ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

【 聖書の真ナビ 】コミュの民数記

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
こんばんは!安藤修一です。最近見たテレビ報道によれば、日本で結婚式が一番多いのは11月なのだそうです。見ていて、「へー!」と思いましたが、そう言えば確かに私が責任を持っている鶴岡の結婚式場でも、今年は10月と11月が一番忙しかったでしたね!私の場合、ほとんど全てのカップルたちから教会においでいただき《結婚講座》を受講して戴いていますので、スケジュール上、半端でない多忙を極める毎日でした。「ジューン・ブライド」(6月の花嫁)などと言われますが、日本の6月は梅雨の季節でベトベトするせいか、避けられる傾向があるのだそうです。お陰で大好きな秋の海釣りにもほとんで行けませんでした。『残念だったナー!』なんて、そんな事を思っているうちに今年の忙しさもようやく峠を越えたようで、残すは教会のクリスマス諸行事だけという感じになりました。


 さて、ところで聖書の真ナビ(学び)に入りましょう!今日は旧約聖書の第四番目の本である「民数記」です。民数記の歌は、下記の通りです。いつもの鉄道唱歌のメロディーで歌ってみてくださいね。 ? 《民数記》  「人口調査の民数記 荒野(あらの)の民はみなほろび   カナンにはいるは従順な ヨシュアとカレブのふたりです 」  では、前回のレビ記の復習をしながら、民数記のナビゲーション(道案内)をしてみましょう。レビ記について理解のある方は、【民数記の解説】に飛んでも構いません。 【レビ記の復習】   レビ記は、神様が「聖なる御方」なので、その所有とされた人々にも「聖」であることを望まれる御方であることを教えている本です。 どういう事かというと、もし、神の所有とされた民が、この俗の世の人たちと全く同じようなレベルの生活をし、何一つ変わらないような肉的な生活をしているとすれば、《神の偉大さを証詞する》ことが出来なくなるからです。「聖さ」こそは、神の民であることの徴なのです。クリスチャンは、どこかで《生き方の違い》や《神と出会った者としての価値観の違い》などを神を知らない人々に見せてあげなければならないのです。そういう意味において、レビ記は、聖い生活の必要とそのあり方について教えている本だと言えるのです。(「聖」の反対語は、汚れや罪ではなく「俗」だからです。) 【民数記の解説】  民数記という名前は、この書の中で人口調査が2回も行われていることから、そう呼ばれるようになりました。元々のヘブライ語の名前は「荒野にて」です。それは、この書の中の事件のすべては荒野に於ける出来事だからです。  



すなわち、出エジプト記した民は紅海を渡り、シナイ半島の先にあるシナイ山に行き、十戒を戴いたりしながら、約一年のあいだ山の裾野に住んでいました。ここまでの約一年間の記録が出エジプト記とレビ記に書いてある訳です。 【要約】  民数記は大きく2つに大別することが出来ます。 1 11日間の旅=1〜10章(シナイ山からカディシュバルネアまで)   シナイ山を出発した日から、11日間かかって約束の地の南でヨ  ルダン川の東岸にあるカディシュ・バルネアまで来たのが、前半  の旅です。(申命記1章2節参照)  「ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。」                            (申命記 1章2節)  神への奉仕(民数記1章〜10章)  ?戦争での奉仕(1章)  ?野営での奉仕(2章)  ?幕屋での奉仕(3〜4章)  ?聖い営での奉仕(5章)  ?生涯に於ける奉仕(6章)  ?献げものに関する奉仕(7章)  ?祭司職に関する奉仕(8章)   ※7は完全数なので、神への完全な奉仕の仕方についての教え 2 38年間の荒野をさまよった旅=11章〜36章   後半の旅は、せっかくカナンの地の入口まで来たのに、カナンの  地へ斥候に出た者たちの不信仰な報告によって民全体が影響を受  けて恐怖心にかられ、逆戻りしながら、結局は38年も荒野をさ  迷い40年目に入ることになるのです。(申命記1章3節を参照)  「第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じら  れたことを、ことごとく彼らに告げた。」(申命記 1章3 節)   この不信仰の罪に対して神は怒り、信仰的な報告をしたヨシュア  とカレブ以外のすべての《出エジプトした時に生きていた民は全  員》は、約束の地に入ることを許されませんでした。あの偉大な  指導者モーセでさえも民の前で、「神を聖なる者としなかった。」  と言われ、ネボ山頂から約束の地を眼下に眺めながら、入ること  を許可してもらえず、無念の思いの中で死んで行かなければなら  ないのでした。



  民のつぶやきでの悲しい失敗(民数記11章〜20章)   ?神が導かれる道に対する不満のつぶやき(11章1〜3節)   ?神が与えた食べ物に対する不満のつぶやき(11章4〜6節)   ?神が与えた指導者に対する不満のつぶやき(12章)   ?約束の地に対する不満のつぶやき(13〜14章)   ?神に裁決に対する不満のつぶやき(14章39〜45節)   ?神の任命に対する不満のつぶやき(16章〜17章)   ?水の乾きに対する不満のつぶやき(20章2〜13節)    ※7は完全数なので、神への完全なつまづきの罪を意味する。   ・ 勝利(民数記21章〜36章)   ?ネゲブ地方のアラデの王に対する勝利(21章1〜3節)   ?シホン王とオグ王に対する勝利(21章21〜35節)   ?預言者バラムはモアブ王バラクに味方しない(22章〜25章)   ?第2回目の人口調査(26章)   ?神の民の嗣業に関する律法(27章)   ?ヨシュアが大指導者モーセのあとを継ぐ(27章)   ?献げ物と誓願に関する命令(28章〜30章)   ?ミデアン人に対する主の復讐を果たす勝利(31章)   ?約束の地に入る為に民族的意思統一する準備(32章〜36節) 結論 民数記とは、どのような本か?  今日は最後に、民数記をどのような気持ちで読めばよいかについて話しましょう。それは、民数記を創世記から出エジプト記、レビ記の続きの物語として読むことです。つまり、  創世記によれば、人間は植物でもなく動物でもなく、神の為に造られた特別な生き物として創造されました。特に《神を礼拝する》という「特別な目的」の為に造られた生き物でした。その神を礼拝するという特別な目的を達成させる為に、わざわざ人間の霊と心を、神の形に似せて造られたのでした。ですから不思議なことに、この世で神の形に造られた人間だけが「神」とか「永遠」とか「宗教」「道徳」「真理」などの概念を理解することが出来るのです。  ところが最初の人類であるアダムとエバは、悪魔が化身した蛇によって誘惑され、《人間である自分を神としてしまう》という恐ろしい「偶像礼拝の罪」を犯してしまい、永遠の神との関係が切れて《自分が何のために存在しているかさえも理解できない》無知と混沌の状態に堕落し、人間は創造主である神の為に役立つためではなく、自分自身のため自分を喜ばせるために生きる生き物になりさがってしまったのでした。つまり、礼拝の生き物から落第し、自分を神とする怪物に成り下がってしまったのです。  ですからその結果、今でも人間は《存在しているこの世のすべての物を指さして》即座にその「存在目的」を言い当てることが出来るのに、事自分に関してだけは、自分が何の為に存在しているかさえ全く分からなくなってしまったのです。あなたは自分が何のために生きているか分かっているでしょうか?それは、神と人間がワンペア(ワンセット)で造られたので、ペアの一方の神が理解できなくなったとたん、もう片方の自分の存在理由も同時に分からなくなったのです。このように人間が堕落してしまったのは、アダムとエバの二人だけでなく、その子孫の心の中の原罪(原罪=無意識に心が悪に傾いてしまう性質)を引き継いだ全人類が堕落し、神も自分も分からなくなったのです。そして実際に無目的で適当に人生を生きるようになっているではありませんか。




ですから、このままでは人間は永遠に、創造主である神に戻ることが出来ません。全人類が永遠の存在である神から離れてしまい、現代版、失われた迷子の羊の存在となったのです。  そこで、神は全人類が滅びると決まった中で、「その滅びから一人でもいいから救い出してあげたい。」と考えられ、御心にかなった人を《選び》、選んだ人に《信仰を持たせる》事によって義として、もう一度堕落から、神を礼拝できる人間に回復させ、神の役に立つ特別な生き物に回復させようとされたのです。簡単に言えば、これが創世記です。創世記に見る人間の姿は《堕落》で、神の姿は《選びです。》  次は、その堕落し神から遠く離れてしまった人間を近づけ、本来の人間に回復するために神が用いられた方法が、贖いという方法だったのです。その堕落人間を贖うために、神の子が《いけにえの小羊》となって、自ら人の罪と罰を引き受けて十字架に付けられて、《身代わりに死ぬ》という贖いこそ、神が堕落した全人類を救うための方法だったのです。この《遠く離れた人間》こそ出エジプト記の中の人間の姿であり、《贖い》こそ出エジプト記の中に見る神の姿なのです。  更に、こうして世から贖った(俗の世であるエジプトから脱出した)人々を、神は本来の創造の目的であった《礼拝》へと招かれたのです。ですから神は礼拝を教えるためにシナイ山に民を連れて行ったり、礼拝のための幕屋を作ることを命じられたのです。  当然、神を礼拝する人は「聖く」なければ礼拝できませんから聖められる必要がありました。この《礼拝》に招かれた姿こそレビ記に見る人間の姿であり、《聖め》ようとする姿こそ、レビ記に見ることが出来る神の姿なのです。    最後に、神は礼拝する聖められた民を約束の地へ連れて行こうとしましたが、《贖われて信仰によって聖い民に回復された》とは言っても、人間はまだまだ自己中心でかたくなで、色々な文句を言って神につぶやき、反抗的で、また逆にある時はカナン人を恐れて《不信仰》になり、約束のカナンの地を目の前にしているのに、入国しようとしませんでした。そして、その結果、なんと11日で着けるものを38年間も無駄に荒野をさまようことになってしまったのです。この限りない《不信仰》こそ、今日の民数記の中に見る人間の姿であり、そんな不信仰な者たちを投げ出さず、忍耐を持って訓練し、ご自身に仕えさせ《奉仕》する者に育てようとされたのが、民数記に見る神の姿なのではないでしょうか。




※神に仕え奉仕することこそ(サービス=礼拝)まことの礼拝ではありませんか?  このように創世記から出エジプト記、レビ記、民数記と、その物語とその各巻の主題(下記の【おまけ】にあるように、各巻に見ることが出来る《人間の姿》と《神の姿》)をしっかりと押さえながら読むことが大切です。  もしそうでなく、他の本から切り離し《民数記単本》では、堕落した人類を回復させようとしておられる神の救いの全体像を部分的にしか捕らえることは出来ません。また、正しく各書物の意味を理解することも出来ません。  聖書は、どのページにも《人類を救おうとしておられる神の子イエス・キリストの贖い》が、金太郎飴のように描かれているのですから、イエス・キリストの成し遂げてくださった完全無欠な救いと矛盾するような形で聖書を読み、理解してはいけません。身を滅ぼすもとです。   「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書   の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜな   ら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動か    さ れた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 しかし、イスラエ   ルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、に   せ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに   持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえし   て、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」                      (?ペテロ 1章20〜2章1節)  


どうぞ聖書自身が禁じている異端のキリスト教を信じてはいけません。(今から約30年前に、私は統一協会の若者たちにその過ちを気付かせ、10人くらい脱会させ全員を正しいクリスチャンに導いた経験があります。私が彼らに正しい聖書の読み方を教えるまで、彼らは自分たちが間違った私的解釈をしていることに気づくことが出来ませんでした。悪魔から目を塞がれている哀れな人たちだったのです。私はキリスト教で洗脳したのではありません。聖書の正しい読み方を教えただけです。そうしたら、幸いなことに全員、彼らは自分の私的解釈の過ちに自ら目が覚めました。ですから、その他「何とかの塔=何とかの証人」とか、「末日なんとかキリスト教」というようなキリスト教の三大異端に惑わされないでください。)  私たちは、たとえ難しく思えても、神の聖霊が教えてくださる正しいな読み方が出来るように正統的なキリストの教会の牧師から教えてもらわなければなりません。誰でも最初は、聖書は難しく、分からないものなのです。聖書の中の、この人が良い例です。  「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」(使徒 8:28〜35節)  この宦官のように、あなたも「あっ」という一瞬のうちに聖書全体を理解できる時が必ず来るのです。保証します。全てのクリスチャンがこの同様の体験をしているからです。  



皆さんはきっと私が難しいことを言っているように聞こえるかも知れませんが、神はご自分の救いの努力が無駄になることがないように、聖書を私的解釈をすることを固く禁じておられるのです。どうぞ、イエス・キリストの十字架の救いの色々な面が、創世記から申命記へと分割されて書かれていることを理解し、発見して戴ければ幸いに思います。神の祝福と救いが聖書を読まれる一人一人の方々にありますように!アーメン! 【おまけ】 モーセ五書に見る《罪深い人間の姿》と《神の姿》について 書 名      《人間の姿》     《神の姿》 創世記     = 堕落         = 選び 出エジプト記  = 神への接近      = 贖い レビ記     = 礼拝         = 聖め 民数記     = 不信仰        = 奉仕 申命記     = 服従         = 教育                     ではまた。安藤 修一                   2007.11.30日 AM3:00

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

【 聖書の真ナビ 】 更新情報

【 聖書の真ナビ 】のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング