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史跡コミュの常陸国分寺跡

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 茨城県石岡市府中5-1

 1922年10月12日、史跡に指定。
 1952年03月29日、特別史跡に指定。

 聖武天皇の勅願によって、741年3月、諸国に国分寺創設の詔が下され、全国66ヶ所の一つとして設立されたものである。
 常陸国府の所在地府中に置かれ、僧寺は金光明四天王護国之寺と称し、最勝王経を調誦して国土安泰・万民息災を祈願し、勅願所として一国の財力を竭して造営された護国救世の大道場であった。
 延喜式主税帳所載国分寺料によると、常陸国分寺料は、稲束6万束で全国の最高位を領し定住僧30名、封戸50戸を有し、寺域60町歩、全国の中でも規模の大きな方であった。
 境内から出土した古瓦(石岡市指定文化財)のうち、軒丸瓦は蓮の花、軒平瓦は唐草文様が付けられており、軒丸瓦は平城宮出土の瓦と文様が似ている事から、国分寺建立に際し,朝廷が瓦工の派遣など,技術指導をした事を物語っている。これらの遺物は現在、風土記の丘展示室に展示中。
 1590年、佐竹義宣が大掾清幹(キヨモト)氏を府中城に攻めた際に焼失したが、再建され、現在は新義真言宗浄瑠璃山国分寺と称している。
 国分寺東隣には末寺の千手院があり、一度は衰退したものの、1573年に再興され、江戸時代になると国分寺に対して主導的役割を果たしていたがが、1919年に国分寺と合併し、廃寺となった。現在、桃山様式の旧千手院山門(石岡市指定文化財)が国分寺本坊山門として利用されている。  
 また、国分寺には都々一坊扇歌の墓もある。彼は1804年に現在の常陸太田市に生まれ、江戸で都々逸節を広めたが、「上は金、下に杭なし吾妻橋」という歌が幕府の怒りを買い、江戸払いになり、姉の嫁ぎ先である常陸府中で生涯を終えた。1928年になって,扇歌の霊を祀るため,全国の都々逸愛好者からの浄財で扇歌堂(石岡市指定文化財)が国分寺境内に建てられた。

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