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憂国の士コミュの学ぼう朝鮮半島の歴史 【新羅の入寇】

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学ぼう朝鮮半島の歴史 【新羅の入寇】

http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=player_embedded
【【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略? 】


有史〜古代に至るまでの、朝鮮人による日本への侵略行為です。その数は
規模・大小を含めれば、数えきれないほどです。太古の昔から現代に
至るまで朝鮮人は日本に寄生し、日本に火の粉を飛ばし続けてきたのです。
この動画はその日本の戦史です。

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●811年〜813年(弘仁の韓寇)

対馬佐須浦に、20〜30艘余りの新羅船が略奪と殺戮を目的に上陸してきた。
(入寇とは、新羅王の命令による国家規模の海賊行為の総称。)かつては「新羅の賊」と呼ばれた。老齢、男など島民数百人を惨殺し、100〜200人の女・子供を捕獲し、奴­隷として連れ去った。
その後も、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように大量に朝鮮人が入国を試みている。

●820年(弘仁新羅の乱)

朝鮮留民(帰化人)の乱。遠江・駿河両国に配置した帰化人700人が党をなして恩に叛いた。弘仁の韓寇に呼応するかの如く、不逞朝鮮人が武装蜂起。
「人民を殺し屋舎を焼き、家畜を喰い荒らす」と記された乱民は、やがて伊豆国の穀倉を破り船を盗むなどした。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民=新羅人に口分田を与えて帰化を認め、寛大に遇して恩を与えたが朝鮮土人たちは、あろうことか博多などに土着して本国と違法な交易を­目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。

●その後の日本では

事後の対策として新羅語の通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように大量にやってくる新羅人集団を尋問できるようにし、796年以来絶えてい­た弩師を復活するなどした。

http://www.youtube.com/watch?v=oYotarBPwyE&feature=player_embedded
【【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略? 】


●869年〜870年(貞観の韓寇)

『日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日にかけて記された博多への入寇と、その後の対策。

大宰府言す。「去る月(869年5月)二十二日の夜、新羅の海賊、艦二艘に乗り博多の津に来たり、豊前の年貢の絹綿を掠奪して即時(すなわち)逃竄す。兵を発して追えども­遂に賊を獲ざりき」と。
これに対し政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、果敢に賊徒を射た防人たちを賞した。
その後、新羅は大船を建造し強行に入寇を試みるが、対馬守小野春風ら有力武人らが撃退する。

●878年〜879年(元慶の乱)

元慶年間の初頭、干ばつにより全国的に飢饉に襲われ、各地で不動倉が開かれ、賑給が実施された。直接記録に残ってはいないが、東北地方も例外ではなかったと考えられている­。それに秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘の不満は頂点に達した。元慶2年(878年)3月、夷俘が蜂起して秋田城を急襲。
これに便乗した帰化(新羅)朝鮮人300〜500人も蜂起し、秋田城下の12村を荒らし廻る。
5月、朝廷は左中弁藤原保則を出羽権守に任じて討伐にあたらせ、鎮撫して終息した。


http://www.youtube.com/watch?v=D_vSXuwWPsw&feature=related
【【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略? 】



●893年〜894年(寛平の韓寇)

『日本紀略』『扶桑略記』寛平五年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。

この頃の新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、大規模な略奪による飢饉の打破を強行。これまでの新羅の入寇以来、最大規模の侵略となる。
その全容は大小の船100艘、乗員2500、指揮を執る将軍は3人。これらを迎え討ったのは、対馬守・文屋 善友である。
善友は手勢僅か数百の軍勢で、雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡?(やなぐい)各110、盾312に­ものぼる莫大な兵器をうばい、奮戦撃破した。



●893年〜894年(寛平の韓寇)

『日本紀略』『扶桑略記』寛平五年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。

この頃の新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、大規模な略奪による飢饉の打破を強行。これまでの新羅の入寇以来、最大規模の侵略となる。
その全容は大小の船100艘、乗員2500、指揮を執る将軍は3人。これらを迎え討ったのは、対馬守・文屋 善友である。
善友は手勢僅か数百の軍勢で、雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡?(やなぐい)各110、盾312に­-ものぼる莫大な兵器をうばい、奮戦撃破した。

●906年(延喜の新羅の賊)

天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方より猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。
「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。
と伝えられている。


http://youtu.be/HSHaP80zdkA
【【高麗の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略?】



●997年〜1001年(長徳の入寇)

『百練抄』長徳三年(997年)10月1日、四年2月の条にみえる高麗国人の九州「虜掠」と征伐の記事。『日本三代実録』・『紀略』・『小右記』にみえる報告書の説を採っ­て統一している。『紀略』では三年11月に南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島に命じて南蛮の捕縛を求めたという。
この貴駕島は近年律令式建物遺構が発見された奄美・喜界島と推定されている。南海の法螺、夜光貝、硫黄などは日本の重要な交易物であり、薩摩が被害地に加わっていることか­ら"高麗国人"に煽動された奄美島人も加わっている。被害の全容が筑前・筑後・薩摩・壱岐・対馬、と報告されていることと、数百人もの拉致は前例がなく、これまでの延喜の­新羅の賊までのどの入寇よりも被害が大きい。寛平の韓寇と酷似しているほか、長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られる。「小右記」では一連の所業が高麗と判­明したためにこのような頭書が書かれたとされる。

貞観五年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。また1093年には「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋­人と日本人の乗員
を奴隷にした、と記録している(『高麗史』)。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは口実であるとされる。

●その後の日本では

新羅寇・高麗寇の増長が元寇や応永の外寇へとつながっていったという説もある。また、漁師などが朝廷をあてにせずに武装し、現在でいう処の自警団に発展したと見るのが有力­である。



新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略?
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略?
http://www.youtube.com/watch?v=D_vSXuwWPsw&feature=related
【高麗の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略?
http://youtu.be/HSHaP80zdkA

コメント(3)

『朝鮮教会史』
     京免 史朗
シャルル・ダレ著『朝鮮事情』(1874)
 
クロード・シャルル・ダレ(仏語:Claude Charles Dallet、1829年 - 1878年4月25日)は、1874年『朝鮮教会史』(Histoire de L'Eglise de Corée.)を著したフランス人司祭、宣教師。
1852年にパリ外国宣教会の神学校を卒業したのち、インドをはじめアジア各地を任地としたが、朝鮮には入国していない。その後パリ外国宣教会本部に戻り、1872年から、第5代ダブリュイ司教(1866年に漢城で処刑)が収集・整理しかけていた資料を基礎にして『朝鮮教会史』の編述に着手し、1874年に完成、刊行をみた。その後ダレは、1877年に再びアジアへ出向き、ベトナムをへてトンキンにて病没した。
 
『朝鮮教会史』
原典は全2巻。ローマ教皇ピウス9世の祝辞のついた版とつかない版があり、献呈の辞は聖母マリアに捧げられている。
15章から成る「序論」(Introduction)は『朝鮮事情』として日本語に翻訳されている(平凡社東洋文庫所収)。序論は、『朝鮮教会史』(「本論」)を何の予備知識もなしに読まなくてはならない遠隔地の人びとのために、朝鮮とはどんな国であるかを簡潔に説明したもので、本論とは独立して編集されている。1876年の朝鮮開国に先立って、厳重な鎖国体制下の朝鮮にあえて潜入し、そこで生活したほとんど唯一の欧米人集団であるパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師たちの通信を素材としている点できわめて資料的価値が高いとされる。なお、序論は第1巻の初めに収められ、全体の約5分の1を占める。
 
「序論」(『朝鮮事情』)では、以下のように当時の李氏朝鮮の様子を細かく伝えている。
ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れることのない曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱しているとし、道路を作る技術がほとんどないため、利用しにくい道は商取引の障害になっているとしている。また役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁かまうことなく行動するという。女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけとし、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、まったく進歩していないと伝える。朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多く、これは朝鮮人の特徴であるとしている。朝鮮は1871年、72年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者もあらわれたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国と固守し、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。
【続き】

朝鮮では、人びとが非常に高い声で話すので、集会はとくに騒がしい。できるだけ高い声で叫ぶことは、物腰が上品である証左となる(ママ)。社交界では、普通の声で話すのは、奇を衒おうとしている変わり者だと思われ、他人からは悪く見られる。朝鮮人が喧騒を好むのは、先天的である。彼らの考えでは、大騒ぎして、はじめて、ものごとは正されるのである。
朝鮮人は、男女とも、生まれつき非常に熱情的である。しかし、真の愛情は、この国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない。彼らは、自分自身を満足させるため、手に届く対象には何にでもやたらと飛びつくあの動物的な欲望、獣的本能以外は知らない。したがって、風紀の腐敗は想像を絶し、「人びとの過半数は、自分たちの真の両親を知らない」と、大胆に断言さえできるのである。異教徒の男に凌辱されようとした瞬間、キリスト教徒の女性は、しばしば次のように言って彼らを思いとどまらせた。「私に近づかないで下さい。私はあなた様の娘なのです」。すると異教徒は、それが真実ではないとしても、少なくとも非常にありそうな事実だと悟って、退くのである。さらにこの国では、いかなる宗教的拘束も、情熱を抑制することはできない。風習と物質生活上の必要のゆえに、貧しい人びと、すなわち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられるこの国では、これ以外にどんな方法があるだろうか?
ほとんどすべての子供は、九歳か十歳まで、あるいはそれ以上になっても、夏のあいだは裸のままで過ごすか、あるいは腰までの小さな上衣を身につけているにすぎない。
一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。ときには男の同伴者がいるときでさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。売春が白昼いたるところで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。
【続き】
街道筋では、いたるところの村の入り口に身分の低い娼婦が米焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供する。おおかたの男たちが足を留めて、彼女たちに歌をうたわせたり、いっしょにふざけ合ったりする。仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで道を塞ぐ。
朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人が不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。
彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、復讐心に満ちている。たとえば、五十の陰謀のうち四十九までが何人かの陰謀加担者によって事前に暴露される。これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。敵対する者たちの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとってば何でもないのである。
朝鮮人を、無気力で臆病だとは非難できない。彼らは、必要な場合には、答刑や杖刑その他の刑罰を、まったく平然と耐え忍び、いささかの感情も外に出そうとはしない。彼らは、病気のときでも耐える。彼らには、肉体を鍛練する多くの趣味がある。例えば、弓術や狩り等があり、決して疲労のために屈することはない。しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。たぶんそれは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。有能な将官さえいれぼ、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、宜教師たちは確信している。たぶん、適切な季節に十分に計画を練って虎退治をすれば、この動物を多く捕殺し、残りを人のほとんど住まない大山脈のなかに追いやることができるであろう。しかし、人びとは、当面の危険を排除することしか考えず、将来のこととか全体の利益とかには何も気をくばらない。
朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。しかしまた、守銭奴はほとんどいない。いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。この国では、現金の二、三万フランもあれば金持ちだといわれる。一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。金さえあれば、豪勢な暮らしをすること、友人をよくもてなすこと、自己の気まぐれだけを考えている。数多くの人びとが、常に街道に出てきては好機をねらっている。ここに無くてもあそこでは出くわすかもしれない、何か宝物でも見付かるかもしれない、まだ開発されていない何か高価な資源でも発見できるかもしれない、何か金を稼ぐ新しい手段を発明できるかもしれない、などと期待している。ある道などでは、住民の半数がちゃんと定住しておらず、貧困から遁れるために一、二年もすると移住し、少しするとまた移住し、同じことをくり返しながら最上のものを探し求めるのだが、ほとんどいつも最悪なものに出くわしている。

元情報:http://tinyurl.com/mh5y92s
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