒木村重が信長に背いて没落した後、池田知正は豊臣秀吉から摂津国豊島周辺に2780石の禄を受け、関ヶ原の戦では東軍に属して5000石に加増された。慶長9(1604)年に知正が死去すると養子三九郎が後を継いだが、翌年早世したため、知正の弟光重が後を襲った。しかし光重は慶長19(1614)年に改易、池田氏本宗は歴史の舞台から消えて行った。
 なお、織田信長の重臣で、岡山・鳥取両藩の始祖となった池田恒興は、摂津から尾張に移住した池田一族の子孫と称していた。

 大広寺には、最後の池田城主池田知正(1555〜1604)と養子三九郎(1587〜1605)の墓のみが残り、本堂・庫裏・開山堂・鐘楼・楼門は大阪府指定文化財、梵鐘は池田市指定文化財となっている。

 田中桐江(タナカトウコウ;1668〜1742)は、池田在住の儒学者で、牡丹花肖柏を偲んだ牡丹花隠君遺愛碑を文化元(1804)年に大広寺に建立した。

 池田城跡は公園として整備され、インチキな櫓や城門が建てられている。隣接する市立城山勤労者センターに復元模型があり、大広寺に所蔵される紙本著色池田知正画像と絹本著色池田三九郎画像(いずれも池田市指定文化財)の複製品も展示されている。

コメント(4)

5月3日、及び9日に行って来ました。

左;田中桐江の墓
中;紙本著色池田知正画像
右;絹本著色池田三九郎画像
左;大広寺楼門
中;大広寺本堂
右;大広寺鐘楼

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