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保守言論人の実態ー西尾幹二論コミュの第13弾 ロシアが侵略した“日本の領土”樺太の喪失問題を、“反米屋”西尾幹二は、何とロシアを非難せず英米に責任転嫁する。これはKGBの工作への同調ではないか。

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西尾幹二の「つくる会」中学歴史教科書は、歴史を歪曲・捏造して、ただやたらに「反米」をアジ
るトンデモ本だが、その結果は、日本のロシア属国化をススメる、KGB推奨の「ロシア製教科書」となっている。次の記述は、その一例にすぎない。

   「アメリカやイギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと明治政府に警告してきた。・・・明治新政府はロシアとの衝突を避けるために、1875年、ロシアと樺太・千島交換条約を結んだ」(200頁)。

この記述がなぜ虚偽になるのか。ロシアの樺太侵略と日本の“恐露病”とが、日本の“固有の領
土”である樺太の領土喪失の主因だが、それらが意図的に隠蔽されて、記述されていない。

1、「川路‐プチャーチン」の下田会談は、ミュンヘン会談の十九世紀版
 もともとの原因は、1855年2月に締結された下田条約で、日本の次席全権であった川路聖謨がプチヤ―チンに騙され、ロシア人入植者が一人もいない樺太を、「日露雑居の地」と“日露共同主権の地”と定めたことが、幕末・明治初年頃からの、ロシアの樺太侵略の本格化を、「国際法上の侵略」とできない情況にしてしまった。一般ロシア人の樺太入植は、下田条約の二年後の1857年であった。
「ロシア人との雑居」は、ロシア語では、「ロシア軍との雑居(ロシア軍の進駐)」であるのを知らなかった「最悪の外交官」川路聖謨が、国土防衛を自壊に至らしめた張本人であった。“ロシアとの共生”論など、ロシアの対日侵略の幇助にすぎないが、川路聖謨とは、この対露一方的敗北外交の嚆矢であった。
この意味で、「川路ープチャーチン」の下田会談は、1938年9月の、英国首相チェンバレンとナチ・ドイツの総統ヒットラーとのミュンヘン会談の、(約八十年早い)十九世紀版であったといえよう。チェンバレンがヒットラーに、チェコのズテーテン地方を割譲したことが、ドイツは半年後にチェコ全土を侵略できたが、同様に、川路が樺太を「日露共同主権の地」としたことが、その二十年後の1875年に樺太のロシア領化になったのである。川路は、まさしく、「東洋のチェンバレン」であった。

2、“対露防衛の参謀本部”たる会津藩の消滅と西郷隆盛の台湾征伐論
――日本の樺太放棄の主因
 明治新政府が、軟弱にも、樺太放棄に傾斜していく主因は、むろん、徳川幕府の崩壊を好機とばかりの、小部隊ではあるがロシア軍の乱暴狼藉という“侵略”である。だが、日本側にも問題があった。
 第一は、江戸幕府時代、対露防衛を担当した、その参謀本部でもあった会津藩が戊辰戦争において完全消滅するという事態となり、この結果、日本から、樺太防衛に関するすべての外交ノウハウも意志そのものも空中分解したからである。
 第二は、新政府は薩長からなり、特に鹿児島出身の西郷隆盛の存在は、その樺太防衛にとって弊害はなはだしいものであった。なぜなら、寒いところが嫌いで暑いのが好きな西郷は、気候からだけでも樺太放棄に立ち、加えて、米作のできる台湾に眼をつけていた。台湾は“化外の地”といえども清国の主権下にあり、その領有問題と、固有の領土である樺太とを天秤にかけるなどとは、暴論であったが、「田舎者」西郷隆盛にはそんな国際感覚・国家意識など皆目なかった。
 1874年5月には、日本政府は台湾征伐を敢行している。それは、榎本武揚による、翌年の1875年の樺太放棄に一直線に関係していた。だが、間宮海峡の名前においても、四千名の日本人居住者においても、樺太は日本の領土である以上、死守以外の選択肢はない。台湾は、確かに、入手すれば、米の生産が期待されるが、外国である。かくも異次元の双方を二者択一するところに、トロツキー的な「外交音痴の革命家」西郷の欠陥が浮き彫りになっていよう。
 さらに開拓次官の黒田清隆(鹿児島、樺太放棄建白書は1873年5月、74年8月長官)にしても、“恐露病”からの樺太放棄論であった。西郷らの征韓論の台頭も、樺太放棄論を正当化した。樺太防衛論者の丸山作楽(外務大丞)のような、偉大な人物を重視する力量は、新政府には無かった。また、寒冷地を嫌う薩摩藩出身者が政府高官となった明治新政府の歪さが、樺太防衛にとって致命的な不幸であった。寒冷であろうと、父祖の地は命を賭け守らなくてはならない。
 第三は、ロシアについても、国際情勢についても、明治新政府は、余りに無知すぎた。日本の樺太防衛に関して、英米は同情的であったし、協力の容易すらあった。だから、英米は、日本の恐露病と対露戦意の欠如に、むしろ、落胆したのである。ロシアは、第二次バルカン戦争の準備で、本格的な樺太侵攻・軍事占領の意図も戦力もなかった。しかし、日本は、1877〜8年の露土戦争が今にも始まり、極東どころではない、ロシアの内情にまったくの無知であった。代わりに、台湾とか朝鮮半島とか、西郷隆盛に代表される“酒酔い運転的な外交”の迷走において、ロシアへの全面譲歩が得策との錯覚が広がっていった。

3、アラスカを買いロシアの南下を防止した米国(1867年、720万ドル)、ロシアの極東と中央アジアへの膨脹阻止に全力をあげていた英国――明治元年から明治8年の国際情勢
 ロシアは、クリミヤ戦争に敗北した後、愛琿条約(1858年)と北京条約(1860年)で、清国から
黒竜江省北半と沿海州とを奪取した。そして、1861年に対馬を軍事占領した。英国の東洋艦
隊が対馬を奪還してくれたように、英国は、日本の領土へのロシアの侵略には全面対決の姿勢は
明確であった。だが、新政府には、勝海舟のような、外交における知恵者は一人もいなかった。薩
長の新政府は、所詮、田舎者でしかなかった。陸奥宗光や小村寿太郎などの人材が現れるのは、
ずっと後のことである。
 英米が、日本の対露屈服主義と樺太放棄に切歯扼腕している、この明治初年、西尾幹二とそ
の教科書は、何と逆さにも、英米が日本に樺太放棄を教唆したがごとく、上記の引用にある「ロシ
アと戦えば北海道まで失うよ」との創り話を書いている。西尾にとって、何でも「英米が悪い」と言
いたいばかり、何でも「ロシアは悪くない」の嘘理屈を考案するのである。
 そもそも西尾幹二とは、日本国民なのか。この樺太放棄問題で、次のように、樺太が日本領で
はなかったとまで書いている。「雑居の地」とは、「共同主権の地」であり、「双方の領土」という意
味ではないか。「無主の地」ではない。

  「(雑居の地だから樺太の)所属が明確でなかった」(200頁)。

だったら、どうして、下田条約の交渉があったのか。千島と樺太の交換条約など、どうして締結
できたのか。自国の領土だから、主権の確定のため、交渉したのである。西尾は、明らかに常識も無い。超バカかもしれない。また、ロシアの軍隊がなす、無防備の一般日本人への数々の略奪や放火等の蛮行が、なぜ「日本人とロシア人との単なる紛争」なのか。被害者である一般日本人にいっさいの同情をせず、加害者のロシア兵の加害と暴力をウやミヤに消してあげる西尾幹二とは、ロシア側に立っている“無意識のロシア人”である。西尾の本性はやはり、非国民である。

  「樺太在住の日本人とロシア人の間では、紛争がたびたびおこった」(200頁)。

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