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憂国の士コミュのアメリカ先住民の悲劇(「アメリカ・インディアン悲史」より)

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「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」

先の対戦中にアメリカの雑誌(タイム)に書かれた上記の言葉は当時のアメリカ人(白人)の一般的な意見でもありました。

アメリカ合衆国内の土地の占有については、先住民と白人との間に結ばれた条約・協定は、300を越えました。しかしそのほとんどすべてが、白人側から一方的に破られ、尊守されることなく今日に至っています。

こうした否定の余地のない歴史的事実に関して、今日多くのアメリカ人そして日本人の思考からは忘れ去られています。白人との条約で「永遠に」所有を保証されたはずの土地から、繰り返し追い出され続けたアメリカ先住民達の苦い歴史。

それは大東亜戦争を戦った日本人、そして今なお従属関係にある日本人にとっても他人事ではありません。

先の大戦に至る経緯について、大川周明博士は「無遠慮にして無鉄砲なること、近世外交史において断じて類例を見ないところのものであります。」と表現していらっしゃいましたが、実は「白人対先住民」のアメリカ史を振り返れば、それは地続きの歴史でありました。

イギリスのトインビー教授は「われわれ(白人)は彼ら(有色人種)」を「歩く樹木」「たまたまであった野獣」としか見ていない、と率直にその著作に記していますが、日米の確執の底流には、こうした残酷で一方的な人種観の存在があった事を認識しないと本質は見えてきません。

ここでは白人がいかにして「お人よし」の先住民を殺戮していったかの「一端」を記しておきたいと思います。

ご関心のおありな方は「アメリカ・インディアン悲史」(藤永茂著)をお読みになってください。

ただし、かなりタフさが要求される内容となっております。




『一八六四年一一月、ブラック・ケルトと、ホワイト・アンテロープにひきいられた約七〇〇人のシャイエン・インディアンの集団は講和の意図をもって、コロラドのフォート・リオンにおもむいたが、フォートの白人側は、シャイエンの接近を嫌い、その着た四〇マイルのサンド・クリークの河床で沙汰を待つことを示唆した。ブラック・ケルトは、そのキャンプが、白人に対して、敵意を持たぬことを示すために、自分のテントの前に大きなアメリカ国旗をかかげ、人々には、白人側からの攻撃のおそれのないことを説いた。これが、二人の指導者の状況判断であった。

そのインディアンのキャンプに対して、一一月二九日払暁、シビングトン大佐の指揮する約七五〇の米兵が突如としておそいかかり、老若男女を問わず、殺りくした。攻撃を前に、シビングトンは、「大きな奴も小さいのも全部殺して、スカルプせよ。シラミの卵はシラミになるからな(Nits make lices)」と将兵に告げた。

ここで、スカルプとは、動詞としては、頭髪のついた頭皮の一部をはぎ取ることを意味し、名詞としては、ボディ・カウント用の軽便確実な証拠としてのその頭皮、あるいはスラング的には、戦勝記念品一般を意味する。インディアン討伐に初参加の若い兵士達も多く、彼等にとって、後日の武勇談のトロフィーが必要でもあったろう。兵士達は、その指揮官の期待をはるかに上まわる、異常な熱狂をもってインディアンにおそいかかったのである。

しかし、インディアンの抵抗もまた熾烈をきわめた。全く絶望的な状況のもとで、彼等は鬼神のごとく反撃した。ホワイト・アンテロープは、直ちに自己の状況判断が甘すぎたことを覚ったが、武器をとることを否み、撤退のすすめにも応ぜず、傲然と腕を組んで、松ノ木のように立ちつくし、朗々と「死の歌」を歌いつづけた。

「悠久の大地山岳にあらざれば、ものなべてやがて死す」

一発の銃弾が、老酋長の魂を大空の極みへ送った。抵抗は、払暁から夕刻にまでもおよんだ。その終焉をたしかめてから、兵士達は、トロフィーを求めて、累々たるインディアンの死体に殺到した。

ホワイト・アンティロープのなきがらを、彼等はあらそって切り刻んだ。スカルプはもちろん、耳、鼻、指も切りとられた。睾丸部を切り取った兵士は、煙草入れにするのだと叫んだ。それらの行為は女、子供にもおよんだ。女陰を切取って帽子につける者もいた。乳房をボールのように投げ合う兵士もいた。大人達の死体の山からはい出た三歳くらいの童子は、たちまち射撃の腕前をきそう、好個の標的となった。

シビングトンは、その赫々たる戦果を誇らしげに報告した。「今早朝、わが部隊は、戦闘員九〇〇ないし一〇〇〇を含むシャイエン族の一群を攻撃し、その四〇〇ないし五〇〇をせんめつした」実際の死者総数は遂に確立されることがなかった。もっとも確かかと思われる推定によれば、キャンプにあったインディアンの総数は約七〇〇、そのうち二〇〇人が戦闘員たり得る男子であり、他は老人、婦女子、幼児であった。

その六,七割が惨殺されたのである。デンバー市民は、兵士達を英雄として歓呼のうちにむかえ、兵士達はそれぞれに持ちかえったトロフィーを誇示した。』

コメント(3)

「インディアンを虐殺して国家を作ったアメリカの成立事情そのものがアメリカの最大のトラウマとなり、それをごまかすためにアメリカは、『自分たちは神の使命をおびて理想の国家作るために大陸に渡った』と信じ込む『正義病』に罹った。その自己欺瞞には、根本に疑いがあるため、自分たちが正義であることを、何度も繰り返して証明しなければならない。『反復強迫』の正義である。」(岸田秀氏)

彼らの正体を知った上で、日本が主体的にお付き合いしていくことが何より大切かと思います。


【鬼畜米】米オークションに、日本兵「遺体」写真http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-74278/1.htm 
田中 徳祐著 我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実

米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、
隠れている日本人に投降を勧めました。
「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も十分に与えます。
もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。
みなさんの投降をまっています」
これには潜んでいた日本軍も参ってしまった、その後、
桃太郎、天然の美、荒城の月などがながされたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」
投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、

その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。
投降呼呼び掛けの放送とはうらはらな、
人道上許し難い残虐な行為をしだした。

日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、
その距離1キロ位先で展開された。
そこへ、三方から追われた数百の住民が逃げ込み、捕らわれた。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ、
婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。

その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、
彼女たちの声は遠ざかっていた。なんたることをするのだ、

小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかつた)

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。幼い子供が泣き叫び、絶叫する、

「おい、もう我慢ならん。撃て」
吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。
残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、
周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、又火のなかへ付き返す。
死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、
銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。
二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、
両足をもって、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。

「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。
彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。
日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかった。

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