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【 聖書の真ナビ 】コミュの出エジプト記

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まだ環境が整っていないため見やすく校正をしてないのでゆるしてください。        



【 聖書の真ナビ (学び)】 こんばんは!安藤修一です。今回も遅れてしまいました。申し訳ありません。1ヶ月以上風邪を引きっぱなしで「柿もぎボランティア」にも行けませんでした。 今日は、旧約聖書の二番目の本である「出エジプト記」です。  出エジプト記の歌は、下記の通りです。鉄道唱歌のメロディーで歌ってください。 ・ 《出エジプト記》「エジプトあとにカナンへと 導くモーセは神の人その手に持ってる神のつえ 海をも分けて進みます」  では、前回の創世記の学びを復習しながら、出エジプト記の学びのナビゲーション(道案内)をしてみましょう。(※創世記について理解のある方は、【出エジプト記の解説】に飛び級して構いません。) 【創世記の復習】 創造主である神から造られたアダムとエバは、《神以外の物を神とする過失》、つまり神に対する《偶像礼拝の罪》を犯し、エデンの園から追放されてしまいました。エデンとは、「喜び、歓喜」という意味でしたが、神を喜び、自分自身を喜び、家族や友人を喜び、この世をも心から喜ぶことが出来ました。《神との調和、自分との調和、自然や隣人との調和》の全てに於いて「完全な調和」が取れていたからです。そこには、《完全な幸せ》がありました。そこは弱肉強食も抑圧や搾取などありませんでした。そこにあったのは《完全な愛と福祉の世界》でした。結婚に当たっても、《歓喜の声》を発するほど神がくださった配偶者を喜ぶことが出来たのでした。夫婦で裁き合ったり憎しみ合ったり、別居や離婚など考えられない世界でした。  しかし、罪を犯してからの彼らは、エデンの園から追放され、エデンの東に住むようになりました。有名なジェームス・ディーンの「エデンの東は」という映画は、誰よりも愛を追い求めながら素直になれず、喜びの生活を横目に見ながら、突っ張って生きてしまう悲しい結果を人生を送るようになった「堕落後の人間性」を描いた映画だと思います。「喜びのエデンに戻れなくなった人類」そんな意味から作られた映画だと思います。そのような隠れた意味があることを知らないで、すでに見てしまった人は、そのような観点から、あの映画をもう一度見直してみると映画を10倍楽しむことが出来るかも知れません。  また楽園と言われるエデンの園では、《生命の木の実》を食べることによって、《生命という基準》で「人を生かす」ことが出来ましたが、《善悪の木の実》を食べることによって堕落してしまった堕落後の人間は、《善と悪という基準で生きる》ようになってしまったので、自分に関しては罪責感によって苛まされて平安な心を失った日々を過ごし、他人に関しては裁きや抑圧を加えるような人間になってしまい、争いの絶えない人間関係の世界に変貌させてしまったのです。それが今の私たちの生きている《この世界の偽らない現実》です。  しかも現在に至るまで、《悪魔にだまされて迷い込んでしまった善悪によって生きる世界》であることに目が覚めず、人類はこの決定的な過ちに今でも気付かず、学校の先生も両親も《善悪という基準》で私たちを教育したではありませんか?『頭の良いことは善で、頭の悪いことは悪いこと、美しいことは善で醜いことは悪いこと、強いことは善で弱いことは悪いこと、五体満足なことは善で不満足なことは悪いこと』というように。こうした教育することによって今の《強い者が得をし、弱い者が損をする》ような、弱さを持つ者が虐げられるような、肩身の狭い思いをするような、強い者がのさばるような「弱肉強食の世界」を築きあげてしまったのです。弱さを持つことはそんなに悪い事なのでしょうか?どうして、弱い者が損をするような、弱い者がその弱さの故に生きていけないような世界になってしまったのでしょう。また、誰がしたのでしょうか?今なお悪魔に欺されている私たち自身ではありませんか?  しかし、創造主なる神が初めに目指していた地球や世界は、《愛と福祉の世界》だったのです。どんなハンデのある人でも生かされ、安心して暮らせる世界だったのです。強い者が弱い者を守る世界だったのです。 ですから、神が愛であることを知っているクリスチャンたちだけでも、《全ての人間を正しく平等に見る目》と《くすぶる灯芯を消すこともなく、痛んだ芦をを折ることもない》ほどに「神の優しい御思いで人間に接すること」が出来なければならないと思います。そういう意味で、真の福祉とは、本物のクリスチャンたちにこそ出来る業だと思うのです。何故なら、   「寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその   善行に報いてくださる。」(箴言19章17節)  と、教えられているからです。 「相手に報いを期待しない、たとえ裏切られても相手を恨むこともなく、途中で奉仕を挫折することもなく、ただ神にのみ報いを期待する信仰に生きているクリスチャンだけが、真の福祉に生きることができるからです。神の民こそ、その福祉の真の資格を有している者だと言えるからです。そんな偉大な愛と福祉の精神に生きたクリスチャンたちこそ、ナイチンゲールであり、シュバイツアーであり、沢田美樹であり、マザーテレサなのではないでしょうか。  こうして地球全体が堕落し、神の目に価値が無くなり、神の為に役に立たなくなった人類は、神を失望させてしまい《ノアの洪水》によって滅ぼされることになったのです。しかし、人類の堕落の深さは、大洪水によっても御破算でゼロの帳消しになることはありませんでした。ノアの箱船に入った8人のノアの家族から、前と同じような堕落した世界に戻ってしまったのです。これは、もはや人類の中には行ないによって神の前に堂々と立つことの出来る力を持つ人は一人もいないことを意味しておりました。ですから、神から「善を行う者はいない。一人もいない。」と落胆されるような駄目な世界になってしまったのでした。 「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ 3章10〜12節)  そんな中で、《無から有の世界を産み出す》ことの出来る想像主なる神は、行ないにはよらず、行ないとは別の方法で、人間を神の前に堂々と立つことが出来る方法を編み出そうとしておられました。それが、《信仰によって救う》という方法だったのです。これは、奥義中の奥義でした。この神の編み出した救いの事を、難しい言葉で「信仰による義」と言います。 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス.キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ 3:21〜22節)   こうして選ばれたのが、創世記12章に始めて登場するアブラハムでした。アブラハムは、行ないによって神の前に立てるような完全な人間ではありませんでしたが、しかし《神に対する従順な信仰においては抜群に優れている人物》でした。神はアブラハムとその子孫を用いて、自分から離れ神から遠く離れてしまった人間を一人でも多く自分の所に引き戻そうとされたのです。このようにして《神の存在=紙が居られること》と《神の救いの方法=人間が救われる為の方法》を全人類に伝える為の共同体として選ばれたのが、アブラハムの子孫である《ユダヤ民族》でした。  ところが、神の救いは一気に全世界には伝わりませんでした。アブラハムの息子のイサク、孫のヤコブ、ひ孫のヨセフと続くユダヤ民族以外には知ることが出来る人はいなかったのです。こうして、創世記の時代が終わり、モーセの出エジプト記の時代が来ても、ヨシュア、士師たち、王たち、預言者たちの時代になっても、何千年たっても神の救いはユダヤ民族から一歩も出ることはありませんでした。 何故なら、それは、ユダヤ民族の不信仰と勘違いによるものでした。ユダヤ人たちは、創造主なる神を、自分たちだけ《一民族の神》だと思い込んでいたのです。そして、神の救いをノドから手が出るほど待ち望んでいる全世界の人たちを「神を知らない異邦人」とさげすんでいたのです。 これは、まるで漫画と言わなければならない《笑うに笑えぬ状態》でした。ちょうど、癒してあげなければならない可愛そうな病人が自分の目の前にいるのに、医者としての自分の努めを果たそうとせず、その自分が救うべき多くの病人たちに対して「医療の何たるかも知らない愚かな罪人たち」と、さげすみ、医療を放棄していたのです。これでは、何千年たっても神の救いは、全世界の果てにまで届くはずがありません。こうして神の期待を裏切ったばかりでなく、それどころか、神が最終的手段としてお遣わしになった《救い主イエス》を妬みの故に、無実と判りつつ無理やり十字架に付けて抹殺したのです。 遂に、このような悪業の果てに、ユダヤ民族は期限70年、ローマ軍の将軍ティトスによって永久国外追放になったのです。それ以来、約2,000年間ユダヤ人は、《国家なき民》として世界中を流浪するのです。そのような「神の子イエスを十字架に付けた悪い民族だ!」という理由でヒトラーから強制収容所で民族的虐殺行為を受けることが正当化されたのです。このようにユダヤ人による神の《救い伝達の中断》は、イエス様の預言が成就する1995年にイスラエル国家が誕生するまで続いたのです。 【出エジプト記の解説】(ここからが今日の分です。)  出エジプト記は、創世記の続きの本である。しかし、創世記の終わりから出エジプト記の初めまでには、約350年という空白の期間があるのです。 つまり、アブラハムの子孫であるユダヤ民族は、ヨセフがエジプト王朝の総理大臣だった時にエジプトに移住してから、はや450年過ぎようとしていたということです。 どんなに住み心地が良かろうと、神の民が住むべき所は、悪魔が支配する《この世=エジプト》ではありません。神の民は、確かにこの世に住んではおりますが、心の中まで《この世の民》になってはいけません。ところが、モーセの時代の神の民は、神の所有の民でありながら、悪魔が支配する世、エジプトに於いて《この世の王の奴隷》となりさがっておりました。  聖書で「エジプト」は、常に《この世》を指しております。「この世」とは、《聖》という言葉の反対語である《俗》を意味しています。つまり、神の民は神の所有であるにも関わらず、その神の《聖さ》を失い、この世の人々と何にも変わらない《世俗化》してしまっていたのです。特に、神の民でありながら、神を礼拝する自由さえもを奪われていたのです。 神の民は《礼拝の民》でありながら、神に近づくことが出来なかったのです。神を礼拝する正しい方法や順序さえ知らなかったからです。そこで神は、モーセを用いて神の民をご自分の方に近づけようとされたのです。  ですから、超簡単に言うと、出エジプト記という本は、=《神の民をご自分に近づけようとされたこと》について書かれた本である。ということです。  つまり、出エジプト記は、全部で40章まであるのですが、1 前半の1章〜23章までで、神は「モーセのエジプト脱出物語」という歴史上の事実を読むことを通して、神の民を《この世の王の支配》から救い出し、ご自分の住んでいる聖なる国《カナンの地》に物理的に(距離的に)近づけようとされた。ということについて書いているのです。また、脱出時における道中の様々な事件や出来事を通して《神に近づく為の方法や順序や注意点》を物語を通して教えようとしている本、…それが出エジプト記だとい  うことということです。さらに、 2 後半の24章から終わりまでは、《物語風》にではなく、神を礼拝する為に実際に必要な神の律法に従った「幕屋の中にある様々な器具の制作指示」を通して、神に近づく為の方法と順序を神は教えようとしてされたのです。そして、その礼拝の方法と順序を教え、訓練することによってご自分に霊的に近づけようとされたのです。  ※結論的に言えば、出エジプト記という本は、神の民を   《前半=物理的に》、(物語を通して)次に   《後半=霊的に》、(律法による調度品製作を教えることを通して)神に近づけようとした本であるということです。出エジプト記が、大きく2つに分かれていることと、その前半と後半の主題が、「共に神に近づけようとしている方法」について書いていることを理解して頂けたでしょうか。  前半の物語の方は、皆さんが実際に読めば、私の言っていることを理解していただけると思いますので、簡単なアウトラインと「幕屋の中の礼拝のための器具の製作」の記事について解説していきたいと思います。 1 前半(1〜23章)=【物語を通して神に近づく】 ・1〜2章(奴隷としての労働) ・3〜15章21節(神の贖いの御業) ・15章22〜19章(神の民に対する教育) ・19〜23章(神への献身) 2 後半(24〜40章)=【礼拝の調度品製作を通して神に近づく】  「調度品名」  = 象徴的意味   ? 予型的意味1.青銅の祭壇 = いけにえによる贖罪 ?キリストの贖罪         (出38:1〜7)     (ヨハネ1:29、36)         (出27:1〜8)         2.青銅の洗盤 = 霊的新生      ?聖霊による新生         (30:17〜21)      (ヨハネ3:3〜8)         (38:8) 3.パンの机  = 霊的生命の維持    ?生命のパンなるイエス         (25:23〜30)      (ヨハネ4〜6章)         (37:10〜16)   4.七つの燭台 = 霊的照明       ?世の光なるイエス         (25:31〜40)      (8:12、9:7、9:39)         (37:17〜24)      「わたしは世の光」                      (盲人に光りを) 5.香の壇   = 執成しの祈り     ?主に御名による祈り         (30:1〜10)      (14:13〜14、15:16)         (37:25〜28)      (17:大祭司の祈り) 6.あかしの箱 =契約により神に近づく事 ?神に近づく基なるイエス         (25:10〜16)      (19章)         (37:1〜5)          7.贖いのふた  =神の臨在と生命  ?なだめの供え物イエス         (25:17〜22)  と生命を与える聖霊         (37:6〜9)      (20:22聖霊を受けよと                     息を吹きかけるイエス) 結論 このように、神を礼拝する幕屋の中には、様々な調度品が必要であった。神の民は、神の言葉どうりに精巧かつ厳密に調度品を制作する必要があった。それには、堕落した罪人が神に近づく為の霊的な意味と目的があったからである。そして、その旧約時代に於ける《幕屋の調度品を通しての礼拝》は、新約時代に於ける《イエス.キリストを通しての礼拝》雛型(模型)であったからである。  すなわち、イエス・キリストによって神に近づくことこそ《本物の道》であり、イエス.キリストの雛型である調度品によって神に近づく方法は、本物の《模型の道》に過ぎなかったのである。 つまり、旧約の「約」は、古(旧)い神との約束の事で、新約の「約」こそ、神と人間とが近づく為の新しい「約束」の意味であることが分かっていただけると思います。 追伸 どうぞ、旧約聖書の出エジプト記の記事を読みながら、新約聖書のイエスの救いを頭に描けるようになったら一人前の「聖書研究者」と言えるのかも知れませんね。聖書を読むのが初めての方は、私が分かりやすく解説したつもりの事でさえ、チンプンカンプンかも知れませんね。それでもどうぞ続けて聖書を読み続ける努力をして頂きたいと思います。必ず必ず、そのうちに分かるようになるからです。誰にとっても最初は聖書は難しいものなのです。かく言う私もそうでした。その難しさに負けないで、めげないで、むしろ内容を理解しようとせずに、内容など分かっても分からなくても良いから、心に感じた言葉を探すように読み続けてくださる様にお願いしたいと思います。神があなたの目を開いて、神の救いの奥義の全てを理解させてくださる日が、近いうちに来ることを固く信じています。ではまた。                  安藤 修一                  2007.11.17(土)AM3:40

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