ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

銅鐸コミュの銅鐸出土地名表

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ここでは、表紙でも紹介しました「銅鐸出土地名表」についての情報交換の場です。
特に、銅鐸出土地名表の追加情報や間違いの訂正についての情報を書き込んでくだされば、ウレシイです。
   播磨國住人 韃靼人

コメント(201)

ペギラさん、どんたく です。

> >御所市名柄字田中
> 現在の名柄には、このような地名番地はない。

「名柄」は大字名、「田中」は小字名だと思いますが、現在では「名柄」に限らずどこでも小字名は使われていないのでは?、

> 私の地名表では、「増」にしています。

何故「増」だと考えられのか、もう少し説明して戴けませんか?
そうして、具体的に地図上のどこの地点から出土したと考えておられるのかも判れば教えて戴けませんか?

http://www.yayoi.sakuraweb.com/cyber-mizuho/iseki/3_nagara.htm

http://www.emuseum.jp/detail/100571/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=769&num=6

http://tunogis.nichibun.ac.jp/iseki/pdf/seidouki/bb_nara_07.pdf

上記
国際日本文化研究センターの考古学GISデータベースの
PDF資料がわかりやすいと思います。

国土地理院
yahoo地図も添付します。

地図にある、名柄郵便局は、
奈良県御所市増48−1

という住所です。

ペギラさん、 どんたく です。
***********************************************************
さきほど#165に図面を添付したつもりが、抜けてしまっていました。
そこで、これを一旦削除し、もう一度図面を添付してやり直しをします。
大変失礼いたしました。
***********************************************************
名柄銅鐸について、#163 および #164 で説明して戴いたので、ペギラさんが銅鐸出土地点が「増」(まし)であるとされる理由がよくわかりました。

実は、私が持っている御所市の地図では、「名柄」と「増」の境界線が添付第1図のようになっています。

これをもとにして考えると、銅鐸出土地点は「名柄」と考えられることになります。
しかし、ペギラさんのおっしゃるところからみると、この地図に示されている境界線は間違っているようです。

添付第2図は、#163 および #164 を読む前に作った図面です。

ここで、
A地点:日文研の考古学GISデータにある経緯度から割り出した地点。(※1)

B地点:『奈良県遺跡地図』第3分冊 平成10年 16-B #201 に示されている地点。

C地点:梅原末治『銅鐸の研究』増補版 木耳社 昭和60年 p38 の図面から私が推定した地点。(※2)

【注】
(※1)
国際日本文化研究センター/考古学GISデータベース/弥生青銅器GIS DB
http://tunogis.nichibun.ac.jp/iseki/text_search.cgi?db=4
No/地名/種類・名称/型式/緯度/経度/リンク
305/奈良県御所市名柄/銅鐸奈良7/外縁付鈕2式/34.4386/135.7108/詳細
ここにある緯度・経度によって地点を割り出した。
(※2)
ペギラさんの #163 にある
http://tunogis.nichibun.ac.jp/iseki/pdf/seidouki/bb_nara_07.pdf
の右下の図に同じ。

第2図では、「名柄」と「増」の境界線が添付第1図の通りだとして赤い一点鎖線で境界線を描いています。

もしこの境界線通りだとすると、A地点は「増」、B及びC地点は「名柄」ということになります。

しかし、この境界線が誤っているとなると、A,B,Cの3地点とも「増」ということになります。

ちなみに、Google Map を使ってこれらの3地点の住所をあたってみますと、
A地点:御所市増227近傍
B地点:御所市増60近傍
C地点:御所市増55近傍
というように、3地点とも「増」ということになりました。
ペギラさん、 どんたく です。

実は昨日(2012年2月20日)、国土地理院の出先機関まででかけていって、大正時代の御所の 1/25,000 の地図を閲覧してきました。

パソコンのモニター上に映し出された地図を見ますと、梅原末治『銅鐸の研究』p38の図面とよく似ておりました。
 そして、「増」の地域については、「上増」と「下増」というように2つの地域に分かれた形で書かれていました。

梅原末治『銅鐸の研究』p37には次のように書かれています。
“鐸は同地の小字田中の第六十番地から出たもので村の西方約二町の高台の上にあり、上増、関屋等の村落から長柄に通ずる道路が南北に分岐した地点の付近に当たる。”

約二町といえば約200mに相当します。

この文章とp38の図面とを勘案して、私は銅鐸出土地点を#166の添付第2図面のC地点のように推定しました。

なお、上述の大正時代の地図はモニター上での閲覧だけしか許されず、この画像の写真を撮ることも出来ませんでした。

この地図を取得するために、本日、国土地理院宛に「測量成果の謄本交付申請書」という書類を郵送しました。(収入印紙500円及び切手200円を同封)

この地図が入手できましたら、名柄銅鐸出土地点付近だけを抜き出して、アップしたいと考えています。
(地図の一部分だけであれば、出典を明示した上でアップしてもよい、というように昨日国土地理院出先機関の担当者から聞きました。)
ペギラさん、 どんたく です。

日本地名学研究所編『大和地名大辞典 続篇』昭和34年 という書物があります。
この書物は、大和の小字名がリストアップされている分厚い本です。

日本地名学研究所長・中野文彦氏が書かれたこの本の序文には、“校正には池田末則君の助力を得た。”とあります。

池田末則先生は、最近まで日本地名学研究所長をしておられ、
池田末則『奈良県史 第14卷 地名 ―地名伝承の研究』
など、地名に関する色々な書物を出しておられます。

この『大和地名大辞典 続篇』の p406 を見ますと、田中という小字名のところが沢山あります。
その中で奈良県南葛城郡吐田郷(はんだごう)村についてみますと、豊田・森脇・増(まし)という3つの大字の中に田中という小字があります。
ここには名柄という大字の名前は出てきません。

このことをどのように考えたらよいのでしょうか?

梅原末治『銅鐸の研究』増補版 木耳社 昭和60年 の p37 には、「吐田郷銅鐸」というタイトルで、吐田郷村大字長柄小字田中60番地から出土したと書かれています。

また、高橋健自「南葛城郡名柄発掘の銅鐸と銅鏡」(「奈良県史蹟勝地調査報告」第六回 1919年)という文献もあり、名柄から出土したことになっています。

銅鐸が出土した当時には「増」という大字ではなく、「上増」「下増」という大字があったようですが、その頃には「田中」という小字は大字「名柄」に属していたのでしょうか?

前述の池田末則先生は御所市名柄にながらく住んでおられたそうです。
その池田先生と昨年(2011年)3月に別件で長い電話をさせて戴いた時に、先生の口から「名柄の銅鐸」という言葉が出ました。

名柄の土地に特別にお詳しい地名学の権威の先生が、「名柄の銅鐸」と言われたのです。

今回のペギラさんの問題提起について、是非とも池田末則先生にお尋ねしたいところですが、つい最近になって、池田先生は昨年7月18日に亡くなったということを知りました。

まことに残念です。
今はただ池田先生のご冥福をお祈りするばかりです。 合掌
どんたくさん、ペギラです。

本日、業務の合間をみて、一時間ほど、
身近な図書館へと名柄発掘にいってきました。(笑

年代の古い順に
「地名辞書」の類に、
 
「名柄」の欄に
>西部の小田中池
に銅鐸出土という記述

あの池は、小田中池というのがわかり、田中の小字も想像できる。

次に道路地図、古いやつで
2003年度版の道路地図奈良県版では、
どんたくさんの提示のように、ちょうどあの池あたりまでが
「名柄」となっていた。

そして次に見つけたのが、
「奈良の地名由来辞典」
池田 末則 先生 編集 

でした。

どんたくさんのお話を見て、なんか、ええって感じです。

単行本: 310ページ
出版社: 東京堂出版 (2008/06)
ISBN-10: 4490107358
ISBN-13: 978-4490107357
発売日: 2008/06

この本のP206に「名柄」がありまして、
そのなかに
「接続地の大字増は銅鐸出土地」と。記述あり。

きわめて近い最近に、
あのあたりが、「名柄」から「増」に変わったということでしょうか?

奈良県のHPなどをみても、
いまのところ、そんな記述が見つけられないですが。
ペギラさん、

たった1時間ほどの「発掘作業」で随分沢山の成果をあげられましたね。

> 「接続地の大字増は銅鐸出土地」と。記述あり。

ということは、池田末則先生は、そういう認識をお持ちの上で、なおかつ「名柄の銅鐸」という言い方をされたことになりますね。

まあ、その方が分かりはよいですから、そのように言われたのかもしれませんが・・・。

2月20日に閲覧した大正11年測図の地図には、西の方から東の方に向かって、関屋・上増・下増・名柄 というように地名が並んでいたように思います。

これから考えると、現在時点では銅鐸出土地点は「増」であるけれども、銅鐸出土当時は「増」という地名はなかった、ということは言えそうに思います。

国土地理院から地図が届いたら、この辺りをもう一度よく確かめてみたいと思います。
http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%90%8D%E6%9F%84&fr=dic&stype=prefix

こんなサイトもあった。
全文は入会しないと見られないのが残念ですが、

3.ながらいせき【名柄遺跡】奈良県:御所市/名柄村-日本歴史地名大系
[現]御所市大字増 葛城山東南麓、長柄神社西方に所在。標高約一八〇メートル。銅鐸と鏡の伴出遺跡として著名。検出地は大字名柄に隣接する大字増小字田中。旧名を用いて吐田郷遺跡ともよばれる。大正七年(一九一 ...

#171 ペギラさん:
> こんなサイトもあった。
> 全文は入会しないと見られないのが残念ですが、

2.ながらむら【名柄村】奈良県:御所市-日本歴史地名大系

3.ながらいせき【名柄遺跡】奈良県:御所市/名柄村-日本歴史地名大系

これらはいずれも日本歴史地名大系 第30卷 『奈良県の地名』平凡社 1981年
に掲載されています。

この本は、大きい図書館なら置いてあると思います。

実は、今日、図書館に行って、この辺りをコピーしてきました。(笑)
2月22日に図書館に行く前に、大きな書店によって、御所市の最新の地図(2012年発行)を立ち読みしてきました。

名柄と増の境界線は、#166の地図と同じようでした。

#169 にペギラさんが書いておられるように、銅鐸出土地点の池は小田中池という名前のようです。

御所市史 p61 には、この池の畔に建てられた「銅鐸出土地」の石碑の写真があります。

一方、インターネットで「葛城山および葛城古道  その7」
http://urano.org/kankou/katuragi/katura07.html
を見ると、石碑の写真がのっています。
そうして、“池は現在埋められて更地になっています。”とあります。
たしかに、Google Earth でみると、池は姿を消しています。

ところが、#173で紹介した2012年版の御所市の地図では、まだこの池があることになっています。
国土地理院の1993年の空中写真(これが御所地域に関しては最新の空中写真)を見ると、まだこの池がありますから、この池がなくなったのは比較的最近のことだろうと思われます。
名柄銅鐸の出土地点について、
A.「名柄」出土とする資料
B.「増」出土とする資料
の二つに分けて纏めてみました。

今までにこのコミュで紹介されたものに、2月22日に図書館に行って調べたものなども加えて整理したものです。

ただし、「銅鐸出土地名表」のデータは、ここでは省いてあります。

まだ他にも資料があるかもしれませんが・・・・。

A.「名柄」出土とする資料
(A1)高橋健自「南葛城郡名柄発掘の銅鐸及銅鏡」
『奈良県史蹟勝地調査会報告書』第六回 大正8年(1919)
p26:南葛城郡吐田郷村大字名柄小字田中

(A2)梅原末治『銅鐸の研究』増補版 資料篇 木耳社 昭和60年(1985)
p37:「吐田郷(はんだごう)銅鐸」:吐田郷村大字長柄小字田中六十番地

(A3)『御所市史』昭和40年(1965)
p60:吐田郷の名柄字田中(松木俊吉執筆)
p499:名柄は銅鐸出土地である。(池田末則執筆)

(A4)角川日本地名大辞典29『奈良県』角川書店 平成2年(1990)
p805:ながら 名柄 <御所市>
名柄遺跡があり、銅鐸と銅鏡が出た。
p1260:ながら 名柄 〒639-22
西部の小田中池は銅鐸・銅鏡の出土地として知られる。

(A5)「奈良県遺跡地名表」『奈良県遺跡地図』第3分冊
奈良県教育委員会 平成10年(1998)
p5:地図:16-B 対照番号:201 所在地:御所市名柄字田中60

(A6)『東京国立博物館図版目録』弥生遺物編(金属器)増補改訂
平成17年(2005)
p53:奈良県御所市名柄字田中(大和国南葛城郡吐田郷村大字名柄小字田中)


B.「増」(まし)出土とする資料
(B1)日本地名学研究所編『大和地名大辞典 続篇』昭和34年(1959)
p406:奈良県南葛城郡吐田郷(はんだごう)村の中で、「田中」という小字がある大字は、豊田・森脇・増(まし)の3つだけ。
名柄という大字の名前は出てこない。

(B2)日本歴史地名大系 第30卷『奈良県の地名』平凡社 1981年
p200:名柄遺跡 御所市大字増(まし)
銅鐸と鏡の伴出遺跡として著名。検出地は大字名柄に隣接する大字増(まし)小字田中。 
(B3)角川日本地名大辞典29『奈良県』角川書店 平成2年(1990)
p1261:まし 増 〒639-22 ・・・・・・名柄郵便局がある。

(B4)名柄郵便局の住所は、奈良県御所市大字増48−1。

(B5)池田末則編『奈良の地名由来辞典』東京堂出版 2008年
p206:「名柄」の項目に、“接続地の大字増は銅鐸出土地”。

【注】(A4)と(B3)とは、同じ書物である。
yahooの地図写真だと
池 埋まっていますね。

私も本屋へさっそく、

今時の道路地図って昭文堂ばかりなんですね。

知らなかった。

ここの境界は、どんたくさんの166と同じ。
私が図書館で見たのと同じ。

昭文堂が間違っていることがわかった。
niftyのゼンリン住宅地図サービスで
名柄郵便局あたりを210円で出力しましたら、
境界線は、郵便局の東側 30号線 です。

>昭文堂

私の間違い 「昭文社」です。(爆

ある程度 見えてきた。

そうです。
出土地は、「名柄」ではない!
そして、その場所は、昔からずっと

大字増小字田中60番地だ!!

「増」です。


「名柄」を出土地地名として使用した最初から間違っていた。
大正8年から、間違っているということです。

小田中池の堤 近辺は、増60番地あたりです。


#179 ペギラさん:
> 「名柄」を出土地地名として使用した最初から間違っていた。
> 大正8年から、間違っているということです。

はて???
大正8年時点では、南葛城郡吐田郷村大字名柄小字田中だった。
それが現在では御所市増になっている。
というようには考えられませんか?

私は、国土地理院に請求している大正年代の地図が届いたら、それをみて、名柄と下増との境界がどの辺りだったか見当をつけることが出来ないだろうかなと、地図の到着を心待ちにしています。


私の知人が、何年か前に名柄銅鐸の石碑を見に行ったことがあるとのことで、その時に撮った写真を送ってくれました。

第1図が石碑の写真。
第2図が説明版の写真。
第3図が、Google Earth による衛星写真。ここで?が石碑の場所。?が説明版の場所。(この位置については、おおよそこの辺りということでご理解ください。)

このように石碑と説明版は別々の場所にあったそうです。
そうして、池は既に埋め立てられていたそうです。

ところが、「葛城山および葛城古道  その7」というサイト
http://urano.org/kankou/katuragi/katura07.html
の最後に紹介されている写真では、?の場所に石碑と説明版が並んで写っています。

これからみると、石碑は比較的最近に引っ越したようです。


本日(2012/2/25)国土地理院から大正11年測図の「御所」の1/25,000の地図を送ってきました。

先日国土地理院の出先機関にこの地図を閲覧しに行った際に、このような地図の一部分だけなら、出典を明らかにした上で公表することは差し支えないということを教えて戴きました。

そこで、今回この地図の一部をここに紹介させて戴きます。

これでみると、
名柄銅鐸出土地点の南の方に「下増」。
「下増」の東に「名柄」。
「下増」の西に「上増」。
「下増」と「上増」の南に「増」。
となっています。

一見したところでは、銅鐸の出土地点は当時「下増」に属していたようにも見えます。

しかし、もしこの当時の「名柄」の領域が#166の境界線どおりだったとすれば、銅鐸出土地点は「名柄」だったということになりましょう。

この大正11年測図の地図だけでは、銅鐸出土当時この地点が「名柄」だったか「下増」だったか、はっきり判定することは、残念ながらできないように思われます。
166 の地図は、極めてお粗末なものです。
同じように、私が図書館で見てきたものも同じような
道路地図でした。

現状の区割りをnifty地図を加工したもので、
判り易くしました。

全体的に、道路地図は、ファジイなんです。

御所市の文化財課にメールしてみました。
返事は、あるでしょうかね。
銅鐸出土地点の現在の地名が大字増であることは確かですが、それでは以前はどうだったのか?
「名柄」と「増」の境界線に変更があったのかどうか?
これについての資料が御所市立図書館にないかどうか問い合わせてみました。

そうしたら、そういうことは名柄郵便局長さんが詳しいだろうということでしたので、名柄郵便局に電話しました。
そうしたら、「文化を守る会」の人に聞いてみるとのことでした。
暫くしたら郵便局長さんから電話があり、「『文化を守る会』の人に尋ねてみたが、やはりよくわからない。市役所に聞いてみたら。」というご返事でした。

市役所に対しては、ペギラさんがすでに問い合わせを出しておられるとのことですから、それの回答待ちということになりましょう。
今は丁度年度末で皆さん忙しいことでしょうから、回答までには少し時間がかかるかもしれませんね。

なお、名柄郵便局長さんのお話では、昭和50年に名柄郵便局が現在地点に引越したときには、その住所は増48−1であったそうです。

名柄郵便局のすぐ東側には、県道30号御所香芝線が南北に走っていますが、国土地理院の1975/03/02撮影の空中写真を見ますと、県道30号は名柄郵便局東側の交差点から北側だけがあって、南側にはまだありません。

それから後で、県道30号は南へ延長されたようです。

ペギラさんの#184の地図をみますと、「名柄」と「増」の境界線がおおよそ県道30号に一致しているようです。
県道30号の計画が策定された時点に、このような境界線になった可能性があるのかも・・・・。

>御所市の文化財課にメール

2月29日には、返信をいただきました。

>現在の地名では「御所市大字増」になります

ということです。

即日
ならば、どうして、多くの書物群は、「名柄」なのですか?
という内容で、再度 メールをしましたが、
今のところ 返信は、ありません。

かなり面白いものを見つけた!



奈良盆地歴史地理データベース
http://www.nara-wu.ac.jp/kodai/gis/index.html


http://www.nara-wu.ac.jp/kodai/gis/koaza/index.html


この地図の大字界、名柄が西に突き出してる!

でも、出土地は、大字増小字田中で間違いないだろう。

#187 ペギラさん、
大変面白い資料を見つけ出されましたね。

#181 で紹介した「銅鐸出土地」の石碑の写真を撮影したご本人と多分明日会えると思いますので、この地図上のどの地点に石碑が建っているのか、明日確認したいと思います。
このデータベースの大字界というのも、
名柄近辺、むちゃくちゃ なんですよね。

現在の地籍とは、違う。

どういうことなのか、

昨日、#181 にアップした「銅鐸出土地」の石碑と掲示板の写真を撮影した方にお会いし、それらの設置場所について改めてお尋ねしました。

これらの写真を撮影したのは2009年のことだったそうで、正確な設置位置はよく覚えておられない様子でした。

石碑の設置場所は、もと池だった場所を埋め立てたところにあったように思うとのことでした。

しかし、#181 の石碑の写真と、Google Earth とを見比べてみても、うまく話があうような場所を見つけることができないようです。

いずれにせよ、このような次第で、#181の第3図に?、?で表示した地点はどうやら間違っているようですので、一応取り消しということにさせて戴きたいと思います。

大変失礼いたしました。
御所市の文化財課様より メールをいただきました。

やはり、初めから「増」です。

今晩から、熟睡できます。(笑
#191 ペギラさん:

> やはり、初めから「増」です。

よかったですね。
ペギラさんの思った通りでしたね。

東博図版目録も、奈良県遺跡地図も、みんな間違っているということになりますね。

この銅鐸が見つかった当時は、吐田郷(はんだごう)村だったので、梅原末治『銅鐸の研究』では、「吐田郷銅鐸」という呼び方をしています。

「名柄銅鐸」というよりも「吐田郷銅鐸」という方が正しいということになります。

しかし、「吐田郷」という地名は、今はなくなってしまっているし、ふりがなをつけないと読めない・・・。
>しかし、「吐田郷」という地名は、今はなくなってしまっているし、ふりがなをつけないと読めない・・・。



確かに、読めない。「はくたごう」と読むな、私なら。(爆

しかし、
誰も、確認しなかったのだろうか?というのを今さら感じる。

池田さんから、やっと大きな声で「増」という感じですね。

みなさ〜ん!
大字増小字田中60
大きな声で叫びましょう!!!

ペギラさん、
久しぶりに名柄銅鐸の出土地の地名問題について書き込みします。

昨日(2013/10/06)、滋賀県野洲市の銅鐸博物館で、東博の井上洋一氏にお目にかかる機会を得ました。

その時に、
(1)ここに添付したゼンリン地図(現在時点の地図)
(2)高橋建自「南葛城郡ながら発掘の銅鐸及銅鏡」『奈良県史蹟勝地調査会報告書』第6回 対象8年3月 の抜萃
をお渡ししました。

そうして、
「この地図にあるように、名柄銅鐸の出土地は名柄ではなく増(まし)です。銅鐸出土時点の古い地図でもやはりこの地点は増であったことを御所市文化財課に確認して貰っております。詳細は御所市文化財課にお問い合わせください。」
ということを申し上げました。

井上洋一さんは大変驚かれて、「これは文化庁の方にも言わなければならないな。」ということでありました。

ただ、時間が余りなかったものですから、最初にこの問題を言い出したのがペギラさんであるということなどを井上洋一さんに申し上げるような余裕はありませんでした。

そこで、このコミュの#161以降のこの問題に関するやりとりをそのままファイルにして、東博の井上洋一さん、それから御所市文化財課の方にお送りしたいと思うのですが、いかがでしょうか?

ペギラさんのご承諾が得られれば、そのようにしたいと思うのですが・・・・。

【注】(1):
このゼンリン地図は、#181(2012/2/25)に添付の写真と一緒に私の知人から頂戴したものです。

【注】(2):
この資料には、
“発掘の場所は県下南葛城郡吐田郷村大字名柄小字田中に属し、・・・・”
とあります。
>>[194]

どうぞ、どうぞ。
どんたくさんのご助言のおかげですから。

講演は、どうでしたか?
許されるならば、行きたかったのですが、残念です。
>>[195]

ご返事有り難うございました。
それではこの一連のやりとりをファイルにして、井上洋一氏と御所市文化財課に送らせて戴きます。

10月6日の銅鐸博物館での井上氏の講演は、野洲市長のご挨拶に始まり、会場に入りきれないほどの大盛況でありました。

その中で、井上氏は名柄銅鐸のことに触れ、「この銅鐸は重要文化財に指定されているが、実はさきほど(どんたくから)『これは字名が違う。名柄ではなく増(まし)という風なことらしい。』という風なことを教えて戴いた。これは早速文化庁の方にも言わなければという風に思うのだが・・・。」というように言われました。

井上氏のおかげで、この問題は具体的に動きはじめるのではなかろうかと期待しております。
>>[196]

努力した結果が実りましたね。

        播磨國住人 韃靼人
このたび「小銅鐸出土地名表」の内容を更新しました。

そして、これを、ペギラさんのホームページに掲載して戴きました。

「古代の謎へ <銅鐸>」
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kodai.html
にアクセスして、
[銅鐸出土地]−[小銅鐸出土地地名表]
とクリックしてから、[納品書]の中を見てください。

今回ホームページの体裁を新たにし、細かい点にまで心を配って掲載してくださったペギラさんに感謝・感謝です。
HPのURL 変更いたしました。

http://doutaku.saloon.jp/kodainonazo/index.html

旧niftyはすでに閲覧不可
新nifty のHPは、近い将来 niftyとの契約を解除しますので
閲覧不可となります。

>>[200]

久しぶりに拝見させて頂きました。
貴重な資料ばかりです。
ご苦労様です。
いつまでも残しておいてほしいHPです。

    播磨國住人 韃靼人

ログインすると、残り162件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

銅鐸 更新情報

銅鐸のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング