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陳信輝コミュの1970年代のインタビューや手記など

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ここでは活字メディアに載った当時のインタビューや手記(一応)をあげて、彼に何が起こっていたかを紹介したい。

まずはインタビュー。

コメント(15)


前口上
フード・ブレイン結成の頃(1970年7月頃)、つまりポリドールからの「フード・ブレイン」アルバム発売直後の某洋楽雑誌による陳信輝さんへのインタビュー。インタビュアーは東郷かおる子。今読むともっと音楽的に突っ込んだ質問は出来なかったのかと惜しまれる。

これを読む限り、インタビューされる側は淡々というか、あっさりしているのと歌はダメというのはルイズ・ルイス加部さんと共通している。インタビュー時にあまり喋らないので苦労するのはゴールデン・カップスの映画の時も製作者が言っていた。ここでもインタビュアーが大分話を引き出そうとしている努力は感じられる。

レコーディングも2日で録ったというのはカップスと似ている。何しろ緻密なリハーサルとかレコーディングとはあまり縁のないのが当時の横浜の連中の共通点なのだろうが、その単なる思いつき、自然発生的なところから生まれるものがまた一つの魅力なのかもしれない。

角田ヒロが海外に行ったというのは、ロックの人材起用に当時積極的だった渡辺貞夫クインテットでスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル出演のためだと思われる。またMさんというのはこのアルバムのチーフ・エンジニアの前田キンイチロウさんだと思われる。わざわざイニシャルにする必要はない気がするが。

ちなみにその雑誌の当時の編集長は日本のロックを聞かない。なぜなら「本物の方がいいに決まってるじゃん。」だそう。やはりビートルズの「お友達」だとそういうことになるのだろうか?
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東郷:フード・ブレイン結成の動機は?

信輝:いいメンバーを探していたんだ。そしたら自然とああいう風になった。

東郷:音楽的に意見が合ったから?

信輝:あまり合わないよね。音楽的には....。全然好きな音楽が違うしね。最初さ、ヒロ柳田とスーナーズのエディとマー坊とやろうとしたんだけど、それがダメになっちゃったでしょ?で、まぁまた新しいメンバーを探して今のメンバーになった。6月20日ころから....。

東郷:じゃ、これからも今のメンバーでやっていくかどうかって言うのはわからないわけ?

信輝:あれはずっとあるよ。これからどうなるんってんじゃなくてさ。フード・ブレインを作ったってのがさ、もうレコーディング以外はさ、やらない気で作ったんだし....好きなことだけやろうってんで....あとはコンサートとか。

東郷:現在スタジオ・ミュージシャンみたいな仕事をしているロック・ギタリストの人っているじゃない? あなたの場合はどうなの?

信輝:ずい分でもないけどやっているよ。別に仕事は選んでないね。もう知っている人達だしさ。

東郷:パワーハウスが解散してからこのフード・ブレインを結成するまでってのは一体何をやっていたの?

信輝:もう、すぐ結成だよ。その間1日もない。解散するちょっと前から考えていたし....。

東郷:あなたは音楽だけしかやらないの?他の事は?

信輝:他の事.....やっているよ。今お店やっているんだ。洋服屋さん。僕が直接やっているんじゃなくて一応お金だけ出して頼んでやってもらっているんだけど....。

東郷:じゃ経営者ってわけ?(笑)

信輝:ウン。えらいでしょ?(笑)

東郷:フード・ブレインの二枚目のアルバムってのはいつ頃の予定?

信輝:多分ねぇ....10月か11月にレコーディングするから来年の2月頃。

東郷:一枚目ってのは全部メンバーのオリジナルじゃない? あれねぇ、うちの編集部でもみんなで聞いてみたんだけど、ちょっと難しいってのかよくわからないってのがあるのよ。

信輝:うん、やっている本人もわからないし....。

東郷:曲名もかなり面白いじゃない?

信輝:あれ適当につけたの。

東郷:別に意味はないわけ?

信輝:全然。いや、あるよ。

東郷:「カバと豚のタタカイ」ってのは何あれ?

信輝:あれ角田ヒロのこと言ってんの。

東郷:そうか(笑)。そうだと思ったんだけどさ(笑)。

信輝:闘っているみたいでしょ、あの曲は....。

東郷:フード・ブレインってのは全くレコーディング用?

信輝:レコーディング用っていうわけじゃないけど、あとやっても意味ないじゃない?

東郷:なんか一時野外コンサートってのがすごく話題になったじゃない?それが今は停滞気味じゃない?マンネリ化しちゃってね。あなた自身はそういうのに出演していて感じた?

信輝:うーん、前は面白かったけど。

東郷:あなたは野外の方がいい?

信輝:野外じゃない方がいいね。やっぱりどこかの体育館とかああいったところがいいね。小さくてもいい地下の穴倉みたいな所でさ、あまりお金とってやるの嫌いだね。

東郷:今一時のGSブームが下火になってあなた達みたいなアンダーグラウンドなグループが表面に浮かび上がってきたじゃない?

信輝:そうでもないよ。

東郷:いや、確かに一時的にはいろいろな雑誌でも取り上げたじゃない?

信輝:まあ前よりはね。

東郷:それで浮かび上がったわけだけど浮かんではみたもののどうしていいかわかんないみたいな感じじゃない、今って?

信輝:それはつまり物真似だったからじゃない?今までは。

東郷:だって物真似するなって方が無理じゃない。

信輝:無理じゃない。僕のいう物真似ってのは違うんだ。例えばエリック・クラプトンがいるでしょ?誰かがその真似するじゃない?日本じゃわかんないけどイギリスへ行けばああ、エリック・クラプトンの真似していると思われるじゃない?でもたとえ同じフレーズ使っても、ああ誰々の真似しているってわかればそれでコピーじゃないと思うんだ。
今までの場合はさ、日本のバンドはみんないかにさ、同じレコードの同じ音を出そうかと思っていたじゃない?そういうのは絶対ダメなんだよ。

東郷:お客さんにしたってレコードと同じならレコード聴いた方がいいもんね。

信輝:お客さんにしたってレコードと同じにやれば、ああこのグループはうまいなんていう人もいる感じじゃない?

東郷:ところでさ、ウッドストックは見たでしょ?

信輝:見た。二回見た。つまんないねぇ、あれねぇ。

東郷:つまんない?どうして?

信輝:映画自体は面白かったけどバンドだけを見た場合つまんない。

東郷:同じギターを弾く立場としてみても面白くなかった?

信輝:画面は面白かったし、映画としてはよかったけど...。バンドは一番最初にやったリッチー・ヘブンズとかクロスビー・スティルス&ナッシュくらいじゃない?良かったのは...。

東郷:ギタリストとしてのピート・タウンゼントとかアルビン・リーなんかどう思った?

信輝:アルビン・リー.....うまいよ。でもつまらない。どうしてって?ただそんな感じで。あまりピタッと来ないね。あんなもんかと思った。
東郷:そんなもんかねぇ(笑)。ところで話は変わるけどフード・ブレインの二枚目ってのはどんな傾向にしたい?

信輝:今度ボーカルを入れるからね。まだ誰って決め手はいないけど。

東郷:自分で歌うなんて気はないの?

信輝:歌うって....その何ていうかなぁ(笑)、ダメなんだよ全然。一枚目は全然打ち合わせ無しなんだよ、全曲。2日間でやったよ。本当はさぁ一ヶ月でやるつもりだったんだけど、ほら角田ヒロがニューポートに行くことになって、急に決まったもんだから2日しかなかった。

東郷:じゃ、その場で即興?

信輝:メロディーを強調するつもりなかったし。でもミキシングはすごくいいんだ、あれは。

東郷:どうしても日本のロックのレコードってのはベースとかドラムスの音が良くないじゃない?でもあれはいいと思ったよ。

信輝:Mさん(*)という人がさ、機械持って来てやってくれてさ。あれはどこでも出来るんだってさ。ただ面倒くさいからやらないんだって。

東郷:そうかなぁ?ところであなたはエリック・クラプトンが一番好きなんでしょう?

信輝:一番好きなのはジェフ・ベックだよ。好きなのはね。うまいと思うのはエリック・クラプトンだけど。

東郷:ベックのどんなところが好き?

信輝:関係ないことやるでしょ?

東郷:何かとてつもないことをやりそうな?

信輝:うん、いいねぇ、ああいうの。

東郷:アメリカやイギリスの場合なんてミキシングの関係で、ものすごくいいレコードが出来ちゃうなんてことがあるわけよ。日本のグループだって向こう行っちゃってミキシングしてもらえばいいのにね。向こうの名前にしちゃって....わかんなと思うよ。

信輝:でも日本のバンドじゃやってくれる人いないと思うよ、向こうで。

東郷:向こうが日本のグループってものに認識がないということかな?

信輝:うん、それもあると思うし、もし聴いてもノらないと思うな。

東郷:外国に行く気ないの?

信輝:お金もたまったし、来年あたり行きたいね。結局わかってくれる所に行きたいね。向こうで割りと良かったら帰って来ないかなぁ(笑)。来年の夏には行きたいね。

東郷:ディープ・パープルみたいにクラシックとかジャズみたいのと一緒にやりたくない?

信輝:例えばロックとジャズしたって、ロックの人はジャズのいいところを取り入れてロックをやるって方がいいと思う。だってどんなしたって、いくらジャズのうまい人だってロックは出来ないよ。

(会見後記)
しきりとアメリカに行きたいと言うが、アメリカから帰って来たら彼はきっと変わるに違いない。関係ないけど彼は割りとおしゃれである。
訂正:
角田ヒロがニューポート・ジャズフェスティバルに出演とあるので、スイスのモントルーではないが、同じメンバーで確かモントルーにも出たはずである。

ところで服装へのこだわりも後にスピード・グルー・シンキがJUNのモデルになったり、加部さんのごく自然なセンスのよさも含めて、長髪にT−シャツそして薄汚いベルボトムのジーンズという1970年当時の「ニューロック」バンドのイメージとは一線を画す。
パワーハウスの連中もジャケットを見る限り着ているもののセンスが良かった。例えば柳ジョージのストライプのジャケットにアロー・ベースなんて英米のバンド・センスの真似ではない。王子様ルックスを着せられていたGSのほかのバンド(ただし彼等の責任ではないが)と比べるとパワー・ハウスはロック・バンドだった。
1977年4月、本人によるある雑誌への近況報告

「4年ぶりにバンド結成。がんばっています。」

あれは1964年頃だったかな、僕が初めてギターを手に入れたのは。
その頃よくコピーしたバンドといえば、キンクス、ヤードバーズ、ストーンズ、マンフレッド・マン、スペンサー・ディビス・グループ、ヤング・ラスカルズなど、まあそんなところを中心にやっていた。

その頃の仕事場所といえば、進駐軍やアメリカン・スクールのパーティぐらいしかなかった。竹村栄司、加部正義、ミッキー吉野たちと、ミッドナイト・エキスプレスというバンドをやっていた。
 
それから2年ぐらいしてからかな、クリームやジミ・ヘンドリックス・エキスペリエンス、そしてしばらくたって、ジェフ・ベック・グループが出てきた。この僕は、17歳で、この三つのバンドを中心に演奏していた。日本にロック・バンドが増えてきたのもその頃だった。でもディスコでジミ・ヘンドリックスやクリームをやったりすると、キチガイ扱いされてしまった。なかなか受け入れられないくて悩んだ。その頃僕なんかのバンドの理解者とえいば、横浜のACBと言うところで初めて会った内田裕也さんくらいだった。

プロになったのは、19歳の夏だった。竹村栄司(ボーカル)、柳ジョージ(ベース)などと、パワーハウスというグループをやっていて、まわりもいろいろにぎやかで、ロック・バンドだけのコンサートなんかでも出来るようになった。

メンバーそれぞれのやりたいこともだんだん違ってきたので、パワーハウスは解散して、柳田ヒロ(キーボード)、加部正義(ベース)、角田ヒロ(ドラムズ)と一緒に新しくフード・ブレインというバンドを作った。日本のロック・バンドがオリジナルをやるようになったのもその頃からだった。

フード・ブレインの仕事も、ほとんどがコンサートだけになった。この頃レコード・プロデューサーとしていろいろ理解し、協力してくれたのが、今ワーナーにいる折田育造さんだった。このフード・ブレインはレコードを一枚作って、3ヵ月くらいで解散した。

このあと、スピード・グルー・シンキを結成。メンバーはジョーイ・スミス(ドラムズ)、加部正義(ベース)、僕の三人である。この頃になると外国のバンドも日本に来るようになって、日本のロック・バンドもそういった連中と共演するようになった。スピード・グルー&シンキは2年間くらい続いた。でも体をこわしたりして、そのあと4年間ぐらいはほとんど演奏活動が出来なかった。

この4年間、いろんなバンドがたくさん出てきたけれど、僕がバンドを始めた頃に比べ、「音楽の水準」も高くなってきたし、テクニックの面でも決して外国のバンドにひけもとらないようになったと思う。だけど、何か一つ、二つ、いや、三つ違うように思う。結局、本当は、音楽の水準もテクニックも、向こうのバンドに追いついてはいないのかもしれない。

4年間、活動休止していたけれど、いま、僕は新しいバンドを作ってまた演奏を始めようとしている。

バンドの名前はShinkiで、メンバーはパワーハウス・ブルーズ・バンドにいた竹村栄司(ボーカル)、ジュリエットにいた秋元良一(ベース)、ファー・イースト・ファミリー・バンドにいた高崎静夫(ドラムズ、パーカッション)、僕がディスコでみつけてきた笠川良明(キーボード)、そしてシンキ(ギター)の5人編成。乞うご期待!

中学生時代に、SG&Sのファンでした。
当時、こういったインタビュー記事は読んだことがなかったので、大変興味深く読ませていただきました。
ありがとうございます。
こんどは「フード・ブレイン」のアルバムを出した際の陳信輝への1970年7月頃のインタビュー。今回はもっと真面目なロック雑誌からの男性インタビュアーのせいか、あの素人臭かった前回のインタビュアーよりも短くとも、的をついたことを発言している。今回の聞き手はは北中正和。
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パート1

前口上:
パワー・ハウスの解散後、動向を注目されていた陳信輝が新しいグループを結成した。グループの名前はフード・ブレイン(Food Brain)。正式に結成されたのは1970年4月末。メンバーは陳信輝(ギター)のほか、柳田ヒロ(キーボード、もとエイプリル・フール)、加部正義(ベース、もとゴールデン・カップス)、角田ヒロ(ドラムズ、もとジャックス)と、それぞれ以前個性的なグループで活躍していたメンバーぞろい。1970年5月10日のロック・フェスティバル最終日での演奏や、バックなどですでにご存知の方もあるはず。

インタビューに行ったときは、日本グラモフォンのスタジオでLPの制作中。テープ編集の一息ついたところで、制作の折田、録音の前田両氏を交えて、陳信輝に話を聞く。

北中:ユニークなメンバーですね。

信輝:(1970年)4月の末ごろ、ロック・フェスティバルのちょっと前にね、いいバンドを作ろうというので柳田ヒロと僕とで話をしていたらさ、そのうちに、仲の良い者ばかりで自然に出来た感じ。

北中:スーパー・セッション・グループなの?

信輝:いや、そうじゃない。メンバー個人個人はフリーでいいんだけど。みんな、それぞれいくつかのバンドで仕事しているしさ、例えば角田ヒロはナベサダと一緒にニューポートへ行ったみたいにね。

北中:ビートルズみたい?

信輝:うーん、何ていうのかな、いままでさ、プロダクションに入っちゃうと、好き勝手できないみたいなところがあるけど、今は幸いにして、そうじゃないというのかな。たまたま経済的にも恵まれてるしね。

北中:どんな音楽をやっていくの?

信輝:あくまでもロック中心。他にはない自分達のスタイル、フード・ブレイン・スタイルというのをね。技術的に上手いとか下手とかいうんじゃなくてさ、他にそういう種類のものがなければ、誰にもそれをけなすことは出来ないからね。今やっているオリジナルだって、僕が間違っても、僕がわざと間違っていたといえばそれまでだしさ。今までの日本のバンドってさ、コピー中心でさ、コピーもいいんだけど、コピー中心で行くとか言うでしょう。コピーするって段階は、言ってみれば練習の段階でさ。

北中:うーん。えーっと....。

信輝:こんな事を言うとすぐ、生意気言うって誤解されるかもしれないけど、コピーをやっている中で、それに満足してしまっている人に対して言うんだけどさ、いかにして同じ音に近づくかというんじゃないんだよね。フレーズが同じだからコピーだ、というんじゃなくて、ジェフ・ベックのフレーズだとか、クラプトンのフレーズだとか、同じフレーズ使っても、音を聞いてこれは「あいつ」が弾いているとわかれば、それはもうコピーじゃないと思う。

北中:ステージでやるのと、こういうスタジオでやるのとでは、どちらがやりやすい?

信輝:やりやすいのはステージの方がいいね。演奏する時は音は体のコンディションにはすごく敏感でさ、頭来ている時にはそのまま頭来ている音が出るしさ。でも調子に気を配ったりはしないな。

北中:今度のレコードに入る曲には、歌詞がないようだけど。

信輝:日本語でやるとロックは合いにくいし、英語じゃ意味がわからないと歌えないし、メンバーにボーカル適任者がいなかったということかな。日本語でやることには抵抗は感じないよ。

パート2
....という意見はそのまま取れば何でもないことだが、逆に言えば、日本にも演奏だけで、自信を持って聞かせるロック・グループが出てきたということなのだろう。

ここで遅れて来てやってきた柳田ヒロにも今度のLPについて同じ質問。

ヒロ:やはりボーカルがいなかったからかな。こんどのLP,どちらかとヘビーでハードな曲が多いけど、インストルメンタルだけの場合、もうちょっとメロディックのモノもあっていいという気もする。
(最近の聴衆や演奏のことに話が及んで)日本人の聴衆がノらないのは、ノらないのでなくてノれないのは、プレーヤーが良くないんですね。プレーヤーがノせない。ただの国民性の違いとかだけじゃない。聴衆が悪いんだとか言うけど、そうじゃないところがあるんじゃないかな。」

9月に発売予定のファースト・アルバムはタイトルが「晩餐」。全曲オリジナルで、「レバー・ジュース自動販売機」「穴の空いたソーセージ」といった変わったタイトルの曲が含まれている。出来れば欧米でも発売したいとのこと。

最後に録音の前田さんの「内容のいいものは売れるという実績みたいなのが欲しいんですが。」という言葉が印象的だった。
体調や気分が演奏に反映するというのを読んで、ゴールデン・カップスの「銀色のグラス」録音時の加部さんのガールフレンドのことか何かでムシャクシャした気分がそのままあの超ドライブするベースに出ているという話を思い出した。

だからといって録音時の自分のコンディションに気を遣うこともない発言も「何も気にしない、ダメならダメ。よければそれでいい。」という悲壮感、緊張感、使命感なしの自然児的なところが当時の横浜のバンドには共通していたのではないだろうか。その辺にこちらも惹かれるわけだが。

述べられているように経済的にも余裕があったのもその原因かもしれない。しかしパワーハウスが売れて、当時カップスが貰っていたギャラ並みをプロダクションから受けていたとは思えないし、ただその余裕感がカップスの連中、陳信輝らのやっている音楽をクールにしていたのは事実だとは思う。

ただし柳ジョージの本にもあったが、パワーハウスで秋田のキャバレーのハコの仕事に行った時はあてがわれた宿舎が寒くてひもじい思いをしたこともあったらしい。(でもどんなレパートリーを地方キャバレーでやっていたんだろう?)
こんばんは。

本当に興味深いインタビュー記事読ませて頂きました。

有難う御座います。

又、何か載せて頂ける事を楽しみにしております。
よちゃさん、
確かにスピード・グルー&シンキに関する資料は少なく、音源もライブやテイク違いなどまだ表に出てきていません。

当時全国をツァーをした話も聞いた事がないので、関東地域の人たちしか彼等のライブを見聞きできなかったのが残念でした。

ご存知かもしれませんがジュリアン・コープの書いた「ジャプロック・サンプラー」には一番詳しく書かれています。プロデューサーの折田育造さんの話も面白いです。
ついこの間、朝っぱら近所のファミレスで、お見かけしたんで、おげんきですか。なんて、陽水みたいな変なあいさつしたらば、元気ないぇ。なんて、いわれたんで、また、ですよね。なんていって、口ごもっちぁいました。
ぼろぼろに疲れ、やつれ、老け込んでました。
ぶっとい葉巻をくゆらせ、書類に目を通し忙しそうでした。
お元気な頃は、いろいろお世話になり、楽しかった。また、お仕事の方も、うまくかたずいて、すばらしいギターが聞きたいと、願っています。
管理人さん今後ともよろしくお願いします。不適切であれば、削除おねがいします・・・
MOCHIさん、
でも書類に目を通し忙しそうだったというのはまだよかったです。
このサイトにパワー・ハウスやカップス(1967年)のルポが!

http://www.aoki2.com/jazz/dangi/hitokoto/hitokoto.htm

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